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Wild Flag

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Merge/ホステス

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野田 努   Feb 17,2012 UP
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 今週の月曜日に竹内正太郎が書いたラナ・デル・レイの評だけれど、少し説明を加えたい。彼女のアルバムは僕がよく読んでいる欧米メディアからはけちょんけちょんに言われていて、1周回ってそれを評価するのが頭が良いみたいな論もあるのかもしれないが、ラナ・デル・レイを契機としながら、人間の醜悪さ、あるいはポップの資本主義の議論へと飛躍している点ではレディ・ガガどころの騒ぎではないく(そういう意味ではポップ・アイコンとしては充分な役割を果たしている)、ひとつ議論の焦点を言えば、彼女の露骨な名声欲というよりも、彼女が「偽物(fakeないしはshtick)」であることへの批判と「それでは偽物のどこが悪いのか?」という意見にある。メッセージと思わしきものなどには目もくれず、ポップ商品の戦略としても凡庸な偽物があることが前提で議論が進んでいるという、なかなか面白い展開を見せている。この件に関して異様な執念を見せたのが(ドローンやノイズやアヴァンギャルド系に強い)『タイニー・ミックス・テープス』で、5点満点中0点としながらも、彼女の歌詞の主題/言葉を科学者のように何の感情も見せず分析して、その言葉のセンスがいかに型にはまったものであるかを立証するためであろう、ものの見事にインデックス化している。それはアメリカのポップ文化の内部におけるインディ文化からの憤りに思えるが、『TMT』は皮一枚の冷静さを装って「我々はなぜ偽物を拒否するのか」という観念的な問題提起までそれとなくしている(この情熱には、我々にも見習うべきところが大いにあるのでは......)。

 そこへいくとワイルド・フラッグについて考えることは気が楽に思えるかもしれない。ワイルド・フラッグは、沢井陽子さんが昨年レポートしているように、「このバンドは、スリーター・キニー(キャリー、ジャネット)、ヘリウム(メアリー)、マインダーズの(レベッカ)メンバーで結成された、いわばスーパー・ガールズ・バンド」である。スリーター・キニーといえばライオット・ガールを代表するバンドのひとつで、活動家であり、フェミニスト・バンドとしてよく知られている。と同時に、1997年のマスターピース『ディグ・ミー・アウト』がそのもっとも高みといわれている作品だが、ギター・ロック・バンドとしての実力も充分に認められたバンドだ。キャリー・ブラウンスタインはそのバンドのヴォーカル&ギターで、彼女はワイルド・フラッグにおいても、元ヘリウム(スリーター・キニーと同時期のインディ・バンド)のロリータ・ルックで知られるメアリー・ティモニーとともにギターを抱えて歌っている。『ガーディアン』によればロンドンではいよいよ90年代リヴァイヴァルが本格化しているようだし、20年前にフランネル・シャツ姿で歌っていたメアリーはいまやファッションとしてもど真ん中だ。
 とはいえ、僕がおよそ半年前にリリースされたワイルド・フラッグのデビュー・アルバムについていまさら書いているのは、そうしたトレンドとは関係ない。ライヴ・レヴューにも書いたように、ザ・ガールのライヴが良かったことも引き金となっている。実はこのアルバムについては「いつか書こうといつ書こう」と思いながら昨年から机の上に積まれたCDのなかの1枚となっていたが、ヴァレンタインの夜にようやく「自分で書こう」と思い立った。

 ロックンロールにとっての大きな問題点は、ノスタルジーである。亡きモノに未練たらしく思いすがってしまうこと。多くのガールズ・バンドは、たとえばヘリウム時代のメアリーが学生スカート姿でノイズを鳴らしているだけでも充分に新しかったように、ロックンロールの思い出話に砂をかけながら巧妙に、あるいは勇気を持って前に進んでいる。ダム・ダム・ガールズは思い切りクリシェを強調することで、ロックンロールをマニア向けの中古レコード店から解放する。で、それでは......ワイルド・フラッグのまずはどこが気を引くのかと言えば、繰り返しになるが、キャリー・ブラウンスタインとメアリー・ティモニーのふたりがギターを抱えて歌っているという点にある。誤解を生むような喩えで申し訳ないけれど、PHEWと戸川純が一緒にパンク・バンドを組んだとしたら......それはスーパー・バンドになるだろう。タイプの異なった女性ふたりがふたり同時にバンドの顔になるというのは、いままでなかった。
 が、このバンドのもっとも肝心なことは、『ワイルド・フラッグ』というネーミングが暗示するように、これがひとつの声明、宣戦布告であるということだ。「私たちはロマンスとはなんたるかを知っている」と歌う1曲目の"ロマンス"(アルバムにおけるキラー・チューン)は、いろいろな意味に受け取れる曲だ。音楽の喜び、ロックンロールへの忠誠心、男性社会への反旗、インターネット依存者への嘲笑、純粋な愛......しかし僕がこのバンドを(あるいはザ・ガールを)格好いいと思えるのは、彼女たちが"生意気さ"をまったく包み隠さないところにある。すべての楽器が有機的に絡んで生まれるグルーヴは、楽しもうという気持ちと彼女たちの小生意気さとを結合させる。「私たちは音を愛する。私たちの見つけた音。音は私とあなたのあいだに流れる血」――アルバムには聞き分けの悪い子たちも耳を傾けるであろう堂々とした良い言葉、すなわち力強い自己主張でいっぱいだ。
 ワイルド・フラッグは、ラナ・デル・レイ的なものとは対極にある。ジェームズ・ディーン、グレイト・ギャツビー、ウィスキー、ギャングスタ、そしてセックスとドラッグとアメリカン・ドリームといった耳にたこが出来ているような言葉を並べているラナ・デル・レイとは100万光年離れたところで"野性の旗"は涼しい風になびいている。キャリー・ブラウンスタインに関して言えば、サタデー・ナイト・ライヴのフレッド・アーミセンと一緒にケーブルTVでコメディ番組までやるような、あちらではいわば国民的な人気者で、彼女の番組にはボン・イヴェールやセイント・ヴィンセントも出演している。ワイルド・フラッグにはアメリカのポップ文化の最良なものがあると思うのだが、我が国ではラナ・デル・レイの"shtick"のほうがメディ的にも大衆的にも受けているようである。まあ、別に良いんですけど。

派手にやろう
私たちに失うものなんて何もない ワイルド・フラッグ"ブーム"

野田 努