Home > Regulars > NaBaBaの洋ゲー・レヴュー超教条主義 > vol.10 『The Last of Us』- ――質実剛健さの中に覗かせる次世代の可能性
■複数視点で描かれる物語
本作のゲームとしてのインタラクティヴ性は、主人公の感情や意思を拡張して伝える装置であると、前項で述べました。この点についてもうひとつ象徴的な事例をご紹介したいと思います。
それは最初のプロローグ。 ここではほとんど歩くか走るかの操作をするに過ぎないのですが、この行為のなかだけでも キャラクターが怯えたり必死になったりといった感情が、操作するときの感触としてフィードバックされてきます。
しかもここでは若きJoelと娘のSarahの両者を操作することになるのがより重要な点です。守り守られるふたりを操作させお互いの立場を共感させた上で、最終的にSarahとの死別のシーンに繋がっていく。
たとえ一瞬でも体験を共有したキャラクターが死ぬのは、映像として一方的に見せられるより遥かにショックだし、もうひとりの操作したキャラクターの悲しみも同様に共感できてしまう。わずか20分にも満たないシーンでありますが、凡百のゲームや映画を越える感動を表現できていると感じました。
物語の導入としても完璧。Joelというキャラクターの本質を瞬く間に理解できる。
物語後半でもEllieを操作するという形で再び味わうことになる、この操作キャラクターのザッピングは、主人公を他者としてプレイヤーから突き放すという構図の延長線にある表現でしょう。とは言え操作キャラクターのザッピング自体は過去に例が無かったわけではありません。海外では『Heavy Rain』という作品が正に複数主人公による群像劇だったし、国内では『Bio Hazard 6』や『龍が如く』シリーズ、『SIREN』シリーズといった例がある。
しかしそれらより本作の方が感動的だと感じたのは、隣にいるパートナーが自分のことをどれだけ大事に思ってくれているのかという、誰もが気になる普遍的な関心ごとを、JoelとEllie、あるいはSarahという関係に置き換えて覗き見させてくれるからでしょう。
プロローグの場合で言えば、JoelもSarahもお互い軽口をたたく時もあるが、内心はとても大事に思っている。しかしそれを伝えきれないまま、または知らないまま死別してしまう。プレイヤーだけが特別にその事実を知ることができますが、主人公たちに伝える術がない。しかしこうしたもどかしさが寧ろ胸を打ち感情移入させてくれるのです。
Sarahが渡し忘れた父への誕生日カード。Joelが受け取ることは遂に無かった。
ゲームにおける物語は、未だにプレイヤーが主人公になりきったり、またプレイヤー自身が主人公に成るものが大半を占め、複数視点で描くことに関してはまだまだ未成熟です。しかし他のメディアの場合ではひとりの視点に縛る物語の方がむしろ特殊な部類であり、より複雑で高度な物語を描こうと思ったら、今後ますます複数視点の重要性は増してくるでしょう。
折りしもつい先日発売された今年最大級の大作『Grand Theft Auto V』は、まさに複数主人公のザッピングを大々的なフィーチャーとしていますが、本作はそれに先んじてこの物語手法の可能性を感じさせてくれました。
■まとめ
冒頭でも触れましたが、この時期のゲームは集大成とか総決算と言った印象を受けるものが多いです。『The Last of Us』に関してもそれは一部同様で、本作が駆使しているテクニックの数々は今までの積み上げを大変実感させられるものです。
しかし将来の可能性を感じる点で本作は集大成以上のもの。パーソナルな人間関係を描いた物語や複数の操作キャラクターのザッピングは、単体で見ても完成度が高かった上に、大いに伸び代を感じさせてくれるものでした。
満足感がとても高く、かつ今後のゲームの進化も楽しみにさせてくれる大変にお薦めできる作品です。