Home > Regulars > Post-Pandemic Memories > 第6回 慣れか、諦めか、それとも
僕は一生懸命に語りかけている。恋とか愛とかの話だったかもしれないし、Autechre が連続してリリースした2枚のアルバムの話だったかもしれない。古びたダイナーのボックス席で、向かいのトマト缶(ホール)に向かって語りかけている。あいつは何も言わず、黙ってそれを聞いている。埃や油で黄色く汚れた右側の窓から、砂塵や有害な化学物質を通過したオレンジ色のデイライトが差し込む。僕はテーブルの下に忍ばせたボストンバッグの中で、短くソードオフしたショットガンのグリップを強く握りしめて、銃口をトマト缶(ホール)に向けている。クソ、手が離れない。嫌な手汗が人差し指を伝ってトリガーを濡らす。もう爆発寸前だ。あのキャメル色の年季の入った革張りのシートを真っ赤に汚してやろう……。
恐る恐るフェードインしてきたアラームの音に起こされ、ブラインドの隙間から差し込む朝日に目を細める。角度を調整してあるとはいえ、春の無遠慮な日差しの前では、ポリ塩化ビニル成の薄いブラインドはあまりにも弱々しかった。最近見た映画や読んだ小説(おそらく『裸のランチ』や『記憶屋ジョニィ』、そういえば安いトマト缶はギャングのシノギらしい!)なんかの内容が全部ミックスされた夢の内容を思い返しながら、手探りでチタン製フレームの眼鏡の冷たい感触を見つけ出し、部屋の隅にピントを合わせながらのろのろと体を起こす。iPhone のappで適当に BBC Radio 6 か 1xtra をつけて Bluetooth スピーカーに飛ばし、一昔前のOSなみに立ち上がりの遅い脳に耳から刺激を与える。春とはいえ、朝はまだ空気が冷たい。電気ケトルで湯を沸かし、ティーバッグを浸す。そして朝と同じ温度に冷えたアルミニウムボディのラップトップでメールの返事をいくつか書いているとスピーカーからはBLMの話が聞こえてきた。ジョージ・フロイドが警官に殺されてから1年が経ったらしい。僕は、BLM運動の中で生まれたいくつかの自治区のことについて思い返した。僕がアナキズムについて、より意識的になるきっかけになった出来事だった。おそらくあの時、警察の侵入を許さなかったそのいくつかのエリアが、アメリカでもっとも安全な場所のひとつになっていただろう。デヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』にも、浅沼優子さんが訳した『アンジェラ・デイヴィスの教え──自由とはたゆみなき闘い』にも「可能である」と強く書かれていた状態が部分的にではあるが実現していた。それは間違いなく希望だった。
世界がコロナ禍に飲み込まれてからも、1年と少しが経過した。ワクチンが開発されたりするなど、先の見通しが少しは立つようになったとはいえ、この国の状況は悪い方へ突き進んでいるように思える。それにもかかわらず、なぜか僕の精神の衛生状態は1年前と比べると格段に良くなっている。慣れか、諦めか、それとも一時的な躁状態かは分からないが。この、正気でいるにはあまりにも狂いすぎている国で、精神状態が回復しているということは、正気を失いつつあるのかもしれない。
メールを書く手が止まっていることに気づいた僕は、BGMを変えようと iPhone に手を伸ばす。次は SWU か NTS か Worldwide FM か。いやレコード棚から選ぼうか。行方を求めて彷徨う指は、ひとりでに、慣れた手つきで、半分無意識のうちに instagram のアイコンをタップした。Feedには Calvin Klein の下着を履いたモデル(程よく割れた腹筋と、白い肌にいくつかのタトゥー付き)の写真と、ソールの分厚いスニーカー(シューレースの通し方は神のみぞ知る)の写真に挟まれて、視覚的にデザインされた Stop Asian Hate の文字のグラフィックが。BLM のムーヴメントで反差別の戦いは大きく前進したはずだったが、差別主義者は、より大人しいマイノリティにエイムを切り替えただけで、問題の本質は理解していない。セミオートで動く親指に任せてFeedを下へ下へと進んでいく。Music Video の断片、新作のジャケット、人々が減って自然が回復した街の風景、犬と飼い主、海岸に打ち上げられた大量のマスク、誰かのディナー。
「2年前の今日」と書かれた誰かのパーティーフォトのコメント欄に世界中から Miss you が届いている。パンデミック以降のこの1年と少し、新しいライフスタイルは新しい人々を繋げ、新しいコミュニティが生まれていくような気がしていた。しかし、この一年で傷を癒し合えたのも、未来への意志を確認し合えたのも、知らない人間の汗やタバコに濃厚なパフューム、ビールやシャンパンやウイスキー、いかがわしい色のエナジードリンクや吐瀉物のにおいが充満したあの空間を通して繋がることができた者のみだった。数週間前の午後9時ごろにダンスフロアの隅で会ったDJの大先輩は、自問自答を繰り返す毎日だったと言っていた。その一言で僕には、その自問自答の内容をなんとなく感じ取ることができた。僕自身、毎日のように同じく葛藤していたからだ。他人に話せること話せないこと。理想と現実のギャップ。進むべき未来。それらを反芻しながら帰路についた。Fixie の後輪を削りながら走り抜ける夜の渋谷は、博物館の陳列物のように凍りついていた。昼の街しか知らない人間は、彼らが捧げた生贄の大きさを理解できない。何人の人間の心臓を抉り出して石の祭壇に供えても、それが自身の心臓でない限り誰も気にかけない。そして往々にしてその気高い代償に権力者の心臓は選ばれない。
人から奪い、虚栄心を満たす者。経済的な価値を信仰する者。彼らは消え去らなくてはいけない。僕が夢で見たような、もしくは僕が New Dawn の中で描いたような、オレンジ色の粉塵に覆われた赤褐色の荒野が現実になる前に。
世界は常に変化し、いくつかの問題はより良い方向へ向かい、いくつかは悪い方向へ。そして人々のフォーカスは常に新しい問題へ。僕の右手にはオプティミズム。左手にはペシミズム。耳にはダイヤモンドを通して蘇る Ari Up の声。
クロムメッキのデスクランプが、冷たくなった紅茶の入ったマグカップにスポットライトを当てている。