「ズリ」と一致するもの

interview with Neo Sora - ele-king

『HAPPYEND』

新宿ピカデリー、 ヒューマントラストシネマ渋谷ほか、絶賛上映中

監督・脚本:空 音央
撮影:ビル・キルスタイン
美術:安宅紀史
音楽:リア・オユヤン・ルスリ
サウンドスーパーバイザー:野村みき
プロデューサー:アルバート・トーレン、増渕愛子、エリック・ニアリ、アレックス・ロー アンソニー・チェン
製作・制作: ZAKKUBALAN、シネリック・クリエイティブ、Cinema Inutile
配給:ビターズ・エンド
日本・アメリカ/2024/カラー/DCP/113分/5.1ch/1.85:1 【PG12】

ⓒMusic Research Club LLC

 ファスビンダーはゴダール作品の多くに複雑な感情を抱いていたが、『女と男のいる舗道』だけは例外で、27回も観たそうだ。まあ、映画には音楽ほどの身軽さはないけれど、好きな映画はたしかに繰り返し観たくなる。空音央は、喩えるなら、ひとりの人間が20回以上は観たくなる映画を目指している、と思われる。それにデビュー作というものには、かまわない、やってしまえ、という雑然としたエネルギー(そこには政治性も内省も含まれる)があるものだ。そしてその熱量は、彼のモンタージュを吟味するような余裕を与えない。ぼくはもういちど、『HAPPYEND』を観に映画館に行かなければならないのである。

 高校を舞台にアナキズムを突き刺した作品といえば、ぼくの場合は真っ先にリンゼイ・アンダーソンの『If もしも……』、日本では相米慎二の『台風クラブ』が思い浮かぶ。もっとも『HAPPYEND』は、当たり前のことだが、それらのどれとも違っている。映像作家、空音央の長編映画デビュー作は、近未来のSFと言いながらも現在を語っている寓話だ。生々しい現実を「リアリズム」ではなくフィクションによって表現する手法は、音楽ファンにはアフロ・フューチャリズムを想起させるだろう。ブラック・ユーモアもふくめ、それは「テクノの聖地であるデトロイト」が得意とするやり方だ。
 しかも興味深いことに、『HAPPYEND』ではテクノと岡林信康という、集団のための機能的な音楽と60年代のプロテスト・シンガーの歌が重要な意味を持つ。このじつに妙な組み合わせは、いま、我々の日常生活を支配する「リアリズム」に抵抗したマーク・フィッシャーの思想ともリンクしている、とぼくには思える。
 というわけで、読者諸氏のために、空音央監督が本作制作中に聴いていた音楽のプレイリストを掲載しておこう。クラブ・カルチャーが映画で描かれるときは、ドラッグとセックスというあくびが出るようなお決まりのパターンばかりだが、『HAPPYEND』はまったく違っている。

それこそマーク・フィッシャーが言うように未来がなくなること、そのアイロニーと距離を持って世界と接することであって、フィッシャーが言う「メシア的な希望」、それともう新しいものはなにも生まれないという資本主義、ネオ・リベラリズムの絶望をつねに反復しているみたいな。

質問に入る前に、まず、最初にひとつお伝えしたかったのが、「デトロイト、テクノの聖地」、まさかこのセリフを(日本の)映画で聞けるとは思っていなかったです。あの場面で、涙腺が緩みましたね(笑)。

空:コアですね(笑)。

ほかにも印象的なシーンがいくつもあったんですけど、いちばん笑ったのは、楽器屋で働く無愛想なおばさんがおもむろに店内のDJブースの前に立って、テクノを爆音でプレイしはじめる場面。

空:あの楽器屋さんのモデルって、じつはPhewさんなんです。最初Phewさんにお願いしたんですが、タイミングが合わなくて。でも今回演じてくださった方もとても良かったです。

Phewさんだとかっこよすぎるんじゃないですか(笑)。

空:そうなんです。Phewさんっぽいけど、もうちょっと普通の人みたいな感じにしたくて、あれをやってもらった感じです。

あの、DJをやっている姿がさまになってしまっているんですよね。

空:あれ本当に一日で習得してもらったんですよ。全然DJとかやったことない方でしたけど。

そうでしたか、あれは見事でした。それにしても、高校生を主役にした青春ドラマはたくさんありますが、「テクノが好きでDJもやる高校生」という設定はないと思います(笑)。このアイデアはどういうところから来たんですか?

空:自分が好きだから、それだけでしかないんですけど。自分の高校時代は、テクノにドハマりしていたわけではなく、ファンクの方が好きだったんですけど、大学時代にかなりテクノにドハマりして、クラブに行くようになったんです。それで、近未来だったら高校生でもテクノぐらいやってるかなとか(笑)。自分の好きなものを入れたいから、そのために設定を紛れるみたいな。自分の趣味でしかないです。

行松(¥ØU$UK€ ¥UK1MAT$U)くんが出てるのもすごく嬉しかったですね。

空:僕も嬉しいです(笑)。

行松くんとはどんな繋がりで?

空:行松さんはめちゃくちゃシネフィルで、エリック・ロメールの映画とかを観に行くといたりするんで、それでだんだん仲良くなったんです。蓮見重彦の本を渡されたりとか、そういう感じです。

じゃあ映画を通じて友だちになったという?

空:そうですね。友だちですね。ニューヨークに住んでたころから一方的にファンで、Keep Hushっていうイベントの日本編に観にいって、話しかけたこともありました。そのあと、やけに映画館でよく遭遇するようになったり、自分も「GINZAZA」という短編上映シリーズをやっていたんですけど、それを観に来てもらったりとか、普通に家に遊びに来たりとか、そういう感じです。映画の趣味が合うんですよ。それで、「映画作るんだけど、ちょっと出てくれませんか」みたいな感じで言ったら「はい」みたいな感じで。

ニュー・ジャーマン・シネマでいまいちばん好きなのは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーです。『八時間は一日にあらず』という未完成のテレビ・シリーズも好きだし、まあでも、いちばん好きなのは『マリア・ブラウンの結婚』ですかね。

もともとファンクが好きだったということですが、音楽遍歴を教えてもらえますか?

空:子どものころからいろんな音楽を聴かされていて、ピアノとか、ヴァイオリンとかも子どものころは弾かされてたんですけど、ぜんぜん下手で練習も好きじゃなくて。最初にハマって、自覚的に自分からCDとか買いにいったのがレッド・ホット・チリ・ペッパーズかな。あとはゴリラズとか。

10代前半とかのことですか?

空:そうですね、中学生ごろです。そこからベースを弾きはじめたら、だんだんファンクが好きになり、ジャコ・パストリアスとかそこらへんを通りつつ、同時進行でレディオヘッドやポーティスヘッドを好きになったりとか。同時期に現代音楽とかもいろいろ聴いてたりとかして、大学に上がっていったら、テクノにハマったっていう。

おー、なるほどね。

空:ちょうど僕が大学にいたときに、〈ナイト・スラッグス〉が流行ってたんですよ。そこらへんをどっぷり浴びて。

〈ナイト・スラッグス〉かぁ、若い(笑)。ニューヨークですか?

空:ウェズリアンっていって、コネチカット州なんで、ちょっと違うんですけど、近いです。うちの大学はすごく、まあユニークなのかな、なんか生徒主体のコンサートを企画するクラブみたいなのがあって、大学からお金をもらってコンサートを企画するんですけど。で、僕が最初、大学に到着した日とかかな、僕の大学のなんかこう寮みたいなところで、ビーチ・ハウスグリズリー・ベアがコンサートしてたり、〈ナイト・スラッグス〉のDJ、アーティストが来たり、でかくなる前のケンドリック・ラマーがいたり、そういう感じの環境だったんです。だから、そこで本当にいろんな音楽を吸収しましたね。

じゃあ、もうかなりの音楽好きなんですね。

空:そうです。大学を卒業した後はブルックリンに住んでたんで、ブルックリンのクィアなクラブ界隈によく遊びに行きました。

〈Mister Saturday Night〉周辺とか、アンソニー・ネイプルスとか。

空:アンソニー・ネイプルスは交流があって、前にPV撮ったこともあります。アンソニー・ネイプルスの曲も、編集中にちょっと入れたりしてました。

じゃあ、DJパイソンなんかも。

空:大好きです。その界隈には本当によく遊びに行きました。で、楽器屋の店長がぶち上げる曲は、まだデビューもしてないんですけど、友だちの曲です。

ああ、なるほど。あの曲も、2010年代のNYのアンダーグラウンドな感じがありますね。で、そんな空さんが映画という表現を考えるきっかけになったことってなんなんでしょうか?

空:生活のなかに映画を観るという習慣がありまして、友だちとつるむときも映画を観ていたし、両親と一緒にも観ていた。高校のころは通学路に映画館があって、普通のシネコンなんですけど、そこで友だちと一緒になんでも観るみたいな。高2、高3ぐらいになってくると、友だちのカメラを使ってみんなで映像を作ってましたね。まだ出たばっかりのYouTubeに載せたり。それで、大学に行って映画の授業をとってみたら、面白いなと思ったんです。自分がけっこう映画作品を観ていたこともわかったし。僕は多趣味で、絵も描いて、写真も撮って、音楽も好きだった。遊びで演奏もしていました。でも、まあ全部趣味で、下手くそなんですよ。全部平均よりちょっと上ぐらいな感じのレヴェルで、突出したものはなかったんです。

謙遜じゃないですか(笑)。

空:そんなことはないです。高校ではいちばん絵が上手かったんですけど、大学に行ったら一番下手になるみたいな感じのレヴェルです(笑)。ただ、その全部が好きだったっていうのがあって、それで、映画だったらそのすべてをまとめてできるようなメディアじゃないかなっていうのがあった。しかも、映画の歴史の授業を最初に取るんですけど、そのときにやっぱり面白いなって思いました。で、体系的に学んでいくとさらに理解が深まったりもするんで、だんだん好きになっていきましたね。

とくに大きな出会いは?

空:『アギーレ/神の怒り』ですね。クラウス・キンスキーが最後に猿を掴んで投げるやつとか、もう頭から離れないですよ。猿を掴む感じ、なんだこれは? みたいな。リュミエールから順に見ていくみたいな授業があって、それでニュー・ジャーマン・シネマにたどり着いて。ニュー・ジャーマン・シネマでいまいちばん好きなのは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーです。『八時間は一日にあらず』という未完成のテレビ・シリーズも好きだし、まあでも、いちばん好きなのは『マリア・ブラウンの結婚』ですかね。

ある意味もっとも過激な人ですね。あの人も音楽を効果的に使いますよね。『ベルリン・アレクサンダー広場』だって、戦前ドイツが舞台なのになぜかクラフトワークがかかる(笑)。

空:それこそ、大学ではクラウトロックとニュー・ジャーマン・シネマの関係性の論文を書いたりしてました。

ヴェンダースの『都会のアリス』(音楽はCAN)もあります。いつか自分の作品を撮りたいって思ってたんですね?

空:はい、ずっと思ってました。大学生のころから、2011年、2010年、そのぐらいからです。

じゃあもう、今回の作品の構想みたいなものもあったんですね。

空:7年ぐらい前にはありました。メモ帳を見ると、最初に出てくるメモが、2017年なんです。たぶん言葉にする前の段階では、2016年ぐらいからだったんじゃないかと思うんですけど、そのぐらいからずっとこれを作りたいと思ってたんです。

自分の第一作目を青春映画、学園ドラマというか、そういうものにしようと思ったっていうのは、なぜなんですか?

空:たぶん多くの監督のデビュー作って成長や青春、まあ、カミング・オブ・エイジと言われるような、そういうものになると思うんですけど、それは比較的、自然なことなんじゃないかなと思っています。なぜなら、最初に作るものには、それまで、自分が生きてきた体験を詰め込みたくなるからだと思います。まさに自分もそうで、高校〜大学、卒業した後に渦巻いていた僕のなかにあったものを全部このなかに入れたみたいな感じです。

なるほど、じゃあ実体験も入ってるんですか?

空:リミックスしてはいますけど、めちゃくちゃ入ってますね。ジェンガ(※積み木ゲーム)もやってましたし。

青春映画を作るにしても、とくに学校を舞台にしなくてもいいわけですけど、それを選んだのは?

空:つまらない答え方だとなりゆきっていうか。友情の物語が核なんですけど、最初の方はもっと広い話で、学校外のこともいろいろ入ってたんですが、やっぱり物語を凝縮していって無駄なものをだんだん削っていくと、結局学校が舞台のメインになってきましたね。さらに予算のこととかも考えはじめると、最終的に(物語を作るうえでの)必要な場所が学校だったっていうのが正しいかな。

学園ドラマではあるんですけど、ひとつの寓話ですからね。

空:そうですね。まさにその通りです。

空さんの、いまの社会に対しての強い気持ちが、いろんな場面に現れていて、内的な葛藤みたいなものもふたりの主人公を軸に描写しているように思いました。で、空さんが最終的に何を言いたかったんだろうっていうのを考えるわけですけど……。

空:まあでも、伝えたいこととかはとくにないんです。(取材で)観客に対しての社会的なメッセージみたいなことをよく聞かれるんですけど、どういうメッセージなのかみたいな。映画とは、別にメッセージを伝えるものではないと思っています。メッセージを伝えるのは、プロパガンダ映画なんです。僕がこの脚本を書きたいって思うぐらい強い衝動が、2016年ぐらいに結実して書きだすんですけど、それは本当に溢れてくるから書くんですよね。書きたいという気持ちと、自分のなかで抑えきれない感情みたいなものが溢れてきて、それが合わさって映画になっていくみたいな感じでした。どちらかといえば、日記のように自分のなかの政治的な思いや社会に対する怒り、もしくは自分が経験した友人たちへの愛なんかを描いていくような。まあ実際に政治性をもとに人を突き放したり、突き放されたりっていう経験があって、その深い悲しみみたいなものだったりとか、まあそういうのが渦巻いてるわけですよね。とくに2016年にはトランプが大統領になってしまった。

なるほどね。

空:というのもあるんですけど、まあ、いろいろ渦巻いていて。自分は映画を、まあ練習してきたし、勉強していたんで、そうしたものを映画にするのがすごく自然だったんです。だから作ったという感じで、社会についてのメッセージを人びとに伝えたいっていう気持ちはむしろなかったですね。まあでも、映画を通して発言する機会を与えられるのであれば、言いたいことっていうのはいくつかあります。関東大震災のときの朝鮮人虐殺を忘れるな、っていうのと、いま起こってるジェノサイドに対して声を上げろっていうのを、どうせ発言の機会を与えられるんだったら、それを言いたいなってぐらいのことなんです。でもそれは別にこの映画とはある意味関係ないっていう。

ただ、ひとりの人間として言いたい、と。

空:映画ってすごい特異な場所で、劇場って何百人ぐらいの人が観るわけですよ、こっちのことを。しかもこんなに自分の脳内をさらけ出してるみたいな映画を観たあとに、監督本人が、質疑応答で出る機会があると、その人たちに対してなにか言える機会があってですね。そういう機会をくれるんだったら、そういうことは言いたいけど、でも、映画を通してそれを伝えたいかどうかって言ったら、違います。

映画を通して発言する機会を与えられるのであれば、言いたいことっていうのはいくつかあります。関東大震災のときの朝鮮人虐殺を忘れるな、っていうのと、いま起こってるジェノサイドに対して声を上げろっていうのを、どうせ発言の機会を与えられるんだったら、それを言いたいなってぐらいのことなんです。でもそれは別にこの映画とはある意味関係ないっていう。

僕が今年見た映画で一番ショッキングだったのが、この『HAPPYEND』にコメントを寄せている濱口竜介監督の『悪は存在しない』なんですね。で、あの映画は説明をしない。一方で空さんの映画には、説明しようとしているものを感じるんですよね。良い悪いでも、説明的という意味でもないですよ。

ああ、ただ設定が設定なので、説明しないと描ききれないというのがあるんです。

たしかに、未来が舞台なので、ある程度の説明は避けられませんからね

空:もっとも大変だったのは、友情が崩壊していくさま、その理由として政治性が芽生える。で、それを描くためには、政治性が芽生えるきっかけと社会の部分を描かないと描ききれない。それを描くには、左翼的な人たちが出てくるシーンも描くんですけども、難しかったのが、そういう人たちの会話の自然な台詞みたいなものを考えると、説明的になってしまうんです。なぜなら左翼は、めちゃくちゃはっきりとセオリーを言ってしまうから。資本主義はこうで、権力はこうでみたいなのを言うじゃないですか。で、そこをリアルに描いたヴァージョンもあったんですけど、そうすると映画的には非常につまらないものになってしまう。試行錯誤した結果、いまの形になってるんですね。座り込みのシーンもそうです。それを説明的に描いたらつまらないものになってしまったから、ああいうふうになってる。でも、本当はなるべく説明は避けたいと思っていますね。

なるほど。あと、これは音楽の話にもリンクするんですけどね、もうひとつ面白いなと思ったのは、未来の高校生たちが岡林信康の歌を歌うこと。あれはなんで岡林なのかっていう。

空:歌詞がすごくテーマとリンクしているっていうのもあるんですけども、単純にあの曲が好きです。プロデューサーの増渕愛子が教えてくれたんですけど。森崎東の『喜劇 女は度胸』っていう映画で歌われているのを増渕が発見して、YouTubeで聴かせてもらって、めちゃくちゃ面白いじゃんみたいな感じになって。それでしばらくして、脚本についてふたりで話し合ってたとき「合唱してるシーンって映画的だよね」みたいな話になって、そういうシーンを入れようとしたとき、ちょうどいいじゃんみたいな感じで。

未来の学園、テクノでDJで、岡林信康……。

空:いまってそういう感じじゃないですか。たとえば60年代70年代だったら時系列順にローリング・ストーンズ聴いて、ビートルズ聴いて、みたいな感じになってきますけど、いまはやっぱりもうTikTokの時代とかっていうストーリーですから。

まあそうですね、たしかに。

空:だから、新しい音楽と遭遇したのと同じように、岡林も発見したりするのが、たぶんいまの音楽や文化との接し方っていうか。新しいものを時系列に追うという感じじゃなくなって、まあモノ・カルチャーじゃないっていうことですよね。自分の興味にそそられるまま、ネットを通して、どの時代も、どの文化のものにもアクセスできるようになっているという。

なるほど。

空:この映画のなかには裏設定があって、DJっていうものがそんなにポピュラーじゃなくて、コアな変な人たちがやるものっていうふうにしたくて。この近未来の設定では、大衆が聴く音楽というのは、AIが生成して、自分のムードを検知したりとか、あるいは入れたりしたら、それを生成して聴かせてくれるみたいな時代になっている、と仮定しているんです。そのなかで昔の、——マーク・フィッシャーじゃないですけど——、古いものを再発見して、それで楽しむっていうのがユウタの癖というか、性癖というか。だけどそれって悲しいことであって、まあAIもそうなんですけど、結局古いものを融合させて、新しくないものをまた作り変えるみたいなことしかできない。それこそマーク・フィッシャーが言うように未来がなくなること、そのアイロニーと距離を持って世界と接することであって、フィッシャーが(『資本主義リアリズム』のなかで)ベンヤミンを引用して言う——英語でしか読んだことがないんですけど——「メシア的な希望」という、それともう新しいものはなにも生まれないという資本主義、ネオ・リベラリズムの絶望を常に反復しているみたいな。でも、「メシア的な希望」みたいなものを持ち合わせてないと革命は不可能なので、そのふたつの対立をここにいれたというような。だから、まさにマーク・フィッシャー。

(笑)

空:ユウタが、楽器屋の面接のシーンで言う、「新しいモノってないじゃないですか」っていうのもまさにそれで(笑)。

この映画をの作品名を『HAPPYEND』にしたのはなぜですか?

空:もともとは「アースクウェイク」、「地震」っていう仮タイルだったんですけど、で、考えていったときになぜか『HAPPYEND』っていうのに惹かれて。「ハッピー」が持っている語感のエネルギーみたいなものと「終末」を感じさせるエンディングが合体することによって、この映画の雰囲気っていうか、若者が発している、はつらつとしたエネルギーなんだけれども、それと対比して世界が、絶望的な世界がバックグラウンドにあるという、両方兼ね揃えたような雰囲気を醸し出しているかと思ってつけました。なので、有名なバンド名や曲名などとは関係はありません。

深読みされたりするんですか?

空:されます。本当に関係ないです。たまたまつけたっていう。シンプルでいいと思いました。聞いたことあるフレーズだし、本当に誰でもわかるような言葉だけれども、独特のフィーリングみたいなものがこの映画とマッチしているんじゃないかなと。

『悪は存在しない』もそうだけど、映画のタイトルは、作品を見終わったあとに考えるうえでのヒントになるというか、『HAPPYEND』もそうですよね。そこには、アンビヴァレンスなんだけどどこか清々しさがあるっていうか。

空:それはそうかもしれないですね。映画を観終わったあとにまた、劇場を出て『HAPPYEND』ってタイトルを見たら、たぶん入る前とだいぶタイトルの印象は変わるし、含みもありますよね。でも意外とつけたのは直感的というか。自分もバッチリな選択でしたね。

空監督が今回の作品のなかでとくに気に入ってる場面ってどこでしょう。

空:たくさんあります。毎回笑ってしまうのが座り込みのシーン。窓がコンコンって鳴って佐野さんが開けて、寿司があってそれで何事もなかったかのようにカーテンをシュッて閉めるっていう。あの本当になんでもないように閉めるみたいな佐野さんのシーンがもう毎回爆笑しちゃって、すごい好きなんです(笑)。

なるほど(笑)。

空:でもなんでしょうね、全部好きですよ。どのシーンもうまくいったなって。あと、もうひとつすごい地味なんですけど、機材が盗られてしまって、職員室に北沢って先生と5人が並んで、奥が深くて、っていう。あのシーンはワン・カットなんですけど、めちゃくちゃうまくいったなと思っています。カメラも動かないし、本当に引き画だけなんですけど、事務員が入ってきて鍵を渡すタイミングと、それが全部終わったあとに後ろでタイラがひょこって出てくるタイミング、リズム感が完璧だったんですよ、あのテイクは。ひとつのシーンで本当にミニマルにすべてができたなっていうのが、職業病的に見るとうまくいった実感があって。リズム感がいいんですよ(笑)。

interview with Tycho - ele-king

 ISO50という名義でヴィジュアル・アーティストとしても活動するティコは、DJシャドウやボーズ・オブ・カナダなどからの影響のもと2002年に「The Science of Patterns EP」でデビュー。トリップホップやエレクトロニカ、IDMのような風合いに郷愁を加えたようなフォーキーな作風が次第に話題を集め、2011年作の『Dive』、2014年作の『Awake』、2016年作の『Epoch』の三部作が00年代後半から10年代初頭にかけて巻き起こったチル・ウェイヴ・ムーヴメントとともにドリーム・ポップの秀作として一定の支持を集めた。この時期にソロ・プロジェクトから実質的にバンド・サウンドへと移行していき、よりスケール感の大きいクリアな音像を志向するようになる。

 文化的な刺激を際限なく求め続けていくと、遅かれ早かれどこかのタイミングで「健康」というものを軽視してしまいがちになる。もちろん自分もそのひとりだ。ある種のワーカホリック状態であることは薄々わかってはいるものの、ゆっくりすごしてじっとする方法は体力的な限界、つまりバッテリー切れを待つことのみで、適度に健康的な息抜きを楽しむような時間も余裕もパンデミック以降は失ってしまった。とはいえ、より長く音楽や文化(とそれにまつわるほどよい刺激)を楽しむためには、やはり捨て置いた健康についてどこかで再考の機会を設けないといけない気もする。

 そんななか、ティコがパンデミックを脱した2024年の晩夏に、約4年ぶりの新作『Infinite Health』をリリース。タイトルを直訳すると「無限の健康」という、いままでのディスコグラフィとは若干毛色の違うキーワードが飛び出した。グリズリー・ベアのクリス・テイラーを共同プロデューサーとして迎え、出発地点であるエレクトロニカやチル・ウェイヴの持つおぼろげな質感のみを引き継ぎつつ、よりクリアで写実的な、生の音像を追求することを目指したアルバムとなった。従来の陶酔感あふれるダウンテンポな作風からモードを一新し、全9曲中7曲のBPMが110~130というダンサブルなつくりとなっていることも特徴的で、イタロ・ディスコの香りもただようインディ・ダンス風味の作品として自身のディスコグラフィに新風を吹きこんでいる。実際、近年はティコ名義ではいままで挑戦してこなかったDJセットにも意欲的なようで、音楽の原体験がダンス・ミュージックであり、かねてから影響を受け続けているとも公言している。いわば、パンデミック下で自身の生活を見つめなおすとともに、改めて原点に立ち返ろうとした作品であるとも考えられる。今回ele-kingでは、コロナ禍のタームを通りすぎ健康や日常生活へも意識を向けはじめたスコット・ハンセンに、久しぶりに話をうかがった。

やはりパンデミックがきっかけだったんだ。健康とはなにか、健康であることとはなにか、健康であることがどれだけ幸運なことなのか、そして世界、地球、人びとの精神的健康、人びとの身体的健康、これらすべてを見直すことになった。

通訳:お元気ですか?

スコット・ハンセン(Scott Hansen、以下SH):元気だよ。いまはちょうどツアーに出発するところで、倉庫から荷物をおろして、バスに荷物を積み込んだところなんだ。

忙しいなか、お時間をつくっていただきありがとうございます。現在も引き続きお住まいはサンフランシスコですか? 東京は猛暑で大変ですが、そちらはいかがでしょう。気候変動の影響はありますか?

SH:いや、いまは湾を渡ってオークランドの近くに引っ越したんだ。オークランドに引っ越したのは家庭を築いて子どもができたから。子どももいるし、もう少し広々とした場所で、親の近くに住んだ方がいいと思ってね。オークランドの気候はサンフランシスコと比べると最高。世界で一番良い気候なんじゃないかってくらいだね。いつも暖かくて、だいたい21度くらい。毎日いい天気だし、暑すぎることはないし、寒すぎることもない。サンフランシスコはいつも寒くて風が強くて、天気がいい日は年に数週間しかないからね(笑)。

2020年の前作『Simulcast』から少し間が空きましたね。この間にはもちろんパンデミックがあったわけですが、この4年のあいだにあなたの人生でなにか大きな変化はありましたか?

SH:やはり一番の変化は家庭を持ったこと。物事に対する考え方が変わったし、ワーク・ライフ・バランスも変わった。あともちろん、コロナがきっかけで立ち止まり、この10年間がどんな時間だったか、そしてこれからの10年間はどうであるべきか、自分は音楽をどんなふうに人に聴かせたいかを考えるきっかけができた。あの期間は、自分のキャリアを一時停止して、ただ人生に集中し、ひとりの人間として自分が将来どうありたいのかということと仕事の折り合いをつける、ほんとうにいいきっかけになったと思う。

新作『Infinite Health(無限の健康)』に寄せたメッセージでは、「我々にほんとうに必要なのは肉体的、精神的に健康でいることであり、誰もが家族や友人が永遠に健康であることを願う」とおっしゃっていましたね。ご自身や家族、友人たちの健康へと意識が向かうようになった出来事がなにかあったのでしょうか?

SH:さっきも少し話したけど、やはりパンデミックがきっかけだったんだ。健康とはなにか、健康であることとはなにか、健康であることがどれだけ幸運なことなのか、そして世界、地球、人びとの精神的健康、人びとの身体的健康、これらすべてを見直すことになった。2010年から2020年までの10年間は音楽とキャリアに集中していたから、心身の健康が後回しになっていたんだよね。その期間はその期間で、音楽と自分のキャリアを結びつけ、それを優先させるいい機会だったとは思うけど。でも全体的に見れば、それは束の間のものでもある。肉体的であれ精神的であれなんであれ、いまこの瞬間に健康でいるからこそそれができるわけで。パンデミックを通して、最もポジティヴな影響を人びとに与えるためには、まずは最も強い自分である必要があると思うようになった。そこで、仕事とバランスをとろうとしたんだ。そのほうがうまくバランスがとれて健康的だからね。ぼくはちょっと仕事が好きすぎる傾向があるから(笑)。

健康のためになにかしていることはありますか?

SH:肉体的にも精神的にも、より健康的な自分になるために必要なこと、そして家族のために必要な人間になるためにやるべきことに、もっと耳を傾けるようにしている。だから、エクササイズに集中したり、仕事から離れて普通の人たちと同じことをする時間をつくったりして、仕事や音楽に没頭しすぎないようにしているんだ。そしてそれと同時に、音楽に費やす時間を最大限に活用して、最高の音楽をつくるようにしているよ。

過去には囚われたくないし、未来にこだわることもない。いまを大切にし、今日できることをすべてやって、よりよい結果を出していく。そうすれば、おのずと未来は解決していくと思うんだよね。

新しいアルバムは、インディ・ロックのギター・サウンドとイタロ・ディスコの融合といえそうです。今作は「自分たちのルーツに忠実でありながら、可能な限り異なるサウンドにしよう」というのがコンセプトだったそうですね。

SH:ロックの要素をより多くとりこむ方向には前から動いていたんだよ。そしてこのアルバムでは、もっとエネルギッシュでダンスっぽい方向にも向かいたかった。それが最初のアイデアだったんだ。今回は、できるだけ違うサウンドのアルバムをつくろうと思ってね。プロデューサーとして、ミュージシャンとしてどんなに頑張っても、ぼくには声があって、いつもぼくらしい音になってしまう。だからこのアルバムが根本的に違っているとは思わないし、ティコとして認識できなくなるようなサウンドだとも思わない。自分たちらしさを消したいとも思わなかったし、今回のアルバムは馴染みのサウンドを残しながらも進化を感じさせたり、新しい方向へ導いてくれるような作品にしたかったんだ。

通訳:こうした方向性に舵を切ったきっかけ、インスピレーションはなんでしたか?

SH:インスピレーションがあったというよりは、ぼくは長い間、このサウンドとアイデアを追い求めていたんだ。でもそこからちょっと一休みして『Weather』をつくった。あのアルバムは、音的には同じような感じだったけど、ヴォーカルを加えたことで、ちょっと違う実験的な作品になったと思う。そしてそのあと、また長い休みをとった。で、もしインスト・アルバムに戻るなら、そのときはちょっと違う視点からアプローチする必要があると思ったんだ。

今作の制作中、とくによく聴いていた音楽はありましたか?

SH:正直、音楽制作をしているときはあまり音楽を聴かないんだ。長い一日を音楽制作の作業に費やしたあとは、耳を塞ぎたいくらいだからね(笑)。でもここ数年でもっと多くのことをやるようになったと思うし、そのひとつがDJセット。だからダンス・ミュージックが音楽に大きな影響を与えているのはたしかだと思うね。でもまあ、ダンス・ミュージックからは常にインスパイアされてきたし、自分が音楽にハマったきっかけもダンス・ミュージックだったけど。でも、今回のアルバムに収録されている曲は、なにか特定の音楽を参考にできあがったものではないと思う。

バンド・サウンドとダンス寄りのエレクトロニック・ミュージックを融合させるうえで、とくに意識していることはありますか?

SH:意識していることは特にはない。ただ純粋にエレクトロニックなものを用いてひとりでつくった曲もあれば、ザック(・ブラウン)と一緒につくった曲もある。最終的には25曲くらいできたんだけど、そのなかからバランスよく、ダイナミックでいろいろなタイプの曲が入ったアルバムになるように選んでいった。まずたくさん曲を書いて、それをどう組み合わせるかを考えていったんだ。

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今回、共同プロデューサーにグリズリー・ベアのクリス・テイラーを迎えた理由を教えてください。彼とはどのような経緯で出会ったのでしょう?

SH:ぼくがグリズリー・ベアの大ファンだから(笑)。ぼくにとって、とくに『Painted Ruins』は音的にかなり惹きつけられるアルバムなんだ。まず自分にとってお気に入りのアルバムをリスト・アップしてから、そのアルバムを誰がミックスしてプロデュースしたかを調べていたら、クリスが『Painted Ruins』だけでなく、そのリストに載っていたほかの作品のエンジニアとプロデュースも手がけていたことがわかってさ。そこで彼にコンタクトをとってみたんだ。そしたら、幸運にも彼も一緒に仕事をすることに興味を持ってくれた。彼と一緒に仕事をした経験からはほんとうにインスパイアされたよ。

通訳:それまでクリスに会ったことはなかったんですね。

SH:というか、いまだに彼と会ったことはない(笑)。彼はバルセロナに住んでいるから、すべての作業をリモートでやったんだ。最終的には会おう、と最初は話していたんだけど、結局同じ部屋で作業するということはぼくたちにとって必要なことではなかった。個人的には、ある意味あの電報のやりとりのようなやり方がアルバムの仕上がりにいい影響をもたらしたと思う。リモートで作業したおかげで、彼のミックスを何度も時間をかけて聴いて、じわじわと理解することができたからね。

今回、彼が果たした役割を教えてください。バンド・メンバーとクリス・テイラーと、どのようなプロセスで制作を進めていったのですか?

SH:彼は、ほんとうにアグレッシヴな中音域を持っている。ぼくは彼の中音域の扱い方が大好きなんだ。ぼくは中音域の高音が大好きで、それを押し出すのも好きなんだけど、それをやろうとすると荒々しく醜いサウンドになってしまう。でもクリスはその周波数帯域と特別な関係を持っていて、押し出し方がうまいんだ。ドラムの扱い方といい、その他色々、彼はサウンドを駆り立てながらも、有機的で心地よい空間へと押し込んでいく。そして、そのサウンドに新しい命やエネルギーを与えるんだよ。それこそがぼくが求めていたものだった。彼には、エレクトロニックな要素をとりいれつつも、そのサウンドをロックやインディ・ロック・バンドがシンセサイザーやギターを扱うように扱って欲しかったんだ。彼はそれを得意としているからね。

ちなみに、グリズリー・ベアないしクリス・テイラーの作品ではどれが一番お好きでしょうか。やはり『Painted Ruins』ですか?

SH:そうだね。あれは傑作だと思う。ミックスの仕方、ベースの音、ドラムの音、すべてが調和している。ほんとうに美しい作品だと思うね。

全体的な終わりではなく、ある時代の終わり。今回は、『Past Is Prologue』の時代にもどるようなアルバムをつくりたかった。そして、ぼくがそれをやるのはおそらく最後だろうと思ってね。

今作のテーマは「未来への希望と過去へのレクイエム」だそうですね。ここでいう「過去」とはどのようなものでしょうか? たとえばあなた個人にとっての過去、これまでの作品だったり、あるいは若いころのことですか? それとも、より広い社会的なことだったり流行だったりを指しているのでしょうか。

SH:過去と折り合いをつけて、過去と和解することがテーマなんだ。そして過去のことで後悔したり、自分を追い詰めたりしないこと。それはほんとうに重要なことだと思う。ぼくにとってのここ10年間は、ただただクレイジーで、あっという間だった。だから、いまになってそれを振り返り、すべてを理解しようとするのは難しいんだ。でもその代わりに、これから先もっと良い結果を出すことがほんとうに重要なことだと思うようになった。過去には囚われたくないし、未来にこだわることもない。いまを大切にし、今日できることをすべてやって、よりよい結果を出していく。そうすれば、おのずと未来は解決していくと思うんだよね。もしぼくが過去や未来にとらわれすぎていたら、いまこの瞬間もきっと集中できていなかったかもしれないし。ぼくはノスタルジックな人間で、過去を振り返りがちなんだ。もちろん、過去から学ぶべきことはたくさんあると思うし、反省する必要もあると思う。でも、それをやりすぎるのはあまり健康的ではないと思うんだ。

最後の曲は “Epilogue” というタイトルです。これはシンプルに、この新作の最後の曲という意味でしょうか。2006年に〈Merck〉からリリースされたファースト・アルバムは、シェイクスピアを引用し、『Past Is Prologue』と題されていましたが、それと呼応していたりしますか?

SH:そう。あのアルバムがはじまりで、このアルバムがひとつの終わりのような気がしたから最後のトラックを「Epilogue」にしたんだ。全体的な終わりではなく、ある時代の終わり。今回は、『Past Is Prologue』の時代にもどるようなアルバムをつくりたかった。そして、ぼくがそれをやるのはおそらく最後だろうと思ってね。次につくる作品は、今回のものとはまったく違うものにしたいから。『Weather』のときみたいに、また新しいなにか、これまでにつくったことのないものをつくってみたい。そういう意味で、今回のアルバムは、一つの時代全体の締めくくりみたいに感じられたんだよ。

今年は、ファースト・アルバム『Past Is Prologue』のもとになった『Sunrise Projector』(2004)からちょうど20周年です。この20年を振り返ってみて、いちばん大きな転機はどこにあったと思いますか?

SH:音楽がぼくのキャリアになり、生活するための仕事になったことは、ぼくの人生におけるもっとも大きな変化だったと思う。この仕事にすべての時間とエネルギーを注げるようになって、ほんとうに充実した経験をさせてもらえていると思うね。

さまざまな問題にあふれている現代では、なかなか未来に希望を持ちづらい人も多いかと思います。ついついネガティヴになってしまいそうなとき、未来に希望を持つためのコツのようなものがあれば教えてください。

SH:それはとても大変なこと。近頃は皮肉屋になることは簡単だし、ぼく自身も時々そうなってしまってほんとうに落ち込むこともある。特に子どもがいると、希望を持てない未来を見るのは辛いしね。でも、SNSやニュース、メディアから自分を切り離すこと、そういったものをとりいれるにしても適度に保つことはできると思う。適度にとりいれる分には、SNSはとても助けになると思うしね。知っておく必要があることもあるし、避けられない現実もあるけれど、同時に、日常生活のなかではそれらを心に留めておくように最善を尽くす。それがすべてなんじゃないかな。未来のことを難しく考えすぎると、脳が爆発してしまう。だから、“いま”のことを考え、いま自分ができることをやっていけたらいいんだと思う。自分が無力だと感じるような、そして世界の問題の大きさを感じるような瞬間があるけど、ぼくはただ、音楽と、ミュージシャンとしてのぼくができることはなにかを理解し、それを通してポジティヴな影響を与えることができたらいいと思ってる。それが世界の問題を解決することになるとはもちろん思わないけど、自分ができることをやってその役割を果たし続けることができればそれで良いと思うんだ。それ以上のことを考えたって、どうすればいいか見当もつかないからね。そうして悲観的になってしまうよりは、いまできることを大切にしたほうがいいと思う。

新作のジャケットは、草原のなかに浮いている巨大な球体が印象的です。今回あなたはアートワークにも関与していますか?

SH:今回はフラン・ロドリゲスというアーティストを見つけ、彼と一緒にアートワークをつくったんだ。彼は写真コラージュのようなとてもクールな作品をつくっていて、ぼくが『Dive』時代にやっていたようなことをやっている。今回は70年代のアルバム・ジャケットのような、シュルレアリスム的な雰囲気がほしいと思ってその方向で行くことにしたんだけど、ぼくは彼の作品をかなり気に入ったし、そのアイデアには彼がぴったりだったんだ。できあがりにはかなり満足しているよ。

これまではオリジナル・アルバムを出したあと、リミックス・アルバムをつくるときとつくらないときとがありました。今回リミックス盤の予定はありますか? あるとしたら、いちばん参加してほしいプロデューサーはだれですか?

SH:つくりたいとは思うけど、まだそれについて考える段階にまで達していないんだ。だからいまのところ予定はない。でも、もしつくるとしたら、参加してほしいのはダスカス(Duskus)かな。あとはジョイ・オービソン。ぼくは彼らの音楽が大好きだし、彼らがリミックスでどんな仕事をするのか聴いてみたいから。

通訳:以上です。今日はありがとうございました。

SH:こちらこそほんとうにありがとう。またね!

ZULI - ele-king

 エジプトはカイロ出身で、現在は、ベルリンを拠点とするエレクトロニック・ミュージック・アーティストのズリの新作が、あのエンプティセットのジェイムズ・ギンズバーグがファウンダーを務めるブリストルのレーベル〈Subtext〉からリリースされた。ジェイムズ・ギンズバーグは本作のミックスも手掛けている。
 『Lambda』は2020年10月にカイロで制作開始され、2023年7月にベルリンで完成した。はじめに断っておく。本作は間違いなく彼の最高傑作である。なぜか。これまでの解体と再構成を同時におこなうようなディコンストラクション的なサウンドをさらに推し進め、解体と「優雅さ」を同時に共存させるような音響空間を構築しているからである。絶縁体の隙間から漏れ出るノイズと綺麗な空気のなかを漂うアンビエントが並列に鳴っているとでもいうべきか。

 結論へと至る前に、まずはズリの経歴を簡単に振り返っておくべきった。ズリは本名を Ahmed El Ghazoly という。彼はその活動初期においてカイロで地元のラッパーたちにビートを提供して経験を積んだ。その後、カイロでも急成長中のアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックに関心を移し、イベントのプロモートや、DJとしても精力的に活動を展開する。いわば現場からの叩き上げといってもいい。その点、頭でっかちの実験音楽家ではない点も信頼がおける点だ。
 とはいえ私のようなオタクなリスナーがズリのことを知ったのはリー・ギャンブルが主宰するレーベル〈UIQ〉から2018年に出たアルバム『Terminal』だったと思う。10年代尖端音楽の代表のひとりといっていいリー・ギャンブルが見出した音という点に最初は惹かれたのだ。じっさいその音を聴いてみると、ヒップホップとジャングルが高密度に圧縮・解体(押しつぶされていくような)サウンドを展開しており、そのうえアブストラクトかつコラージュ的なトラックに仕上がっていて衝撃を受けた。まさに10年代尖端音楽が爛熟期に入ったと実感したものである。
 2019年以降は、ズリとラマ(ふたりは2019年に連名で『Noods Mixtape』をリリース)とともにレーベル〈irsh〉を発足させ、2020年に自身のシングルやコンピレーション・アルバム『did you mean irish』をリリースしていく。2022年には『did you mean irish vol. 2』を発表した。
 ズリはベルリンに拠点をしさらに精力的に活動を展開していく。昨年、同郷のカイロのアンダーグラウンド・レーベル〈Nashazphone〉よりリリースされた『Digla Dive - Live』はIDM、ヒップホップ、ジャングルなどをカオティックにミックスしたような強烈なアルバムで、まさに『Terminal』の進化形のような音で驚いたものだ。この音楽家は長い時間かけて自身のサウンドを深化させているのだなと思った。
 『Digla Dive - Live』から1年待たずにリリースされた本作『Lambda』は、いわばカオスの先にある美麗かつロマンティック、そして分解と再構成を繰り返すようなアンビエンスとサウンドスケープを実現しているアルバムであった。彼の音の向こうに眠っていた「優雅さ」が全面化したようなアルバムとでもいうべきか。彼は本作で明らかに新たな音の領域を探究し見出しているといえよう。

 アルバムには全12曲が収録されており、どの曲もノイズとアンビエントと電子音と声が解体され再構築され音楽と音の中間領域の池に浮かぶ花たちのように浮遊している。インダストリアル、テクノ、アンビエント、トリップホップなどがバラバラに解体され、その果てに再構成されていくような仕上がりなのだ。アルバムのオープナーである “Release +ϕ” では本作の音響の質感(透明、解体的な質感というべきか)を見事に提示し、作品世界へとリスナーを誘う(エンド・トラック “Release -ϕ” と対になっていることは明白で、アルバム自体が円環を描くように構成されているといえよう)。
 いわばどのトラックも電子音がコナゴナに粉砕され再構成されていくようなディコンストラクト的な音響世界を展開している。まったく方向性は異なるが長谷川白紙の傑作『魔法学校』の横に置いてみてもいいかもしれない。
 なかでも MICHAELBRAILEY を招いた8曲目 “10000 (Papercuts pt. 1) ” に注目してほしい。声と音とノイズとメロディの境界線が曖昧になり、同時にクリアでシャープな音像を実現しているのだ。デジタルの粒子が空間に漂うような未来的ポップ・ソングだ。MICHAELBRAILEY は3曲目 “Syzygy” ではヴォーカルに加えてサウンド・メイクにも関わっており、ズリとの密接な協働関係を窺わせる。また、あのコビー・セイ(!)をヴォーカルに起用した12曲目 “Ast” も印象に残るトラックだ。カラカラと乾いた音でリリカル・ミニマル・メロデイが鳴り、そこにヴォイスが絡みつく。
 ズリ単独の曲 “Trachea” も加工されたヴォイスに、どこか切迫感のあるアンビエントを絡める見事なトラックを展開する。“Fahsil Qusseer” では、ズリの父親の手紙を朗読する。この曲では自身の声とテープ録音された声が融解していく。過去と現在の境界線が曖昧になっていく。
 どの曲もバラバラに解体されたアンビエントのような音でありながら、 MICHAELBRAILEY、コニー・セイや Abdullah Miniawy らのヴォーカル/声が発するポップネスもあり、実験一辺倒ではない聴きやすさもある。
 まさに一筋縄ではいかない仕上がりのアルバムだ。優雅にして不穏、不穏にして美麗、解体的にして再構築的なサウンドスケープなのである。いくつもの相反する要素が交錯・共存しつつ、全体としては美麗な音響空間が生成されているわけだ。

 いわばズリが、自身の人生を振り返るように鳴らす音が、単純な「ひとつの人生」に帰結せずに、ノイズとアンビエンスのはざまから無数の音が生成されるように、複数の人生が立ち上がってくるようなサウンドに思えたのだ。いわば解体と再構築を繰り返し、つねに未知の領域へと進化/深化する「尖端音楽」の現在形。たとえば今年リリースされたベン・フロストの新作と合わせて聴いてもよいアルバムかもしれない。

『男が男を解放するために』刊行記念対談 - ele-king

外側の制度や法律を変えることと、内側の意識や欲望を変えること、それらの両輪が大事だという感覚が自分にはあって。(杉田)

男性の駄目さみたいなものをどうすくい上げて、それを断罪する形でなくどうほぐしていけるかを考えていた。(木津)

 『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』の杉田俊介と、『ニュー・ダッド──あたらしい時代のあたらしいおっさん』の木津毅による対談をお届けする。

 昨年9月に発売された杉田俊介著『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』。本書は集英社新書から2016年に刊行された『非モテの品格』に、副題のとおり大幅に描き下ろしを加えた増補版となる。原著の1~3章に加えて「4,5章」として書き加えられたパートはおよそ9万字。実質的に原著のほぼ2倍の分量になっている。

 現代社会において男性が直面する数々の生きづらさについて、「弱さ」という観点から考えたオリジナル版。
そして増補版ではマーク・フィッシャーやスラヴォイ・ジジェク、デヴィッド・グレーバーなどの現代思想、『ジョーカー』や『イニシェリン島の精霊』といった新作映画などに言及しながら男性と「弱さ」についての考えをさらに深めていった。

 一方の木津が2022年刊行した単著『ニュー・ダッド』では、ポピュラー・ミュージックや映画に登場する好ましい「おっさん」たちを通して、新たな男性像を提示することを試みていた。

 現代の男性のあり方についての考察を深めてきたふたりに、それぞれの立場から改めてこれからの男性像について語り合ってもらった。

男性のルサンチマンによって結びつくのではないような、そういう「善きホモソーシャリティ」としての対話関係やケア関係がもっとあったらいいのに。(杉田)

いわゆるホモソーシャルな関係のなかで「本音」と思われてることは、じつはあんまり本音でもない気がします。(木津)

木津:今回加筆された4章5章の部分を後半とすると、前半と後半で論じる内容や文体の違いに感じるものがありました。もともと出された2016年から今回出される2023年の間には#MeTooもありましたし、SNSをはじめとしてジェンダー論の対立が激化した面もあります。
 杉田さんは男性論を次々出されるなかで、この2016年から2023年の男性論について世の中の受け入れられ方の変化など、どういったところに問題意識を持たれているのでしょうか。

杉田:この何年か『非モテの品格』『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』『男がつらい!』という男性論の本を連続で出してきて、今回の『男が男を解放するために』に至るんですが、自分では自分の変化がよくわからないところもあります。木津さんは、どの辺でいちばん落差を感じましたか?

木津:落差というか、「ひろゆき論」の話が出てきたり、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』の引用があったりと、近年話題になったトピック、それもいわゆる弱者男性論と結びついて語られていないことがダイナミックに絡んでいるのが、4~5章についての僕の強い印象です。そこはもしかすると、ジェンダー論がより広範な問題と関わっていると世の中で意識されるようになったこととも繋がっているのかなと。経済の問題にも関わっているし、アイデンティティ・ポリティクスにも関わっている、というように。弱者男性問題は非モテ論みたいな狭いところに押し込められていたけれど、じつはもっと広範に及ぶ話だということが、この4~5章に入ってるという印象を受けました。

杉田:2016年の『非モテの品格』では、ストレートに自分の男性としての当事者意識を言葉にしてみました。だから結構ポジティヴなことも後半では言っています。だけど新たに本を書くごとに、どんどん否定性のほうが強くなってきました。
 特に日本では#MeToo運動の大きなターゲットが「おじさん」だったと思うんです。「おじさん」が日本的なハラスメントや家父長制の象徴とされた。そのなかで、自分の男性性を否定する気持ちも高まっていった。しかし他方では、脱・男性特権と言うものの、脱してどこに着陸すればいいのかわからない。ネガティヴな後退戦が続いてきた、という印象があります。
それに対して、木津さんの『ニュー・ダッド』を読むと、「新しいおっさん」というポジティヴな「おっさん」像を積極的に楽しく打ち出していて、とても元気づけられましたね。

木津:ありがとうございます。

杉田:僕は典型的な異性愛者の古い感覚の持ち主で、何を書いてもそうした「男」の内側からの悪戦苦闘になってしまう。そこは年代差もあるし、シスヘテロである僕とゲイの当事者である木津さんの差異もあるかもしれない。僕がおじさんを肯定する、というのは欺瞞がいっぱい入ってくる。とはいえ否定ばかりでも人間は生きていけない。どうすれば欺瞞なく肯定的なおっさん像が得られるのか。木津さんの本にはそのヒントをもらいました。

木津:まさに男性の自己肯定やセルフラヴの難しさは僕の本の動機になっています。例えばゲイプライドという言葉があります。世の中ではクィアとかゲイというのは、「男らしさ」の規範から悪しきものだとされてきたからこそ、意趣返しとして「プライド」と言えるわけですよね。でも2010年代以降のフェミニズムあるいはジェンダー・イシューが盛んになっていくなかで、ヘテロ男性が自分のアイデンティティにプライドを持っていくのは非常に困難である。脱・男らしさみたいなことが言われていくなかで、いかにセルフラヴが難しいかということは僕も感じていたので、そういうのを、まじめには考えるんだけれども、あまり深刻になりすぎずに、「パーティー感覚」というかみんなで一緒に助け合おうぜみたいな軽いノリで書けないかなというのが自分のなかでは大きかったんです。
 ご本を読んでいると、自意識の問題を大切にされている印象があります。弱者男性論には経済の話が後ろにあることをもちろん杉田さんは落としてはないんだけれども、その話ばかりをしてしまうと、誰がいちばん悲惨なのかという被害者競争になりかねない。あるいはインターセクショナリティ(交差性)の議論は大切だけれども、そこではすくいきれない自意識の問題もある。そのなかで杉田さんが弱者男性とは言わないまでも、マジョリティ男性の当事者の自意識の問題を大切にされているのはどういったポイントなのかもお聞きしたいです。

杉田:自意識というか……どうしても性格的に、肯定と否定を繰り返しながら議論がぐるぐる循環しがちではありますね。木津さんの本を読んで、この自分にとって新しいおっさん像って何だろうかと考えてみたんですけど、これまでの僕は、肯定的な中高年男性像をあまりイメージできてこなかった。

木津:なるほど。

いま、イクメンとか、ケアリング・マスキュリニティのようなことが、リベラルエリートがさらに勝ち抜けるためのマウンティングの道具になっている、という状況もあるんですよね。(杉田)

ケアをする男性像を新しいものとしてもてはやしすぎると、それはそれで新たな勝ち組を生み出してしまう。でもケアをすることは日常的な苦労、ハードさの積み重ねのはずなので、具体的な話をすることで、現実と日常に根ざした男性のケアのモデルが見えてくるんじゃないか。(木津)

杉田:たとえば木津さんはブルース・スプリングスティーンについて書いています。パッションのある素晴らしい文章でした。僕は以前、『長渕剛論』という本を出しました。長渕はベタなマッチョで愛国者のイメージがあるし、そう言われても仕方ない面もある。しかし僕は、長渕のなかの、自分の弱さを引き受け、傷や弱さを晒しながら、それでも自分を前向きに肯定していこうというジグザグな姿勢が好きでした。そうした彼の男性性のあり方は重要なものに思えた。彼はスプリングスティーンほどリベラルではないし、危ういところはかなりあるけれど……。
 少し話はズレますが、僕にとっての男性論は、ウーマンリブや障害者解放運動から影響を受けています。社会の側の法律や制度を批判するだけではなく、内なる優生思想や内なる女らしさ幻想を解除しなきゃいけない。そういうジグザグがそれらのムーヴメントにはあった。外側の制度や法律を変えることと、内側の意識や欲望を変えること、それらの両輪が大事だという感覚が自分にはあって、肯定と否定がぐるぐるするのもそのためもあるかもしれない。自意識の空転とは違うつもりなんですが……。

木津:スプリングスティーンに触れてくださったのはおっしゃるとおりで、どこか葛藤があるほうが僕もリアリティを感じます。杉田さんも本のなかで問題にされてますけれども、最近第4波フェミニズム以降の流れとして、男性が積極的に男性性を降りるみたいな話になると、そこで新たなマウンティングが発生することもある。フェミニズムに目覚めた男たちという別の階層が現れてしまう。
 PC的・リベラル的なメンズリブに助けられる部分もゲイとしてはあって、建前的だとしてもゲイ差別はいけないと言ってくれるマジョリティがいるだけで非常に助かる。一方で、そこでかえって弱者男性のルサンチマンをこじらせるような要因が発生してしまうというパラドックスをどうしたらいいのか悩んでいます。そこから取りこぼれる人間の、あるいは男性の駄目さみたいなものをどうすくい上げて、それを断罪する形でなくどうほぐしていけるかを考えていたので。その辺りの杉田さんが見てこられたメンズリブの近年の流れのなかで特に問題意識があるのはどういったところなんでしょうか?

杉田:そうですね、たとえば男性集団におけるタテマエとホンネの問題などが気になります。公的な場では、タテマエとしてPC的な基準に合わせようとするんだけど、ホンネのところでは納得していないから、性的マイノリティや女性に対する反感が無意識に溜まっていく。やがて暴発して、男こそ傷ついているんだとか、女性やマイノリティには特権があるんだ、という話になってしまう。つまり、反PC的なホンネのルサンチマンによって結びつくホモソーシャルな共同体が形成されてしまう。
 もしかしたら日本では国学的なものの伝統と言うべきなのか、抽象的な外来語としての漢意(からごころ)を嫌って、正直な感情や感動を大事にしよう、みたいな文化がいまも強いのかもしれない。フェミニズムやPCなんて外来の思想は、人間の正直な感情に反するんだ、みたいな。
 でも、人間の「本心」とはおそらくタテマエでもホンネでもない。自分の本心って、自分でもはっきり言語化できなかったり、失語や沈黙を通してしか他者に伝えられなかったりする。カウンセリングや精神分析のような領域に近い。感情的な葛藤を抱えたり、うまく語れなくて失語したりしながら、それでも自分のなかの本心を他者と分かち合っていく──そういう意味での対話を重ねながら、自分のなかの傷や本心を分かち合えるような男性文化をうまく作ってこられなかったんじゃないか。それは「男同士で腹を割ってホンネで話そう」というような悪しきホモソーシャリティとは違うはずです。男性のルサンチマンによって結びつくのではないような、そういう「善きホモソーシャリティ」としての対話関係やケア関係がもっとあったらいいのに。

木津:いわゆるホモソーシャルな関係のなかで「本音」と思われてることは、じつはあんまり本音でもない気がします。例えばモテたいというのも、自分の欲望を真剣に見つめたときに、本当にモテたいのかどうかは人それぞれだと思うんですよ。女性と積極的なコミュニケーションをとってたくさんセックスをしたいというゴールがあるとすると、それは旧来的な「男らしさ」がモデルであって、それよりも例えばマスターベーションの時間を充実したものにするとか、自分へのケアの方向が人それぞれで本当は違うはずです。男性同士の間で本音と思われてる部分が違う可能性もあるんじゃないか。ご本を読んでいても想像するところがありました。

杉田:そういえば、何年か前の紅白歌合戦で、氷川きよしが『ドラゴンボール』の歌を歌った回が好きでした。LGBTフレンドリーな空気を取り入れているのに、「紅白」というバイナリーな枠組みはどうなんだろう、というのはもちろんありますが、氷川きよしが最初は白い服を着ていて、途中から真っ赤な服に着替える。で、そこからもう一段階進化する。てっきり虹色になるのかな──と思っていたら、なぜかゴールドに変身する。そこにグっときた。はっきりいってなぜ金色になって空を飛ぶのか、合理的な理由はわかんないんだけど、金色じゃなきゃダメだったんでしょう。それは本人に固有の特異的な欲望を示す何かであって、別に誰かに共感したり理解したりしてもらう必要もない。でも、本当の意味での多様性って、そういうわけのわからないものなのではないか。虹色モチーフを使えば自動的に多様性、ということではない、と感動しました。

木津:いまの話と繋がってきますが、僕は男性同士の友情、フレンドシップの話はどうなってるんだろうと思っています。例えばこの前ゲイの飲み会があって、50代後半のゲイの方が最近編み物にはまってるとか、同世代のゲイがいまさら『冬のソナタ』にハマったとか、いわゆる「男らしさ」から外れる「ゲイあるある」話ですごい盛り上がって。僕はそういうやり取りにすごくエンパワーメントされるんですよね。それぞれがそれぞれの人生を楽しんでいる感じがゲイにとっても、ひとくくりにできるものじゃないんだけれども、何か共通するものがあり、それでエンパワーメントされる。男性同士の友達の話のなかからそういったことはあまり聞かないなと思って。
 ご本のなかで『イニシェリン島の精霊』も引用されてましたけど、あれは男性同士のフレンドシップの不可能性みたいな映画に僕は見えたので、シリアスに考えたい。一対一の男性同士の関係じゃなくても、グループのなかでも旧来的なホモソーシャルより、もうちょっとマイルドな男同士の関係性を模索できないかなと考えているんです。

杉田:先ほど述べた善きホモソーシャリティというか、非暴力的なホモソーシャリティが大事だと思っています。SNSの議論だと、誰が正しいか間違っているか、敵か味方か、という政治的な集団の対立になりがちです。言葉もぎすぎすしていく。とはいえ、オンラインを遮断してオフラインの対面に還るべきだ、という単純な話でもなさそうです。オンラインとオフラインの中間あたりに、非暴力的で、セラピー的で、善良にホモソーシャルな空間がだんだん拡がっているような気がします。オンライン自助会とかオンライン読書会とかもそうかもしれない。

新しい自分になること、新しい価値観を持つことに対する恐怖をどう男性は乗り越えていけるのかを考えています。(木津)

ひとつの価値観を受け入れたから一瞬で万事OKになるわけではないし、逆にいままでの人生が全部駄目だった、ってことにもならない。自分のなかの古い感情や価値観にも大事なもの、よいものはたくさんあるはずなんですよ。(杉田)

木津:『ニュー・ダッド』のなかで、『クッキングパパ』の高齢男性が料理教室に行く回が好きという話を書いたんですが、男性たちがゆるく繋がれる場所がもっとあればいいですよね。僕ら世代の子育てをはじめた男性たちは暴力的な父親、強権的な父親という、古きおっさんになることを恐れている人が多い。そのなかで子育てをどのようにやっていけるかリアルに悩んでいて、そういった悩みがちゃんと最近は共有されはじめている。そこに前向きなものを感じているんです。

杉田:そうですね。僕も少し前から、MetaLifeというサービスの、自助会みたいな場に参加しているんですよ。ちょっとメンタルを病んでしまって……。ただ、そこはすごくケア的で穏やかな場なんですけど、MetaLifeのホームページを見ると本田圭佑がバーンと出てきて、ちょっと自己啓発的で新自由主義的な感じで(笑)。たしかにいま、イクメンとか、ケアリング・マスキュリニティのようなことが、リベラルエリートがさらに勝ち抜けるためのマウンティングの道具になっている、という状況もあるんですよね……。

木津:それはリアルな話ですよね。

杉田:もちろん使い方次第だとは思うんですけど。他者を配慮したり弱さをシェアできる男性が新しい時代の勝ち組なんだ!、みたいな話には回収されたくない。

木津:いまの話はグラデーションがあって、いわゆるケアをする男性像を新しいものとしてもてはやしすぎると、それはそれで新たな勝ち組を生み出してしまう。でもケアをすることは日常的な苦労、ハードさの積み重ねのはずなので、具体的な話をすることで、現実と日常に根ざした男性のケアのモデルが見えてくるんじゃないか。例えばエッセイ漫画でもお父さんが子育てしてる漫画が増えています。単純に俺は子育てしてるぜっていう感じでもなく、日常的にこれが困ったとか、それをママ友やパパ友に教えてもらって助かったみたいな話が増えてるのは、子育てしてない身としてもいい話だなと思うと同時に、男性たちもいろんなものから解放されてるんじゃないかと、思うところもあります。

杉田:そうですね。ケアをあまりに自己責任、家族責任にしすぎると燃えつきてしまうけど、パブリックすぎず、プライベート過ぎないような──具体的な家事とか育児とかケアってそういうものじゃないですか。その辺の面白さをシェアしながら入れる領域がもっとあったほうがいいですよね。

木津:そうですね。

杉田:男女の間でケア負担に圧倒的に非対称性があるわけだし、ヤングケアラーや老々介護などもあるのだから、一部のイクメンやケアリング・マスキュリニティを持てはやすのではなく、もっと日常化して、かつその面倒な部分も楽しい部分も、わいわい語ったり、わちゃわちゃ協同で実践していければいいなと。

木津:『ニュー・ダッド』の書き下ろしの部分で自分の彼氏のあまりにも子どもっぽい姿を入れたのも、理想論では語りきれない日常的な話を入れたかったんですよね。どうバランスをとっていくか、グラデーションを示していくか。これからの男性論でも重要になってくるだろうし、僕のようなゲイが話してもいいし、ヘテロから出てきてもいい。多様なものが生まれるといいですね。

杉田:あと、ドラえもんにもちょっと「ニュー・ダッド」的なイメージがあります。あの丸めの体形なんかも含めて。ドラえもんはのび太くんがあまりにも駄目だから、のび太の身の回りをケアするために未来から派遣されてきた。ケアラーの役割なんですよね。しかしドラえもんには、のび太を自分に依存させることで駄目にしていく、というマターナリズム(母性的支配)の危うさもある。先回り的にケアしすぎてしまう。
 しかし話が進むにつれて、逆にドラえもんのほうがのび太に依存しているようにも見える。あるいはドラえもんのある種の母性的な力によって共依存関係に陥っている。ふたりはそれを自覚して、だんだん適切な距離を取っていくんですよね。それでちゃんと対等な「友達」になっていく。支配関係や依存関係ではない関係を構築していく。そうした関係の作り方は、現代のおじさんたちにも大事なことに思えました。

木津:なるほど。ちなみに『ドラえもん』で僕が男性でいちばん好感を持ってるのは出木杉くんなんです。満点のザ・ちゃんとした男性(笑)。でも、出木杉になれなくてもいい、という話も『ドラえもん』には出てきます。「家庭科エプロン」のエピソードで、のび太が将来お嫁さんになるしずかちゃんに家事をやってもらうから自分はやらなくていいんだ、みたいなことを言います。それで出木杉の家に行ったら彼が料理を作っていて、しずかちゃんが──この言い方もちょっとどうかって問題はあるんですけど──出木杉さんのお嫁さんになる人は幸せねみたいなことを言ってのび太が大ショックを受ける。『ドラえもん』がいいのは、のび太がそこで出木杉くんを僻んで敵にするのではなく、自分もちょっとでも家事ができる男になろうとするんですよね。ドラえもんの道具を借りてですけど。そこにヒントがある気がします。
 のび太は弱者男性とまでは言わないけれどもある種の僻み根性を持ちやすい立場にある。その感情自体は受け入れて、でも客観的にいいところは取り入れていくという方向のエピソードになっている。僕はすごくそのエピソードが好きなんです。ここでの出木杉的な──いまで言うPC的リベラル的なものがあったとしても、そこに対してたんに僻むじゃなく、距離を置きながらもいいところは取り入れていくというフラットなのび太のあり方には感銘を受けるし、そういうあり方を何か世の中に提示できないかと個人的には考えています。

杉田:『ドラえもん』のコミックスを読んでいくと、最初はジャイ子と結婚することが不幸の象徴なんだ、みたいな女性蔑視とルッキズムからはじまりますが、作者である藤子F先生が時代の流れに学んで価値観が変わっていくんですよね。しずちゃんがじつは男の子に憧れていて自分の体を男性の身体と取り替える回とか、ジャイ子が少女マンガ家の夢を通してフェミニズム的な気高さを発揮していくとか。

木津:そうですよね。

杉田:ジャイ子には自己卑下がなく、ルッキズムの内面化がないのもいいですね。それからジャイ子には途中で男の子の友だちが出てくるんだけど、恋愛関係に入るのではなく、あくまでも同じ漫画家を目指す者同士のアソシエーションのような感じ。女の子は仕事じゃなくて恋愛するのが幸せでしょ、というほうへは行かない。男女の間でフラットな友情を結びながら、漫画家としてお互いに切磋琢磨していく関係でした。時代を先取りするようなところがありますね。『ドラえもん』の映画でもそろそろジャイ子が主人公の長編が観てみたい。

木津:僕もジャイ子の変化がいちばん好きかもしれないですね。藤子先生が漫画家という職業を与えたことも含めて、彼女に対しての優しさを感じます。時代の変化がちゃんと作用している。
 変化という話でいうと、例えばいまLGBT差別はいけないとか言ってる人でも、ほんの15年前ぐらいには差別的なことを言ってたじゃないかと指摘されることがあります。その気持ちもわかるんですけど、僕は時代とともに変わったことをポジティヴにとらえたい。もちろん全く反省しないで単純に乗り換えたのでは困るんですけど、昔は気づいてなかったことを自己反省して変わったのであればそれは歓迎したいんです。男性性の問題についても、価値観を変えることの怖さもある気がして、杉田さんが自意識の問題を重要視されているところも僕は共感します。そこで新しい自分になること、新しい価値観を持つことに対する恐怖をどう男性は乗り越えていけるのかを考えています。

杉田:簡単ではないですよね、もちろん。変わると言ったときに、男性って、全肯定か全否定かになりがちな気がしますね。しかしここでいう新しさというのは、あくまでもパーツであり、その組み合わせの在り方だと思うんです。部分否定しながら部分肯定していく。新しいパーツを取り込んで少しずつ体質改善していく。ひとつの価値観を受け入れたから一瞬で万事OKになるわけではないし、逆にいままでの人生が全部駄目だった、ってことにもならない。自分のなかの古い感情や価値観にも大事なもの、よいものはたくさんあるはずなんですよ。おじさん性を全否定して、それが反転して被害者意識になってしまったら元も子もありません。しなやかな可塑性が大事ですよね、たぶん。

木津:個別具体性が大事なのかなと思いました。『ニュー・ダッド』でも「おっさん」というひとまとめで、そこに差異がないかのように一般化される言葉を、いかに個別具体的に開いていくかという試みをしました。そうして個人の物語が出てきたときに、どこの部分を否定するのか、肯定するのかは人によってバラバラだし、でも重なってくるものもある。その両方の動きがちゃんと語れることが重要だなと思いましたね。

杉田:「おじさん」という大枠の言葉で括って、まずはきっちり批判すべき問題が間違いなくある。特に日本社会にはある。他方では、そうやって大きく括ることで、そこに括り切れない面も見えてくるはずです。僕なんかも全否定しがちなんですよね、おじさんは全員滅びたほうがいい、みたいな。

木津:ただ、本を拝読していて、全否定とはあまり感じませんでした。すごくシリアスな言葉で圧倒される部分はありましたけど。例えばジジェクを引用する形で「残余」という言葉が出てくるのは結構ドキッとする。それは全否定されるものからこぼれ落ちていくものをどう再定義していくか、あるいは再評価していくかということだと思いました。杉田さんのご本を読んでいると、そういった全否定からこぼれ落ちていくものを考え直すことの重要性を考えさせられるきっかけになりました。

杉田:今回の増補版の最後のほうで書いたのは、トランスパーソンの人びととの対話から得られたヒントのことでした。トランスジェンダーの人たちにとっては、そもそも、男性であることや男性性は否定されるべきものとは限らない。そうやって他者による肯定をひとつの媒介にしたとき、シスヘテロの男性が男性性を全否定してしまうことの危うさも再認識したんですよね。逆にいえば、肯定していい部分もあるはずだと。ポジティヴなおじさんのあり方を積極的に語る言葉が、シスヘテロの側からももう少しあっていいんじゃないか。
 木津さんの今回の本を読んでもそういうことを感じました。従来の男性学はどうしてもシスヘテロ男性中心です。異性愛男性中心の社会を批判するために一度通過しなきゃいけない面もあるんだけど、それによって見えなくなっている部分もたくさんある。マジョリティとマイノリティが領域横断的に議論や対話を重ねることによって、ニューダッドや新しい男のなかの肯定性を初めて語れるようになる面もあるのではないか。自己否定や撤退戦ばかりではなく、そういう肯定的な側面も今後はなるべく語っていきたいですね。

木津:僕もぜひそれはお聞きしたいなと思います。もっとシンプルなところで、男友だちのこういう発言に救われたとか、こういう行動に救われたとか、こういうケアがめっちゃ染みたから自分も他の人にしようと思ったとか、そういう男性同士の関係のなかから出てくるものが、今後日常的なところから出てくるといいですね。

杉田:そうですね。同性愛嫌悪やミソジニーを前提としない善きホモソーシャリティはたくさんあると思います。そういう可能性もいろいろとおしゃべりしたり語らったりしながら、もう少し身軽に楽しく実践していくのが大事な気がしますね。

山上徹也への応答を起点に「弱者男性」論を問い直す
「弱者男性」論の第一人者による名著、渾身の書き下ろしを加えて復刊!

恋愛/性体験、収入の格差や労働のつらさ、社会的地位の低さ、強要される「男らしさ」といった、現代男性をめぐる生きづらさについて真摯に考察し、2016年に刊行され大きな話題を呼んだ『非モテの品格』(集英社新書)。

この名著がオリジナルの10万字に9万字の大幅増補を加えて復刊!
山上徹也容疑者への応答を起点として「弱者男性」論をあらためて考え直す集大成!

目次

増補改訂版・まえがき

第一章 男にとって弱さとは何か?
自分の弱さを認められない、という〈弱さ〉/男たちの自己嫌悪──フェミニストたちの死角/男性は女性よりも自殺しやすいのか?/「男性特権」を自己批判する、その先へ/男性たちは自分の性愛を語ってこなかった/「男の子」に産んで申し訳ない、という気持ち/メンズリブを再起動する/男であることのアポリア

第二章 男のルサンチマンについて──非モテの品格?
雇用・労働問題とジェンダー構造/男性たちのアイデンティティ・クライシス/マジョリティ男性たちのねじれた被害者意識/男性たちの非正規雇用問題/正規vs.非正規という「にせの対立」/「非モテ」とは何か?/「誰からも愛されない」ということ/非モテの三類型/性的承認とアディクション/男の厄介なルサンチマン問題/ニーチェとルサンチマン/つらいものはつらい。淋しいものは淋しい。/ルサンチマンをさらに掘り進める/男の自己批判(私語り)の危うさ/開かれた問い直しへ/「草食系男子」への大いなる誤解/承認欲求・自己肯定・自己尊重/

補論① 認められず、愛されずとも、優しく、幸福な君へ

第三章 男にとってケアとは何か──クィア・障害・自然的欲望
ケアワーカーたちがケアを必要とする/「依存」は例外ではない/子育ての不思議さ/「一緒に頑張ろう」/ALSの青年のケア経験/ケアが社会化されていく/日常的な風景を「見る」ということ/内なる弱さに向きあう、という怖さ/歪んだ支配欲を見つめる/子どもの看病の経験から──弱いのはどちらか/ある自閉症の青年とそのお母さん/障害者支援の歴史から学んだこと/生きること、遊ぶこと、働くこと/ただの〈男親〉になるということ/自分の欲望を学び直す─脳と神経/寄り添われて眠るという経験/産む行為の重層性/「植物人間」とは誰のことか?

補論② 弱く、小さき者から

集英社新書版・あとがき

第四章 弱者男性たちは自分を愛せるか──インセル論のために
「弱者男性」をあらためて問い直す/インセルのグローバルな氾濫/叛乱?/覚醒するインセルたち?/インセルにとって自己愛とは何か/残余/残りものとしての弱者男性たち/欲望をめぐる政治というラディカルなセルフラブ/「巨大なブルシット」としてのニヒリズム/インセルライト/インセルレフト/インセルラディカル/男性内格差の問題/ポスト男性学的なジレンマをめぐって/ラディカルな無能さのリブに向けて/男たちも自分を愛して良い!

第五章 男性たちは無能化できるか──水子弁証法のために
承認/再分配/政治/差別論と能力主義のジレンマ/現代のプレカリアートたちの交差的な階級政治/ポスト資本主義的な欲望/メンズリブ的なメランコリーと向き合う/ギレルモ・デル・トロの「怪物」たち/男性たちの「ぬかるみ」/メリトクラシーと男性の無能性/ハイパーメリトクラシー/男性たちの無能弁証法/無能な者たちのストラグル──『火ノ丸相撲』/水子弁証法とは何か

増補改訂版・あとがき

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7月のジャズ - ele-king

 この5月、6月はヒタ・リー、アストラッド・ジルベルトと唯一無比の個性を持つ女性アーティストの訃報が続いたが、先日7月16日にはジェーン・バーキンが亡くなった。エルメスのバッグの名前にもなったジェーンだが、私にとってはセルジュ・ゲンズブールのパートナーで、彼の作品にいろいろと顔を出したことで忘れられないシンガーである。“ジュ・テーム” はもちろんのこと、少年のような裸体のポートレートをジャケットに配した『メロディー・ネルソンの物語』(撮影当時のジェーンは娘のシャルロットを妊娠していた)は、ブリジット・フォンテーヌのプロデュースでも知られる鬼才ジャン・クロード・ヴァニエが音楽監督やアレンジを務め、後世にも多大な影響を与えた。


Nicola Conte
Umoja

Far Out Recordings / ディスク・ユニオン

 さて、今月の一枚目はイタリアのニコラ・コンテによる久しぶりのアルバム。タイトルの『ウモジャ』とはスワヒリ語で統一や連帯を意味する言葉で、1970年代のアメリカの黒人ジャズ・ミュージシャンの間ではキーワードのひとつにもなっていたのだが、これが示すようにここ10数年来の方向性であるアフロ・ブラック・ジャズ、スピリチュアル・ジャズ的なアルバムとなっている。これまでも南アフリカはじめいろいろな国のミュージシャンたちと共演するなどしてきたニコラだが、今回の録音メンバーもイタリア、イギリス、フランス、フィンランド、スウェーデン、セルビア、アメリカ人、ガーナなどアフリカをルーツとするミュージシャンと、アドリア海に面した港町出身のニコラらしく国際色豊かな顔ぶれである。

 長年の付き合いであるザラ・マクファーレンが歌う “アライズ” (彼女の同名アルバムとは別曲)が代表するように、ジャズを基調にソウルやファンクが融合し、アフリカ音楽やブラジル音楽などのエッセンスを交えたアルバム作りは相変わらずだが、今回は1970年代中頃のロニー・リストン・スミス&コズミック・エコーズ、ギル・スコット・ヘロンブライアン・ジャクソン、ロイ・エアーズ・ユビキティなどを想起させるような作品が多く、使用楽器や録音機材も含めて当時の音楽が持っていた匂いや質感をリアルに再現しようとしている。アフロ・ジャズとサンバ・フュージョンを掛け合わせた “ライフ・フォーセズ” におけるティモ・ラッシーのサックスは極めてファラオ・サンダース的(現在であればカマシ・ワシントン的)で、そうした引き出しの多さはやはりニコラ・コンテのDJ的な嗅覚のなせるところである。


Ashley Henry
My Voice

Royal Raw Music

 サウス・ロンドンのピアニスト、アシュリー・ヘンリーも2019年のファースト・アルバム『ビューティフル・ヴァイナル・ハンター』以来久しぶりの新作となる。ビートメイカー的な側面も持つアルファ・ミストに対し、アシュリー・ヘンリーはクラシックもマスターしてきた正統派のピアニストであり、同じジャマイカをルーツに持つウィントン・ケリーからアーマッド・ジャマルらの影響も口にする。リリカルで端正なジャズ・ピアノと、カリビアン・ルーツのラテン的なタッチというのが彼のピアニストとしての評価となるだろう。ただ、彼もクラブ・ミュージックからの影響を受け、リ・アンサンブルというプロジェクトではナズをカヴァーするなど、ヒップホップやブロークンビーツ的な作品も展開し、自らヴォーカルもとっていた。新作EPである「マイ・ヴォイス」は、自身で設立したレーベルの〈ロイヤル・ロウ・ミュージック〉からとなり、来年にリリース予定のニュー・アルバムに先駆けた作品となる。

 今回のEPは「マイ・ヴォイス」とするだけあって、自身のヴォーカルやワードレスのヴォイス、スキャットなどを含めたトータルでの声楽とピアノ演奏のコンビネーションを披露する部分が多い。表題曲がその代表で、透明感に富むピアノとワードレス・ヴォイスが非常にイマジネーション豊かな音像を描く。“ラヴ・イズ・アライヴ” におけるスウィートな歌声も、シンガーとしてさらに覚醒したアシュリーの姿を見せてくれる。ヴォコーダーのようにも聴こえるメロウな歌曲の “メラニン” など、歌とピアノのバランスはハービー・ハンコックが手掛けた歌モノの域に近づいている。“デイ・ドリーム” での歌声は、オマーやクリーヴランド・ワトキスなどの先達を彷彿とさせるもので、みなジャマイカ系イギリス人という共通項から生み出される歌声なのかもしれない。そして、小刻みなブロークンビーツ調のリズムを刻む “ブリーズ” をはじめ、今回もクラブ・ミュージック経由の斬新なドラム・パターンが随所に配置され、新しいジャズの息吹を感じさせる作品集だ。


Terrace Martin
Fine Tune

Sounds Of Crenshaw

 ロサンゼルスのミュージシャン/ラッパー/プロデューサーであるテラス・マーティンは、スヌープ・ドッグ、ケンドリック・ラマー、トラヴィス・スコットらの作品に関わり、ジャズとヒップホップを結びつけたキーパーソンである。自身のアルバム『3コードフォールド』(2013年)はそれらラッパーからシンガー、さらにロバート・グラスパーも交え、そのグラスパーの『ブラック・レディオ』に対するヒップホップ/R&Bサイドからの回答とでもいう作品だった。『ヴェルヴェット・ポートレイツ』(2016年)ではサンダーキャット、カマシ・ワシントン、キーヨン・ハロルドらも交え、全体にジャズへ接近したところが見られた。特にディアンジェロのツアー・メンバーで、グレゴリー・ポーターやアシュリー・ヘンリーの作品にも参加し、マイルス・デイヴィスの伝記映画『マイルス・アヘッド』でトランペットを演奏したキーヨン・ハロルドが鍵で、彼の参加でディアンジェロ的な70年代ソウル~ファンク・リヴァイヴァルの流れを汲んだアルバムとなった。

 その後、ミュージシャンやプロデューサーらのコラボレーション・グループであるポリシーズのアルバムやライヴ盤を経て、ケンドリック・ラマーやレオン・ブリッジスら久々にラッパー/シンガー陣とコラボした『ドローンズ』を2021年に発表。それから2年ぶりの新作が『ファイン・チューン』である。今回のラインナップを見ると、キーヨン・ハロルド、カマシ・ワシントン、ロバート・グラスパー、デリック・ホッジ、ブランディ・ヤンガー、ロバート・シーライト、エレナ・ピンダーヒューズとジャズ界の実力者が多く揃うので、『ヴェルヴェット・ポートレイツ』の路線かと思いきや、アフロビートの “デグナン・ドリームズ” などがあり、非常に幅広い内容となっている。カマシ・ワシントンとロバート・シーライトをフィーチャーした濃密なアフロ・ジャズ・ファンクの “ファイナル・ソウト”、ブランディ・ヤンガーのハープが夢想の世界に誘うメロウ・グルーヴの “ダメージ”、ジェームズ・フォントルロイのスウィートな歌声が魅力の “トゥー・レイト” など力作揃いのアルバムとなった。なお、同世代のミュージシャンだけでなく、ラリー・ゴールディングスのようなジャズ界の大物から、かつて〈ブラック・ジャズ〉に伝説的な2枚のアルバムを残したギタリストのカルヴィン・キーズまで参加するなど、通も唸らせる人選となっている。そのキーズのボサノヴァ調のギターが光る “ザ・アイランド” は、これまでになかったテラス・マーティンの新しい面を見せるものだ。


Kris Tidjan
Small Axes

BBE Music

 仏領マルティニーク出身でパリ育ちのシンガー・ソングライターのクリス・ティジャンは、ヒップホップ、ソウル、レゲエなどから音楽に傾倒していき、その後自身の楽曲制作をはじめて2015年に「フローティング・セラピー」というEPでデビュー。アフロビート、ブロークンビーツ、ディープ・ハウスなどをミックスした作品を作っていたが、そこから長い期間を経て(現在はベルリンを拠点とするようだ)、ようやくデビュー・アルバムの『スモール・アクシズ』を完成させた。“ダズリング・リボン” に見られるように、ディアンジェロの『ヴードゥー』を連想させるネオ・ソウルとジャズが結びついたクールな世界が彼の魅力だ。ランプの “デイライト” のフレーズが飛び出す “インカーネイテッド” はじめ、彼の歌声はドゥウェレを思い起こさせる非常に魅力的なもの。そんな歌声とアフロビートとブロークンビーツが混じったようなリズムが結びついた “リトル・ジャイアント” は、クリスの兄弟であるアラン・ロジーヌとセルビア出身のジャズ・ピアニストのゾラン・テルジッチが参加。中間で披露されるピアノと土着的なコーラスとリズムの交わりは、彼のルーツであるマルティニークから生まれたものだろう。

 1990年にはじまるジョージ・ブッシュの声明に反応して2005年に書かれたという反戦歌の “ローズ・オブ・ウォー” は、クリスのヴォーカルに対してサックスとフルートが極めて有機的に絡み、そこから即興的なインタールードの “インターローズ” を挟み、“エディ” は切々と綴るネオ・ソウル調のナンバー。これらのナンバーではディアンジェロやドゥウェレはもとより、クリスの敬愛するボブ・マーリーからの影響も見ることができる。アルバム・タイトルの『スモール・アクシズ』もボブ・マーリーへのオマージュとして名付けられたそうだ。そして、“カティオパ” は2005年にいとこのジェレミー・オーネムとコラボして作った曲で、マルティニーク系やフランスのミュージシャンと共演している。カリビアンとアフロビートとソウルが結びついたクリス・ティジャンの原点と言える楽曲だ。

Katatonic Silentio - ele-king

 LGBとTの間に大きな溝ができるなど性自認をめぐる議論が急拡大するなか、性自認の上位概念にあたる「自認」、つまりは自分は何者かという問題意識がかつてなく高まっている。アイデンティティという言葉にしてしまうと古臭い議論のように思われがちだけれど、既存の社会が多様性を受け入れられるかという最新のコンフリクトが背景にあることを考えると、アイデンティティの着地点はかつてなく複雑で、見たことのないものを探り出す作業に近くなっている。この問題に現在、思春期の課題として未曾有の経験をしている人たちにノンバイナリーとアンドロジーニアスの区別もついていないような年長者が口を出すのは不可能だと思えるほど環境や前提が異なっていることは僕も自覚しているつもり。アンビエント・ミュージックの思想的な背景にアイデンティティが大きなファクターとなっていると最初に気づいたのは、しかし、ジョニ・ヴォイドの作品を初めて聴いた時だった。3年前、自分自身をテーマにしたアンビエント・ミュージックというのはかつてなかったのではないかと僕は思い、彼の『Mise En Abyme』を「昔の自分を再構築する作品だと解釈した。その後、彼と同じようにアイデンティティをテーマにしたアンビエント・ミュージックにはいくつか出会うようになり、年末号のエレキング本誌で少し整理してみた。最近ではナタリー・ベリツェ『Of Which One Knows』が素晴らしい作品だったと思っている。『Mise En Abyme』の1年前に、そして、イタリアのミラノで、グリエンコというプロデューサーがそれまで手掛けていたテクノ作品とはかけ離れた作品をリリースするために〈CyberspeakMusic〉というレーベルを立ち上げ、『Reprogramming Identity(アイデンティティをプログラムし直す)』というコンピレーションを編んでいる。〈CyberspeakMusic〉のコンセプトはちょっと難解で、言語が確立されたことに対して感じる反抗や順応、魅惑と失望、そして新しい言語の魅力とフラストレーションが彼らを構成する原理だと謳っている。人間が言語を習得することをフロイトは去勢といい、それによって失われるものがあるという議論を引き継いだものなのか(音楽家には常に大きな課題だろう)、それとも言語の意味がもっと限定されて使われているのかはわからない。いずれにしろ、そのような高度ながら切実なテーマを叩きつけたコンピレーションに参加していたのがカタトニック・シレンシオことマリアキアラ・トロイアニエロだった。トロイアというのはイタリア語で売春婦を罵る言葉なので、これが本名というのはちょっと驚きつつ。

〈Bristol NormCore〉からリリースされたトロイアニエロのデビュー・アルバムは『Prisoner Of The Self(自分自身の囚人)』(20)と題され、ブレイクコアやインダストリアル・ブレイクビーツで固められていた。ベース・ミサイルにドラム・シャウトが炸裂するテクノロジーの反逆と喧伝されているように、なかなかに不穏な雰囲気が充満し、彼女がフラストレーションの塊なのはいやでも伝わってくる。ユニット名として採用されているカタトニック・シレンシオとは「緊張で体が固まった沈黙」を意味し、彼女が社会にうまく溶け込めていない状態も容易に想像できる。同じイタリアのジネーヴラ・ネルヴィがルッキズムを俎上にあげ、同じように社会との軋轢を表現していることにも通じるものはあるだろう。トロイアニエロの場合、デビュー・アルバムの時点では無理やり体を動かした結果がこうした音楽性を呼び込むことになり、動けない体から暴力衝動への飛躍はまさに「アイデンティティをプログラムし直」したという意味にも取れる。100ゲックスやリョウコ2000などブレイクコアは思春期の表現として完全に定着した感があり、殻を破りたいという衝動がそこには投影されているのだろう。ズリやエルヴァを起用した同作のリミックス・アルバムを経て、トロイアニエロが〈Ilian Tape〉から21年にリリースしたミニ・アルバムは『Tabula Rasa(白紙)』と名付けられ、囚人という状態からは抜け出せたのかなということもなんとなく窺わせる。そして、「白紙」の次に彼女が描いたのは同じく〈Ilian Tape〉から『Les Chemins De L'inconnu(未知の道)』という前向きなヴィジョンであった。実は彼女の作品で僕が最初にいいと思ったのは〈CyberspeakMusic〉からリリースされた「Emotional Gun」(19)というシングルで、『Les Chemins De L'inconnu』はまったくの未知に切り込んだわけではなく、彼女の作品には整然とした連続性があり、『Les Chemins De L'inconnu』は「Emotional Gun」を下敷きにした発展形にあたる。嫌がらせのような音を集めているようで、しかし、どことなく安心感もある “Tundra” が安心そのものをモチーフにした “Dans Le Cadre Du Relief” に、ライムやペシミストを受け継ぐ “Sub_Versive” や “Path Of Uncertainty” が “Le Réveil Du Combattant” や “Fluctuation Languide” にスケール・アップ。ゴシック沼にはまった “Hypothèse D’Hypnose” などは新たな傾向だろう。「Emotional Gun」に漲っていた奇妙な熱は少し冷めたものの、『Les Chemins De L'inconnu』は全体にアブストラクト度を強め、奥行きのある世界観に掘り下げられている。呪術的で、包み込まれるような感じはヘルムがマッシヴ・アタックをリミックスしたら……というか。

 LGBとTの間に大きな溝ができたことでクィアという単語が死語みたいになってしまうとは数年前は思いもよらなかった。エマ・ワトソンがJ・K・ローリングの発言にエクスキューズを挟んだのが2年前。トランスジェンダーに対するバックラッシュはいまや国連決議にも及び、世界初の性適合手術を扱った『リリーのすべて』(15)を観直したら果たしてどう感じるのかまったく見当がつかない。クィアという単語が今年に入っていきなり逆噴射のように使われだしたのはビヨンセ『Renaissance』のアルバム評で、それではまるで『Renaissance』をノスタルジーに沈めようとするも同然ではないかと思い、サンプリングのことだけを言うならまだしも全体としてはそんな作品ではないと思った僕は1回も使わなかった。でも、それは間違っていたのかもしれない。『Renaissance』にはクィアという言葉が表していた時代を懐かしむ面もあり、現在だけがすべての作品ではなかったのだろう。ビヨンセでさえ、自分が何者であるかと戸惑う曲を冒頭においていたことが、こうなってくると、これがアイデンティティに苦しめられる時代なのだと観念するしかない。多様性の副作用。そういえば「ナンバー・ワンよりオンリー・ワン」という価値観に苦しめられた時代が日本にもあり、あの時とはレヴェルが違う騒ぎが欧米を中心に巻き起こっていると考えればいいのかも。

Babylon - ele-king


 1970年末から1980年代にかけてのUKは、移民と極右との激しい闘争の時代でもあった。度重なる差別と抑圧のなかで勃発した1976年のノッティングヒル・カーニバルでの暴動は有名だが、1981年のブリクストンやトクステスでも暴動は起きている。これらは、警察の嫌がらせに対する反乱が起爆剤となった。『バビロン』は、人種をめぐっての政治的な緊張状態にあったこの時代のロンドンを舞台にした映画で、当時のレゲエ文化のリアルなシーンを描いている。
 物語は、サウンドシステムを使ってのバトル(サウンドクラッシュ)への出場を控えた、ひとりの青年(当時アスワドのメンバーだったブリンズリー・フォード)を中心に繰り広げられる。相手はジャー・シャカで、主人公は仲間と一緒に、サウンドクラッシュに向けて着々と準備をするが、彼の前にはさまざまな困難が待っている……。

 まず嬉しいのは、当時のUKのサウンドシステム文化が見れること。なるほど、こうやっていたのかと。再開発されるずっと前のロンドンの荒んだ町並みもいい。もちろん、劇中では素晴らしいレゲエとダブが鳴り響いている。ヤビー・ユーやI-ロイのディージェイ・スタイル、ジャネット・ケイのラヴァーズ、それからなんといってもアンドリュー・ウェザオールも愛したアスワドの名曲“Warrior Charge”、この映画のテーマ曲だ(ちなみにそのサウンドトラックにおいては、『女パンクの逆襲』のヴィヴィエン・ゴールドマンが同曲でトースティングをしている)。
 思想家ポール・ギルロイが言ったように、体を揺さぶり、低音を聴き、感じることができるロンドン中のレゲエやダブのサウンドシステム文化は、現代社会に対する過激な批判を秘めていると、映画『バビロン』を見ると納得する。『ガーディアン』が書いたように、「暗いダンスホールは、参加者を抑圧的な現在から連れ出し、音楽の歌詞は、資本主義の下で働くことのつまらなさを鋭く突く」。
 ジャマイカとはまた違ったUK独自のレゲエ/ダブのドキュメント、2019年にニューヨークでプレミア上映され大きな反響を呼んだという本作、本邦初上映です。

原題 : Babylon | 監督:フランコ・ロッソ│脚本:マーティン・ステルマン、フラン コ・ロッソ│撮影:クリス・メンゲス│音楽:デニス・ボーベル、アスワド 出演:ブリンズリー・フォード、カール・ハウマン、トレヴァー・レアード、ブライ アン・ボーヴェル、ヴィクター・ロメロ・エバンス、アーチー・プール、T.ボーン・ ウィルソン
1980 年│イギリス │カラー│94 分 |
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィ ルム | 宣伝:VALERIA

■10月7日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー

Mary Halvorson - ele-king

 ぼくぐらいの世代、ないしはそれ以降の雑食性リスナーになると、だいたい若い頃にいちどは阿部薫にハマって、で、ジャズをもっと聴きたいと追求している過程においてアンソニー・ブラクストンの『フォー・アルト』に行き着いたりする。1969年に発表されたそのアルバムは、初めて聴いたときは雷に打たれたような衝撃を受けるもので、まずは壮絶なテクニックとその表現力に圧倒され、そして“ジョン・ケージへ”や“セシル・テイラーへ”といった象徴的な曲名に好奇心がかき立てられもする。歴史的に言えば、そもそも伴奏無しのサックス1本による演奏のみでアルバムを作ってしまうという思い切った試みはこれが最初なのだ。しかし、『フォー・アルト』は感性に身をゆだねて生まれた感覚的な音楽ではない。ブラクストンは理論家で、彼の演奏には彼のシステム論的な根拠がある。
 シカゴのサウスサイド(ハウスやフットワークの故郷でもある)に生まれ、AACM(アート・アンサンブル・オブ・シカゴの母体にもなった前衛ジャズ研究団体)の初期メンバー、つまりジェフ・パーカーの先輩筋にもあたるブラクストンは、恵まれた家庭環境ではなかったし、経済的な理由からたびたび大学を辞めているが、学ぶことを諦めなかった人物だった(70代半ば過ぎのいま現在でも彼は自らを学ぶ人と言う)。おもにジャズと現代音楽の影響を吸収し、クラシックのオーケストラのための曲も書いているブラクストンは、独自の音楽システム理論のいくつかを発明したことでも知られている。彼の(ぼくには難解きわまりない)音楽理論は書にも表されているが、キャリアの途中からは本人が大学で教鞭を執ってもいる。1990年から2013年まではウェズリアン大学で音楽の教授を務めており、おそらく、任期の最後のほうの教え子のひとりがメアリー・ハルヴォーソンだ。
 
 彼女にはすでに膨大な作品があり、ぼくはそれを網羅している者ではないので書くことは限られてしまうが、彼女が『コード・ガール』を発表してからは、ハルヴォーソンの音楽は即興マニアだけのものではなくなっている。かつて『Wire』誌から「書店員のように静かで親切」と形容された彼女だが、活動は精力的に継続しており、作品のリリースが途絶える気配はまるでない。いままさに彼女は乗っている時期にいるのだろうけれど、この度リリースされた『アマリリス & ベラドンナ』(CDと配信では『アマリリス』と『ベラドンナ』のダブル・リリース、アナログ盤ではその2枚のカップリング)は、一連の彼女の前衛作品のなかにおいて、より多くの人を酔わせる瞬間が多く、より多くのリスナーに開かれた作品となっている。〈ノンサッチ〉からのリリースというのも関係しているかもしれない。大作ではあるが、まあ、平たく言えば入りやすいアルバムなのだ。

 『アマリリス』は彼女にとって新しい六重奏団による演奏で、こちらは全体を通してジャズ的と言える。もっとも1曲目の“Night Shift”が素晴らしいのは、それがジャズ的だからではない。それは空に舞い上がる花弁のように、華麗で、心躍っているからだ。ハルヴォーソンの軽やかなギターとセクステットの楽しげな演奏は、この音楽が理論のためのものではないことを告げている。ストレートな演奏の表題曲の疾走感もみごとだし、“Hoodwink”はいまならアンビエントなどと形容できる曲だ。
 当然のことながらハルヴォーソンの実験精神と革新的なギター演奏は随所に見られるが、彼女のほかの作品同様、ラディカルなスタンスが刺々しいとは限らないし、基本的に彼女の音楽は洗練されている。実験的だがエレガントで、彼女はぼくたちに音楽の感じ方の柔軟性を示しているようにも思える。こういうのもありますよと、まさに親切な書店員のように。
 『アマリリス』のアイデアを弦楽四重奏として発展させたのがもう1枚の『ベラドンナ』で、NYで暮らすハルヴォーソンはロックダウンの最中、もてあます時間をオーケストレーションの勉強(および本作の記譜)に当てていた。その成果がここには発揮されているというわけだ。『アマリリス』よりも静的な作品になっているが、息を呑むほど美しいのはこちらかもしれない。

 ぼくがアンソニー・ブラクストンに興味を覚えたのは、彼の音楽がときに黒人らしくないと批判されてきたからだった。その点において黒人音楽史におけるブラクストンは、Pファンクやデトロイト・テクノと似ている。おまえの音楽にはソウルがない、おまえは黒人ではない、おまえが好きなのはエドガー・ヴァレーズだ、そう言われてきたブラクストンは一時期はジャズから追い出され、自らも自分の音楽はジャズではないと主張し続けていた。時代的に言えば、60年代に黒人音楽家がシュトックハウゼンを愛することは、80年代に黒人でクラフトワークを愛することよりも冒険的で、未来的だった。
 ハルヴォーソンは『Wire』誌のインタヴューで「先生は、信じられないほどオープンマインドだった」と述懐している。サン・ラーなら話はわかるが、レディ・ガガまで受け入れていたというその寛容さは、ハルヴォーソンの音楽の風通しの良さにも通じているのだろう。音楽の大衆性を忘れずに実験するということの、じつに優雅な表現力を持った音楽となって。『ベラドンナ』に収録されている“Flying Song”を聴いて欲しい。音楽における温かみには、こんな描き方もあるのだ。

 2016年7月に急逝したWOODMAN(2013年 ele-king vol.12に、ペイズリー・パークスとの対談あり)、彼が残した膨大な作品のなかから、1999年に制作、MACARONIMAN名義でリリースされた『Downtown Science』がレコード店JET SETによってアナログ化された。日本のフットワークや食品まつりにも影響を与えた彼のあまりにもオリジナルなプロダクションが聴けるチャンスです。チェックしてください。
https://www.jetsetrecords.net/i/814006021169/
 

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