Home > Reviews > Album Reviews > Richard Dawson- End of the Middle
大きな話をするのはもう疲れた。他国の大統領選に対する見解の違いからひとと口論するのも、地方政治の混乱に愕然とするのも、終わらない戦争に絶望するのも……。ネットを開けばセレブリティが誰かに対する訴訟を起こしたとか、大物の誰かが失脚したとか、べつに知りたくないことばかりが目に飛びこんでくる。だから僕はニュース記事を閉じて、リチャード・ドーソンの『End of the Middle』を聴くことにする。歌詞を調べて自分なりに訳しながら、その行間を感じ取ろうと努めながら、そして耳を澄ませる。ここには小さな話ばかりが詰まっているからだ。
僕がこのニューカッスルのウィアードなフォーク歌手が好きな理由はたくさんあるが、ひとつには、彼が歌っている内容が抜群におもしろいことがある。世間的には取るに足らないとされる小市民の日常の悲喜こもごも。それらが鋭い洞察や卓越したユーモアとともに語られ、どこかが決定的に奇妙な節回しで歌われるとき、この世界に生きている「ふつうの」人間たちが生き生きと動き出すのだ。
いや、ある意味ではドーソンは大作志向のミュージシャンとも捉えられる。ここ最近の3作――想像上の中世を再現した『Peasant』(2017)、すべてにおいて閉塞的な現代を風刺した『2020』(2019)、ディストピックな未来を予見した『The Ruby Cord』(2022)は、1000年単位でイングランドの(空想の)歴史を物語ったゆるやかな三部作と言えるからだ。音楽的にもまた、壮大なストリングスやコーラスを導入したり、実験と逸脱を織りこんだバンド・アンサンブルを強調してみたりと、意図的にスケールを大きくしている箇所も少なくなかった。それは市井の人びとの生活がちっぽけなものでないことを示していたように僕には思えたし、何よりも音自体のエキセントリックさで笑わせてくれる音楽は貴重だ。他とは違うやり方で、ドーソンは自身の歌にドラマを盛大に仕込んでいたのだと思う。
それが『End of the Middle』では、ドーソンのおかしな歌と独特のチューニングのギターを基本とするフォーク・スタイルに音楽的なスケールを狭めている。コンセプトも英国のある典型的な中流家庭の三世代の物語を断片的に描くことで、そこで繰り返される悲しみという、三部作に比べればシンプルなものになっている。アルバムに先んじてリリースされたシングル “Polytunnel” はドーソンがギターをつま弾きながらガーデニングの喜びを軽快に歌う簡素な一曲で、はじめて聴いたときは、意外に素朴なアルバムが届くのかもしれないと思ったものだ。
だが、音楽的にもコンセプト的にもコンパクトになった分、そこここに仕掛けられたスリルが際立っているようにも感じられる。そして今回も物語が圧倒的におもしろい。たとえば控えめながら陰鬱さを香らせる反復で始まる “Bullies” の話はこんな感じだ……歌の主人公は子ども時代にいじめられていた。同級生には無視され、金を取られ、殴られていた。けれど昼休みに図書室に通って、先生に目をかけてもらったこともあって国語では優秀な成績を取れた。やがて彼が大人になり、クライアントとZoom会議をしてるときに学校から電話がかかってくる。息子が同級生に暴力を振るっていたのだ。彼は息子とどのように向き合うべきか思い悩むが、一週間後ようやく「お前には優しい心があるとわかってるよ」と声をかける。……些細な話かもしれない。けれど、フェイ・マッカルマンのフリーキーなクラリネットがドーソンのファルセットに呼応すれば、歌の主人公の痛切な想いが滲んでくるようだ。かつて彼をいじめた同級生たちを、そんな風に許すことができたのなら……。これはひょっとしたら、一般人がお互いの過去の蛮行を暴き合う現代に向けた寓話なのかもしれないと思えてくる。
それに、ドーソンの歌からは現代イングランドのリアリティも見えてくる。『2020』の “Civil Servant” では役所に来た市民に福祉をカットすると伝えるのが嫌すぎて仕事をサボる公務員の視点から緊縮財政を描いていたが、『End of the Middle』では “Gondola” に登場する老婆になりかわって仄めかしている。彼女は自分が良い教育を受けなかったことを悔やみながら、ひとりでワインを飲んで酔っ払ってリアリティ・ショーを見ているのだが、それは老後がさらに不安定になった英国の庶民の姿であり……日本に住むわたしたちも共感できるものだろう。そもそも『End of the Middle』というタイトル自体、中流が没落してしまった格差社会、完全に分断してしまった政治状況を示唆しているようにも感じられる。それを必ずしも自己投影的にではなく、観察的な群像劇として物語るところにドーソンの機知がある。努力してケンブリッジ大学を卒業した研究アナリストが子ども時代から出会ってきた幽霊に悩まされる “The question”、父親が日産に解雇されて飲んだくれになる “Removals van”、どの曲にも味わい深いエピソードと切実な感情がこめられている。音楽的にはもっとも重苦しくカオティックな展開になる “Knot” は、全体的に曖昧だがおそらく鬱についての曲で、ドーソンは「わたしの魂は病んでいる」とこぼしてみせる。
それでも、ドーソンの歌にはたしかに人間の魂が宿っていると直感させられる。ロバート・ワイアットと小津安二郎をプロッグ・フォークのもとで混ぜ合わせたこのアルバムでも、庶民たちは懸命に、ただ懸命に生きているのだ。「ふつうの人びと」を誠実に描く音楽が「オルタナティヴ」で「エキセントリック」で「ウィアード」なものとして成立するのは皮肉かもしれないが、自分のことを昔ながらのメロディ・メーカーだというドーソンの歌にはいつだって人懐っこさがある。
急にシンセが鳴ってソフト・ロック風になる “More than Real” は本作の完璧なクロージングだ――そこでドーソンがパートナーのサリー・ピルキントンとのデュエットで語るのは、忌み嫌っていた父親に自分が似ていることに気づいて愕然とする男の心情だ。世代を超えて繰り返される醜い愚行。そのとき僕は、このアルバムがけっして小さな話ばかりを描いていなかったことを思い知る。愚かな行為を繰り返し続ける人類の悲しみを、家族の物語に喩えていたのである。そして男は、生まれてきたばかりの娘を見て変わることを決意する――「わたしはどうやったら癒すことを始められるだろう/永遠に隠された傷を」。痛みと優しさが混ざり合う。それはドーソンがささやかに埋めこんだ未来への希望だ。この世界から消え失せそうになっている朴訥な人間性の探求を、この歌い手は諦めない。
木津毅