Home > Reviews > Album Reviews > Hercules & Love Affair- The Feast of the Broken Heart
自由はどこにある? ついこの間もどこかの馬鹿な政治家が「ホモにHIVの啓蒙なんてしなくていい」と抜かしたそうだが、思いっきり脱力するとともにそのことに驚きも怒りもしない自分に心底がっかりした。この国のおっさんの平均的な認識を確認したまでだ。同性愛が犯罪として取り締まられ、マイノリティが殺されてしまうような国よりはまだ「マシ」なんだろうか? だけど、この国で同性愛者であることはつねに世のなかからヤジを飛ばされて生きているようなもので、そんな環境で暮らしていればひとは卑屈になるしシニカルにもなる。自由はどこにある? ……その問いは、むなしく消えていくばかりだ。
アンディ・バトラーは……ハーキュリーズ・アンド・ラヴ・アフェアの首謀者は、それは四半世紀前のハウス・パーティにあったと迷わずに宣言するばかりか、その刹那的な快楽を現代に蘇らせることを企んでいる。彼は自分がフランキー・ナックルズの子どもたちのひとりであることを宣誓し、かつてのゲイ・アンダーグラウンド・パーティで鳴っていた音の再生を昨今のハウス・リヴァイヴァルよりも早くはじめた……2008年、あの素晴らしいシングル、ゲイの孤独とそれゆえに切望される愛をアントニー・ハガティがディスコ・ビートの上で歌った“ブラインド”とともに。ハーキュリーズがゲイ・アンダーグラウンド・シーンのもっとも重要なアーティストのひとりになるのは自然な流れだった。
だからバトラーはこの2014年、ダンスフロアにハウス・ビートが鳴らされ、ゲイ・ライツ運動が沸く現在、あらtめて「自由」と題した曲をアルバムに2曲も収める。1曲めは“5:43・トゥ・フリーダム”といって、朝5時を回ったにしては激しいキックと跳ねるシンセ・サウンドともに踊り疲れた足をまだまだアップリフトする。繰り返し歌われる「Be Myself/Be Yourself」という挑発は同時にそこに集った性のはぐれ者たちへの魂をこめた励ましでもあるだろう。「お前自身であれ」……確固としたアイデンティティを持って生きることが「フリーダム」であるならば、もうひとつの自由、“リバティ”ではいくぶんダーティな風合いのシンセ・ハウスの上でジョン・グラントが半音階を多用するメロディと低音のヴォーカルで自分の人生を選択する権利について歌う。「お前は望むことをなんだってできる、お前は完全に自由だ」……ゲイ解放運動の歴史をヴィデオにしていたグラントがそう歌うことで、これはマイノリティたちが自分の人生を生きることを力強く歌ったトラックだと確信する。が、そこは自身の作品で孤独を痛切に綴るグラントを招聘しているので一筋縄にはいかない。続きで「お前はどこにだって行ける、だけど俺なしで」と彼が絶唱することで別れの歌でもあると明らかになるのだ。つまり二重の意味でゲイの人生と愛について表現されていて、うまいとしか言いようがない!
重要なのは、これがファーストよりもセカンドよりも徹底してダンス・レコードになっていることだ。6年前にハーキュリーズが纏っていたようなミステリアスさはもうない。だが代わりに、傷ついたマイノリティたちをベッドルームに引きこもって寝かせない、立ち上がって踊らせるんだと意志がある。“ドゥ・ユー・フィール・ザ・セイム?”と題されたリード・シングルでは、「あなたもそう思うでしょ?」とセクシーなダンス、その快楽に誘おうとする。アルバム・タイトルが意味するところは「傷ついて壊れた心のごちそう」、そういうことだ。
そして“ブラインド”に匹敵する傑作シングルを新たにものしたことも大きい。もう1曲ジョン・グラントをヴォーカルに迎えた“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”、そこではどこまでもハウシーなピアノ・リフとキック、エレガントなストリングスとともにグラントがHIVポジティヴであることがわかったときの心境が歌われているという。「理解できない、助けてくれ、すべてわかるように話してくれ」……そうそれは、20年前にエイズでこの世から消えていった亡霊たちの叫びでもあるだろう。あのダンスフロアで踊った、ただ愛を求めた同性愛者たちの。「どうか助けれてくれ、俺のところに来てくれないか」……。簡単なことだ。僕たちはそこに行けばいい。傷ついた魂たちとともに、ただすべてを忘れて踊り明かせばいい。
ちなみに、“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”のゲイ・アンダーグラウンド・アート感満載のヴィデオも傑作だ。
木津毅