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Mars89

ExperimentalIndustrialTechno

Mars89

Visions

Bedouin Records

Bandcamp

野田努   Jun 02,2022 UP
E王

 ことにイギリスと比較した場合、日本がアンダーグラウンド・シーンに対するリスペクトの少ない国であることは、国内から影響力を持ったDIYレーベルがなかなか生まれない現状からもうかがえる。まあ、イギリスが特殊なのかもしれないが、強者にすり寄り弱者に冷たいのは何も政府のことだけではないし、アンダーグラウンドでサウンド・アートを追求しているミュージシャンたちは相変わらず苦戦を強いられていることだろう。とはいえ、昔と違っていまは(たんなる内輪になってしまいがちなリスクはあるものの)細分化された小さなシーンがいくつもあり、bandcampなどを介して海外との回路も作れるので、自国内でのサポートがなくても活動を続けやすいことはせめてもの救いなのかもしれない。Mars89は、ここ数年の東京のアンダーグラウンド・シーンにおいてもっとも目覚ましい活躍を見せているDJ‏‏/プロデューサーのひとりで、彼の名声もイギリスや欧州のほうが大きい(なにせ、トム・ヨークがリミックスをするくらいだ)。去る5月上旬にリリースされた彼にとって初となるアルバムは、現在アテネに拠点を置く〈Bedouin Records〉からリリースされている。日本にもし『ガーディアン』のようなジャーナリズムと文化を重んじる真性の左派メディアがあったなら、大きくフィーチャーされたであろう作品(であり、アーティスト)だ。
 
 まあいい。そう、彼には時代の潮目を感じ取る嗅覚があったことも大きい。Mars89がカセットテープ作品「Lucid Dream EP」をブリストルの〈Bokeh Versions〉からリリースした2017年は、アンダーグラウンドにおけるダンスホールとダブの再研究が高まりはじめた時期でもあった。〈Bokeh Versions〉がロウ・ジャック vs タイム・カウの「Glacial Dancehall 2」をリリースし、ジェイ・グラス・ダブスが頭角を現し、あるいはレイムが「Reel Torque Volume 13: Our Versions Of Their Versions」を出したりといった具合に、新しい世代が自由な発想をもってダンスホールやダブを再解釈する、シーンのそんな動きのなかでMars89も脚光を浴びた。
 
 2018年のシングル「End Of The Death」においてもそれを確認することができるように、Mars89には彼独自のサウンドがあった。ぼくが思うに彼の初期のサウンドは、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの“ユーグン”におけるリミックスやタックヘッドのプロデュースなどを手がけていた1980年代半ばのエイドリアン・シャーウッドに通じるセンスがある。インダストリアル・ダブの再解釈と言えるもので、つまり混沌とし、テクノとの境界線は曖昧となって建築現場のノイズと親和性を持っている。それが情け容赦ない攻撃性を帯びているのは、Mars89がこうした彼の作品を、オリンピックを前に東京都がジェントリフィケーション(都市の高級化)を加速させていた時期に録音していたことも無関係ではないだろう。豪華なリミキサー陣で話題になった「The Droogs」でも、彼の産業廃棄物めいたダンスホール・スタイルは圧倒的だった。しかも彼はそこに留まらず、「New Dawn」や「Night Call」といった最近のシングルにおいてヴァリエーションを着実に増やしている。いまやMars89は、ドレクシアの深海やブリアルが描く深夜の裏通りと共振しながら、アンダーグラウンド・レイヴを掘り下げているように見受けられる。「Night Call」にいたってはダブステップとの接続も果たしているし、たとえば“North Shibuya Local Service”などは、日本にもしゴス・トラッドザ・バグが着手したダブの異形接合体を継承する者がいるとしたらMars89ではないかと思わせてしまう曲だったりする。
  
 そんなわけで『Visions』は待望のファースト・アルバムだが、ありがちな〝これまでの総集編〟にはならなかった。ここにはMars89にとっての新章と言えそうな、あらたな試みがある。1曲目からしてそうだ。旋回する電子ループの向こうから4/4キックドラムが聴こえるという“They made me do it”は、デトロイトのロバート・フッドによる暗いハード・ミニマルとリンクする、ジャンル分けするならテクノのタグを付けられる曲だ。もっとも、それぞれの音の位相は独特で、音の歪み方も過剰だし、いわゆる4つ打ちのテクノとは質感が少々異なっている。だが、ビートの入り方はテクノのそれで、喩えるなら、どこかの地下室でおこなわれているレイヴを地上の少し離れた場所から聴いているような錯覚を覚えてしまう、そんな遠近法を持った曲だ。しかもこうしたアプローチはこの1曲だけではない。“Flatliner”という曲などは、ディストーションをかけられた電動工具によるミニマルのごとしである。
 これまでのダブ路線を踏襲する曲はもちろんある。たとえば“Auriga”という曲がそれで、ずたぼろになったメランコリックなダンスホール・レゲエとでも言えばいいのか、そんなサウンドだ。他方ではダーク・アンビエントめいた様相も配置されているし、“Nebuchadnezzar”なる曲にはクラウトロックめいた催眠的なリズムがある。

 「This album is dedicated to the city dwellers who live with the rats and crows in the gaps of the city where the giant capital tries to control everything.(このアルバムは、巨大資本がすべてを支配しようとするシティの隙間で、ネズミやカラスと暮らすシティ・ドウェラーズ(都市生活者)に捧げられている)」と本人がジャケットに記しているように、『Visions』はポリティカルな作品でもある。Mars89の「シティ」は、日本がアメリカ型の消費生活に憧れ、この国もひょっとしたら欧米のように豊かな国じゃないかと信じられていた時代の「シティ」とはまるっきりの別物だ。「Don't dream the past. Remember the future.(過去を夢見るな、未来を思い出せ)」とも彼は記しているが、Mars89は、明るいイメージの未来を描けないでいる今日の日本を生き、足下をたしかに未来に向かおうとしている。徹頭徹尾ダークだが、ここには自由があるし、売れることよりも出したい音がある。それがアンダーグラウンドってものだ。誇り高き音の実験場であり、それは世界に開かれている。
 最後の“Goliath”から“LA1937”への展開では、錯乱したハード・テクノの混沌からドランベースの断片が宙を彷徨う静寂さへとたどり着く。夜が明ける前に、我々はふらふらになりながら、地下からようやく地上に這いずり出て、地面に腰を下ろしひと息ついて空を見る。よし、まだいける。もういちど地下に潜ろう。いわばポスト・レイヴ・カルチャー。Mars89の冒険は、はじまったばかりである。

 なお、アルバムのデザインは日本人DJのゾディアック。彼は同レーベルの作品のデザインを多数手がけているが、ほかにも大阪の音響作家、Ryo Murakamiが主宰する〈Depth Of Decay〉レーベルのデザインも担当している。チェックしましょう。

野田努