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 yone-ko(ヨネコウ)がベルリンから一時帰国し、盟友のdj masdaとジャパン・ツアーをおこなっている。
 yone-koはベルリン在住の日本人DJ/プロデューサー。1990年代のテクノを入口に、やがて“グルーヴ・マスター”ダニエル・ベルとの出会いをきっかけとして、ミッド・テンション&ロング・トリップ、いわゆるハウス・グルーヴのミニマル・ダンス・ミュージックを究めていく。
 yone-koはセットのなかでいつだって、音数を抑えたディープ・ハウスや柔らかいテクノ、とりわけそのなかでも「踊ること」に適したトラック、それでいてどこか一癖のあるトラックを選んでいく。それらを、より気持ちよく踊るためのやり方で的確にミックスしていく。そうやって構築される、いつまででもダンスフロアで過ごしたくなるようなムードをあるダンサーは「セクシー」だと評し、ある酔っ払いは「いい塩梅」だと微笑む。2010年には「Raw Beats Required EP」のヴァイナル・リリースもあったが、なにしろyone-koは、彼がこれまでにプレイしたダンスフロアにこそ深く愛されるDJである。

 yone-koは2011年秋にドイツに渡るまでは、東京を拠点に活動していた。dj masdaらとともに主宰する〈CABARET〉は、やがてダニエル・ベルをはじめとする欧州のトップ・アーティストをたびたび招く評判のパーティとなり……いや、ここが重要なのだが、〈CABARET〉は海外アクトを「招くことそれ自体」ではなく、そうした欧州の強豪たちがyone-koやdj masdaと一緒にプレイすることを毎回楽しみにしているパーティだそうだ、それぐらいのハイ・クオリティ・パーティだそうだ……というところで全国に広く知られることとなったのである。なお現在の〈CABARET〉には元フューチャー・テラーのKABUTOも合流している。そういえばこの8月には、ベルリンのクラブ〈Club der Visionaere〉にて、現地在住のyone-koとIORI、日本からdj masdaとGONNO、4人の日本人DJによるパーティというのもあった。yone-koらは、これまでなかった形の海外⇔日本のダンス・ミュージック・ホットラインを築きつつもあるのかもしれない。

 そしてyone-koは、東京に来る前は静岡にいた。かつて野田努が“Crazy Nights in Shizuoka”と題して綴ったある夜の、さらに10年前の静岡のクラブ・シーンだ。yone-koとdj masdaの出会いも静岡だが、それ以前、彼はDJをはじめた頃に、この土地にクラブ・シーンを作った数々の顔役たちと出会ってもいる。そしてyone-ko自身が「その経験が、いまDJとしてすごく重要なものになっている」と言う。そこでこのインタヴューはyone-koを静岡時代から知る、〈Luv&Dub Paradise〉主宰のHakka-kこと五十嵐慎太郎にお願いした。

ディスコ寄りの文化、水商売系の文化を静岡のクラブで感じていて。なんかこう、『レコードかけたいからDJやってるんだ』というのとはまた違う感じの空気があったんですね。クラブへのそういう入り方が、今の自分のDJにも相当繋がってるんですよね。

五十嵐:初めて会ったのは静岡で、そのときヨネは大学生だったんだよな。元々の出身はどこなの?

yone-ko:愛知県です。西尾市の米津町というところで、ものすごい田舎なんですけど。19歳ぐらいで静岡に出てきて。

五十嵐:それが何年?

yone-ko:1999年ですね。

五十嵐:大学に入る頃にはもうDJはやってたの?

yone-ko:高2の時にターンテーブルを買いました。でもクラブではやったことなくて、静岡に出て、〈NO.3〉で初めてクラブでDJをやりました。『僕もパーティやらせてください』って言って。

五十嵐:その頃はどんなのが好きだったの?

yone-ko:テクノへの入りは電気グルーヴの『VITAMIN』で、DJをはじめた頃はハード・ミニマル。

五十嵐:アーティストでいうと?

yone-ko:ジェフ・ミルズ、田中フミヤさん、ジョーイ・ベルトラムとか。あとメッチャ好きだったのが、『NO FUTURE系』ってあったじゃないですか。クリスチャン・ヴォーゲルとか、サブヘッドとか、ニール・ランドストラムとか、デイヴ・タリダとか……まあいろいろいますけど、そこら辺がメチャメチャ好きでしたね。

五十嵐:なるほどね。実は当時、俺、ヨネのことは結構印象深くて。静岡のレコード屋でたまーに会うぐらいだったんだけど。ちなみにいまいくつになったよ?

yone-ko:34ですね。

五十嵐:34か。俺はぎりぎりディスコを知ってる世代じゃん? だからDJっていうのは水商売上がりかとか街の不良なあんちゃんとか。どっちかというと不良の匂いが漂ってる感じの人がDJになるっていう時代だったわけよ。最初はね。それからDJブームも相まっていろんな人たちがDJをやるようになったんだけど、ヨネはなんかこう、端正な顔つきで眉毛も凛々しくて(笑)、これは勝手なイメージで悪いんだけど、優等生的なイメージの子だったんだよ。言葉遣いも丁寧だし、礼儀も正しいし。その頃、ヨネから見てDJってどういうものだったの?

yone-ko:僕、高校を出てすぐ静岡に来たので、当時、静岡以外では名古屋のクラブに何回か遊びに行ったぐらいなんですけど……名古屋はどっちかというとその頃の僕寄りというか、テクノって面白いな、って言ってDJにハマって、みたいな空気があったんですけど、静岡はクラブとかレコード屋が不良ばっかりだなって(笑)。

五十嵐:お前は逆にそう思ってたんだ(笑)

yone-ko:それで僕、ほんとにいまつくづく、静岡でDJはじめてよかったなと思うんですよ。

五十嵐:そのわけは?

yone-ko:まさに五十嵐さんが言ったディスコ寄りの文化、水商売系の文化を静岡のクラブで感じていて。そうするとクラブの現場というものにも、『DJがお客さんを楽しませる場所だ』『お客さんがお金を払って来てる場所だ』という感じで、なんかこう、『レコードかけたいからDJやってるんだ』というのとはまた違う感じの空気があったんですね。クラブへのそういう入り方が、いまの自分のDJにも相当繋がってるんですよね。
 その頃のことで自分的に印象に残ってるのが、石野卓球さんが静岡でやったときに、僕もDJやらせてもらったんです。お客さんがいっぱい入ってるなかで。……で、僕、その時、好きな女の子がいたんですね(笑)。その日に遊びに来てくれてたんですけど、その子に向けたような感じでDJしまして。

五十嵐:うわ! さぶっ(笑)!

yone-ko:で(笑)、そのDJ終わった後に、ブッキングしてくれたDJ KATSUさんが……「まぁ、みんなお客さんとして来てるんだから、みんなの方を向いてやらないとな」って、一言で。

五十嵐:それは、素晴らしいアドバイスだね。

yone-ko:それが結構ガツンと来て。なんかそれはもう、いまでも印象深いんですね。それがダンスフロア全体を見てDJしよう、と思うようになったきっかけだと思います。

五十嵐:それで大学を卒業して東京に行くじゃない? 東京に出てどうだった?

yone-ko:まずレコ屋がいっぱいあっていいな、と(笑)。クラブもデカいし、いっぱいあるし。東京ではサラリーマンやってたんですけど、仕事終わって渋谷に出てレコード買いに行ったり、平日も会社にレコードと私服も持って行って、仕事が終わったら駅のトイレで着替えてDJしに行く、とか(笑)、そういう生活でしたね。

五十嵐:ダニエル・ベルと一緒にやったりするようになったのも、東京に出てからだっけ?

yone-ko:〈CABARET〉でダン・ベルを招待するようになったのは、2004年ぐらいになってからですね。ダンのDJを初めて聴いたのは〈新宿リキッド・ルーム〉で、卓球さんがやってた大晦日のマラソン・パーティ(2001年12月31日)なんですけど。その日のシークレット・ゲストがダン・ベルだったんですよね。ダニエル・ベルって、それまでは名前ぐらいしか知らなかったんですけど、その2時間でぶっ飛ばされて。

五十嵐:そのときはどんなプレイだったの?

yone-ko:そのときはですね、一言で言うと「なんかヘンな音がいっぱい詰まったテクノっぽい音をハウスのような流れでかけて、お客さんをひとつの高みまで持っていってニュー・イヤーを迎えた」みたいな(笑)。一緒に行ってた友だちと「この2時間は何だったんだ!?」ってなって。

五十嵐:要するに変態的な音だけど、フロアを一体化させる技術が凄かったってこと?

yone-ko:たぶん、自分が好きな要素が詰まってたんじゃないですかね。まず変な音が好きだし。なんかピチュピチュ、ピチャピチャした音とか好きなんですけど(笑)、それをものすごく繊細な流れでまとめてくる。それまではハードな音が好きで、どっちかというとパンチやインパクトで攻めるみたいなDJでずっと踊ってきたので、自分が聴いたことのなかったスタイルというか。やっぱり僕、入りがテクノだったんで、完全にハウスだとその頃はちょっと好みから外れちゃうところがあったんですけど、変な音満載で、しかもハウス的な流れを作ってガッチリ持って行くというのが、自分的にはかなり新しかったんですよね。

五十嵐:ユーモアの要素も必要だしな。

yone-ko:そうなんですよ。いま思うといろんなものをかけてて。リカルド・ヴィラロボスからモーリス・フルトンからメトロ・エリアから。だから、選曲にもやられましたね。〈CISCO〉で言ったら全店を回ってるんじゃないか、みたいな感じで(笑)。だからそのときに『あの人がかけてるレコードはどこら辺を掘れば売ってるんだろう?」みたいな話にもなり。それまではレコード屋さんに行ったらいつも同じコーナーだけ見て終わる、みたいな感じだったんですけど、それからはいろんなコーナーを見て、探すようにもなりましたね。

五十嵐:で、その後、ザ・サフラジェッツ(The Suffragettes)でも作品を出したじゃない。ヴァイナルで。あれ何年だっけ?

yone-ko:2006年ぐらいですね。ミニマル全盛期というか。まあ、あれは全部ソウ・イナガワ君が作ってたんですけどね。

五十嵐:俺もその頃、静岡から東京に戻って、高橋透さんのマネージャーをやるようになったんだけど、何年かした頃に、透さんのところにさ、〈Strictly Rhythm〉の20周年のMix CDのオファーが来てさ。2009年~10年かな。俺はその時に「昔のものをただミックスするよりは、日本のトラックメイカーがすごい熟してきていたから、その皆に〈Strictly Rhythm〉の音源をリエディットしてもらって、それを透さんにミックスしてもらおう」というアイディアを出したわけ。その候補は何人か挙がったんだけど、絶対決めてたのがヨネコウだったんだよ。

yone-ko:なるほど。

五十嵐:で実際にオファーして、いいものを作ってくれたんだけど、覚えてる?  開局して1週間ぐらいの〈DOMMUNE〉にも出てもらったんだよね。

yone-ko:覚えてますよ、もちろん(笑)。でもあれは結構、いま思うと、『自分がやるんだったらあんな感じにしないといけない』みたいなのがちょっとあったかもしれないですね。他のやり方もあったかな、といま振り返ると思います。

五十嵐:全然、俺としてはよかったけどな。俺はね、〈Strictly Rhythm〉の20周年企画盤って聞いたときに、透さんがニューヨークに行ってた時代から時を経ての日本のDJカルチャーの成熟、つまりトラックメイカーに限らず、日本でクラブ・カルチャーに携わる人たちが世界に通用するんだってことを表現したかったんだよ。ヨネはあの当時、自分の心境としてはどんな気持ちだった? それこそダン・ベルとの交流もあったりしてさ、自分たちのプレイとか作品が、海外のものに決して引けはとらないという意識はあったんじゃないの?

yone-ko:えっとですね、正直なところを言うと、「少なくともDJに関してはありました」というところですね。DJに関してはですね、ずっと、外タレの人が来ても、いろんなところから「日本の誰々のほうがいいよね」とか、結局パーティ終わってもそういう話がしょっちゅうだったので。そういう気持ちはありましたね。

五十嵐:だよね。もちろん海外の『超一流』のDJはいるんだけどね。

yone-ko:そうそうそう。いやもう、いま考えると、世界にはもう、素晴らしいDJがメチャメチャいっぱいいるんですけど。

取材:五十嵐慎太郎  構成・文:yasuda koichiro
写真:Shinsui Ohara