「Noton」と一致するもの

Fly Anakin - ele-king

  フライ・アナキンは……というか、どうしてぼくが二回も続けてUSラップものをレヴューすることになったのかを話すのが先だろう。ある意味個人的な事情ではあるのだが、ひとりの音楽好きとして言っておく必要がある。
  自分の信条と反するカタチで、すっかりストリーミングやbandcamp、ときにはyoutubeなど、いかにもな21世紀のリスニング・スタイルで聴いていると、アルゴリズムによってぼくの好きそうな音源を推薦され続ける。誰に? いや、だからその、ハイテック産業がまんまと波及させた便利なプログラムに、だ。周知のように、スマホで性的なニュースを見てしまうと、その後、あれよあれよと性的な見出しが多数並ぶ、あれと同じことが音楽リスニングでもここ何年もあいだ起きている。そうすると、あたかも世界は好色な方向に向かっているという虚構がひとつの現実になる、というほどではないが、ハイテック産業に管理されている気分は避けられない。ましてや、こうしたアルゴリズムは作為的に操作できるという説もあるので、ぼくは反旗を翻すべく、アルゴリズムが自分に薦めてはこないであろう音楽作品を探索し、壁の外側から面白いモノを選んでいるのだ。
  ハイテック産業が旧来のリスニング文化のエコシステムを破壊するまでは、クソのようなことはたくさんあったにせよ、基本的に音楽産業は音楽好きの連中によって成り立っていた。spotifyやハイテック産業でむかつくのは、彼らにとって重要なのは必ずしも音楽でないということだ。ゆえに、たとえそれが巨大戦艦に竹槍で挑むようなものだとしても、自分のスマホやコンピュータの画面を信用しないことにしているという、自分で言うのもなんだが化石のような態度でいる。
 リスニング文化紀元前においては、 話は簡単だった。レコード店に行けば、そのときイケているテクノもヒップホップもロックもみんな目に入ったし、並んでいるレコードはそういった音楽を愛好しているスタッフの耳によって推薦されていた。アンダーグラウンドの才人フライ・アナキンと、アンダーグラウンドの奇人ピンク・シーフとの共作に共感を覚えた理由のひとつもそこだ。あのアルバムのコンセプトはレコ屋で、レコ屋好きにはたまらない内容で、レコ屋はいまやディズニーが配給する映画に出てきても不自然ではないファンタジーなのだ。
 しかし、ピンクとアナキンは3Dのコンピュータ・グラフィックで描かれた人畜無害な黒人ではなかった。つまり虚構ではなかった。その証拠に、ピンク・シーフはムーア・マザーのラップ・アルバム『Black Encyclopedia Of The Air』にフィーチャーされたし、フライ・アナキンはこんなにも良いアルバムを完成させている。
 
 ラップをずっと熱心に聴き続けている人からすると、なにをいまさら言ってやがんだ、という感じもあるらしい。俺らはずっと前から、ヒップホップ不毛の地バージニア州リッチモンドで、アナキンがミュータント・アカデミー(という地元のヒップホップ集団かつレーベル)の一員として活動していた頃からチェックしているんだぞ、と。じっさい27歳のアナキンにはすでに10年のキャリアがある。「彼こそアンダーグラウンド・ヒップホップの新しいヒーローだ」とピッチフォークが讃えたりしたことも、彼らの自尊心を刺激したかもしれないが、どうか許して欲しい。アルゴリズムがなければ、ピッチフォーク(いわく「アンダーグラウンドの新ヒーロー」)もWIRE(いわく「アナキンは絶好調」)もクワイエタス(いわく「今年もっとも重要なヒップホップのレコード」)も、そしてエレキングもこんなに遠回りをすることはなかったのだ……と思いたい。
 
 フライ・アナキンのソロ・アルバム『フランク』は、言うまでもなくエイミー・ワインハウスのデビュー・アルバムと同名である。わかっていて、そうしたらしい。なるほど、ワインハウスとアナキンをつなげるキーワードはたしかにある。古いソウル、古いジャズだ。ぼくがよく聴いていた頃のヒップホップでは当たり前のサウンドを、ハイテック産業以降ではブーンバップと呼んでいるが、この名称にいまだ抵抗を覚えるのは、ぼくが紀元前の化石だからだろう。ま、それが長い年月を生きるってことなのだから仕方ないとして、とにかくぼくはこういうサウンドが好きだったし、いまでも好きだ。ソウルやファンクやジャズをサンプリングしてループしたこれが。ウータン・クランやスラム・ヴィレッジ、ムーディーマンやアンドレスなんかとも共通する、大胆で、洗練されたソウルフルなグルーヴ。昔のソウルのヴォーカルのパートをルーピングしている曲なんかはとくに格好良くて、泣けてくる。
 マッドリブが1曲提供している。アンダーグランド・ヒップホップの巨匠の参加は、アンダーグラウンド・ヒップホップのニュー・ヒーローにとっての初の単独名義のアルバムにサウンド以上の意味、この音楽の血統を示しているが、アナキンの剃刀のようなラップは、間違っても後ろ向きではない。(ぼくにはリリックのことはわからない。わかる人のなかには、アール・スウェットシャート並の実験性があるということを書いている人もいる)

 アナキンは自分を変人のように見せているが、じつは数年前まで働きながら音楽を続けてきた苦労人で、ケンドリック・ラマーの『good kid, m.A.A.d. city』を6ヶ月間毎日車のなかで聴きこんでいたような過去を持っている。「俺はずっとリッチモンドでドラマとドラッグに囲まれて生きてきた」とアナキンはあるインタヴューで語っている。「売ろうが吸おうが、俺はその隣の部屋で韻を踏んできたんだ」。そして「地球上でみんなを楽しませる」ためにミュータント・アカデミーが生まれ、いま『フランク』が生まれた。街のイカつい不良の風情ではないし、内省的な詩人な感じでもない、ぼくはラップの専門家ではないけれど、普通にすごく良いラッパーのように思える。
 それにしても〈Warp〉傘下にはじまった〈Lex〉レーベル、愛のある良い仕事をしているなぁ。

(*)なお、本稿でアルゴリズムの観点からストリーミング系と並列されているbandcampだが、言うまでもなくそれは現状ではDIYアーティストたちにとっての良きプラットフォームであり、また、アナログ盤文化再燃の一助にもなっている。ミュージシャンたちからの度々の苦悩の叫びを浴びているspotifyと一緒にすべできはないだろう。
(**)渡部君の話によれば、Rainbow Disco Clubで来日したムーディーマンがア・トライブ・コールド・クエストやギャング・スターをかけたそうだが、つまり、そこにフライ・アナキンが混ざっていてもなんら不思議はない、ということ。

Blue Lab Beats - ele-king

 現在のUKジャズでもっともクラブ・ミュージックやストリート・サウンドとの連携を見せるのがブルー・ラブ・ビーツとニュー(ノイエ)・グラフィック・アンサンブルである。プロデューサー/ビートメイカーの NK-OK ことナマリ・クワテンとマルチ・インストゥルメンタル・プレイヤーのミスター・DM ことデヴィッド・ムラクポルがロンドンで結成したブルー・ラブ・ビーツ、アフリカ系フランス人DJ /プロデューサーのフレッド・ンセペによるプロジェクトのノイエ・グラフィックがロンドンでバンド・スタイルに発展したノイエ・グラフィック・アンサンブル。ヒップホップやR&B/ネオ・ソウル、ハウスやブロークンビーツなどのプログラミング・サウンドとジャズ・ミュージシャンたちによる生演奏を融合する点は両者に共通する要素で、ラッパーやシンガーたちとのコラボを積極的におこなっている。アメリカにおけるロバート・グラスパーサンダーキャットなどの新世代ジャズの影響を受けつつも、レゲエやグライムなどUKらしいクラブ・サウンドのエッセンスを取り入れているのが彼らである。そんな2組の新作がリリースされた。

 ブルー・ラブ・ビーツの『マザーランド・ジャーニー』は、〈ブルーノート〉と契約を結んでからの初めてのアルバムとなる。基本的にはデビュー・アルバムの『クロスオーヴァー』や続く『ヴォヤージ』の路線から変わっていないが、エゴ・エラ・メイ、エマヴィージェローム・トーマスなどロンドンのシンガーやミュージシャン以外に、〈ストーンズ・スロー〉のキーファーともコラボしている点が目につく。キーファーとはサウンドクラウドを通じて知り合うようになり、実際にライヴでの共演を経て今回のコラボへと繋がったそうだが、その “ダット・イット” はキーファーによるメロウなピアノとミスター・DM のギターが結びついたサウンドで、アシッド・ジャズの頃のロニー・ジョーダンやジャズマタズなどを彷彿とさせるところもある。

 タイトル曲の “マザーランド・ジャーニー” はフェラ・クティをフィーチャーとなっているが、実際にはフェラの “エヴリシング・スキャッター” をサンプリングしたもの。フェラ・クティのような攻撃的なアフロビートと言うより、牧歌的で哀愁漂うハイ・ライフの影響が感じられる作品となっている。この曲やゲットー・ボーイズをフィーチャーした “センシュアル・ラヴィング” など、今回はアフリカ音楽との結びつきが顕著なアルバムだ。同じくゲットー・ボーイズをフィーチャーした “ブロウ・ユー・アウェイ” もカリビアンやラテンとR&Bが結びついた楽曲で、アメリカのジャズ×ヒップホップ/R&Bとは異なるテイストを感じさせる。

 エマヴィーをフィーチャーしてUKソウルらしい憂いと浮遊感を湛えた “ドント・レット・イット・ゲット・アウェイ”。ポッピー・ダニエルズのトランペットをフィーチャーしたブロークンビーツ×フュージョンの “ゴッタ・ゴー・ファスト”。フットワークのような高速シャッフル・ビートを背景にカイディ・アキニビのサックスなどがフィーチャーされた “ワープ”。エゴ・エラ・メイのネオ・ソウル調のヴォーカルながら、トリッキーなリズム・プロダクションが異彩を放つ “スロウ・ダウン”。楽曲によってはジャズと言うよりソウルやR&Bの成分が際立つものもあり、トム・ミッシュやオスカー・ジェローム、edbl などと同列で見るべきアーティストと言える。

 ノイエ・グラフィック・アンサンブルの『フォールデン・ロード・パート2』は、2019年にリリースされた『フォールデン・ロード』の続編。コロナによるロックダウン、イギリスのEU離脱、ジョージ・フロイドの死去以後の抗議活動などを経て制作されたということがあってか、前作に比べてダークな味わいが増している。そうした影響を感じさせるのが “ブラック・ボディーズ” で、ノイエ・グラフィック・アンサンブル流のブラック・ライヴズ・マターを示した楽曲となっている。マ・モーヨーのスポークンワードは2016年にパリ郊外で起こったアダマ・トラレオ事件を題材とするが、アダマ・トラレオはジョージ・フロイド同様に警官による身柄拘束が原因で死亡しており、フランスで大々的な抗議運動を引き起こした。続く “クイーン・アッサ” は、アダマ・トラレオ事件の後に人権活動家となった姉のアッサ・トラレオに捧げた楽曲。テクノとハード・バップ調のジャズが介したような作品で、もともと〈22a〉や〈リズム・セクション・インターナショナル〉からハウスやテクノをリリースしていたフレッド・ンセペならではのナンバーと言える。そしてアダマ・トラレオに対する鎮魂曲の “フォー・アダマ” と、一連の作品が『フォールデン・ロード・パート2』の屋台骨となっている。

 “オフィサー、レット・ミー・ゴー・トゥ・スクール” は警官による職務質問を示唆するタイトルがアダマ・トラレオやジョージ・フロイドの事件を連想させるもので、律動的なハード・バップとブロークンビーツの融合。1990年代や2000年代のクラブ・ジャズを彷彿とさせる味わいだ。ブラザー・ポートレイトのポエトリー・リーディングがフィーチャーされた “ランニング・オン・ア・フレイム” はレゲエやダブのフィーリングに満ちたダークな楽曲で、やはりブラック・ライヴズ・マターと結びつく内容。楽曲そのものの雰囲気としては個人的にはトリッキーサイレント・ポエツを思い浮かべる。そして、ジャーナリスト/写真家のJJアキンレイドがポエトリー・リーディングで参加した “ブレス”、ロンドンのラッパーのロード・アペックスをフィーチャーした “ステップ・トゥ・イット” と、『フォールデン・ロード・パート2』は前作からずっとメッセージ性が増した内容となっており、ノイエ・グラフィックの新たな覚醒を告げるものだ。

Abraxas - ele-king

 PiLのマスターピース『Metal Box』(79)に収録された“Radio 4”はキース・レヴィンがひとりで多重録音したもので、2016年のデラックス・ヴァージョンに収録されたレコーディング・テイクを聞くと、当初はカウボーイ・インターナショルのケン・ロッキーがドラムを叩いていたことも明らかになった(尺も倍近い→https://www.youtube.com/watch?v=se-Z6EO5pfA)。ベースもわざわざジャー・ウォッブルをマネて弾いたものだとレヴィンは述懐していて、広いスタジオでポツンと作業していた「冷たさ」が曲のムードに反映されているという。そして、最終的にドラムを抜いて短くエディットしたものが『Metal Box』のラストに収められ、それはまるでビートルズ“Good Night”と同じくチル・アウト効果をもたらすことになる。『Metal Box』という複雑怪奇な迷宮に鮮やかな出口を用意してくれたというか。“Radio 4”はビニール袋のようなものが膨らんだり縮んだりするようなイメージを繰り返す。それはオーケストラが短いコードしか弾かないとどうなるかというアイディアから出発した結果だそうで、ドラムを抜くことでその効果は最大限まで引き上げられた。『Metal Box』はどの曲も印象深く、いまだに得体の知れない感じがあり、とりわけ“Radio 4”はミステリアス度が高い。

 チリからフアン・マッジョーロ(Juan Maggiolo)とドイツ系らしきヴェルナー・ハインツ(Werner Heinz)によるデビュー作を聴いた時、それはまるで“Radio 4”が8つのヴァリエーションに増幅されて蘇ってきたという印象を僕は持った。かすかにジャー・ウォッブルのようなベース・ラインが聞き取れる曲もある。スピーディーなアンビエント・ドローンを基本にポップな味付けが多種多様に施されたカラフルな展開。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインが“Radio 4”をカヴァーしたり、リミックスしたり、様々な手法を用いてカスタマイズしたような……。ドローンといっても大して持続せず、細切れになっているせいでそう感じるだけかも知れない。とはいえ、キース・レヴィンのいう「冷たさ」も似通っているし、頻繁に転調するのも一因をなしている。何度も聴き込んでいるうちにやはり違うとは思うものの、初期イメージから脱却したくない気分も手伝って、いまのところ『Abraxas』は僕にとっては43年後の“Radio 4”である。アブラクサスとはちなみにグノーシス思想における偽神で、選ばれし者を天国に連れていくというニューエイジのフェイクのような存在。その姿はヒトの体にライオンの頭と下半身は蛇。



 南米のアンビエント・ミュージックはどうも得体が知れない。フアン・ブランコであれ、トマス・テロであれ、アカデミックな手法を使ってもその様式美に呑み込まれないという共通点があり、アブラクサスの2人がアカデミックなキャリアを持っているかどうかも想像がつかない。ついでにいえばアロンドラ・デ・ラ・パーラのようなクラシックの人でさえ、指揮をしながら踊りだしたり、パリの観客が手拍子を始めるなどアカデミックの枠組みは崩壊している。アブラクサスの背景にはなんとなくクラブ・カルチャーが横たわっているような気もするけれど、ヴィラロボスやアトム・ハートが撒いてきた種が花開いたにしてはタイミングが遅いし、そもそもドイツ資本とつながりがあるのかないのかよくもわからない。ここにあるのはイメージ豊かな曲の数々と曲の雰囲気には悪い予感のかけらもないこと。チリは一時期はコロナによって危機的状況を呈したものの、現在では南半球でもっともコロナの危険から遠い国という評価を受け(新自由主義に基づく税制に改められたことで連日のようにデモが起こったコロンビアとは対照的)、フランツ・エデルマン賞まで受賞している。そういった国の気分が感じられる作品でもある。つーか、『アンビエント・ディフィニティヴ 増補改訂版』を校了した10日後にリリースされやがった。く~。

Binker And Moses - ele-king

 サウス・ロンドンのジャズ・シーンのなかでも、フリー・ジャズやフリー・インプロヴィゼイションの分野で最右翼に位置するユニットがビンカー・アンド・モーゼスである。それぞれソロでも活躍するサックス奏者のビンカー・ゴールディングとドラマーのモーゼス・ボイドによるデュオで、2014年のファースト・レコーディングとなる『デム・ワンズ』を皮切りに、『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』(2016年録音)、『アライヴ・イン・ジ・イースト?』(2017年録音)といったアルバムをリリースしてきた。

 ビンカーは英国フリー・ジャズ界の重鎮サックス奏者であるエヴァン・パーカーからの影響を思わせるプレイヤーで、『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』と『アライヴ・イン・ジ・イースト?』は実際にエヴァンもゲストに交えたレコーディングとなっている。『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』は架空の神話を題材としたスピリチュアルな大作で、エヴァンをはじめとしたゲスト・ミュージシャンたちとのスケール感に溢れたセッションが展開される。
 一方『アライヴ・イン・ジ・イースト?』はトータル・リフレッシュメント・センターで観客を交えたライヴ録音となり、もともと実験的なライヴ・パフォーマンスから発展してきたこのデュオの迫真の生演奏を封じ込めている。モーゼス・ボイドとゲスト参加したユセフ・デイズのツイン・ドラムなど聴きどころの多いアルバムであった。
 『アライヴ・イン・ジ・イースト?』に続いて2020年にリリースした『エスケープ・フロム・ザ・フレイムス』は、実際には『アライヴ・イン・ジ・イースト?』と同時期にトータル・リフレッシュメント・センターで収録されたライヴ演奏で、『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』の前半部分をそのまま録音したものとなっている。従ってこの度リリースされた『フィーディング・ザ・マシーン』は、スタジオ録音盤としては『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』から約5年ぶりの新作となる。

 『フィーディング・ザ・マシーン』は『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』や『アライヴ・イン・ジ・イースト?』と違い、演奏者はビンカーとモーゼスのみで、完全にふたりの即興演奏にフォーカスしている。ただし、マックス・ラザートがライヴ・テープ・ループスとエレクロニック・エフェクツという名目で参加していて、ふたりの演奏の隙間をエレクトロニクスで補完している。マックスは本職がベーシストで、ピーター・エドワーズ・トリオやザラ・マクファーレンのグループなどで昔からモーゼスと共演してきており、サックス奏者のダンカン・イーグルズとミリオン・スクエアというエレクトロニック・ユニットを組んでいる。モーゼスがモジュラー・シンセやエレクトロニクスを自身の作品に導入するにあたり、そのきっかけになった人物がマックスだったそうで、『フィーディング・ザ・マシーン』はそのミリオン・スクエアでの役割に近い形での参加だ。
 具体的にはビンカーとモーゼスが演奏するサックスとドラムの音を生音素材として用いつつ、一方でそれらの音素材をマックスによるエレクトロニクスを通じてフィードバックさせ、そのフィードバックに対してさらに生演奏を被せていくという手法をとっている。一般的なマシン・プログラミングやシンセ・ループに合わせた演奏というより、あくまで自身のライヴ演奏によって生まれた音をフィードバックするプログラミングに合わせて演奏することで、まさに機械も交えたフリー・インプロヴィゼイションが可能となっている。マックス自身がベーシストなので、エレクトロニクスの操作においてもジャズの即興演奏におけるアイデアが十二分に反映されているということだ。『機械に餌づけする』というアルバム・タイトルは、こうしたマシンと人間の生演奏との共存に結びつく。

 『フィーディング・ザ・マシーン』のレコーディングにおいては、モーゼスはジャズ・ドラマーのマックス・ローチのほか、ビョークスクエアプッシャーエイフェックス・ツインマッドリブカニエ・ウェストを影響源に挙げており、映画音楽に造詣の深いビンカーはデヴィッド・リンチの名前も挙げている。そうしたなかでテリー・ライリーやラ・モンテ・ヤングからのインスパイアがかなりの頻度で制作中の話題に上ったそうで、特にテリー・ライリーとドン・チェリーによる1975年のケルン・コンサートあたりを参照していたという。ビンカーによると『フィーディング・ザ・マシーン』ではミニマリズムとアンビエントのアイデアがとても重要だったということで、“フィード・インフィナイト” や “アフター・ザ・マシン・セトルズ” などにそうしたアイデアが表れている。ビンカーいわく「ビンカー・アンド・モーゼス史上もっとも孤独なアルバム」という『フィーディング・ザ・マシーン』だが、ビンカーとモーゼスの濃密な演奏による対話を描くと共に、マシンとの共存や調和、コミュニケーションを推し進める人間の姿を映し出しているようでもある。

Laura Cannell - ele-king

 音楽ファンというのは、自分が好きになれるアーティストを見つけたときは嬉しいものである。この人の作品は追ってみようと思える、そんなアーティスト。生活のなかで自分のためにじっくり何度も、ときには集中して聴いてみようと思える音楽。もちろんそうそう出会えるわけではないが、これがこの世界を支配している巨大なメディア企業や商業的な利益が取引される世界とは別のところであったりすると、ことさら嬉しかったりする。ローラ・キャネルは、ここ数年のぼくにとってそういう人だ。彼女の音楽を聴いているとつくづくこう思う。まだ世界には自由が残っている。

 キャネルの音楽は、自由な世界で鳴っている。ザッカーバーグのメタヴァースの話ではない。つまり彼女は型にハマった音楽から本気で遠く離れて、じつにユニークな発想で音楽を作っている。たとえば、ぼくにとって彼女の音楽を好きになるきっかけとなった『The Sky Untuned』は、イングランドの田舎の中世から残っている教会のなかで、ひとりただひたすら演奏したときの記録だ。音の反響は録音した空間によって決まる。彼女はインプロヴァイザーであり、リコーダー/ヴァイオリン奏者だが、かつて存在し、現在不在なものの記憶を辿るようなその音楽は、その場所でなければ生まれなかったのだろう。彼女はそれ以前にも灯台で演奏し、水力発電所でも演奏している。
 彼女は、もともとクラシックの訓練を受けているが、もうずいぶん前に楽譜がなければ何もできない世界と訣別した。そういう意味でも彼女は自由だが、しかし彼女は自分の音楽に制限を与えている。それはひとつの決められた楽器で、ほとんど一発録りで作品を作るということ。あとから編集したり、手を加えたりしない。その瞬間に生まれる音楽こそが彼女の音楽だ。
 彼女の音楽は、先にも言ったように即興だが、しかしそこには彼女が調査し、長らく研究しているアーリー・ミュージックや中世の民謡の旋律の断片がミックスされている。彼女の内側から出るものと、彼女が学んでいる古楽や民謡(=フォーク)が混じり合い、それが彼女の作品のいち要素となる。また、彼女は、音楽大学でリコーダーもヴァイオリンも学んでいるが、その楽器の弾き方の常識から逸している。独自に開発した奏法をもってヴァイオリンは歪んだ音を出し、リコーダーはダブのように響かせる。そこで聴かれるメロディは、今日のポップ・ミュージックで聴かれるどれとも違っている。彼女はいわば音の吟遊詩人である。

 本作『アンティフォニー・フォー・ザ・ツリーズ』は、ローラ・キャネルにとって7枚目のソロ・アルバムだ。これまで彼女は、曲の主題に動物、それも鳥類をたびたび選んできているが、このアルバムは、彼女が暮らしているエリアに生息する鳥たちとの対話がもとになっているという。すべてはリコーダーの演奏によって表現されているが、その音色は多彩で、というよりも異彩で、ときに妖異で、しかも彼女は伝説のジャズ・ミュージシャン、ローランド・カークのように、二本のリコーダーを同時に、それぞれ別の音符を演奏することができる。
 さて、カラスに呼びかけている1曲目は、なるほど動物の鳴き声のようだ。とはいえアルバムは動物の鳴き声の模倣などではない。今回はある意味、もっともぶっ飛んだ作品とも言えるだろう。反響し、反復するその幽玄な音響の彼方からさらにまた音が響く続く “For the Gatherers” はなかば神秘的で、続く “For the Sacred Birds” では瑞々しくも平和的な旋律が広がる。
 時空を越える音楽があるとしたら、キャネルの作品はそのひとつだ。この音楽に古いも新しいもない。アルバム中盤の “私たちは羽を借りた(We Borrowed Feathers)” から “鳥の神話のために(For the Mythos of Birds)” にかけて、キャネルはほとんど宇宙的とも言える領域へ突入する。次に待ち構えている表題曲もまた異境的で、それは鳥類たちの楽園のようであり、最高にトリップしたサン・ラーの微笑みのようでもある。一本のリコーダーでドローンを発しながら(いったいリコーダーでどうやって?)、メロディを反復させる “フクロウになった少女(The Girl Who Became an Owl)” にも謎めいた美しさがあるが、いたって穏やかで、アルバムはその平穏さのなかで終わっていく。
 この音楽は、自然や環境に関する教訓めいたものではない。ぼくたちに聞こえている世界はひどく限定的で、すぐ近くにはまったく別の世界が広がっていることをほのめかしている。

 最後に、少しばかりエレキング読者も親近感を覚えるかもしれない、彼女のこれまでの共演者について触れておこう。たとえば彼女は、元ディス・ヒートのチェールズ・ヘイワードとWhistling Arrowなるバンドを組んで1枚のアルバムを作っている。また、彼女は先鋭的な電子音楽家として知られるマーク・フェルとの共作アルバムを残している。それから彼女には1枚のリミックス・アルバムがあり、そこにはエコープレックスやボーダー・コミュニティのメンバーらが参加している。さらに昨年は、彼女はアイルランドのアーティスト、Kate Ellisといっしょに毎月1枚のシングルを発表していたが、10月EPには、元キャバレー・ヴォルテールのクリス・ワトソンが参加した。いまや一流の録音技師として名高いワトソンは、その作品において、川のせせらぎ、雨の音、そして野鳥の声を提供している。
 

※ここで予告を一発。6月末発売予定の紙エレキング、「フォーク特集」において、ローラ・キャネルの日本では初インタヴューを掲載予定です。乞うご期待。

Nilüfer Yanya - ele-king

 漂う空気がある。人びとの口から口、スマートフォンに浮かぶ行間に存在するような。インスタグラムやツイッター、自分から積極的に探しにいかなくても知っている誰かが存在していて、その好意が画面のなかから滲んでくる。音楽が語られ、記事のリンクが貼られ(クリックはしない)、何度も写真を見て、そうやってなんとなく知っているみたいな状態ができ上がる。僕にとってニルファー・ヤンヤはそんな存在だった。「Nilüfer Yanya」ってなんて読むのだろう? というところからはじまって、存在を確認し、音楽を聞いて、そうやってUKシーンの人たちが彼女に向ける好意の理由を少しずつ理解していった。
 ウエストロンドン、チェルシー出身のニルファー・ヤンヤ、イスタンブールに生まれたトルコ系の父とバルバドス・アイルランド系の母を持ち、様々な音楽が流れる芸術家の家庭に育ち、6歳の頃にピアノをはじめ11、12歳の頃にギターを習い本格的に音楽をはじめる。2014年、19歳の頃に SoundCloud に曲をアップするようになって、2016年に最初のEPをリリース。彼女の音楽はモダンなソウル・ミュージックのようでも、キング・クルールに影響を受けたインディのギター・バンド、ベッドルームのプロデューサー、ジャズの香りをまとったオルタナ好きのSSWのようにも聞こえた。何より特徴的だったのはその声で、醒めているような雰囲気でいながら芯がありヒンヤリと情熱的で、一言では言い表せない複雑な魅力を持って聞こえてきた。彼女の音楽は簡単にカテゴライズできないようなもので、様々な要素があるからこそいろいろな方向からアクセスができる音楽なのかもしれない。ファット・ホワイト・ファミリーが表紙の『ソー・ヤング・マガジン』で、バンクーバーのニューウェイヴ/ポストパンク・バンド N0V3L のページとシェフィールドからサウス・ロンドンのバンドたちに噛みつく若きワーキング・メンズ・クラブに挟まる形で、ニルファー・ヤンヤは 1st アルバムについての話をする。それらの音楽と同列に聞かれ支持を集めながらもどこか異質で、けれど重なり合うような部分もあってその感覚がとても新鮮だった(ソウル、インディ、ポストパンク、ベッドルーム・ホップ、ひとつの言葉だけで表現しようとするとどれを選んでもしっくりこない)。

 2019年の 1st アルバム『Miss Universe』は「WWAY Health(We Worry About Your Health)」という架空のセルフケア・プログラムを題材にしたコンセプトアルバムで、17曲も入っていて、それぞれの曲のなかに落とし込まれたニルファー・ヤンヤの多彩な側面をアルバムとしてひとつのコンセプトでまとめ上げたような作品だった。それに対して12曲入りのこの 2nd アルバムは全ての曲に同じような空気が流れていて、アルバムの最初と終わりにナレーションを挟むことがなくとも自然と世界が繋がっているように感じられる。前作から引き続いてのウィルマ・アーチャー、〈DEEK Recordings〉の創始者でありウェスターマンのアルバムを手がけたブリオン、ニルファー・ヤンヤのサポート・バンドのメンバーでもあるジャズィ・ボッビ(サックスと鍵盤を担当)、そしてビッグ・シーフのプロデューサーとして有名なアンドリュー・サーロ、多くの人間が関わっていながらもアルバムのなかで流れる空気が統一されていてアルバムを通して聞きやすい(統一された空気のなかで彼女の多彩な側面はアクセントとしてそれぞれの曲のなかに埋め込まれている)。だからなのか続けて何度も聞きたくなってしまう。積極的ではなくて消極的に。そのままそこで鳴っていて欲しいとなんとなく思うような、僕にとってこのアルバムはそんなアルバムだ。

 少しの哀しみ、わずかな虚無、抜け出せない憂鬱、甘くないわけではなくて、苦みが強いわけでもない。全ては複雑に絡み合いコーヒーのなかを回る白いマーブル模様みたいに混じっていく。それは完全に調和が取れているものではなくて、何か別のものがそこにあると認識できるようなもので、決して同じにはならない。ニルファー・ヤンヤの音楽の魅力はやはりその複雑な違和なのかもしれない。ひとつのカップに入ったいくつかの味、混じりきる前のそれ、完全に混じって滑らかになるのではなく、混じりきらずにそのままグルグルとメランコリーに回り続ける。
 もっとエレクトロニクスの要素を強くして、孤独を深め、そうすれば部屋でひとり音楽を作り続けるプロデューサーのような雰囲気の曲になったのかもしれない。でもニルファー・ヤンヤはそうしない。彼女はあくまでギターにこだわってそこに自らの声を乗せる。それはSSWのようなふるまいで、そのギターはグランジを経た90年代のオルタナ・ミュージック、2000年代のUKロック・バンドのような響きがある。唄がすべてのわけではなく、ギターを聞かせるための音楽でもない、声はギターの相棒で、ギターは彼女の声に反応する。それは風変わりのデュエットのようでもあって、そのどちらもが曲の中心に存在する。ニルファー・ヤンヤはそうやって人の感情を表現するのだ。

 性急なブレイクビーツのドラムの上でかき鳴らされるギター、そこに入る低く鋭く染みわたる声、オープニング・トラックの “the dealer” 、スローダウンする中盤の “trouble”、“try”、“company”、彼女の声とギターは何かひとつの感情を違った方法を使って表しているように思えて、その音はメランコリーに哀しく響く。1st アルバムよりも暗く内省的で、だけども他者を寄せ付けないようなものでもない。気持ちをせかせるような “Stabilise” は『Silent Alarm』時代のブロック・パーティーを思い超させ、“Midnight Sun” からは『In Rainbows』期のレディオヘッドのような美しいアルペジオが聞こえてくる。それは彼女が生まれ成長する過程で日常から聞こえてきた音楽なのかもしれない。“L/R” ではトルコのサズという民族楽器が使用されている。それは彼女の父親が家で弾いていた楽器で、彼女のなかにあり血肉となっている音楽がこのアルバムのなかで再解釈されているようにも思える。「高層ビルには何もない/誰もあなたの人生に戻ってこないみたいに」。アルバムのジャケットに記されている “Stabilise” に出てくる言葉のようにニルファー・ヤンヤの音楽には都市生活の孤独があり、そこで鳴っていた音楽の影響が見え隠れする。哀しいだけではない孤独の複雑な味、それは自分のなかにある誰かからの影響を感じ取ることなのかもしれない。ニルファー・ヤンヤの 2nd アルバムはそんな風にして他者の存在を感じさせるのだ。心地が良いわけではなく、落ち着くわけでもない、居心地が悪い都市に漂う感覚、遠くの喧噪を思い浮かべ、そうしてまたなんとなくこのアルバムを繰り返し聞いてしまう。

LNDFK - ele-king

 LNDFK はイタリアのアーティストであるリンダ・フェキのユニットなのだが、アルバム・タイトルの『クニ』はじめ、“タケシ”、“ハナビ”、“ク” など日本語による(もしくは日本語と類推される)楽曲名が多く用いられている。“タケシ” というのは北野武(ビートたけし)を指していて、彼が監督・主演した『HANA-BI』(1998年)からの引用である。この映画はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ヨーロッパで高い人気を集める北野映画の代表作であり、また久石譲によるサウンドトラックも高い評価を得ている。“タケシ” や “ハナビ” はそうした北野武の映像や作中で使われた彼の絵画、久石譲の音楽が源泉となった作品で、“ハナビ” では ASA-CHANG こと朝倉弘一の歌とパーカッションもフィーチャーされるといった具合に、日本人にとっても極めて親和性の高い作品だ。

 リンダ・フェキはもともとチュニジアのスースに生まれたアラブ系人種のチュニジア人の父とイタリア人の母のハーフで、生後間もなくイタリアのナポリに移り住んで育った。シンガー・ソングライターとして2016年ごろから音楽活動をはじめ、2019年のスペインのプリマヴェーラ・サウンド・フェスなどのステージが話題を呼ぶほか、カマシ・ワシントンや Mndsgn (マインドデザイン)などのステージの前座を務める。ダリオ・バッソリーノと一緒に楽曲制作を開始し、2016年に初EPの「ラスト・ブルー」をリリースした後、2021年にブルックリンのレーベルの〈バスタード・ジャズ〉と契約して “ドント・ノウ・アイム・デッド・オア・ナット”、“ハウ・ドゥ・ウィ・ノウ・ウィ・アー・アライヴ”、“ク” のシングルを発表し、それらを含むデビュー・アルバムが『クニ』である。音楽的にはジャズ、ネオ・ソウル、ヒップホップなどの要素がブレンドされているが、両親からチュニジアとイタリアと両方の文化を受け継いでいるという点で、こうした音楽をやっている多くのアーティストたちとの違いを生んでいるようだ。全体としてはハイエイタス・カイヨーテあたりに近い雰囲気を持つアーティストと言えよう。

 和のイメージを持つアンビエント作品 “ハナビ” でアルバムははじまり、“タケシ” はリンダの歌声を含めてハイエイタス・カイヨーテ調のネオ・ソウルとジャズの融合。細かくチョップされた有機的なドラミングも印象的で、カリーム・リギンズユセフ・デイズなどのプレイを彷彿とさせる。ドリーミーでメロウな “スモーク-ア・ムーン・オア・ア・ボタン” はムーンチャイルドに近いタイプのナンバー。アメリカ人のルース・クラウスとレミー・チャーリップによる1959年の児童書から引用されたタイトルである。“ハナビ” をはじめ、LNDFK の作品は音楽以外にもさまざまな分野から影響を受けていることを物語る。チェスター・ワトソンによるポエトリー・リーディング風のラップをフィーチャーした “ドント・ノウ・アイム・デッド・オア・ナット” は幻想的なビート・ミュージックで、同様にアルバム中ではヒップホップからの影響を感じさせる “ハウ・ドゥ・ウィ・ノウ・ウィ・アー・アライヴ” にはピンク・シーフがフィーチャーされる。ちなみにチェスター・ワトソンは昨年日本のホラー映画(怪談映画)を題材としたアルバムをリリースしており、LNDFK 同様に日本の文化にも通じたアーティストである。

 “オム” は “ハナビ” 同様に和をイメージさせるようなアンビエント調の作品で、アルバム最後のアンビエント・ナンバーの “セ・ミ・スタッコ・ダ・テ、ミ・ストラッポ・トゥット” はイタリアの前衛詩人・作家のエドアルド・サングイネーティの作品から引用されたもの。“ktm” はアメリカのジャズ・ピアニストのジェイソン・リンダーをフィーチャーし、彼の抽象性の高いキーボードと即興的なドラムのコンビネーションによる現代ジャズ作品となっている。ブロークンビーツ調のジャズとネオ・ソウルのコンビネーションの “ク” はアメリカの漫画家のフランク・ミラーによるネオ・ノワール漫画『シン・シティ』と、その映画化作品が題材となっており、そこに登場する暗殺者キャラクターのミホのことを歌っている。北野武映画ほか、いろいろな国の文学や映画、漫画などを題材に、デビュー・アルバムから実にイマジネーション豊かな世界を展開する LNDFK。今後も目を離せない存在となりそうだ。

Pan Daijing - ele-king

 今年1月、注目すべきエクスペリメンタル・ミュージックのアルバムがベルリンの〈PAN〉からリリースされた。
 中国出身で現在はベルリンを拠点とするサウンド・アーティスト、パン・ダイジンの新作『Tissues』である。このアルバムは圧倒的ですらあった。人間というものの実存を問いつめるようなエクスペリメンタル・ミュージックとでも称すべきか。これぞダイジンが希求したオペラ=総合芸術ではないか。声とノイズを用いたノイズ・オペラ。そこには人の実存への極限的な思考がある。

 パン・ダイジンはこれまで〈PAN〉からアルバムを二作リリースしてきた。2017年の『Lack』と2021年の『Jade』の二作である。二作とも鮮烈なアルバムだが、こと『Jade』は冷徹な音響によるインダストリアル・アンビエント・ノイズと声が全編にわたって混じり合うように展開し、「ノイズ・オペラ」とでも形容したいほどの強烈な作品である。むろん『Lack』もまた「精神のオペラ」と自ら称していたようにオペラを希求し実現したアルバムだ。
 私はこれら二作品をエクスペリメンタル・ミュージックから生まれた「新しいオペラ」と考える。ダイジンは正式な音楽教育を受けているわけではない。だがオペラを作りたいと渇望し、「新しいオペラ」を作り上げた。オペラとは総合芸術である。つまりパン・ダイジンは総合作品としての音響音楽を希求している。
 2019年10月にロンドンの国立近代美術館「テート・モダン」で上演された実験的な演劇『Tissues』もまたパン・ダイジンが追求しきた声とノイズによる「新しいオペラ」の結晶といえよう(https://www.youtube.com/watch?v=PF2aGaRA-40)。
 この上演では13人のダンサー、オペラ歌手、俳優らと共に、構成、演出、デザイン、脚本を手がけたダンジンも演じていたという。地下空間の混乱のようにカオスな音響空間が生まれ、この世界の「恐怖」と直面する人間の感情が、言葉、声、ノイズによって表現されていったらしい。
 ここで気になるのは、2019年にリリースされた『Jade』との関係だ。上演と発表時期が重なっているからである。『Jade』は、2017年に『Lack』をリリースして以降の3年のあいだに制作された。ということは2019年テート・モダンで上演された『Tissues』と重なっている。となれば『Jade』と『Tissues』は、ノイズと声のオペラという意味でもコインの裏表のようなアルバムではないか。
 『Jade』では個の内面に沈み込むようなノイズ・オペラを展開し、『Tissues』では上演という形式のなか複数の演者たちとコラボレーションし、肉体と世界が拮抗するようなノイズ・オペラを生成する。この二作は対照的だ。個の内面と他者との関係性の差異とでもいうべきか。

 アルバム『Tissues』は、その上演を1時間ほどに抜粋・編集した音響作品である(いや音響劇とでもいうべきか)。
 全体の構成は4つのブロックに分けられている。音響版においては、当然ながら彼らは映像/イメージを剥ぎ取られ、それぞれが気配と声だけの存在になってしまう。われわれは音のむこうにある気配と声とノイズを聴取することになる。
 アルバム『Tissues』においては「声の存在」がノイズと共に大きな意味を果たしている。複数の「声」が交錯し、ときには反発し、やがて混じり合っていく。そうして個の存在を使い捨てにするような残酷な世界のありようが浮き彫りになるのだ。
 涙を拭うために使い捨てられる「テッシュ」と、人間を残酷に使い捨てる「世界」の「残酷さ」の問題を重ね合わせること。本作の狙いはそこだ。ここからパン・ダイジンたち自身の実存と「世界」に対する抵抗の意志がより浮き彫りになる。音響だけになった演者たちは肉体を剥ぎ取られていくことで、世界の残酷さを体現するだろう。そしてそこに無慈悲な世界の象徴のようにノイズが声に、個に、神経に、聴覚に、肉体に侵食をしようとする。
 アルバム『Tissues』は、この無慈悲な世界に、個の抗いと個の存在を突きつけ、同時に深い喪失感をも結晶させていく、その過程のような音響作品だ。闘争の音響劇である。そしてダイジンがこれまで追求してきた「世界に疎外され続ける肉体の存在」と「時間と孤独」に対する思索の結晶のようなアルバムともいえる。『Lack』と『Jade』を経てついに実現したパン・ダイジンの「新しいオペラ」が完成した。ノイズ/インダストリアル・アンビエントの完成形、それが『Tissues』だ。

 最後に記しておきたいことがある。『Tissues』は、エンプティセットのジェームズ・ギンズバーグによって録音され、ラシャド・ベッカーによってマスタリングされた。いわば10年代「尖端音楽」の覇者たちがパン・ダイジンをサポートしているという事実は重要だ。それだけでも彼女の才能がどれほど重要なものかわかるのだから。

Yard Act - ele-king

 デビュー・アルバムをリリースするポストパンク・バンド、もしかしたらみんなもうこの言葉を聞くのは飽き飽きしているかもしれない。しかしヤード・アクトは思い浮かぶそれらのバンドのどれよりも、はるかにポップだ。そして、それこそがきっとすべての違いなのだ。

 早口でまくし立てられるヴォーカル、せき立てられて気持ちがせいで否が応にも事態に巻き込まれていく……。ヤード・アクトのアルバムのタイトル・トラックであり1曲目 “The Overload” ほどこのデビュー・アルバムの最初の曲にふさわしいものはない、そう思わせる程にキレがある。イングランド、リーズのバンド ヤード・アクト、サウス・ロンドン・シーンを尻目にリーズで結成されたこのバンドはポップなギャング・オブ・フォーのようでもありギャング映画とフォールにかぶれたフランツ・フェルディナンドのようでもあり、スタジアムのフットボール・プレイヤーではなくTVに映るフットボール解説者にキレるスリーフォード・モッズのようでもある。ギターは尖り、ベースは太くドラムはタイト、流行している例の喋るようなヴォーカルに圧倒的に足りなかったのはこのポップさだったのではないかという言葉がこのアルバムを聞く度に頭をよぎる(そしてそれらが出そろった2022年のこのタイミングでヤード・アクトのアルバムが出たことにも意味があるようにも思える。まったく違うものではないが、組み合わせるやり方が違う。それはショートカウンターとしてソリッドに機能する)。

 僕が最初にヤード・アクトを知ったのは2020年の4月、イギリスの音楽誌 Dork がデビュー・シングル “The Trapper’s Pelts” をリリースするバンドを紹介する記事だった。Twitter のタイムラインにガレージの中にある薄汚れた車と共に写真に写る4人の男の姿が表示される。眼鏡をかけた3人の男とニット帽をかぶった2人の男(つまり一人はニット帽をかぶり眼鏡をかけている)の冴えないがしかし何やら雰囲気がある写真とビル・ライダー・ジョーンズがプロデュースしているという情報に惹かれて記事を開き、そしてその中の YouTube のリンクを踏むと「YARD ACT」の文字(つまりジャケットに描かれている例のマークだ)が回りはじめる。それで他の情報は全ていらなくなった。百聞は一見にしかず、音がなりはじめた瞬間に一発でわかるような種類の音楽というものがあって、ヤード・アクトは完全にそれだった。当然のようにあっという間に話題になり最初の7インチが出る前にはレコードを入手することが困難なバンドになっていた。もう誰もプロデューサーが誰なのか気にしなくなり、ただヤード・アクトがどんな音楽をリリースするかだけに関心が集まった(しかしちゃんと書いておく。アルバムのプロデューサーはドゥ・ナッシングやケイティ・J・ピアソンをプロデュースしたアリ・チャントだ。付け加えるなら8曲目の “Quarantine the Sticks” にはビリー・ノーメイツも参加している)。

 そしてこのデビュー・アルバムもまさにそういう種類のアルバムだ。再生ボタンを押した瞬間に始まるタイトル・トラックの “The Overload” 「イェーイェーイェー」というジェームス・スミスの声がやる気なく聞こえてきたと思えば心構えも何もなく気がつけばもうヤード・アクトが巻き起こすこの事態の中に引き込まれている。“Dead Horse” はフランツ・フェルディナンドの最初の方のアルバムに入っていてもおかしくないほどムーディーで、“Witness (Can I Get A?)” はハードコアの曲を作ろうとしたがうまくいかず、スーサイドのドラムを試したらスロウタイムラ・マサみたいな曲になったと彼らは言う(しかし1分と少しのこの曲はギターを効かしたスリーフォード・モッズのようにも聞こえる)。

 このアルバムで白眉なのが9曲目の “Tall Poppoeis” で、この曲は同時代の他のポストパンク・バンドにはちょっとみられない曲だろう。イラついていないときのマーク・E・スミスみたいな語り口で語られる物語、クラスでいちばんハンサムだった男、村でいちばんフットボールが上手かった奴、クルー・アレクサンドラのスカウトが見にきて関心があるとかなんとか言う(クルー・アレクサンドラはイングランドの3部にあたるリーグ1に所属しているクラブだ)。だが彼はフットボールの道に進まなかった。16歳の時に決断し、村で不動産の仕事について、結婚して、犬を飼って、子供が生まれ、そうして年を取り死んでいく。彼は夢を追うことをしなかった。グレート・マンチェスターにはもっとハンサムな男がいて、信じられないくらいフットボールが上手い奴がいる、だから彼は村を出ずに平凡な幸せな中に死んでいくことを選んだ。そんな男の一生が音楽に乗せた説話として描かれ、そのあとにこの話を受けて現代を生きる人間の思いが語られる。この国では16歳になるまでにどんな大人になるのか決めなければならない。そうやってみな選択した自分の人生を生きる。そのことに精一杯で、どこかの国で爆弾が落とされ子供が死んでいくことを知っていたとしても、その利益を受けて生きていくしかない。この曲ではそうした人生の選択や不条理さ、無常観が描かれている。体制にただ牙をむくのでもなく、怒りをぶつけるのでもない。誰かを諭そうともせず意見を押しつけず、ヤード・アクトは自分の見た世界の現状を提示して、どう思う? と笑顔を浮かべ皮肉じみた質問を投げかけるのだ。

「近頃のガキは自分が苦労しているって思っている / 俺みたいに鉄の肺を味わったわけでもないだろうに」 “The Overload” でそう唄われているようにヤード・アクトはいわゆるサウス・ロンドン・シーンのバンドとは違う世代に属している。ヴォーカルのジェームス・スミスは31歳で結婚していて子供がいて、その相棒、ベースのライアン・ニーダムは彼より10歳年上で、メンバーチェンジを経て加入したギタリストのサム・シップストーンやドラムのジェイ・ラッセル(この二人は地元リーズのバンド、ツリーボーイ&アークのメンバーと交代で入った二人だ)にしてもヤード・アクトの前に違うバンドで活動しており、メンバー全員がこれまでに他のバンドで音楽活動をしていた。ジョン・クーパー・クラークからその名がとられたであろうジェームス・スミスのバンド、ポスト・ウォー・グラマラス・ガールズはゴシックの香りが漂う陰鬱なギターバンドで、ライアン・ニーダムのメネス・ビーチも『Black Rainbow Sound』というアルバム・タイトル通りの暗さがある。そうした時代を経てのヤード・アクトだ。ヤード・アクトはこれまでのバンドと同じようなエッジを持ちながら、それよりもずっとポップで親しみやすく、そしておそらく大きな場所で響きやすい。

 ソー・ヤング・マガジンのサム・フォードが言うように、いまのロンドンで音楽をしようと思うのならば学生時代の3年間を有効活用するしかないのだろう(つまりジェントリフィケーションの問題だ)。サウス・ロンドンの多くのバンドはそれを利用し連帯しシーンを形作っていった。だがそれらのバンドの大半は成功し売れるということにあまり興味を示さなかった。情熱を持って活動し自分たちの音楽を気に入ってくれる誰かに届けば良い。そうしてお互いに刺激を受けて、それがまた音楽を作る原動力になる。それは素晴らしいものなのだが、もしかしたらそれが少なからず頭でっかちの音楽になってしまった原因なのかもしれない(あるいは “Tall Poppoeis” で描かれたフットボールの話はこうした状況にもかかっているのかもしれない)。しかしヤード・アクトは違う。生活のための音楽、もしくは音楽のための生活を経験している彼らは目標をしっかりと掲げはっきりと大きなステージを目指した(この点でもフランツ・フェルディナンドを彷彿とさせる)。
 その上で彼らは同時に信念を持ち続けている。人気を集めた “Fixer Upper” や “Dark Days” などアルバム以前に発表された曲を1曲も収録しなかったというのがおそらくその証拠になるだろう。ただ売れればいいというものではなく波風が立つようなエッジがなければ意味がない、この姿勢がヤード・アクトをヤード・アクトたらしめる。切れ味鋭いポップな楽曲に乗せた社会風刺、人気ゲーム「FIFA22」のサウンドトラックに収録された “The Overload” がジェントリフィケーションの問題を取り扱った曲であるように、“Dead Horse” ではBrexit時代の政治の現状が嘆かれ、“The Incident” ではキャンセル・カルチャー世界の健全さが、そして “Rich” や “Payday” では社会格差や資本主義のねじれがユーモアと皮肉を交えて描かれている。こうしたメッセージが込められた曲を大きな場所で響かせようとしているのがヤード・アクトなのだ。サウス・ロンドン・シーンのバンドとの共通点と差異、エッジを持ちつつポップでもあるということ、ヤード・アクトのこのアルバムはやはり巻き起こったシーンに対してカウンターとして機能するのだ。

 そして物事にはタイミングというものがある。おそらくこの 1st アルバムは10年前では同じように作れなかっただろうし、同様に響くこともなかっただろう。時代と場所と流れ、様々なものが噛み合って音楽は生まれ、受け入れられていく。だからこそヤード・アクトのアルバムがいまこのタイミングで出たことに意味があるとこのアルバムを聞いてそんなことを考えてしまう。

R.I.P. Betty Davis - ele-king

私はあなたを愛したくない
なぜなら私はあなたを知っているから
ベティ・デイヴィス“反ラヴソング”

 時代の先を走りすぎたという人がたまにいるが、ベティ・デイヴィスはそのひとりだ。彼女については、かつてのパートナーだったマイルス・デイヴィスが自伝で語っている言葉が的確に彼女を説明している。「もしベティがいまも歌っていたらマドンナみたいになっていただろう。女性版プリンスになっていたかもしれない。彼女は彼らの先駆者だった。時代の少し先を行っていた」(*)
 ベティ・デイヴィスは女ファンクの先駆者というだけではない。彼女は、セックスについての歌をしかもなかば攻撃的に、鼓膜をつんざくヴォーカリゼーションと強靱なファンクによって表現した。公民権運動時代のアメリカには、ローザ・パークスやアンジェラ・デイヴィスをはじめとする何人もの革命的な女性がいた。音楽の世界においてもアレサ・フランクリンやニーナ・シモンらがいたが、ベティ・デイヴィスは彼女たちがやらなかったことをやった、それはセクシャリティの解放であり、家父長社会に対する性的な挑発だ。男性が伝統的に当然としてきた性的自由を享受する権利を声高く主張すること。だが、そのあまりにも放埒でラディカルな性表現は、1970年代当時、公民権運動の主体の一部であった全米黒人向上協会(NAACP)からもボイコットされたほどだった。
 
 1944年7月16日、ノースカロライナ州ダーラムで生まれたベティ・デイヴィスが、2月9日に77年の生涯を終えたことを先週欧米のメディアはいっせいに報じ、彼女にレガシーに言葉を費やしている。
 16歳のとき、ファッション・デザインを学ぶためにニューヨークにやってきた彼女は、その街の文化——グリニッジヴィレッジやフォークなど——を思い切り吸収した。モデルとしても働くようになったが、モデル業よりも音楽への情熱が勝り、1967年にはザ・チェンバース・ブラザーズのために曲を書いている。それが昨年ヒットした映画『サマー・オブ・ソウル』でも聴くことができる“Uptown (To Harlem)”だ。そして、マイルス・デイヴィスが、おそらくはほとんど一目惚れして、1969年のアルバム『キリマンジェロの娘(Filles De Kilimanjaro)』のジャケットになり、収録曲の1曲(Miss Mabry)にもなった。マイルスにスライ&ザ・ファミリー・ストーンとジミ・ヘンドリックスを教えたベティは、彼の二番目のパートナーとなり、かの『ビッチェズ・ブリュー』へと導いたことでも知られている。「音楽においても、これから俺が進むべき道を切り拓いてくれることになった」とマイルスは語っている(*)。
 そしてベディ・デイヴィスはマイルスとの短い結婚生活を終えると、わずか3枚の、しかし強烈なファンク・アルバムを残した。ぼくが所有しているのは『They Say I'm Different』(1974)の1枚だが、このジャケット写真を見れば、どれだけ彼女がぶっ飛んでいたかがわかるだろう。彼女はグラム・ロッカーであり、サン・ラーやジョージ・クリントンと肩を並べることができるアフロ・フユーチャリストでもあった。

 しかしながら、1970年代前半のアメリカで、黒人女性がファンクのリズムに乗って、自分の性欲や別れた男=マイルスのことを面白おかしく歌うこと(He Was A Big Freak)は、あまり歓迎されなかった。だがいまあらためて聴けば、先述の『They Say I'm Different』はもちろんのこと、ファースト・アルバム『Betty Davis』(1973)もサード・アルバム『Nasty Gal』(1975)も、その素晴らしいファンクのエネルギーに圧倒される。ベティの散弾銃のようなヴォーカリゼーションは、因習打破の塊で、まだまだ保守的だった時代においては恐れられてしまったのだろう。彼女の前では、ジェイムズ・ブラウンの“セックス・マシーン”でさえもお上品に聴こえると書いたのは、ガーディアンやクワイエタスに寄稿するジョン・ドーランだ。「彼女は、揺るぎない勇気とリビドーをストレートに感じさせる強さをもっていた」

 ベティは結局、早々と音楽業界から身を引かざるえなかった。ドーランは、ベティが無名性に甘んじたのは、明らかな性差別だったと断言しているが、21世紀の現在では、エリカ・バドゥやジャネール・モネイのように、彼女からの影響を公言するアーティストは少なくない。カーディBやニッキー・ミナージュだってその恩恵を受けているだろうし、もっと前には、それこそマイルスが言ったように、マドンナとプリンスにもインスピレーションを与えているという。テキサスのサイケ・パンク・バンドのバットホール・サーファーズだってベティへの賞賛を表明しているし、彼女はいま、ようやく時代が自分に追いついたことに安堵していることだろう。

人は私が変わってるって言うけれど
だって私はサトウキビで芯まで甘い
だからリズムがある
曾祖母は社交ダンスなんて好きじゃなかった
そのかわり
エルモア・ジェイムズを鼻歌で歌いながらブギったものさ

人は私が私は変わってるって言うけれど
だってチットリンを食べるから
生まれも育ちもそうなんだから仕方がない
毎朝、豚を屠殺しなければ
ジョン・リー・フッカーの歌を聴いて帰るんだ

人は私が私は変わってるって言うけれど
だって私はサトウキビで
足で蹴ればリズムが出る
曾祖父はブルース好きだった
B.B.キングやジミー・リードの曲で
密造酒をロックしていたのさ
“They Say I’m Different”
※サトウキビは長い円筒形の管のなかに甘い液体が入っていて、その管を口に入れて汁を吸う。


(*)『マイルス・デイヴィス自叙伝』(中山康樹 訳)。原書は1989年刊行

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