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KOHH

Hip Hop

KOHH

DIRT

GUNSMITH PRODUCTION

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泉智   Feb 01,2016 UP
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 友達は毎日のようにしてる犯罪
 薬物の売人とか色んな人たちがいる
 あの子の父親 あの子の母親 いまごろ刑務所の中
 俺たちも馬鹿 笑っていたいけどいつかはお墓に入る
 天国にも地獄にも持っていけない財布
 俺たちは一人で生きるこの人生
 でかいと思ってたものも近くで見ると実はちいせえ
 たくさんいるひとりの人間
 ひとりで死んで みんなで生きてる
“一人”

 ああ、もうこんなところまで来てしまったのか、というのが最初の感情で、その感覚はリリースから3ヶ月たったいまでも、ずっとつきまとっている。たぶんこれからもしばらくは薄れることはない。もうこんなものができてしまったのか。ほんとに、あっというまだ。

 音と言葉。それらは本来、同じものだ。なにかがひらめき、息を吸って、喉をふるわせ、舌をうごかし、唇をひらく。あるいはその逆。無意識に口をついてでた音が、ある意味をつくりだして、それに驚いたり、なにか理解したりする。叫びやつぶやきは、それ自体が言葉であり音楽だ。
 シンセサイザーとドラムマシン。人間が作り出した機械は、とっくの昔に人間の模倣をやめた。生身の肉体にはけして演奏することのできない音色とリズム。プログラムとインターフェイスが、人間そのものをつくりかえる。感情をデジタライズし、マシンをからだの一部にする。人間に制御できない未知のテクノロジーが、自然界には存在しないミュータントを生み出すように。

 『DIRT』と名づけられた、マシンのビートと人間の肉声による13曲。しなやかだ。そして鋭利だ。ユーモアも忘れてない。ドロドロしてる。渇いている。熱っぽくて、でも醒めている。法律的な意味で悪くて、それでいてとても倫理的だ。薬物。嘘。欲望。裏切り。暴力。それはどこにでもある。慈愛。幸福。赦し。感謝。これもありふれたことだ。騙すのも盗むのも悪いことだと知りながら、それでもみんな騙したり盗んだりする。世界がゆがんでいるのはそんな自分たちの仕業だ。神様を信じていない人間も原罪の感覚を抱く。犯罪。懲罰。奪うこと。わけあうこと。モラルの意味を考える。わかんなくなる。ぞっとする。声をあげて笑う。

 ラップはラップというよりは、ヴォーカリゼーションの極限を探求している。死の瞬間のような絶叫。耳をくすぐるつぶやき。電気を帯びたような歌声。一音一音まで研ぎすまされたトラックが精密なマシンのように駆動している。凶暴なベースの蛇がうねる。ハイハットの針が鼓膜を刺す。感情のないグリッチノイズ。無感覚なアンビエントの音色。機械の冷たく完璧な音のうえで、不完全な人間の声が踊り、交差し、破裂する。打楽器のビートにあわせて人間が喋る/歌う、たったそれだけの普遍的なアートを、わざわざラップだなんて呼んでいるのが、ばかばかしくなる。

 生と死。そう言葉にするのはかんたんだ。だけど、ほんとは誰もそれを知らない。物音。光。匂い。感触。味。五感が伝えるものは確かなのに、つかまえようとすれば逃げていく。音である言葉。言葉である音。言葉でできているのに、それは言葉じゃない。音でできているのに、それは音じゃない。大切なのはイメージだ。想像するって言葉の意味を想像しろ(Imagine the meaning of Imagine)。

             *

 「すべての美は傷から生まれる」
 パリ生まれのそいつは泥棒で、少年院でホモ・セクシャルに目覚めて、18才で軍隊に入って脱走し、投獄と放浪を繰り返して終身刑を宣告され、それでもデッチあげの日記で有名になって大統領の恩赦をうけ釈放されて、晩年はブラックパンサーとパレスチナの蜂起に身を捧げた。根性焼きの痕。包丁の傷。肌に安全ピンと墨汁で彫った落書き。それを隠すために、マシンの針でインクを流しこむ。皮膚に刻まれた美しいアートは、呼吸にあわせてうごめく。いちばん最初の傷は消えるわけじゃない。生き物みたいな自傷の絵画の下に、ずっと残っている。けして癒えることない傷口。それは女の性器に似ている。

 「たったひとりの女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを」
 河原の白骨死体を囲む子供たち。暴力、薬物、幼いセックス。おたがいに傷つけあって、だけどその痛みには気づかない。20年前、東京生まれの女がそんな物語を書いた。郊外の団地。たなびく工場の煙。排水で濁った河。時代は変わっても、場所は残る。リバーズ・エッジ。さっきまでそこにいたのはひとりの少年だ。ただしいまは、落ちていくところじゃなくて、たくましく成長して、どんどん上に昇っていくところ。

 「飢えた子がいなくて芸術は可能なのか」
 昔むかしアフリカの飢餓をみて、飢えた子どもを前に文学は可能か、といったマヌケな哲学者がいた。どうやらそいつは、圧倒的な現実の前では、文化や芸術は無力だ、と言いたかったらしい。とんでもないバカだ。その衰弱した問いは、正しく逆転させられなきゃならない。圧倒的な現実なしに、はたして価値ある芸術は生まれるのか、と。カップラーメンと、醤油をかけた白い飯。父親がいない。母親がいない。空腹にたえかねて犯罪をする。シンナーとマリファナの匂いを嗅ぐと保育園のときを思い出して、子どもの頃に見ていた白い粉の正体を物心ついてすぐ理解する。つくりものの言葉や文化がすべて意味を失う。そんな現実からこそ生まれる芸術がある。

             *

 じゃあ戻ろう。I-DeAプロデュースの“BE ME”。アルバムで最初で最後の強烈な叙情。ざらつくギターに誘われて、モーリス・アルバートの“FEELINGS”がセンチメンタルに鳴りひびく。「わたしは愛の感情を忘れようとしている」。この寂しさは決意の伴侶だ。ストリングスの哀愁を、キックとスネアが余裕をもって追いかけていく。エフェクトのかけられてない生の声。ヴォーカルの音量が大きい。吐き出される言葉に躊躇はない。素朴さと、刻々と変化していく確信に満ちている。これだけでもう、じゅうぶんだ。

 以降のサウンドはすべて最新のトラップ。“DIRT BOYS”は香港の言葉では「汚垢男孩」。オリエンタルで金属的なループに、硬質で隙間のある空間的なビート。阿片戦争でイギリスに征服されて繁栄し、いまは中国共産党から弾圧される都市のゲットーで、旧大日本帝国の末裔のチェイン・ギャングたちが歌っている。中華料理店の厨房にぶらさがる生首のラップは、最近のUSシーンの軽薄なエキゾティシズムの搾取への、痛烈なカウンターだ。USのトレンドを手当り次第に奪いまくっているうちに、ついに驚異的に異形なパスティーシュをつくりだしてしまった。こんなもの、アメリカ人にはつくれっこない。

 きっと誰もがびっくりする、“一人”や“社交”の電気を帯びたような歌声も、盗品だ。もともとの持ち主は、アトランタのYOUNG THUG。だけど奪ってきたものは、もう誰のものでもない。まるで子どもが泣きながら歌っているような声だ。言語能力が未発達な子どもは、泣き声だけで自分の感情を伝えようとする。だから泣き声というのは、もっとも切実なコミュニケーションだ。電気がほとばしるように、声が感情を放電し、びりびりと鼓膜を感電させる。語族不明の孤児言語である日本語による、いままで誰も聴いたことのない歌。

 USシーンへのカウンターというなら、最高に盗人猛々しいのは“LIVING LEGEND”。咆哮フロウのオリジネイター、OG MACOと同じDEEDOTWILLのビート。耳を引き裂くディストーション。みぞおちをえぐるベース。これは完全にラップによるパンクだ。シンプルな韻律に従って、直情的に言葉が放り出される。合衆国の文化的な植民地である極東の島国のラッパーが、本土アメリカのアーティストを笑いながら脅かしている。ふつう「LIVING LEGEND」といえば「LEGEND」のほうが強調されるものだけど、KOHHは「LIVING」ばかり何度も繰り返している。

 死んだら意味ない。生きてるのがいい。その生の感覚は、死の輪郭をなぞって確かめられる。2PACの言葉を引き継ぐ“IF I DIE TONGHIT”。金のために悪いことをする/いや、悪いことをしなくても。ガムテープで手足を縛られ、車のトランクに詰められる。最後はピストルかナイフか鉄パイプ。あるいは車が突っ込んで。そうじゃなくたって生の結論はいつも死だ。みんないつか死ぬ。それは今夜かもしれない。だとしても/だからこそ、ラップは楽しげだ。アウトロのホラーコアじみたコーラスは圧巻。3人のマイクリレーなのに、ひどく孤独。

 ハイライトは、生と死のテーマがもっともストレートに吐き出される“NOW”、そして“死にやしない”。オーヴァードーズで死んだシド・ヴィシャス。猟銃をくわえて頭を吹き飛ばしたカート・コベイン。剃刀で耳を切り取ったヴァン・ゴッホ。異常者に撃ち殺されたジョン・レノン。たいていみんな銃か薬物に殺される。ドラッグはコカインやヘロイン、日本ならやっぱりスピード。そんなことばかりやってたらすぐに死んじゃうから、LSDを舌で溶かして音をつくり、絵を描く。金を稼いで新しい女と出会う。いつかピカソのように死ぬまで。誰かを憎むのは、いつまでも同じ場所にいる奴だけだ。なにをするのもすべて不自由で自由。愛するのも殺すのも。

 明日なんていらない、とKOHHが歌うとき、それは文字通りの意味だ。明日という概念自体が存在しない。明日も明後日も、その後もずっと、死ぬまでの未来のすべてが、現在だ。死の瞬間まで永遠に続く現在を生きるならば、肉体後の不滅さえ信じられるだろう。これは、明日をも知れないから今日を楽しむ、という古きよきハードコア・ヒップホップのニヒリズムとは決定的に違う。未来を否定して現在を肯定するのではない。現在への圧倒的な肯定によって、むしろ未来の概念そのものを書き換える。トラップ以降のシンプルな日本語だけで、Nasのあの有名なパンチライン「人生なんてくだらない(LIFE IS A BITCH)」を更新してしまっている。

               *

 『DIRT』はまぎれもなく、21世紀の日本で誕生したばかりのゲットー・リアリズムだ。KOHHはしかし、日本的な情緒にうったえて叙情の涙を誘うのではなく、最新のフロウを駆使してプリミティヴな感情をえぐりだす。そもそも彼はトラップ・ラッパーだ。トラッシュな言葉を並べたて、ナンセンスなジョークを平然と口にし、誰もが嫌悪する下世話なリアリティを歌う。ドラッグにハイファッション、女たちと犯罪。それは使い古された既存のストーリーへのアンチテーゼだ。無意味による意味への襲撃だ。真顔で口にされた言葉が、次の瞬間にはひっくり返される。彼のリアリズムはけして、おざなりの感動の物語をなぞることはない。

 犯罪と貧困。売人や中毒患者。刑務所にいる誰かの父親、誰かの母親。そんな光景を描く“一人”は、もっとも音楽的な実験性に溢れる曲でもある。まずもって驚くのは、その斬新なフロウの複数性。涙声のような歌の叙情は、地声のラップの乾いた笑いによって切り裂かれる。それに、キックもスネアもかき消してしまう強烈なベース。その奇妙な浮遊感に煽られて、いっさいの物語から解放された不定形な感情の塊が、目には見えないオブジェのように宙を舞っている。これはリアリズムのナイフで彫刻された、音と言葉によるアブストラクト・アートだ。圧倒的で、繊細なものが浮き彫りにされているけれど、それにありきたりの名前を与えることはできない。

 制作方法でいえば、このアルバムのいくつかの曲は、一度も文字になってない。KOHHはリリックをいっさい書き留めずに、いくつかのフレーズだけをその場で暗記して何度か復唱し、あとは直感のままにレコーディングしている。最近のUSのラッパーたちがよく使う手法だ。フリースタイルでライヴ感を出そうというのではなく、創作上の方法論として無意識のインスピレーションをすくいとろうとしている点で、むしろシュルレアリスムの自動筆記に近い。あるひとりの人間の脳裏にひらめいた言葉が、ノートにも、iPhoneの画面にもつかまらずに、そのままステレオを振動させ、音になって鼓膜までとどく。かつてアンドレ・ブルトンに毛嫌いされてシュルレアリスム運動から排除された音楽は、いま日米のゲットー・カルチャーのまっただ中で、そのオートマティスムを現代的に蘇生させつつある。自意識の鎖から解き放たれた視線は、生々しい傷を至近距離で見つめながら、物語の涙に溺れることを拒否して、瞬間ごとに生成する感情をリアルに写しとっている。見事だ。ああ、もうこんなものができてしまったのか。

               *

 ヒップホップ映画のクラシック『ワイルド・スタイル』が日本で上映されたのは、もう30年以上も前のことだ。当時、世界一の経済的安定を謳歌していた日本は、バブルの狂騒と崩壊を経験し、その後のながいながい経済停滞は、社会全体の地盤沈下をともないつつ、「失われた10年」から「失われた20年」へとその呼び名を変えた。だから、もうこんなところまで来てしまったのか、というのは、ひとりのアーティストの成長への驚きというだけじゃなくて、この社会の変化に対する嘆息でもある。いつのまにか、こんなところまで来てしまった。ほんとに、あっというまだ。

 はっきりと言っておく。ヒップホップ創成期1982年のグランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイヴの“THE MESSAGE”以来、ラップ・ミュージックは、ゲットー・ミュージックだ。1950年代のリズム&ブルースがそうであったように。1970年代のファンクがそうであったように。この音楽は社会の傷口から生まれた。すくなくとも、その始まりにおいて。ラップはゲットーに鳴りひびく銃声に負けないように、ヴォーカルの声を破裂させた。傷口を癒すハーモニーを捨て、痛みを吹き飛ばすほどの快楽を求めた。始まりの傷を忘れてしまえば、音楽は子どもを楽しませるだけの玩具になる。逆に傷に支配されてしまうなら、それは老人の感傷を慰めるだけの標本になる。どちらにせよ、ただのグッド・ミュージックだ。ゲットー・ミュージックは、けして傷を忘れず、かといって傷の奴隷にもならない。ラップはいまだゲットー・ミュージックだ。すくなくとも、その現在地点において。

 『DIRT』はひとことも社会についてなど歌っていない。表現されているのは、むきだしの感情と、世界中を移動する半径5メートルほどのリアリティだけだ。それでも、そこに見え隠れするアンダークラスの現実は、一億総中流の神話によって隠蔽されてきたこの社会の傷口を、否応なく炙りだしてしまう。それも、爆発的な解放感とともに。社会問題を告発しようとするあらゆるジャーナリズムや政治的な芸術が、どこまでも退屈な凡庸さから逃れられないのは、同情と差別の視線にさらされるその傷が、すべての力の源泉であることを知らないからだ。この音楽は、社会の傷にぎりぎりまで肉迫しながら、同時に、その傷からもっとも自由なところにいる。傷を忘れてはいないが、けして傷の奴隷にもなっていない。

 日本列島の10年代は、2011年の震災で始まり、2020年の東京オリンピックで終わる。そのディケイドもすでに半ばを過ぎ、いまだミドルクラス幻想のノスタルジーにまどろむ日本にとって、この音楽は、強烈な異物だ。「クール・ジャパン」のかけ声のもと、傷ひとつない顔で微笑んでみせるアイドルがチャートを占領し、ただでさえカラオケ文化に支配されて久しいこの島国では、いつのまにか微温的な共感だけがポップ・ミュージックの定義となっている。おびただしいタトゥーや黒社会の影、クランベリージュースで割ったコデイン、マリファナの匂いを隠すファブリーズ、着ている服も隣にいる女もすぐに変わって、周りではまた誰かが捕まり、また誰かが帰ってくる。そんな日常は誰にとっても共感可能なものじゃない。だが、芸術とはそもそも越境のことだ。この世界に引かれたあらゆる境界線を侵犯し、異物=他者に出会い、精神と肉体を爆発的に変化させることだ。

 KOHHがそのダーティであけすけなラップによって切りひらきつつあるのは、日本の新たなポップ・スターのあり方そのものだ。USシーンとの共振のもと、アンダーグラウンドで生まれたこの音楽の射程は、けして地下だけにとどまってはいない。仲間内で媚びを売り買いするクラブの社交会には背中を向け、むしろグローバルなポップ・フィールドをみすえている。このずば抜けたクオリティのアルバムは、突き抜けるようにラフなエンディングで終わっているけれど、才能あるアーティストが最高峰のプロダクション・チームを味方につければ、このくらいの作品は楽しみながらつくれてしまう、ということだろう。メジャー・シーンがますます内向きに自閉していくのに反比例するように、アンダーグラウンド・シーンはいよいよグローバルな進化を遂げつつある。まるでギャング映画を楽しむように音楽を聴く? 冗談じゃない。この最高にクールでポップなゲットー・ミュージックは、いまこの瞬間、この日本で鳴らされている。列島の住人たちは、みずからのリアリティと地続きの、そのよろこばしい戦慄を、まずはぞんぶんに味わうべきだ。

               *

 すべての仕事は売春である、とジャン・リュック・ゴダールは言って、岡崎京子はそこに、そしてすべての仕事は愛でもあります、とつけ足した。誰もが交換可能な商品であること。誰もが唯一無二のアートであること。平坦な戦場(Flat Field)とは、「終わりなき日常」といった時代の気分のことじゃない。それは、終わらないはずの日常が終わっても残る、あるトポスのことだ。大人になれない大人たち。子どものままではいられない子どもたち。男と女。そのどちらでもない誰か。すれ違って傷つけあう。結ばれて慰めあう。つかのまの永遠。惨劇と祝福。銃声と産声。窓の外を見ろ。すべてのことが起きうるのを。

 かつて岡崎京子が世界に冠たる巨大で空虚な消費空間として描き出したメトロポリス東京は、マルセル・デュシャンやジョアン・ミロをこよなく愛する北区王子出身の不良の手によって、こんなにも危なっかしく、楽しげな場所に描きなおされた。永遠に続くかに思えた栄華と閉塞のほころびは、20年前の女の直感どおり、東京郊外の河べり、リバーズ・エッジで生まれた。明暗のコントラストを激しくした大都市は何度もその名を呼ばれ、いま目覚めの時刻を告げられる。TOKYO、TOKYO、TOKYO、TOKYO….

 すべて聴き終えて、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかわからない。ひとつの社会から、これほどまでに傷だらけで、美しい音楽が誕生することは、もしかすると手ばなしに賞賛されるべきじゃないのかもしれない。まず初めに傷があった。このとてもいびつで、爆発的な自由の感覚を宿した音楽は、傷がなければ生まれなかった。皮膚の傷にインクが染みこみ、タトゥーという生きたアートになるように、ラップ・ミュージックは社会の傷に流れこみ、この歓喜と痛みの声をひびかせる。いちばん最初の傷。与え/与えられる始まりの傷。その傷口にそっくりの女の器官から、すべての命は生まれる。その傷口にそっくりの唇から、すべての言葉は生まれる。血と、音にまみれて。

 信じてもいない神様を憎み、感謝する。
 すべては、傷から生まれたんだ。

  

Inspirations from;
ジャン・ジュネ「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」
岡崎京子「ノート(ある日の)」
中上健次「飢えた子がいなくて文学は可能か?」

泉智

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