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容赦ない打鍵でメロディを叩きだす"ヴィクトリニアン"は、彼らのハイ・ファイヴがその場限りな朋友意識から自由であると物語る。
ともかくもファング・アイランドはギターがおもしろい。昨今は90年代風のR&Bがインディ・ミュージックの細部へと浸透し、一種のリヴァイヴァル状況を生み出しているが、それらの隙間の多い音に比して、ファング・アイランドは真逆ともいえる暑苦しさをまき散らしている。「ハイ・ファイヴ・コア」などと呼ばれるゆえんだ。同じナインティーズでも彼らはディストーティッドな音を好む。しかしそれは、ロック界隈ではすでに2009年ごろより起こっていた90年代リヴァイヴァリストたちの、コスプレのようなグランジ・ポップとはまるでちがう。それはほんとうに、一聴でわかるだろう。今作冒頭はいきなりピアノからはじまるからディスクを間違えたと思ったのだが、すぐに1本の光線のように、追って複数本並行するようにギター――「あの」ギターだ――が入ってくると、間違いなくそれがファング・アイランドであることがわかった。心がそよぐ!
隙間こそないが、彼らの少しメタリックなギターは、とても透明度が高い。それは大半の曲においてグランジっぽい歪み系の音と2層をなして進行するが、双方とも氷づけされたようにざらつきがない。技術的なからくりはわからないが、シーンの主流がテープ録音のようなにごりやあいまいさを持った音色にあるなかで、異様にうつるほどの個性を宿している。
"キンダーガーテン"はピアノからはじまる。ファング・アイランドはバンドとしてのアイデンティティもギターにあって、ライヴなどは5人くらいのギターがずらっと横1列になったりする。先に述べたように、ピアノの使用などおよそ想像の範疇をこえていて、はじめは我と耳とを疑ったくらいである。だが終曲もおもいきりピアノによって展開されていくのを聴いて、両者は彼らにとって等質なものなのだなと思い至った。透明でつよく、線的にのびてゆくもの。ピアノもまた弦楽器であったこと、彼らのギターが鍵盤楽器的であったことがここで交差し、筆者はようやく納得した。また、そのピアノ自体にも次第につよく胸を打たれるようになった。アップライトで子どもがバイエルを弾くように、容赦ない打鍵でメロディを叩きだす"ヴィクトリニアン"は、彼らのハイ・ファイヴが粗雑でその場限りな朋友意識・パーティ感覚といったものから自由な、心の祝福をたくし込んだものであることを暗示する。
握手よりもハイ・ファイヴが大事だ、と結成メンバーのクリス・ジョージズは言う。小さな地球でちがう国の人間同士が手をあげてタッチしあうイメージ、そのパワフルさを彼は好む。筆者は見ず知らずの人間とのハイ・ファイヴなどもっとも苦手な部類の行為だが、彼らのパーティでならやってもよいという気がする。ノリだけでここまで力づよく執拗に鍵盤を打ちつづけることはできない。奏法で音に陰影や表情がつくなどという発想のまるで埒外で、エネルギーが尽きるまで弾きつづけようというような駆動力。その裏側には、なにかほんとうにその行為を支える確信があるのだと感じる。タッチしあうことでそれが見えるというのならば、見てみたいなと思う。『ピッチフォーク』などがかつて「人生肯定的」と評したのは肯定の意味をとり違えなければそのとおりである。
ファング・アイランドはニューヨークを拠点に、現在はトリオを中心として活動している。リトグラフィよりも音楽を作ったほうがいいんじゃない? というアートスクールの学生たちで結成されたバンドだ。2010年にリリースされたはじめのフル・アルバムもすばらしく、高い評価を受けた。今作に根本的な変化はないが、"アサンダー"や"レガリア"など耳なじみのよいメロコア風の楽曲を聴くと、正直なところそこまでリスナーに歩み寄らなくてもよいのではないかという気持ちにはなる。かといって"チョンパーズ"などが平凡かというと、結局はここでもギターが彼らの音楽を非凡ならしめていることに気づく。「人びとに喜ばれる音楽を作りたい」という彼らの思いが、そのように微妙なバランスで表れた作品である。『メジャー』というタイトルの意図はわからないが、メジャーという言葉の意味するところが両義的に浮かび上がっている。次作はより純粋に表現自体を追求・進化させてほしいというのが希望だが、筆者は彼らの音には一貫してエールを送りたい。
橋元優歩