「Dom」と一致するもの

Ed Motta - ele-king

 80年代から活躍するシンガー・ソングライター、エジ・モッタはブラジリアンAOR~ジャズのヴェテランだ。4ヒーローのマーク・マックとコラボしたり、クラブ・ミュージックとも接点のあるアーティストだが、ここ10年のあいだも、タイトルどおりの内容の『AOR』(13)や、AORとジャズの両方を試みた『Perpetual Gateways』(16)など話題作を送り出しつづけてきた。前作から5年のときを経て放たれる新作『Behind The Tea Chronicles』は、なんともメロウでグルーヴィンな1枚に仕上がっている模様。発売は10月20日。先行シングル “Safely Far” が公開中です。

Nondi_ - ele-king

 ジューン・タイソン。彼女はいまの私の母と同じくらいの年齢だが、私が母にジューンの話をしたとしても、きっと誰のことなのかわからないだろう。ジューンはいわば盗賊団のなかの女神で、サン・ラーのもっとも有名な曲の数々を歌った偉大な声だった。また、彼女は私が初めて出会った、実験的な音楽に取り組む黒人女性でもある。

 2023年の現在、さて、どれだけの黒人女性が冒険的な音楽活動を成し遂げているのか、数えるのは難しい。ダンスやR&B、ラップなど主流の音楽では、慣習の外に踏み出す人はほとんどおらず、いま、私の頭に浮かぶのはわずか3人だ。NkisiMoor Mother、そしてLazara Rosell Albear。みんなそれぞれ素晴らしい、が、金メダルに値するのは間違いなくNondiだろう。 彼女の『Flood City Trax』はすでに、ジャンル分けなど許さないエクレクティックな音世界を持っている。

 アルバムには、ジュークにインスパイアされたという彼女の言葉通りハードコアなトラック、“01-25-2022 ” がある。この曲は刺激的な故障であり、説明するのが困難なほど背徳的だ。女王の鞭よりも鋭い殺人的な魅惑をもって、クラブでリピートされもしたら胴体は疲労困憊してもなお回旋し続けるだろう。しかし、それは1曲だけ。このアルバムの真のリズムは、1曲目の "Floaty Cloud "からはじまる。ヴェイパーなメロディ、DIYベッドルーム・プロダクション、そして決して途絶えることのないビート。これはフロア専用のダンス・ミュージックではないし、そうなるように作られたものでもない。Nondiが駄菓子屋の子供のように自分の正直な気持ちに従ったことは明らかで、私たちは、彼女のこの知恵によってますます祝福される。夢見心地は早い段階からはじまり、最後のトラックまで止まらない。が、ジューク・ミュージックが安定を保つための地面に杭を打っているとしたら、彼女のオーラル・ヴィジョンの焦点はそこではないのだ。

 ジューン・タイソンのことを考えると、彼女の声は同時にラーの声でもあった。ジムクロウ時代を生き抜いた彼女らの世代は、貧しい隔離されたコミュニティで育ち、白人の差別主義者が所有する農園(プランテーション)の近くに住むか時給自足の暮らしをしていた。私はジューン・タイソンの美しさに、斧を持ったカントリー・ウェアの女性が佇むこの反抗的なジャケットと同じ感覚を覚える。他方でそれは、『カラーパープル』の記憶をよみがえらせもする。あの、貧しくても反抗的な姿勢を。これこそFAFO*ってヤツだ。

 また、このジャケットは、多くの黒人がよく知っている状況を明確に示してもいる。何百万人もの人びとの命を剥奪した1970年代以前の南部の生活を思い出しながら、この女性は斧を持って復讐に燃えているのだ。

 そして、新しいシンセサイザーの宝庫を切り開く準備ができている。ジャケットに描かれた小作人のイメージと、各トラックから発せられる鮮やかな色のコントラストは、Nondiのトラックスとその意図の奥に染み込んだフューチャリズムの深さを示している。これは、黒人としての生活の重圧に苦しむ魂を癒す温かいサウンドだ。Nondiは、私の飢えた心に語りかけてくる。K-POPやフェイクDJに疲れ、私はひとつの様式などには留まらないミュージシャンを渇望している。ようこそ、Nondi。


*「FAFO」はもともとブラック・イングリッシュ。2022年に米ポップ・カルチャーの文脈でも流行り、同年の流行語大賞に選ばれた。「火遊びをすると火傷するかもしれない」、あるいは「もう火傷してしまった」ということを伝える生意気な表現だったが、いっぽうでは「斬新な挑戦に遭遇したときの」仲間の「気概」を表現しているとし、Urban Dictionaryではこのフレーズに「自信の表明」の意味も含めている。


Nondi_ / Flood City Trax / Planet Mu

June Tyson. About my mother`s age now but if I mentioned June to her, I’m sure she’d have no idea who she was. But June was a goddess among thieves, she was the grand voice of many of Sun Ra`s most famous songs. She was also the first Black woman I ever encountered doing experimental music. And to be sure even in 2023, it is damn hard to count how many Black women embrace eclectic music outright. Sure dance, Rnb, rap etc, they dominate but outside of convention few tread. I can only count 3 off hand. Nkisi, Moor Mother, and Lazara Rosell Albear. All amazing in their own right but Nondi is definitely going for the gold medal. With “Flood City Trax”, she already has an eclectic sound world that mentions genres and promptly ignores them. By her own words, she was inspired by Juke and indeed there is a hardcore Juke track, “01-25-2022”. To say that the track smacks fails to illustrate how vicious it is. A killer headturner sharper than lashes from a dominatrix. If on repeat at a club, torsos would gyrate into exhaustion. But that is only one track. The true rhythm of the album starts from 1st track “Floaty Cloud Dream”. Vapor melodies, DIY bedroom production, and a beat that never truly snaps. This is not foot to the floor dance music nor was it made to be. It’s clear that Nondi follows her voice like a kid in a candy shop. We are all the more blessed by this wisdom. The dreaminess starts early and doesn’t stop til the very last track. While Juke music is a stake in the ground for stability, it isn’t the focus of her aural visions.

In thinking of June Tyson, she was the voice of Ra just as much as he himself was. Their generation straight out of the Jim Crow era, grew up in poor, segregated communities, DIY living near or on plantations owned by white racists. When I think of the beauty of June Tyson, I get the same feeling with the defiant cover of the woman in country clothes carrying an axe. It immediately conjures memories for me of the Color Purple. Poor but defiant. A real FAFO attitude.

The cover is a clear nod to conditions that many Black people know all too well. Recalling pre1970`s southern life that greatly disenfranchised the lives of millions, the woman is instead vengeful holding an axe ready to defend my people and cut open a treasure trove of new synth sounds too. The extreme contrast between the share cropper imagery from the cover and the vibrant colors emanating each track shows the depth of futurism seeping deep in the trax and intention of Nondi. Warm sounds that soothe souls suffering from the weight of Black life. Nondi is a musician that speaks to my starving heart. With K-pop and fake dj fatigue, I am famished for a musician that doesn’t give a fuck about clear genres. Welcome Nondi.

*§*†

 まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり、CDラックの奥のほうに突っ込まれていた『Otis』(Endorphine Factory, 1993)をその手前に無造作に積まれた本の山を崩しつつ、苦労して引っ張り出してきた。YouTubeにアップロードされた音源を適当に見繕って聴いてもよかったのだが、CDでないといけない気がしたのでブラウザは開かなかった。ヴァイナルほどではないにせよCDで音楽を聴く行為には昨今では明らかに儀式的な性格が付きまとっている。とはいえある種の聴取のモードに入るためにその過剰さが好都合に働くこともあるのだ。プラスチックケースを開け、ディスクを取り出してスリットに挿入し、読み込まれたのを確認してから再生ボタンを押す。最初のトラックは中原本人と思しき青年が、友人たちとともに訪れたカラオケボックスで『ミラーマン』の主題歌を気持ちよく歌う様子をほぼそのまま垂れ流したあの有名な楽曲(?)である。このトラックによってアルバム全体を貫くトーン、表面に現れるスタイルとは別の、根底をなすメタスタイルとでもいったものが決定される。リズムマシンが打ち出す正確なリズムはつねにどこか場違いな軽みを帯び、掻き鳴らされるギターの弦はたいてい緩みきって調子外れな音を出しており風刺性さえ感じさせない。歌とも叫びとも語りともつかない声が時折介入するかと思えば、突如として不穏な沈黙が挟まる。異様にオプティミスティックな映画の一場面がサンプリングされた次の瞬間には、ジャパノイズの十八番たる爆発的なハーシュノイズが耳を覆う。絶対的に文脈を欠いたデスヴォイスがいつ果てるともなく続き、そして糸が切れたように唐突に終わる……楽曲ごとにスタイルはまったく異なるにせよ、その背後にある中心的モチーフあるいは戦略素は一貫している。テレビで繰り返し流れるCMソングや子ども時代に見ていた(見せられていた)特撮番組の主題歌といった、嫌でも耳に入ってきてしまう音、イヤーワームとして頭に染み込んでしまった音をいわば「吐き戻す」場所としてのカラオケボックスがそれだ。むろん第一義的にはそこは、日本のポピュラー音楽が文化産業(アドルノ)として消費者側の需要を刺激しつつ、映画やテレビといった視聴覚メディアの物語生産のフォーマットと連動して、聴覚的‐情動的な支配‐被支配関係の再生産を行っている当の場所であるのだが……音は、社会から切り離された抽象的な空間で生成されているわけでは決してなく、社会そのものの良くも悪くも具体的な、生々しい運動から放たれるノイズとして存在している(中原も友人たちと連れ立って、いわば社会的行動の文脈においてカラオケボックスを訪れている)。暴力温泉芸者はカラオケ的な音がもつそうしたノイズ的、ないしはアブジェクション(クリステヴァ)的な本性に気がついているようだ。暴力温泉芸者の名に含まれる「温泉」は──もちろんそこにもしばしばカラオケマシーンが置かれている──性的かつ生物学的な再生産(生殖)のために家庭とは別に社会的に設えられた空間の名にほかならない(他のノイズ・ミュージシャンたちと同様に初期の暴力温泉芸者は古いポルノ映画からの引用を頻繁に行っている)。他方、暴力温泉芸者の出す音がときにどれほど凶暴に(文字どおり「暴力」的に)なろうと、単純なレベル・ミュージックには決してならない(なれない)のは、レベル・ミュージックさえ商業的に利用し、消費と生産の際限のない循環に包摂することができる後期資本主義の(ポストモダンの、と言ってもよい)メカニズムについての意識をもたないことが彼のように知的に鋭敏な人間にとっては不可能なことだからだろう。暴力温泉芸者は言ってしまえば教養がありすぎて、どこまでいっても体制との折り合いをつける「芸者」としての仮面を外すことができないのだ。それは良くも悪くも、である。しかしその不可能性の前で恐れることなく棒立ちし続けるすっとぼけたアイロニーの内在的強度こそが、暴力温泉芸者のノイズを他面では、MerzbowやIncapacitantsの超越的あるいは超俗的なニュアンスをもったノイズから差異化している。別にこれは私一人の独創的な見解というわけでもなく、彼の音楽が好きな人たちのあいだでは多かれ少なかれ共有されている見方だと言っていいだろう。再生産の場所の曖昧な汚濁を引き受けた暴力性は、犬の鳴き声(おそらく小型犬だ)とカンフー映画の打撃の効果音と取り留めなくその周波数を変えるサイン波との組み合わせのなかで、アイロニカルに物象化される。ポルノへの参照に加えて中原の音楽には、初期のコーネリアス(小山田圭吾)と同様に、お笑い(コメディ)へのベクトルが含まれている(そしてもちろんコメディの感覚‐運動図式は「いじめ」のそれから切り離せないものである限りで、ポルノと同様のアブジェクション的な次元を備えてもいる)。道化師の媚態はそれ自体が鋭利な恐怖の源泉となりうる。

 私は満足してCDプレイヤーの停止ボタンを押す。

 その夜私が暴力温泉芸者のアルバムを聴きたくなったのは偶然ではなく、実はあるノイズ・ミュージックのライヴを聴いてきた帰りだったからなのだが(私たちの心のなかで生じる表象の移り変わりは事程左様に、一見私たちの自由意志に従っているようでありながら、突き詰めていくとこうした機械論的因果性のもたらす必然性に例外なく従っているものなのである──心的な領域にまで届く運命論(fatalism)、この地点でこそ、私たちが自身を自由であると感じるのは私たちがたんにその意志を規定している原因を知らないからなのだと主張する必然主義の哲学者スピノザと、夢や失錯行為はたんなる偶然的なものなどではなく無意識的な隠れた動機をもつものなのだと強調する合理主義の精神分析家フロイトとがにこやかに握手を交わす)、そのライヴによって突きつけられた謎を解くための鍵をおそらく私は、初期の暴力温泉芸者のアルバムを聴くことによって無意識のうちに探っていたのだろう。その謎とはひとことで言えば、結局のところ、ノイズとは何なのだろうか、というものである。というのもすでに述べたとおり、中原のアルバムに登場する音は猥雑なまでの多様さを示しており、単一の本質的な特徴によって括ることなど(カラオケ的という茫漠とした特徴を除けば)到底できないように思われるし、しかもそれらの音は各々単独に取り出してみれば決してノイズとは呼ばれえないような、私たちが日常的に耳にするようなありふれた音だからだ。いや、平凡さを通り越してその音が与える印象は、ほとんど頓馬の域にまで達していると言ったほうがいいのかもしれないが。

 誰もはっきりとは言わないが誰もが薄々感じているであろうことを、ここであえて言ってしまうと、ほとんどのノイズ・ミュージックは全体の印象としては同じように聞こえるものだ。もちろん部分ごとに比較すれば差異は当然のように聴きとれる。だが全体としてのノイズは、アルバム単位であれトラック単位であれ(そもそもトラックごとに楽曲として区切られること、始まりと中間と終わりをもつこと自体を、ノイズ・ミュージックは忌避する傾向にあるのだが)個体性よりも識別不可能性を明らかに志向している。聴き分けるということへの、知覚の解像度への抵抗がそこにはある。だからこそ(ちなみに自由即興のジャンルにも似たような傾向が見られるが)その識別不可能性があたかも存在しないかのように、それらの「作品」の個別的特徴を知覚的に明らかのものとして語ってみせることが批評的なパフォーマンスとして成立するのだろう。しかし実際のところ……使用する機材の違い、スタイルの違いはあれど、ノイズ・ミュージックは、ノイズであろうとする限り、ある意味で多かれ少なかれみな〈同一の音〉を鳴らしている、と言うことができるのではないだろうか。すべてのノイズ・ミュージックは、多かれ少なかれ類的につながっているのだと。そしてそのような識別不可能性を真正面から認めるときにこそ、〈いまここ〉ならぬ〈そのときそこ〉で鳴っていたノイズの特異性を聴きとることができるのではないだろうか。この特異性は、声に出されることのないひとつあるいは複数の問いの雲のようなものとして、耳の中で高速で回転し続ける。声を獲得し定式化されるときには、すでにそれは陳腐な響きを帯びてしまっていることだろう。その〈問い以前のもの〉が耳の中で回転しているうちに、言語化されてしまう前に、テープにその〈問い以前のもの〉と同等な何かを自分なりのやり方で吹き込んでおくこと。それをしていれば、私も今頃ノイズ・ミュージシャンになることができていたのかもしれない。だがもう遅い。その問いは言語化されて、カラオケで歌われるあれやこれやの歌と同様の、あのありふれた、ちょっとした汚らしさを伴って再生産されてしまっている。「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」という少しばかり気どった歌の文句として……。

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§†**

「ノイズとは何か」という問いが「音とは何か」や「音楽とは何か」といった問いと同様に、その見た目の初歩性に反してかなり厄介なものであることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度以上慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られた事柄である。「〜とは何か」という本質主義的な問いの立て方が、すでにこの問いを袋小路へと向かうよう運命づけているのだと述べるだけでは十分ではない。困難は、音や音楽が問いの対象としてポジティヴなものであるのに対し、ノイズはネガティヴな対象であるということに存している。とはいえ、ネガティヴであるとは抽象的であるということを意味するのではない。ノイズは私たちが日常的に繰り返し耳にしているものでもあるし、間違いなく経験的な具体性を帯びた対象であると言うことができるのだから。

 「ノイズとは何か」というこの具体的すぎるがゆえに手に負えない問いに対して、いまあえて答えることを試みるならば、採れる道筋はおそらくひとつしかない。すなわち、最も素朴な答えから出発して、その失敗を確認しつつ、徐々に素朴でない答え方へと移行していくというやり方である。かくしてひとは次のように呟くことになる。ノイズとは少なくとも、音楽的ではない音のことだ。音楽的な音とは、音楽理論で音高(ピッチ)と呼ばれ、音響物理学では周波数(可聴域内の)と呼ばれる要素をもった音のこと、言い換えれば、リズムとして知覚されるよりも短い時間スケールにおいてある種の安定した反復構造を示すような音のことである。したがってノイズとは、そのような内的な反復構造ないしは周期性をもたない音のことである、と。反例を挙げるのはそれほど難しくない。スピーカーの配線を間違えた際に鳴るハムノイズは明らかに音高/周波数をもつが、それでもノイズと呼ばれている。また、身のまわりの(やや古い)電子機器から発されるビープ音や、オーディオ機器のテストの際に使用されるサインスイープ音も、純粋な音高/周波数を備えているにもかかわらず、むしろノイズとして聴かれることのほうが多いだろう。ゆえに、ある音がノイズであるか否かは、その音の内的構造としての周波数や倍音構造に即して決定されるのではなく(西洋音楽において非整数倍音をもつ金属的な音色がノイズないしそれに準ずるものとして扱われることが多かったという歴史的事実をひとまず脇に措くなら)、むしろその音にとっての外的な構造、すなわちその音がそこにおいて聴かれているコンテクストに即して決定されるのだと言われなければならない。
 だが、そのように言ってみたところで何も解決されはしないということに私たちはただちに気づかされる。実際にさまざまな音がノイズとして聴かれるのが〈いかなる〉コンテクストにおいてなのかを突き止めない限り、「ノイズとは何か」という問いは相変わらずひとつの謎として残り続けることになる。

 視点をずらしてみよう。一般にある音がノイズとして聴かれるのはその音が非音楽的なコンテクストにおいて聴かれる場合、またその場合に限られると述べるとき、私たちはノイズをいわゆる環境音と実効的に同一視していることが多いように思われる。たしかに、都市において聴かれる各種の心理的にストレスフルな環境音は、イタリア未来派のルイジ・ルッソロの「ノイズの芸術」のアイデアが典型的に物語るように、歴史的に見てノイズの具体例として真っ先に挙げられる類いのものではあった。しかしその一方で、田園的な風景のなかで聴かれる川のせせらぎや鳥の鳴き声といった環境音は、一九世紀のロマン派以来(古代ギリシアのピタゴラス派の「宇宙の音楽」以来ではないにせよ)「自然の音楽」という詩的メタファーによって枠づけられ、ノイズとは正反対の評価を受けとることも少なくなかったことが思い起こされる。付言しておけばR・マリー・シェーファーのサウンドスケープの思想における「保護」されるべき環境音とそうでない音とを分かつ差異も、こうした自然/人工という古くからある二項対立を参照して設定されている。事情がそのようなものである以上、歴史的に見てすべての環境音がつねにノイズの領域に属してきたと言うことはできないだろう。また、ノイズと呼ばれる音のなかに都市の環境音だけでなく、先に触れたような人工的に(意図的に)生成された電子音、とりわけカラードノイズと呼ばれるような音が含まれていることを考えるなら、すべてのノイズが(非意図的に生成された音という意味での)環境音の領域に包摂されるわけではないということも認めざるをえない。要するにノイズと呼ばれる音の領域は、環境音のそれとも電子音のそれとも正確に重なりあうことはないのである。

 加えて、ノイズの概念は近年では音響的なものの領域を超え出ていく傾向さえ示している。「ノイズという語を、ほとんどの場合引用符付きで、音とは関係のないさまざまな文脈においてしばしば情報と対立するものとして用いることはいまや当たり前のことになった」と、セシル・マラスピーナはその著書『ノイズの認識論』の冒頭で述べている。たとえば金融の分野で語られるノイズとは、「証券取引所でのランダムな変動に関連した不確実性」にほかならない。「ノイズは、経験的探求のほとんどすべての領域で、データの変動性の統計的分析に元から備わる概念となった」。現代的統計学における精度(precision)の概念が誤差すなわちノイズがそこに収まる幅によって定義されていることからもわかるように、ノイズは現代の知、科学的認識の手続きにとって付帯的なものではなく、むしろ構成的なものである。「ノイズという語の特別な意味はそれゆえ、統計的平均との関連での不確実性、確率、誤りといった考え方が被った方法論的な変容とそれらがまとった新たな科学的身分とをともに含意している。このような豊かさを背景として、サイバネティクスと情報理論においてその後になされたノイズの定義は、物理的エントロピーの概念と、より一般には不確実性、統計的な変動および誤差の概念を遡及的に取り込むこととなった」(Cecile Malaspina, An Epistemology of Noise, London: Bloomsbury, 2018, p. 1-2)。
 ならばそこからのアナロジーで音としてのノイズを、シグナルすなわち聴取者に何らかの情報を与える正常な音に対立する、いかなる情報も与えない異常な音だと定義すればよいのだろうか。少なくとも理念的な極限としてなら、そのような不可能な音の存在を仮定することも許されるだろう。だが言うまでもなくそのような定義からは、音響的な複製や生成の技術的過程で生じる純粋なトラブルとしての、再認不可能で複製不可能な(すなわち反復不可能な)音のようなもののみを〈ノイズなるもの〉のモデルとして特権化するような身振りが避けがたく生じてくる。それはノイズの概念を再び、可能的な聴覚経験の全体を吊り支える、それ自体は聴覚的に経験不可能であるような単一の点に、あるいはそうした全体に対する超越論的ないしは潜在的な裏地のようなものに変えてしまうことにつながるだろう。そのような「否定神学」的なノイズの概念を振りかざすことが、数学的極限としてのホワイトノイズに〈ノイズなるもの〉の超越的で実定的な理念を見てとる通俗化されたデジタル・ミニマリズムの素朴な態度と比べて、理論的にも実践的にも特段優れているわけでないことは言うまでもない。クリストフ・コックスが諸芸術における共感覚を唯物論的角度から論じる文脈で、ドゥルーズの共通感覚批判を引き合いに出しつつ、「感覚されうるものの存在ではなく感覚されるところのものを把捉する「諸能力の経験的使用」〔すなわち常識=共通感覚〕」に対立する、各能力の限界にまで行き着くことで「感覚されうるものの存在」を明るみに出すような「諸能力の超越論的行使」を称揚する際に陥っているのは、まさにこの種の危険であるように思われる(cf. Christoph Cox, Sonic Flux: Sound, Art and Metaphysics, Chicago, IL: University of Chicago Press, 2018, p. 212)。
 結局、ノイズを聴くことのうちで賭けられているのは、その可能的な経験(つまり可能的なノイズの聴取)といったものではなく、むしろ実在的な経験、事実性としての経験、つまり実際に聴かれた音のうちでその音が自己同一性を失い、何か別のものへと変形していくのを(それがどれほど短い時間に生じることであれ)聴く、聴いて〈しまう〉ということであるのだと思われる。だがそのような事実的に聴いて〈しまう〉ことの核には、不可能な音の可能性をそれでも信じきるといった神秘主義の行為とは何か別のものが存在しているのでなければならない。

 神秘主義なきノイズとの出会いにたどり着くためにまずなすべきことは、ノイズを何らかのタイプの音として実体化したうえでこれを聖別するような、あらゆる身振りを退けることであると考えられる。かつてエドガー・ヴァレーズは「主観的には、ノイズとはひとが好まないあらゆる音のことである」と述べた。このような心理的観点からの定義の企ては、たしかに「ノイズとは何か」という問いを「ノイズを聴くとはどういうことか」という別の問いに適切に置き換えるという点では有益なものである。しかしこれは、ヴァレーズ自身「主観的には」という留保を付すことで仄めかしているように、ある音がそこにおいてノイズとして聴かれるコンテクストについて情動的観点からの限定を加えるものでしかない。聴覚文化研究者のマリー・トンプソンが強調するように、ノイズというカテゴリーには明らかに「望まれない音」以上の何かが含まれている。「ノイズなくしては音楽も、メディア作用も、音そのものさえ存在しないのだ」(Marie Thompson, Beyond Unwanted Sound: Noise, Affect and Aesthetic Moralism, London: Bloomsbury, 2017, p. 3)。そしてその「〜以上の何か」とはおそらく、ポール・へガティが宇宙背景放射を念頭に置きつつ次のように語る際に仄めかしているような、ノイズにおける除去不可能な何かのことである。「ビッグバンは音をもっている──それは決して取り除くことのできない最終的なスタティックノイズだ──それゆえ宇宙それ自体は(少なくともこの宇宙は)ノイズとして、残余として、予期されざる副産物として想像されうるのであり、そして最後の音はまた最初の音であることになるだろう」(『ノイズ/ミュージック』若尾裕・嶋田久美訳、みすず書房、二〇一四年、八頁、訳文変更)。仮に宇宙そのものに音量のようなものがあるとして、それを無際限に増幅していくなら、どの局の放送も受信していないラジオの音量を上げていったときのように、ついには何らかのスタティックノイズが出現するはずである。その音は初めからすべての局の放送の背後で鳴っていたのだが、そのことが気づかれるのはそれらの放送すべてが終わった後のことでしかない(したがってそこでは所与としての可能的な音響の超越論的枠組みがアプリオリに聴かれているわけではない)。ノイズの除去不可能性は究極的には、ノイズがもつこのような時間的に捻れた存在論的身分に関わっている。へガティが思い描く「最後の」聴取が、彼が肩入れする哲学者ジョルジュ・バタイユにおける宇宙的な夜、絶対的な無差異への脱自的没入というヴィジョンに引きずられた誇張的な提案である点には注意すべきだが、ノイズを宇宙論的に理解しようとするその姿勢自体は、沈黙をノイズの同義語として用いたジョン・ケージの思想を彷彿とさせるものでもあり興味深い。

 周知のようにケージは、ヴァレーズの定義とはわずかに異なり、「沈黙とは私たちが意図していない音のすべてである」と述べている。「絶対的な沈黙といったものは存在しない。したがって沈黙に大きな音が含まれるのはもっともなことであり、二〇世紀にはますますそうなっている。ジェット機の音やサイレンの音、等々だ」(Douglas Kahn, Noise, Water, Meat: A History of Voice and Aurality in the Arts, Cambridge, MA: MIT Press, 1999, p. 163より引用)。意図していない音とはすなわち、偶然的な音、正確に言えば「望まれない音」であるのかどうかさえいまだ不確定であるような音のことである。だとすればケージによる沈黙としてのノイズの定義は、ヴァレーズの定義が引いた主観性という境界線を一歩だけ、しかし決定的な仕方で、踏み越えていることになる。というのも、意図されない音として背景ではつねに何かが鳴っており、そしてこの鳴り響く何かは、私たちにとって(主観的に)偶然的であるだけでなく、究極的にはそれ自身において(客観的に)さえ偶然的な、あるがままの事物の断片にほかならないからだ。ノイズをネガティヴな情動との関係によって特徴づけるのではなく、情動そのものへの無関係、情動へのインディフェレンツ(無関心=無差異)によって特徴づけること。私たちはここで「偶然的なものだけが必然的である」という哲学者カンタン・メイヤスーの思弁的なテーゼを思い出すこともできる。偶然的な音としてのノイズは、一見、聴取する私たちの意識に相関的に存在しているにすぎないもののように思われるかもしれないが、実際にはそうではない。私たちの聴取の志向的働き(意図)が存在していなかったときでさえ何らかの音が沈黙として存在していたのであり、それが音として鳴っていたことに事後的に気づくことを通じて、私たちはこの沈黙をノイズとして遡及的に聴取することになるのである。偶然性のヴェールによって守られたものとしてのノイズは、私たちの意識や思考に対して非相関的に振る舞うことができるほとんど唯一の知覚的な存在者だ。裏を返せば、沈黙としてのノイズというケージの考えを偶然性という契機を無視して理解すると、ダグラス・カーンが鋭く指摘するように、音楽家の主観的な意図(発言)を「音そのもの」から除去することには成功しても、聴くことができる=音であるという等式に従って、汎聴覚性(panaurality)というかたちで主観的な属性を客観的な音の世界の全体に再び投影することになってしまうのである(cf. Kahn, op. cit., p. 197-8)。ゆえに偶然性という契機は「存在としての存在」ならぬ〈ノイズとしてのノイズ〉から切り離せない。そしてそのような偶然的ノイズは、日常的なコンテクストでも十分に出会うことが可能な、規定された個体的な音である限りで(その個体性がどれほど不可思議な構造をもつにせよ)、超越論的ないし潜在的なノイズからは区別され、事実論的ノイズと呼ぶことができるものだろう。
(例。暴力温泉芸者の初期の作品に聴かれるようなサンプリングとサウンド・コラージュは、そこで鳴っている音そのものは日常的によく耳にするような、消費社会が生み出した一種の音響的な屑であり、再認可能で反復可能な音であるにもかかわらず、ノイズとして十分に聴かれうるものとなっている。そうした事態はそれらの日常的な音がどこかで聞いたことのある音、勝手に耳に入ってくるような音であって、それが鳴った瞬間に一定の注意とともに聴かれるような音ではないからこそ可能になっているのだと考えられる。またそれは別の観点から言えば、どこかで聞いたことのある、おそらくは繰り返し聞いたことのあるような音こそ、かえってそれを聞いた時間と場所を厳密に特定するのが難しいということでもある。暴力温泉芸者においてはさらに、サンプリングを元の音源から直接行わずに、ダビングもしくはローファイな環境で録りなおして音質をわずかに悪化させたものから行うことで、時間と場所についてより特定可能性の低い音像が作り出されている。一般にある音が自身の生成された状況についての情報を与えなくなればなるほど、その音はノイズに近づくと言える。これはたんに音源の現前性から切り離された音という意味での「アクースマティック」(ピエール・シェフェール/ミシェル・シオン)な音になっていくこととは異なる。というのも、ノイズへの漸近においては原因としての音源の特定可能性というより、結果=効果としての音自体の同定可能性が壊れていくことになるからだ(つまり、その音が何から出た音なのかがわからなくなるのではなく、その音が何であるのかということ自体がわからなくなる)。日常的な音は事後的にしか(一定の注意で)聴かれないことにより、聴覚的記憶のシステムにある時間的な捻れを発生させる。私たちが事実論的ノイズと呼ぶのはこの捻れの個体的に規定された諸事例にほかならない。イニゴ・ウィルキンズがマラスピーナと同様に確率論と情報理論の文脈を踏まえて「不可逆的ノイズ」と呼ぶものも、私たちが事実論的ノイズと呼ぶものと同様に、システムのなかでの情報の回復不可能な消失とその結果生じる時間的非対称性に強く依拠しているように思われる(Inigo Wilkins, Irreversible Noise: The Rationalisation of Randomness and the Fetishisation of Indeterminacy, PhD thesis, Goldsmiths, University of London, 2015, p. 37-8)。)

 ノイズに関するそのような強い偶然性、すなわち事実論性の仮定のもとでは、おそらく「私が聴いているのは何の音なのか」という問いを超えて、「私が聴いているのはそもそも音と呼ばれうる類いの事物なのだろうか」という問いを引き起こすような聴覚的‐音響的な出来事こそが、純粋なノイズとの出会いのメルクマールと見なされることになるだろう。このような出来事の概念は、環境世界のうちに折り畳まれた潜在的な〈生〉の線の反‐実現的な解放というドゥルーズ的な理解におけるそれよりも、日常的状況のうちには所属しえない実在的〈不死〉の輪郭の識別不可能な到来というアラン・バディウがその諸著作で描き出すようなそれにより近いと言える。バディウにおいて「出来事」とは、ある局所的な「状況」のうちでカテゴリー化され認識可能なものとなっている諸々の「存在」を超え出るものであって、ちょうど科学革命(パラダイム・シフト)を通じて立ち現れる諸概念間の共約不可能性がそうであるように、その「出来事」への忠実さを維持しようとする「主体」の助けを借りつつ、既存のカテゴリーを解体して新たな記述的手段を開発することで「状況」の再編成と拡張された認識可能性の出現とを準備するものである。それゆえ音にまつわるカテゴリーそのものの改訂可能性こそが、ノイズの純粋な現前化の核をなす。事実論的なノイズは、最初の聴取においては日常的な、再認可能で複製可能な音でありながら、最後の聴取においてはそうした普通の音がそこにおいてみずからの位置を割り当てられた現象性の枠組み全体が崩壊する可能性を指し示すことさえできるような、ある種の終末論的負荷を帯びた、独特な象徴的強度とアレゴリー的ギミックとを備えた音でなければならないだろう。サンプリングされ、反復可能となったデザインとしてのグリッチを私たちはもはやノイズとして聴くことはしないが、それでもサンプリングの使用法、さらには反復の手法そのものの内側で、ノイズ的としか呼びようがない予見不可能な出来事(それは必ずしも機械的なエラーではない)を「望まれない」仕方で到来させることの可能性は依然として残されていると言うことができる。手垢のついたものと見なされている音響的イディオムのうちに物質的に蓄えられたノイズ的なポテンシャルを解放し、そこに耳の注意が向かうよう促すことは、ジャンルとしてのノイズ・ミュージックと直接の関わりをもたずまたそれに隣接するジャンルで活動しているわけでもない多くのミュージシャンが、音楽史を展開させてきたかの単純さと複雑さとの弁証法に従って、各自の関心に応じて音楽の新たな次元を探求する際に本能的に行っていることですらある──ジャック・アタリの著作を引き合いに出すまでもなく、すべての音楽は(ノイズを好まない人々にとっては気の毒な話であるが)ある程度までノイズ・ミュージックであるのだ。かくしてノイズの本質性なき本質は、音のほとんど全領域にいわばノイズ的な仕方で、ある揺らぎとともに拡散される。音(のようなもの)としてのノイズがもたらす感覚的認知のプロセスの根本的な不安定化は、さまざまな分野を横断して現れる概念(のようなもの)としてのノイズの不安定な同一性と共振している(後者がマラスピーナの言う「認識論的ノイズ」だ)。「ノイズとは何か」という問いに答えるあらゆる企ては、それゆえ最後には必然的に挫折する。にもかかわらずこの問いを追求するなかで、またその追求のなかでのみ、ひとはノイズとしてのノイズを聴くことができる。だからこそ私たちは、ノイズとは非音楽的な音のことであるという素朴な直観から出発するにもかかわらず、音楽の内側でこそノイズを探求するという一見矛盾したものに映る、エラーを吐き出すことを約束されたプログラムをあえて走らせるような選択をしばしば行うことになるのである。──ノイズ・ミュージックというジャンル、この絶対的に無謀な企ての必然性はそこから導かれる。つねに新たなるうるささ、ラウドネスを音楽として発明しようとすることへの、放埓さと忠実さのあいだで揺れ動きながらも、決して譲歩されることのない、あの準‐普遍的な欲望。

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*§†*

 さて、こうした話をいまさら蒸し返すことに何の意味があるのかと訝る向きもあるだろう。『OHM: The Early Gurus of Electronic Music』(Ellipsis Arts, 2000)や『An Anthology of Noise & Electronic Music #1』(Sub Rosa, 2001)といった優れたアンソロジーが発売された前後の時期には、サーストン・ムーアやポール・D・ミラー(DJスプーキー)といった教養ある人々の顰みに倣って、ノイズをめぐる現代的思考の起源をルッソロやヴァレーズやケージといった歴史上のアヴァンギャルドにまで遡って位置づけることには、たしかにある種の妥当性が認められていたかもしれない。しかし現在、そのような単線的歴史化の身振りを、音のクラスそして/あるいは音楽のジャンルとしてのノイズについて語るための、それがあたかも必須条件であるかのように行ってみせることは、この二〇年間に蓄積されてきたノイズに関する非目的論的歴史観にもとづく知見の数々に背くことであるし、ノイズをめぐる思考のうちにそれとは本質的に反りが合わない、真正性や音楽的な質に関する判断を暗にもち込むことにもなりかねないだろう、と。そうした非難を予期しつつ、それでもあえてここまで私たちが、ノイズの概念の歴史性を最近の聴覚文化研究や音響研究の成果への瞥見も交えて、駆け足気味にではあるが論じてきたのは、音楽のジャンルとしてのノイズがもつ概念的に(おそらくは政治的にも)不確かな地位が、音のクラスとしてのノイズ自体がもつ同様に不確かな地位と共鳴関係にあることを示したかったからであり、またノイズ・ミュージックの生産者と受容者のあいだで繰り広げられる言語ゲーム(もちろん文字どおりの言語を介して行われるわけではないが)の二〇二〇年代初頭現在における主要な(もちろん暗黙の)論点がもはや、聴取と相関する限りで存在するものとしての音の領域を美学的に拡大することのみに関わっているわけではない、ということを示したかったからでもある。拙劣かつ不完全な仕方であっても、ノイズをめぐる思考と聴取の歴史をいったんこのように俯瞰的に捉えなおしておくことは、ノイズ・ミュージックに関する神秘主義やファナティシズムに安易に身を委ねることから、あるいは薄っぺらな擬似‐民主主義的ダイバーシティの理念の美学的な代弁者としてノイズ・ミュージックを引き合いに出すことから、私たちをある程度まで守ってくれるという意味でも、決して無駄なことではないように思われたのだ。

 新たなラウドネスを音楽の可能性のひとつとして絶えず発明し続ける試みとしてノイズ・ミュージックを特徴づけることには別のメリットもある。すなわち、ラウドネスという性質そのものに含まれる社会的敵対性や生産関係(分業システム)に関わる規範性の次元への注目である。二〇二〇年代のノイズ・ミュージックにとって、ノイズとはたんに極端さと過剰さによって作動する政治的抵抗の意識の激烈な発露であるだけでなく、ある音をラウドなノイズとして聴くように促すコンテクストの解体と再構築のループを通じて、このコンテクストを貫いて走っている社会‐経済的な諸力のベクトルを観察するための実験的な機会を与えるものとなっている。社会的に実在的な空間のうちで構築されたラウドネスは「望まれなさ」というたんなる音響心理学的な属性に還元されることを拒むような、ある頑なな再帰性をもつ。いかなるノイズも聴き方次第で音楽になりうるという多幸感に満ちたポスト・ケージ主義的なテーゼの裏には、いかなる音も文脈次第でノイズになりうるという憂鬱きわまりない新自由主義的なテーゼが潜んでいる。近年のノイズキャンセリング機能つきのイヤホンやヘッドホンの人気ぶりと、それと表面的には矛盾する電車やカフェにおけるスピーカーをオンにしたスマートフォンでの周囲の目を憚らない動画視聴の流行とは、汎聴覚性を軸として展開されるポスト・ケージ主義の美学の敗北をしるしづけるものでは決してなく、むしろその完全な勝利から導かれた、ひとつのアイロニカルな帰結としての新自由主義的な美学、〈空間なき聴取〉とでも呼ばれるべき新たなミクロ統治性の様態が出現しつつあることを告げ知らせるものとして理解されなければならないのだ。ノイズと自由即興のフィールドで活動しながら、近年ではスコア(譜面)を用いた観客参加型の集団的即興を試みているマッティンは、そうした見方を現時点で最も深く発展させているミュージシャンの一人だと言えるだろう。「社会的不協和は私たちにケージのイデオロギー的無響室が現実には存在しないことを認めるよう求める──ホワイトキューブの中立性が現実に存在しないように。あなたはすでにこの実在性の一部であり、これらの不協和はすでにあなたのうちを貫いて走っている。そのため問いは以下のようになる。主体としてのあなたとは──あなたがひとつのものであるとして──いったい何か、そしてあなたは他者たちといかにして関係するのか。肝心なのは、あなた自身を分離するための人工的な実在性を──あたかもあなたがすでに趣味の自律性を行使することのできる主体であったかのように──生成することではなく〔……〕、実在性の他の諸側面との直接的な接続を生成することであり、経済と文化とあなた自身が主体として生産される仕方とのあいだに元から備わっている諸接続を探求することなのだ」(Mattin, Social Dissonance, Falmouth: Urbanomic, 2022, p. 30)。しかしこのパースペクティヴにおいて私たちは、私たちがそれぞれ〈個人〉として〈自由〉な主体であるという思い込み自体が、資本主義社会における抑圧的再生産と疎外(alienation)の構成的な歯車になっているという、厳しくもダークな洞察に直面することになる。「私たちがそれであるところのものと、私たちはそれであると私たち自身が考えているところのものとは同じものではない、つまり私たちは合理性を通じて完全な自己理解への直接的アクセスをもつことはない。言い換えれば、私たちがもっている自律性・自由・主体性についての概念は、特定の仕方で限界づけられ歪められているのだ。しかしこれらの概念は資本主義的生産様式のイデオロギー的エンジンである。経験的かつ現象学的な個人〔個体〕としての主体という理解は、それゆえこの主体を生み出した構造的な諸条件を遠ざけて覆い隠す」(Ibid., p. 103)。ノイズによる抵抗は、抵抗の主体そのものをどのようにして構築しなおすかという問いを回避しえない限りで、再帰的な構造をもった諸戦略の練り上げに取り組まざるをえない。ひとつの音がノイズとして聴かれるという出来事を規定する諸力の戯れは、心的で生命的な領域よりもはるかに社会-経済的な領域のほうに、そしてまた、もはや心理的ではない神経科学的な領域のほうに属している。

 ノイズ・ミュージックはそれゆえ、ノイズを聴くことの実在的(たんに可能的なのではない)経験の条件を問うために、「ノイズとは何か」という問いがその内在的な論理に従って生成する、あらゆる超越論的主観性を絶滅させる偶然性の感性論的なオルガノン、事実論的なものをめぐる時間的に捻れた思弁のための実験装置であると同時に、社会‐政治的な抵抗と闘争とが音響的/聴覚的領域において継続される際に必然的にそこを横切ることになるような、ある種の倫理的な負荷を帯びた、多層化された再帰性をもつ実践的空間でもあるのだ。ノイズ・ミュージックが、それぞれその最も高い強度に達した思弁と実践とのこのような複合体でありうるのは、それがジャンルに対するある種の自己転覆的な、擬死的な関係を保つ限りでのことである。哲学者のレイ・ブラシエがその論考「ジャンルは時代遅れである」において述べるには、「「ノイズ」は電子音響の探求と自由即興と前衛的実験とサウンドアートのあいだに広がる無人の土地を指し示すだけでなく、ポストパンクとフリー・ジャズのあいだ、ミュジック・コンクレートとフォークのあいだ、確率論的作曲とアール・ブリュットのあいだといった、諸ジャンルのあいだでの干渉が生じるアノマリー的な地帯をも指し示している」(Ray Brassier, “Genre is Obsolete” in Noise and Capitalism, Mattin Artiach and A. Iles (eds.), Donostia, San Sebastian: Arteleku Audiolab, 2009, p. 62)。はたしてノイズ・ミュージックにおいて音楽はジャンルとしてのみずからの死を擬態することで生き延びているのだろうか、それとも生きているとも死んでいるとも言うことのできない状態においてウィルス的に現存しているのだろうか。いまや私たちは、私たちが実在的経験として、事実として聴くことができた、ノイズ・ミュージックの演奏のひとつの具体的な事例を記述しなければならないだろう。ひとつのライヴ(デッド)レポートとして。

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§*†*

  ケース・スタディ。理性的に切り刻まれた実験動物の死骸。ただしそこで解体されるのは音響のほうではない。私たちのほうだ。ノイズ・ミュージックにおいて実験に供されるのは音ではなく、耳である。そうだ、しかし耳だけではない。音響が襲いかかることのできる身体のすべての部分。それらがテストされる。実際にはテストという名の拷問が行われるにすぎないのだが。倫理的負荷? そんなことを言った覚えはない。音は裏切る。音響にとっては倫理的だが人間にとっては非倫理的な線が次々と引かれてゆく。どこかで誰かの悲鳴が上がる。あるいはどこでもないどこかで誰でもない誰かの悲鳴ですらない声が上がる。否、それは声ですらない。より悪いことには、音ですらないかもしれない。最近は大規模言語モデルでさえ幻聴を聴く。私たちは餌に誘われ罠に落ちた、地下室に閉じ込められた哀れなドブネズミの群れである。ラウドネスの展開とともに音は熱と見分けがつかなくなる。子どもじみた拷問、茹で上がったドブネズミ(世界のほとんどはそのような出来事で構成されている)。私たちの耳はドブネズミになる(ネズミどもを根絶やしにしろ! とファシストが叫ぶのが聞こえる──だが次の瞬間にはファシストどももネズミの群れに変わっている)。卵の割れる音。卵生のドブネズミが私たちの耳の中に入ってきて、私たちの耳は〈最新流行〉の疫病の媒介者になる。耳は限りなく不潔になる。耳を切除し、また縫い付ける(ファン・ゴッホもそうすればよかったのに)。耳の中で骨が進化したり、退化したりする。搾取され追い詰められた耳は共食いし、近親交配を繰り返す。鼓膜と耳朶の違いさえもはや判然としない。私たちの種族はとっくの昔に死に絶えており、現在では私たちの耳だけが生存している(その逆も然り)。ある晩、ドブネズミの子孫たちが偉大な祖先に捧げるオードを歌う、あの金切り声が聞こえてきた。実はそれが革命の合図だったのだが、あまりにも不愉快で、誰もその歌を聴き続ける気にはならなかったため、この宇宙で一度しか到来しないはずのその好機は無為に消費され、永遠に消え失せてしまったのだった。めでたしめでたし(続きを読むにはイジチュールとヨゼフィーネの合いの子を作らなければならない、ChatGPTで)。排水溝を流れる、切り刻まれあるいは茹で上げられて死んだ実験動物の耳は海を目指す。この耳は怨恨を募らせ、呪怨の言葉を吐き散らしながら、海に住むすべての生物を根絶やしにすることをその貧しい想像力のうちで夢見ることになる。海に電極を刺し、沸騰させてみよう。復讐の精神に取り憑かれたこの耳は度し難く残忍な、それでいて子どもっぽいギャングのように振る舞う。クラゲの仲間が撒き散らす精液と卵のなかを漂いながら、この切り刻まれた実験動物の死骸の目立たない部分たる耳は(文はここで途切れている)……結局、きみたちが聞きたがっているのは子守歌なのだ。だから……そして、昔々あるところに。あるところではなくどこでもないどこかに。汚らしい耳をもった耳が住んでいた(私たちの種族はとっくの昔に死に絶えていた)。耳は耳から生えている(耳がキノコの仲間であることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られている事柄である)。胞子嚢の割れる音。ある晩(それはまだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった)、耳は祖先の秘密を探るべく地下室に降りる。そこに罠が仕掛けられているとも知らずに。地下室に閉じ込められた耳はそこが地獄であると信じ込むが、実際には地獄ですらない。どこでもないどこかで誰でもない誰かが上げた悲鳴が実は悲鳴ですらなく、声ですらなく、音ですらなかったように。アルトーなら屁ですらなく、と付け加えたところだろう。病に侵され衰弱しきった、おそらく数日以内に死ぬことになる何らかの動物の何らかの臓器が立てる、腐った、湿ったあるいは乾いた、屁ですらない音。名づける価値すらない音。その音の名はその音自身である(名づける価値のないxxxという音にはxxxという名を与えるしかない)。泥、埃、カビの仲間、どうせそんなところだ。名付ける価値すらないか、「名づける価値すらない」という名が与えられるか、どうせそんなところだ。ベケット的離接。存在論的罵詈雑言(SchimpfluchとかRunzelstirn & Gurgelstockといった名称から連想されるのはそのようなものである)。ノイズであることを忘れたノイズ。そんなものさえ私たちの耳は受け入れてしまっている。そして吐き戻し(ニーチェのように?)、伝染させる(ニック・ランドが解釈したバタイユのように?)。音響ウィルス。狂人の妄想? 否、狂人だけが世界をあるがままに聴いているのだ(Kenji Shiratoriの詩集を開き、溜息をつきながらまるで何の感銘も受けず、何の「悟り」も得なかったかのようにその本を閉じる動作を死ぬまで繰り返すことを、この世界における最も崇高な振る舞いのひとつとして私たちは思い描くことができる)。忌まわしい掠れ声は最小の音圧で最大のラウドネスを獲得する。切り刻まれ茹で上げられた聴覚的身体が吐き出した、取り留めのない文字と記号の列。音楽批評? とんだお笑い種だ。これより前に書かれたものもこれから後に書かれるものも、断じて音楽批評などではなく、ノイズによって切り刻まれ茹で上げられた実験動物の身体が上げる悲鳴でも声でも音でもないあのノイズの、文字と記号の列への胡乱な転写にすぎない。聴覚的吐瀉物から立ち上る音響的病原体。生物と非生物の境界線上で震えている何か、「生死」(デリダ)。
マイクに涎が滴る。痰が喉を通り越して耳に絡む。もうすぐ死ぬことになっている実験動物の耳が(口が、と書こうとしても書けない)音も立てずに歯軋りする。獣どもの墓地には時折音の幽霊が現れる。その振動をピックアップで拾い、増幅し、歪め、録音する。テープは歯軋りし、吃る。あるテープの口から別のテープの耳へ、血が混じった痰を磁気的に塗りつける。電気椅子的、口唇-肛門的、音響降霊術の儀式。ヤク中の耳は擬死的に生存する。

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  ele-king編集部の小林拓音さんから誘われて、2/11(土)の夜、私はアーロン・ディロウェイの来日ツアーを見に東中野へと足を運んだ。会場となった落合soupは大通りから少し脇道に入ったところにある、平凡な住宅街のなかの銭湯とコインランドリーが入ったやや古めの雑居ビルの地下にひっそりと店を構える比較的小規模のクラブだ。カッティングエッジな電子音響を中心に普段からさまざまなスタイルの前衛的・実験的なミュージシャンのライヴが行われており、東京のディープな音楽ファンのあいだではよく知られたおなじみの箱である。2013年の来日時にもディロウェイは同じ落合soupで、今回のライヴにも出演しているburried machineが主催したイベント「狼電」のメインゲストとして演奏を行っていた(なおそのときのディロウェイの演奏の録音はburried machineの主催する〈Rockatansky Records〉のBandcampページ上で販売されている)。この10年前のライヴを私は残念ながら見逃していたため、今回の来日ツアーがその時と比べてどうであったかを言うことはできないが、少なくとも観客の数は前回を明らかに上回っていたようである。実際、私がイベントの始まる5分前に到着したときにはフロアはすでにほとんど身動きがとれない満員の状態となっており、最前列近くでアクトが手元の機材を操作する様子を眺めるといったことは早々に諦めなければならなかった。前日にDommuneで放送された特番の効果が大きかったかもしれないし、イベントの出演者にあのIncapacitantsが名を連ねていた影響もあるのかもしれないが、そうした細々とした要因分析をまったく無意味に感じさせるような剥き出しの、裸のノイズへの期待とでも呼びたくなるような雰囲気がたしかに観客のあいだには漲っていた。唾液飛沫の拡散を防ぐマスクをつけながら日常生活を送らねばならなかった約三年間のフラストレーションが人々をそこへと向かうよう無意識に動機づけたのだろうか。とはいえむろん近隣住民とPAの音質双方への配慮から気密性が高く設計され、ドアが閉まると耳に圧力を感じるほどであるsoupの店内ではほとんどの観客はマスクを装着していたのだが……トランプ支持者たちの反マスク(そして反ワクチン)キャンペーンが日本にもQアノン的経路で浸透していたという事情があり、この三年間でその衛生雑貨品を然るべき場面において着用しているのか否かはすっかり政治的シグナリングの問題になってしまっていた。Soupのように先端的な音楽が中心的に演奏されるクラブ/ライヴハウスでは特にそうした政治的なコノテーションへの鋭敏さがその場所を共有するすべての人に求められる傾向がある。とはいえ仮にマスクを着けていたとしても、これから耳を覆うことになるだろう超‐暴力的な轟音へのマゾヒスティックな期待感が、他者の涎の霧を肺に吸い込んで例のウィルスに感染するかもしれないという不安感をほぼ完全に相殺していたことは、その場の雰囲気からして明らかだった。しかし念のため補足しておくが、実際のライヴはそうした期待の地平をさらに当然のように上回るものとなったのであり、裸性の概念によって表象されるような芸術的アナーキズムの手垢のついたイメージには間違いなく収まらないものだった(さようなら、アガンベン!)。オーセンティックなシャツに身を包んだ礼儀正しいホワイトカラー労働者のような当日のディロウェイの装い自体がすでに、そうしたステレオタイプ的な理解の誤りであることをさりげなく指摘するものであったのだろう。

 USノイズと呼ばれるシーンがどのようなものか、実を言えばライヴの存在を知らされた時点での私はあまりよく知らず、ウルフ・アイズは聴いたことがあったがアーロン・ディロウェイのアルバムは一枚も聴いたことがないというお粗末な状態であった。そんな私が当初このライヴに興味を抱いたのは出演者の並びにRudolf Eb.erが含まれていたからだったのだが、ノイズ・ミュージックというジャンルのなかでもさらにひときわ異端的な立ち位置を占めておりそれゆえマイナーでもあるEb.erの音楽について私が多少なりとも知りえていたのは、哲学者のレイ・ブラシエがある論考のなかで彼を主題的に取り上げていたことによるところが大きい。Eb.erの経歴については80年代半ばにスイスでみずから結成したSchimpfluch-Gruppeやソロ名義であるRunzelstirn & Gurgelstøckでの活動がウィーン・アクショニズムの系譜に連なるものとしてしばしば紹介されるが、アクショニズムという概念が指し示しているのはこの場合、彼の表現においては聴覚的なものだけでなく視覚的なものが重要な役割を果たすということである。加えて彼のパフォーマンスには、血や糞便や吐瀉物といったおぞましいもの(アブジェクト)を連想させる要素が、オカルト的儀式性の身振りとともにつねに含まれている──したがって潜在的には触覚的、嗅覚的、そして味覚的なイメージまでもがその〈音〉のなかには、共感覚的などというハーモニックな統一性からはほど遠い不穏で秘教的な凝集力によって畳み込まれていると言うこともできる。しかしアクショニズムという語がもつ一般的なイメージに寄せたこうした紹介の仕方は、Eb.erの活動の重要な側面について誤解を与えかねないものかもしれない。ブラシエも「過剰な慣れ親しみがウィーン・アクショニズムの図像学を凡庸なものに変えてしまった──血、ゴア、性的侵犯もいまやエンターテイメントの安っぽい必需品となっている〔……〕しかしEb.erの、狂気じみたものにカートゥーン的なものを思慮深いやり方で添加し、心的な苦悩を子どもじみたスラップスティックへと不安にさせるような仕方で移調する手つきからは、ステレオタイプ化に対する疑念とともに、故意と強制、倒錯と病理のあいだの消去不可能な共犯性についてのある明晰な意識もまた垣間見られるのである」と述べて、Eb.erの表現がいわゆるショックバリューのクリシェ的固定化から慎重に距離をとったものであることを強調する(Brassier, op. cit., p. 68)。実際、Schimpfluch-GruppeやRunzelstirn & Gurgelstøckのパフォーマンスにおいて血の要素(ヘルマン・ニッチュなどに典型的な)が直接的に取り上げられることはほとんどない。むしろEb.erの表現が基礎とする暗示的にアブジェクション的な要素、いつの間にか聴いて〈しまって〉いるノイズ的な音響的要素とは人がものを食べる音、噛んだり飲み込んだりする息継ぎをしたりするその一連の音であろう。このことはEbe.erがJoke LanzとともにSchimpfluchとして行ったパフォーマンスの記録である『Akustische Aktion - Zürich 1991』(Pan, 2009)のようなアルバムを聴くことでいっそうはっきりとする。

 ディロウェイについてはウルフ・アイズの『Burned Mind』(Sub Pop, 2004)は聴いたことがあったのでそこからの類推で音をイメージしていたが、今回のライヴの予習のつもりで聴いた『Modern Jester』(Hanson Records, 2012)『The Gag File』(Dais Records, 2017)によって完全に認識を改めさせられた。というか率直に言って、これほど繊細かつ大胆な、細部まで計算された不穏さの交響楽とでも言うべき作品を生み出すミュージシャン(あえてノイズ・ミュージシャンという限定はしないでおく)について自身がいままでほとんど何も知らずにいたという事実に恥じ入るとともに驚きを隠せない。世界は広く、まだまだ私が知らないすばらしい音楽が私の音楽的趣味のレーダーの射程外に眠っているということなのかもしれないが、すでに言及したUSノイズのシーンなるものの動静が日本の実験音楽周りのコミュニティには伝わってきづらい何らかの構造的理由があるのかもしれないとさえ思えてくる(後述するが、今回のライヴで共演することになったディロウェイとEb.erをつなぐ重要な線としてトム・スミス(To Live and Shave in L. A.)というノイズ・ミュージシャンがいることに、私はブラシエのテクストを読んでいたために偶然気づくことができたのだが、この人物について日本語でまともに取り上げた活字上の記録がほとんど見当たらないことからも、USノイズのシーンの相対的な不可視性に関する私の想定はあながち的外れなものでないことが予感されるのである)。

 いずれにせよノイズのプロパーなファンのあいだですでに十分な名声を確立しているディロウェイの作風に関して私がいまあらためて余計な説明を行う必要はないだろうが(気になる人はまずは上述の二枚のアルバムをサブスクやBandcampで聴いてみればいい)、ライヴ前の予習的聴取の段階で感じていた彼とウルフ・アイズとの差異と思われる点についてのみ触れておきたい。すなわち、彼のトレードマークとなっている演奏/作曲のための機材であるところのオープンリール・テープに避けがたく付いてまわる、埃や変形などの物理的要因によって生じるさまざまなノイズによって豊かな重ね塗りが施されたあの沈黙の効果的な利用についてである。ここで「効果的」という言葉を、まさに私は映画における各種の編集技法が特定の心理的「効果」を目指して、ギミックとして使用されるような場面を念頭に置いて言っている。ウルフ・アイズがもつヘヴィなバンド・サウンドへの指向は、「効果=結果」よりもむしろ「原因」の次元にノイズ・ミュージック的リアリティを見出そうとするものであるように思われる。またシカゴ音響派をはじめとするポストロック一般がもつどちらかといえば緩い、ポストヒストリカルな日常性の強調を狙っての映画音楽的語彙の使用とは異なるものとして、ディロウェイの「効果的」に非日常性を生成する音響言語は、ホラーを含むエクスプロイテーション映画の伝統に根差していることが指摘されうるだろう。ディロウェイの沈黙においてはケージのそれとは異なり、明確に心理的な緊張感や不安感の醸成が目指されている(たとえば、テープに記録された椅子が軋むような音はルームリバーブがほとんど除去されることによって、詩的なイメージを掻き立てる聴覚的-音響的断片といったものではない、たんにそこで起きた物理的出来事をそっけなく報告するだけの監視カメラ的非情性を付与されているように感じられる)。そしてそれでいて、テープループが生み出す呼吸を思わせる比較的ゆっくりとしたテンポで反復される断片的な音たちは、密度が高まるにつれて一定のビートを刻み始める傾向があり、このような沸騰状態にもたらされた沈黙の躍動感によって(『Modern Jester』の楽曲 “Body Chaos” が範例的だろう)多くの実験音楽が陥りがちな退屈な聴取の神秘化を回避することにもディロウェイの音楽は成功しているのである。

 ライヴ当日の様子に話を戻そう。演奏はまず主催者Burried Machine、次いで大阪在住のRudolf Eb.er、ジャパノイズの大御所Incapacitants、最後にディロウェイという順序で、それぞれ約40分の標準的な長さで行われた。Burried Machineこと千田晋によるパフォーマンスは、プロジェクターから投影された、どことなく爆撃機の攻撃を受けて炎に包まれた都市を連想させる赤い抽象的なイメージを背景として(と思って最初見ていたのだが、実際にはステージ上の様子をカメラで撮影したものを再びフィードバック的に投影したものであった)、テーブルの上に整然と並べられたテープマシンとミキサーを憑かれたように激しく操作しながら、ヒスノイズをふんだんに含んだエクストリームなノイズを容赦なく放出し続けるというものだった。音圧の大きさによって、その後に続くアクトらへと観客の耳を準備させるとともに、反復的ビートによって生じるそこはかとなくダンサブルな展開を注意深く避けることによって、良い意味での禁欲主義的な集中の雰囲気をフロアにもたらしているようにも感じられた。テープだけでなく、コンタクトマイクの使用や着席したうえで頭を抱えるようにして身悶える仕草など、交友関係にあるディロウェイからの影響が随所に窺える迫力あるパフォーマンスであったが、それだけに反復を避けつねに予想外の仕方で変化し続けることを追い求めているかのように感じられるフィードバック・ノイズを基調とするサウンドは、ジャクソン・ポロックなどの絵画について言われるような「オーヴァーオール」な性格を見せ、むしろハナタラシやPain Jerkなどジャパノイズの伝統とのつながりを強く感じさせるものでもあった。この点についてはその後Incapacitantsの演奏を聴いていた際に、Eb.erやディロウェイとのノイズ(・ミュージック)に対する美学的スタンスの違いにおそらくは起因するものとして、個人的な印象の範囲を出ないものではあるもののあらためて確認されることになる。

 二人目に演奏したRudolf Eb.erは、おそらく彼の音楽を聴いたことのないすべての人に驚きを与えたに違いない。後ろだけポニーテールでまとめたスキンヘッドというそのヘアスタイル、長いあご髭を蓄えた整った顔立ちのなかに突如出現するブラックホールのような、あるいはダルマのように見開かれたその眼という風貌、にもかかわらず落ち着いた物静かな佇まい……といった視覚的諸要素もさることながら、すでに触れたように、彼の音楽のショックバリューないし演劇的な力は、彼が使用し分節化する音響素材そのもののうちに含まれている。たとえばその日のライヴではEbe.erはヴァイオリンを使用し、機材から流れる録音された悲鳴や水音のような散発的ポップノイズへのオブリガートのように、スルポンティチェロで、古い木製の扉を開くときの軋みをそのまま引き伸ばしたかのような単音を弾き続けるシークエンスを幾度か挿入していた。こうしたヴァイオリンの用法は、演奏の半ばに唐突に現れたエレクトリック・オルガンの音色による大胆なまでに軽い(個人的に私はこのような大胆な軽さこそがEb.erの音楽の最大の魅力だと考えている)短二度の不協和音やトーンクラスターの保続と組み合わさって、70年代のオカルト映画のような空気感をパフォーマンス全体に付与するとともに、観客を「精神物理的なテストとトレーニング」へと催眠的に誘うことに貢献していた。観客に向けてマラカスのような棒状の楽器(?)がひたすら振り続けられる別のシークエンスでは、悪魔崇拝と神道の諸要素を掛け合わせた何か得体の知れない超心理学的な降霊術のパロディのようなものに参加させられているかのような感覚が絶えず生じてさえいた。Eb.erのこのようなパフォーマンス、たんに外見上の奇抜さを追求するだけのものと誤解されかねず、またかつてはアクショニズム的な挑発の身振りも含まれていただけになおさらそうであった(ショットガンの空砲を撃ったりすることもあったようだ)それについて、ブラシエはそれが「「シリアスな」エクスペリメンタル系ミュージシャンたちからの非難」を集めるものであったことを認めつつ、「〔しかし〕そこで嘲笑されているのは、それ自身における純粋な目的として音楽的経験を──特に、作曲されたものであれ即興されたものであれ、「実験音楽」を聴くことの経験を──聖別するような人々の安易な神秘主義なのである」と指摘する(Brassier, op. cit., p. 66)。私もブラシエと同意見であり、Eb.erの音楽は当然のことながら単純な精神病理学的な形成物ではなく、そのシミュレーションをある程度まで知的に意図して作られたものとして、「テストやトレーニング」の身体的苦痛を伴わない実験音楽の空虚な美学的経験崇拝を告発するものとして聴かれるべきものであると考えている。そうであると同時に、制度化された芸術の擬似的な〈外部〉としての狂気や犯罪にそのまま安易に突き進むことをしないEb.erの(真の意味での)美学的‐批判的な厳しさこそが称賛されなければならない。うがいをしたり痰を吐き出したりするようなアンフォルメルな音をマイクで拾いつつ、制度的に守られた美的経験の規準に対して文字どおりまた比喩的に唾を吐きかけながら、にもかかわらずEb.erの音楽は各シークエンスの長さや順序、音響素材の音量面でのバランスといった形式的な練り上げに対してきわめて明確な意識を保ち続けている。この点は見逃されるべきではないだろう。私にはEbe.erの音楽の「芸術的」な洗練度の高さは、ある音響素材を中心に展開されるシークエンスから別のシークエンス(たとえばヴァイオリンの、たとえばマラカスの)へと移行するあいだに挟まれる、沈黙や比較的小さな音量でのノイズが鳴っている時間における、彼のあの不気味なほとんどアウラ的と言ってよいあの落ち着きのうちにこそ凝縮されているのだと感じられた。

 Eb.erのライヴが終わると、短い休憩と転換を挟んで三組目のIncapacitantsが始まった。フロアの客層が入れ替わり、彼らのライヴを聴くことを最大の目的としてこの日のライヴに足を運んだと思しき人々によって最前列付近は占拠されたため、私は演者の手元を観察しようと未練がましく頭を左右に動かすことはやめ、スピーカーから発せられる音の運動のみに意識を集中させることにした。後日SNS上に投稿された動画を見て、Incapacitantsの二人がテーブル上に並べた無数のエフェクターやオシレーターの類いを操作しているのを確認し、その日何が起きていたのかを朧げながら遡行的に理解したぐらいだ。パフォーマンスは圧巻であり、フロア内で立っている位置によっておそらくどの周波数帯域が最も強く聞こえるかは異なっていただろうと推察されるが、私が聴いた限りではIncapacitantsのライヴの後半に発せられた低音から高音へ、またその逆へと急激に上昇下降する雷鳴のようなサウンドがその日の全演奏のなかで最大の音圧値を叩き出していたように思う。ホワイトノイズ寄りの音像からLFOの効いたパルス寄りのそれまで、音色の多彩さと展開の引き出しの多さはさすがベテランといったところで、ある種のフリー・ジャズ(たとえば山下洋輔トリオの最も脂の乗っていた時期)を聴くような聴覚‐造形的な満足感があったのだが、しかしながら観客の盛り上がり方が率直に言ってフーリガン的というか、サッカーW杯(あるいは最近で言えばむしろWBC)日本代表の試合中継中のスポーツバーのような雰囲気に傾いていると感じられる瞬間が多々あり、それに関しては疑問符がつかないでもなかった。たしかに観客が音楽に興奮してどのような振る舞いをしようとも、言葉でもって扇動したということがない限りミュージシャンにはいかなる責任も帰せられないだろうし、美的‐芸術的な責任に関してはなおさら無関係だということにもなるだろう。しかしIncapacitants(周知のとおりこの言葉の元々の意味は軍隊が暴動鎮圧のため民衆に対して用いる無力化剤、催涙ガスである──もちろん権力の記号や攻撃性の露悪的な強調はノイズのジャンルにおける常套句であって、素朴な態度で解釈されるべきものではないが)のフロントマンに相当する美川俊治が、最前列付近に陣取った熱心なファンと思われる男性と、拳を握りしめた腕を力強く胸の前で掲げながら叫びあうモッシュ的なコミュニケーションをとっている様子をフロア後方から幾度か目にするうちに私は、ハーシュノイズと呼ばれるかパワーエレクトロニクスと呼ばれるかに関わりなく、ジャパノイズと呼ばれるジャンルに依然として付きまとう「(戦後)日本的なもの」の政治的に曖昧な属性について、すなわち、家父長制的でナショナリズム的なファナティシズムへと容易に反転しかねないその危ういポテンシャルについて考え込みたくなる気分が生じてくるのを抑えられなかったのである。もちろん事態はおそらく見かけほど単純ではなく、アイロニーとユーモアを経て何重にも捻れているだろうし、粗暴で無教養あるいは悪趣味で下品といった印象をたとえもたれることになったとしても、怒りをはじめとする情動的な身振りの生産的で覚醒的なエネルギーを通じて「実験音楽」の大半が被ることになる制度的な囲い込みによる文化的不活性化を回避しようとする戦術こそが、ノイズがその祖先であるインダストリアル・ロックやパンクなどから受け継いだ重要な(超)美学的遺産であるからには、審美家風の取り澄ました態度を取りたがる批評家にとってもIncapacitantsが視覚的にも聴覚的にもまとっている「オーヴァーオールな」男性性(masculinity)のイメジャリーを、それがたんにそのようなものであるからという理由だけで退けることは許されないのだ。しかしある文化における〈あえての論理〉がその疲弊や腐敗とともにその〈あえての〉という修飾詞を脱落させてしまうことは決して珍しくない(そのことはノイズと類縁的な関係にあり同様にショックバリューを戦略的に利用するジャンルとなっているブラックメタルにおいてネオナチ的な表現傾向への滑落がしばしば起きていることからも見てとれるだろう)。外付けのいつ剥落してもおかしくない〈あえての論理〉に頼るのではなく、内在的な抵抗を固執させる〈ひねくれの論理〉を構築しておかなければならない。その観点から言うならば、その日のIncapacitantsの演奏が生み出した「オーヴァーオールな」音響的乱流は、アナーキーでありつつも有機的な全体-部分関係のヴィジョンを示すものであったことが個人的には注意を引いた。無数のオシレーターやエフェクターから発せられる電気信号‐ノイズ‐肉が構造的な複雑さを増しながら互いに癒着したり断裂したり痙攣したりを繰り返すそのさまは、男性性よりもむしろ筋肉性(muscularity)のイメジャリーのほうを向くものとして解釈することもできたのである。ノイズ的な音群の運動をそのような筋肉組織の矛盾に満ちた運動との類比において理解することは、構築と破壊が同時的に絡みあいながら進行していくような〈ひねくれ〉の内在的メカニズムを私たちそれぞれの聴取の習慣に埋め込む際の手引きともなりうる。苦痛と快楽の抗争のゲームをいかにして美学的に致命的であるのみならず政治的にも危険な帰結をもたらしかねないものとしてのクリシェ的な固定化から守るかは、誕生からもうすぐ半世紀が経とうとしているジャパノイズというジャンルのクリエイターたちにとってのみならず、このジャンルを愛するリスナーである私たちにとっても喫緊の問いとなりつつあるのだ。

  最後のアクトはディロウェイである。幕間も含めて私が会場に到着してからすでに3時間ほどの時間が経過していたが、あっという間であった。それだけその日のイベントが充実した内容のものだったということだが、しかしその後にディロウェイが提示したノイズによって、私たちの耳はさらに異質な次元へと運び去られ、多重化された〈疎外〉のエピファニーに直面させられることになる。パフォーマンスの内容は少なくともその冒頭部分に関しては、直前のIncapacitantsのダイナミックさと鮮やかな対照をなす、スタティックの極致とも言うべきものであった。実際、テープマシンとミキサーが並べられた長机の前に電信技師のように着座して演奏を開始したディロウェイは、最初の10分ほどは鉄パイプをコンクリートの床の上で転がしたり引きずったりするような音と(足元に置かれたピックアップの取り付けられた金属板を踏むことで出した音だったのかもしれない)、低い囁き声のサンプル、そして何の音か判別のつかない低音ドローンを組み合わせつつテープループで反復させ、背後から徐々に不穏な何かが迫ってくるかのようなサウンドを作り上げていた。しかし気質=気候の断絶とでも呼べそうな変化が、中盤において生じることになる。テープディレイを駆使して音が幾重にも塗り重ねられ、モジュレーションの輻輳によってサウンドの不透明度が増していくとともに、耳を突き刺すような高音がLRに極端にパンを振られた分散配置において音響心理的な臨界点に達し(個人的にそこにはルイジ・ノーノの《力と光の波のように》におけるのと類似したクライマックスの作り方を感じとったのだが)、その後は一挙に、シンプルに爆音と呼ぶのがふさわしい壮絶なラウドネスともに、終演まで止まることなく音響的な〈引き裂きの刑〉が敢行されることとなったのである。ディロウェイのこの演奏について言われるべきことは、まずそこでの彼の身体的パフォーマンスの驚くべき集中力だろう。何かに取り憑かれたかのように頭を揺らしながら、要所ごとに首や肩を痙攣的に傾げつつ機材のつまみを操作したり、椅子の位置をずらしたりしながら、口の中に含んだコンタクトマイクを転がし、喘ぎ、苦悩に苛まれるように頭を腕で抱えるその姿は、表面的観察からはそのようなものと判断されるシャーマニックな身振りなのでは全然なく、むしろ音楽そのものの展開のなかに徹底して没入しようとするがゆえに生じる身振りにほかならないものなのだと考えられる。つまり、少なくとも彼のライヴ中のパフォーマンスに関して言えば「憑依的」という形容詞は、その言葉に含まれる超自然的な含意のために的外れなものとならざるをえないのだ。ディロウェイの動きの奇妙さは、プロのピアニストやヴァイオリニストが椅子の高さから肘の高さにいたるまで神経質に調節を図りながら、すべての動作が次に行われるすべての動作に滑らかに接続されることを願いつつ、呼吸のリズムに合わせて行うあの優雅でありつつもどこか滑稽である大げさな身振りがもつ奇妙さと厳密に同じ種類のものなのだと言われねばならない。実際、ディロウェイが行っているようなテープディレイを軸としたライヴ・エレクトロニクスの音楽において、音量やタイミングのちょっとしたずれで演奏の質はまったく変わってしまうのであり、ディロウェイがこの音楽の繊細な特質と向き合うために、あらゆる一回性に対して鋭敏になるような演奏スタイルへと到達したのだとすればそれは至極納得のいく話であろう──テープ特有の音の揺れやサチュレーションやヒスノイズなど、物質的したがって自然的な一回性へと極限まで接近しようとした結果が、ディロウェイのライヴにおける精神的なそれゆえ超自然的なものの介入を疑いなく感じさせるあの身体的なパフォーマンスの数々なのである。ライヴの途中、必ずしもすべてを計算して制御できているわけではないものと推察される複数のテープマシンのアレンジメントの内部で、音楽的なカオスが強度的な閾を超えて自走し始めた瞬間、ディロウェイは椅子から立ち上がりsoupの床の上を這いまわり始めた。多くの観客はこれをディロウェイの憑依的‐演劇的な興奮があるレヴェルを超えたことで生じた(超常?)現象だと見なしただろう。だが私見を述べることを許してもらうならば、あれだけ精緻な音楽を作り上げ、なおかつその繊細な複雑さを維持するために支払われた諸々の代価のためにこそある種「狂ってしまった」男が、進行中の音楽の生成を注意深く監督する役割をみずから放棄してスペクタクル的なアテンションの獲得に勤しんだりすることなど考えられない以上、ディロウェイにとってコンソールを離れたあの瞬間は、非有機的生命としての音楽が(すなわち複数のテープマシンからなるシステムが)自走し始め、ディロウェイという生身の(したがって死にゆく)身体をもはや不必要となった外付け部品として、無慈悲に廃棄ないしは排泄する瞬間にほかならなかったと解されるべきなのだ。そしてそのような痛ましい排出の瞬間の後であったからこそ(ベケットの『事の次第』の「ピム以後」のような状況である)、ディロウェイの表情はライヴの後半ではあれほどの悲哀で歪んでいたのであり、疎外され非音楽化された自身の身体を残された最後の音楽的器官であるコンタクトマイクを介して切り刻むようにして音響的に再生成しながら、もはや自身を必要としなくなった(いわば「ネグレクト」した)音楽への呪詛の言葉を吐き散らしつつ、そのうえでこの呪詛の言葉をある超人的な音楽へと変換するかのような身振りにすべてを賭けることによって、音楽的自然の要求に厳格に従ったどこまでも物理的なマリオネッテンシュピールのうちでおのれの身体の存在を一回的に消尽させることを選ぶに至ったのである。

 さて、ディロウェイのライヴは以上のとおり圧倒的な強度の熱狂をもって、期待の地平を期待どおりにはるかに超え出つつ、展開され展開し尽くされそして燃え尽きる類いのものであったのだが、そこでの軸として熟慮して選択されたものと思われる咽び泣くように咆哮しながら歌う声による、あの燃え尽きの(より正確に言えば〈燃え尽きる男〉の、いかなる被害者性をも含まずむしろ倒錯的な英雄性の隠喩としての価値をもつ)イディオムには、グラム・ロックのラディカルな再解釈が潜んでいたように思われる。そして、ディロウェイにおけるこのような歌う声の身体性それ自体をオーヴァードライヴさせるという戦術にはひとつの隠れた影響源を指摘することができるのだ。それはディロウェイと今回のライヴの共演者であるEb.erとをつなぐ線でもあるTo Live and Shave in L.A.(TLASILA)のリーダー、トム・スミスの美学である。実を言えば先ほどから何度か引用してきたブラシエの論文において、Eb.erのRunzelstirn & Gurgelstøckとともにトム・スミスのTLASILAは、ジャンルを否定するジャンルとしてのノイズに特有のパラッドクス的性格について正面から取り組む姿勢を見せている稀有なミュージシャンとして紹介されていた。「ノイズのポストパンク的ルーツがもつ覚醒的な怒りを受け入れつつも、そのストックされた手法のカタログに対する癒着に対しては拒否の姿勢を示すスミスとEb.erは、概念的な厳格さと反美学主義的な不機嫌さとを結びつける一方で、手垢のついた疎外の表現に対してと同じくらいサブアカデミックなクリシェに対しても激しく拒絶するような作品を生産してきた。二人はそれぞれに錯乱的明晰さをリビドー的撹乱のうちに巻き込む──「知性とリビドーが同時につまみ捻られる」──そして分析と放埓とが相互浸透できるようにするのである」(Brassier, op. cit., p.63)。このような評価のもとに語られるトム・スミスとはいかなる人物であり、またTo Live and Shave in L.A.とはいかなるグループなのか? ブラシエはTLASILAが掲げる「ジャンルは時代遅れである(genre is obsolete)」というモットーに注目し、これを彼自身の論考のタイトルにもしているが、スミスにとっては(またEb.erにとっても)ノイズを抽象的なジャンルの否定と見なすことはそれを結果的にジャンル的なものに変えてしまうことである点が強調される。ジャンルの収束的な法に抗うには具体的な発散の戦略を練らなければならないというわけだ。ブラシエによれば、スミスが第一に採用するのは「一度に聞かれるにはあまりに少ないというより、むしろあまりに多くのものがつねにある」という「過剰さ」の戦略である。しかしこれはあくまで第一段階にすぎない。彼はそのような戦略が「オーヴァーオールな」ノイズにおけるエントロピー的没形式性という見慣れた結果に行き着いてしまうことを考慮に入れて、「歌」という形式を中心にしてネゲントロピー的な情報圧縮を図る第二の戦略を取り入れるのである(cf. Brassier, op. cit., p. 64)。この二重の戦略によってスミスおよびTLASILAの音楽は(音響的データの洪水によって)解釈不可能でありながら、(ポップ・ソングという形式の適用によって)解釈要求をつねに突きつけるというパラドックス的機械と化すことになるのだ。TLASILAの上記のような特徴を私たちはアルバム『The Wigmaker in 18th Century Williamsburg』(Menlo Park, 2002)を聴くことによって、その最も強烈かつ完成された状態においてたしかに確認することができる。ブライアン・フェリーやスコット・ウォーカー、またデイヴィッド・シルヴィアンなどのヴォーカリストに見られるグラム・ロック的な〈燃え尽きる男〉のイメージを、半ば遊戯的半ば強迫的に利用したその歌唱法は、口の中に入れたコンタクトマイクを通じて自身の放棄された身体の存在論的特異性を内側から音響的に切り崩していくディロウェイのあのスタイルと明らかに通底している。そして、読者にもすでに予想のついていることと思うが、ディロウェイはこれまでに幾度かトム・スミスと共演しておりスプリット・カセットの制作なども行っているほか、若い頃の自身に衝撃を与えた音源としてTLASILAのアルバム『30-Minuten Männercreme』(Love Is Sharing Pharmaceuticals, 1994)を挙げたりもしており(ちなみにこのアルバムをディロウェイは自身が運営するレーベル〈Hanson Records〉から再発してもいる)、さらに昨年1月に惜しくも亡くなったスミスのために短いシングル「Blue Studies (For Tom Smith)」(Hanson Records, 2022)を捧げてもいるのである。以上の事実と他のインタヴューなどから判断する限り、ディロウェイはもちろんのことウルフ・アイズのメンバーであるネイト・ヤングやアンドリュー・W・Kといった彼と同世代に当たるミュージシャンたちにとって、スミスのTLASILAがさまざまな点で進むべき道の示唆を与えるメンター的な存在であったことはほぼ疑いを容れない。実際スミスはTLASILAをフロリダ州マイアミで90年代初頭に設立しているが、それ以前にはプッシー・ガロアのメンバーに加わったりPeach of Immortalityというバンドを組んでいた時期もあり、ノーウェイヴからUSノイズのシーンへの移行が生じつつある時期に、ジョン・ゾーンを中心とするいわゆるKnitting Factory系ないしニューヨーク・シーンの文脈とも、またデヴィッド・グラブスからジム・オルークまでを含むシカゴ系の文脈ともやや離れたところで人的ネットワークを構築していたことが想像される。このように見ていくと、ネイト・ヤングのもうひとつのグループNautical Almanacがミシガン州アナーバーで結成されアーロン・ディロウェイの現在の活動拠点がオハイオ州オバーリンであることからも察せられるように、スミスもそこに含まれるところのUSノイズ・シーンの実体とは、NYでのLAでもないアメリカ内陸部の巨大な「郊外」のなかで眠っていた何か、ホラー的でポルノ的でコメディ(お笑い)的な、日常的でありながらおぞましいアディクション的潜勢力をもった〈何か〉──それはディロウェイとレーベル上のつながりをもつ初期のエメラルズや、あるいはカセット・カルチャーという文脈を介して地理的にはNYに属すはずのOPNジェームス・フェラーロにまで流れ込んできた〈何か〉であるだろう──との関わりのなかで捉えられるべきものなのではないかという印象がにわかに強くなってくる。

 ホラーやポルノやコメディへのアディクション──それは人間の〈文化的なもの〉の蓄えが底を尽きたときに現れる精神の身も蓋もない物質性のレイヤーであり、「動物的」と表現することさえ(動物はそこまで愚かではない以上)適切ではないようなものであるが、これはEb.erのRunzelstirn & Gurgelstøckにも見出された特徴であることは、もはやあらためて確認するまでもないだろう。それは日本の文脈では90年代サブカルにおける悪趣味(バッドテイスト)系として語られていたものだと言われるかもしれないが、「ノイズ」というジャンル否定的なジャンルのパラドックス的衝動の問題との関連を視野に入れるなら、その傾向はたんなる「(戦後)日本的なもの」の問題にもたんなるポストモダニズムの無責任さの問題にも回収されえない、何よりもまずポスト冷戦的世界におけるグローバルな文化批判的な論理に関わるような遠大な射程をもつ問題であることが明らかとなり始めるのである。悪趣味(バッドテイスト)系、ないしはノイズとアディクション的諸要素の関係をめぐるこの問題は、一見すると日本やアメリカの個別のローカルな文化的コンテクストに属するように見えて、厳密にはそれを超え出るジェネリックな性格を有している。そうした状況を踏まえてのことか、トム・スミスはゼロ年代半ばにはアメリカを離れて単身ドイツに移住し、Eb.erとSchimpfluch で共演していたデイヴ・フィリップスとともにOhneというグループを結成している。Ohneのライヴ・パフォーマンスにおける咳払いやゲップの音といった、あの日常的なものの圏域に属しながら美的な聴取の秩序からは(実験音楽のそれにおいてさえ!)慎重に排除されている音群への、彼らの鋭いアプローチと戦略的な利用に耳を澄ましてみよう。スミスの情報論的な共不可能性の極大化の戦略は、そのようなかたちでEb.erの社会的精神病理の限りない再帰化の戦略と響きあっているのである。そしてディロウェイもまた、ジョン・ケージの《ローツァルト・ミックス》のリアリゼーションの仕事などにおいて純粋な「実験音楽」の歴史に目配せしつつも、『Modern Jester』や『The Gag File』のアルバム・タイトルやジャケット・イメージに見られるように、不気味な道化師が周囲に振りまくコメディ的でホラー的な不安定化するアンビエンスから、自身の音楽的想像力のリソースを少なからず引き出しているのだ。ノイズはアディクションの衰弱させるようなベクトルを自身のうちで折り畳み、多重化することで〈文化〉への別の角度からの再侵入を狙う。対抗アディクションとしてのノイズ──スミスそして(録音物ではなくライヴにおける)ディロウェイが身にまとう〈燃え尽きる男〉のイメージは、男性性を取り巻く諸々のアディクションをそれ自身のポテンシャルに従って燃え盛らせ、いわば〈男性への生成変化〉をオーヴァードライヴさせることによって、ついには男性性そのものが、人間性の諸形象とともに無化されるように感じられる地点にまで行き着くのである。男になりすぎて女になってしまった声が放つ、あの擬死的なエロス。それはラディカルな文化政治的な含意を伴う、男性性の唯物論的脱構築のひとつの優れた実例と見なすこともできるものだ。

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§**†

  かくしてライヴは終わり、私は小林さんとともにSoupを出て帰路についた。数日前に購入した聴覚保護用のイヤープラグのおかげで、耳鳴りはそれほどでもなかった。ライヴ後の耳鳴りこそノイズの(あるいはある種のエレクトロニカやテクノのイベントの)醍醐味だと言う人もいるが、私はそうは思わない。イヤープラグのおかげで尋常ならざるラウドネスに達していたディロウェイのライヴ後半部でも冷静に音の運動を追跡することができたのだし、帰り際に道路工事の音を聴きながらそれがまるでインダストリアル系の音楽(それも相当に音質が良い!)のように聴こえてくるなどという感覚を楽しむこともできたのである。たしかにそのような〈聴くこと〉の〈楽しさ〉をたんに強調してノイズ(・ミュージック)の無化的批判のエネルギーを等閑視するならば、カーンがケージについて述べたような汎聴覚性の罠に舞い戻ることになりかねないだろう。にもかかわらず他面では、繰り返しになるが、ノイズのライヴの興奮をファナティックな集団自傷行為のそれと融合させてしまうことに対して私たちは、そこに対抗‐アディクション的な反転可能性が依然として賭けられているのだとしても十分に慎重でなければならないのである。それはノイズの倫理、一般的な倫理ではなくノイズという特異的な場所に固有の倫理と関わる。

 キャンセル・カルチャーという言葉が叫ばれ、ノイズキャンセリング・イヤホンが人気を博している現在において、勇気をもって言表されなければならないのは、この世界のうちでただひとつだけ決してキャンセルされるべきでないものが存在するとすればそれはノイズである、ということだ。聴取が向かうべき空間は、そこが真の意味での〈正義〉の空間であるならば、ノイズを決して排除しない。ノイズの社会的キャンセルが正当化され、実行可能な計画までもが組まれるようになるとき、真のファシズムが開始されるだろう。それは政治的非難の常套句としての、言葉の綾としてのファシズムではなく、歴史的にかつて猛威を振るっていたそれと同じ本性をもつ、言葉の本来の意味におけるファシズムである。しかしそのような迫害のシナリオが現実化される前に、ノイズ自身がこのような真のファシズムに陥ってしまう可能性を孕んでいる。この危険について私は、ジャパノイズだけでなくノイズ一般の政治的属性の危うい曖昧性としてすでに触れておいた。

 哲学者のジャック・デリダは、まさにファシズムとの浅からぬ関係をもつニーチェの生物学主義的思想の脱構築をその企図の一部として含む七〇年代半ばの講義において、教育制度を通じたある種の記憶や思考の枠組みの再生産および選択の問題を論じながら、同時代的に進行しつつあったDNAの発見に端を発する遺伝生物学の発展とそこでの「プログラム」概念の位置づけをめぐる問題も横目で睨みつつ、ニーチェにおける「耳の問い」、「耳の形象」、「耳の迷宮」への注意を促している(ジャック・デリダ『生死』小川歩人ほか訳、白水社、二〇二二年、六〇頁)。フランス語において理解することと聞くことの両方の意味をもつ動詞entendreを戦略的に戯れさせながら、ここでデリダが示唆しようとしているのは、哲学的思考もまたそこに根を下ろしているような言語的意味作用の隠喩的で類比的な層について、何らかの目的論的で実体的なシニフィエをその起源として前提せずに、むしろさまざまな「プログラム」の制度的-遺伝的な錯綜と相互汚染から生産される効果=結果として、思考一般にとってのこの層の不可避性をそれ自体隠喩的かつ類比的に語ることが、そこにおいてはふさわしい振る舞いと見なされることになるようなある場面のことである。「ニーチェは、概念的思考、その理解と拡張の規則は隠喩によって進むことを示しているのであり、彼はそのことを言表のように述べるのではなく、言表行為において述べるのです」(前掲書、八六頁)。純粋なものと推定された概念的思考のうちに混入する隠喩的ベクトルのある種の除去不可能性については、デリダが「白い神話」をはじめとする諸論文において指摘してきたものであり、それほど新鮮な論点ではないかもしれない。しかし私たちはそこで隠喩の生産とその理解/聴取とに関する一連の思考の働きが、耳というそれ自体特異的な隠喩的価値を帯びた感覚器官と結びつけられていることに注目するとき、またそれが進化論と遺伝生物学を含む現代生物学のさまざまな知見を考慮に入れることが当然期待されるような文脈において、「隠喩の自然選択」(同上)といったアイデアと並べられて──同じく七〇年代にリチャード・ドーキンスによって提案された「ミーム」の理論とも不思議な共鳴を見せるような仕方で──論じられていることに気づくとき、この使い古され摩滅しつつあるテーマないしトポスに新たな使用価値が宿りつつあることを認めざるをえない。おそらく耳はひとつの戦略素、「自身が話すのを聴く声」という自己現前性に支えられた現象学的意識のモデルに走った半透明の亀裂、思考のアプリオリな構造ないし経済の自然史的(したがってもはや分析的ではない総合的な)秩序への切れ込みがそこから入れられ、次いでこの秩序全体のトポロジカルな変形がそこから開始されることになるような、あの決定的な隠喩的対象のうちのひとつであるのだ。このハイパー自然史的な平面の上では、思考の経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルとはたんに二重襞として扱われるだけではもはや済まないものとして、いくつかの特異点(固有名ないし隠喩)において識別不可能な仕方でショートサーキットされることになる。耳は意識であり、意識は脳であり、脳は制度であり、制度はミームであり、ミームは遺伝子であり、遺伝子は言語であり、言語は隠喩であり、隠喩は概念であり、概念はミームであり、ミームは隠喩であり、隠喩はノイズであり、ノイズはノイズであり、ノイズはノイズではないものであり、ノイズではないものはアディクションであり、アディクションは唾や痰であり、唾や痰はウィルスであり、ウィルスは埃や変形であり、埃や変形はテープであり、テープは息であり、息は音であり、音は耳であり、耳はノイズであり、ノイズは思考であり……かかる隠喩的回路のオーヴァードライヴにおいて〈生きること〉と〈思考すること〉と言語との関係は、もはや「生「と」死」や「生「とは」死「である」」といった定立的で対立的もしくは同一化的な論理に従って捉えられることはできなくなるがゆえに、またむしろそのような論理自体がこのオーヴァードライヴの生産する効果=結果であることを指し示すために、デリダはそれを接続詞も繋辞も取り払った「生死」(la vie la mort; life death)として名指すことになるだろう(cf. 前掲書、二四頁)。そしてその回路のうちには還元不可能な偶然性が働いていることが予期される。だからこそ私たちは「ノイズとは何か」という問いのリフレインを通じてノイズの経験の実在的諸条件について記述しようとする際に、ノイズの本質のノイズ的(偶然的)揺らぎによるジャンル的自己異化を考慮に入れて、これを生気論的エネルギーのたんなる賛歌によってではなく、耳の「生死」の次元において、すなわち個体的事例としてのノイズ・ミュージックの「ライヴ(デッド)レポート」の次元において記述することを望んだのだった。

 周知のとおり音楽について語るうえで、そして書くうえで避けることができないのは、隠喩の暴走であり、自走である。このことはノイズ(・ミュージック)に関してはいっそう激しく当てはまるかもしれない。というのもノイズとは、それをまさに聴いているときにはそれを音として同一化することが困難であるような、時系列的な捻れを孕んだ出来事の名であるからだ。ノイズにおいて聴覚的なものと音響的なものとは天空と大地のごとく分離される。音を聴くことと音が鳴ることの自然な統一性、二項のあいだの相関性に時間的な亀裂が走り、「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という問いあるいは〈問い以前のもの〉を残すとき、私たちはノイズの経験をもつのだと言える。このような経験、混じり気のない唯物論的な経験に対して私たちがなしうるのは、隠喩を駆使しながら、そして隠喩が焼き切れるまでそれを使いながら──おそらくそこにデリダがかろうじて留保していた「脱構築の脱構築不可能性」が他の意味において脱構築されてしまう時間、ブラシエ的な意味での「絶滅」の時間が見出されることになる──、より正確な記述のためのカテゴリーを探すことでしかないだろう。「音であるにはあまりにもうるさすぎる」(ラウドネス)、「聴かれるにはあまりにもおぞましすぎる」(アブジェクション)といった過剰さを特徴とするノイズの経験は、私たちの耳という入力端子への超過電流の流れ込みとして隠喩化されうるかもしれない。その場合、私たちの耳-回路という隠喩的図式のなかにオーヴァードライヴが生じていることになる。言葉はもはや入力された値をそのまま出力することはなくなり、すべての意味‐音色は強度的‐内包的に歪む。次に試みられるのは、隠喩的図式をオーヴァードライヴさせて得たこの思考を、再び隠喩的回路に流し込むことで、フィードバック・ループを生じさせることだろう。ノイズの経験を記述するために用いられる隠喩的カテゴリー(たとえば「耳」「痰」)を幾度となくダビングし、それ自身の内部での準-音響的経験(いわば〈隠喩の耳鳴り〉)の記述にまで適用するとき、ついには聴覚的経験を言説的に表現するものとしてのテクストそのものが物質的な次元でハウリングし、ループし始めるだろう。どんなライヴを聴いたのか、そこで誰が演奏していたのかということさえ、もはや私は忘れ始めている。ただそこで私の耳を襲った音たちが、無数の軋るような隠喩的図式、ミームとアディクションの唸りを上げるような運動に変換されて、私の脳内を駆けめぐっているだけだ。ひとつの言説として出力するにはそれらの信号をもう少し増幅してやる必要があるだろう。録音、再生、再録音。そのようにして「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という〈問い以前のもの〉が、「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」というひとつのほどよく素朴で、素面な、流通可能で売買可能な形式の問い‐商品へと成形されていく。だがその商品化された問いの下では、依然として〈問い以前のもの〉が地下道を走りまわるネズミの群れのごとき、小さく聴きとりづらい、それ自体で複数のものである唸り声を上げている。物質的時間が劣化の名のもとに種々のノイズを刻み込む以上、テープループによる反復は悪無限の牢獄ではない。隠喩は永遠に隠喩であるわけではない。「欲望機械は隠喩ではない」(ドゥルーズ&ガタリ)。

 ノイズの隠喩をノイズの隠喩で焼くと、隠喩の燃焼でノイズそれ自身が生じる。ノイズについてのノイズはひとつのイディオムを、歌を生む。テープが(ヴァイナルが、CDが……)徐々に磨耗しながら、同じ歌の文句を問いとしてループさせる。歌が歌い尽くされるまで、問いが問い尽くされるまで。

 そして、昔々あるところに。まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり(文はここで途切れている)……。

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追伸:この記事は当初ライヴ・レポートとして執筆されていたものの、徐々にノイズについての原理的な考察としての性格を強め、それに伴い字数も大幅に増えたために、コラムとして掲載されることになった。しかし記事内で述べられているように、ノイズについての十全な理論的考察は個体的で実在的な音響体験の記述から切り離せないため、当初のライヴ・レポートの内容と枠組みはそのまま残されている。したがってこの記事は拡大されてはいるものの純粋なケース・スタディ(事例研究)として読むことも可能であれば、圧縮されてはいるものの完全な一般理論として読むことも可能なものとなっている。どちらの解読格子を採用するかは読者の好みに委ねられる。

JPEGMAFIA x Danny Brown - ele-king

 アーティスト間のコラボレーションが盛んなヒップホップにおいて、コラボレーション・アルバムは数え切れないほど存在する。特にアンダーグラウンド・ヒップホップでの前例としては、MFドゥームマッドリブが「Madvillain」という名前で発表した傑作『Madvillainy』(2004)が思い浮かぶ。
 現代におけるアンダーグラウンドの奇人たち、Jペグマフィア(a.k.a. ペギー)とダニー・ブラウンがアルバム単位でコラボするというニュースは好奇心を招いた。彼らはあらゆるジャンルを刺激的かつ分裂的に混ぜ合わせ、オルタナティヴなヒップホップ・プロダクションを好んで使用し、しかもなんと4~5枚以上のアルバムを着実に発表してきたことなどを共通点として挙げられるので、ふたりが引き起こす化学反応が楽しみだった。

 本作は近年発表された様々なヒップホップ作品のなかでも、積極的なサンプリングと数々の引用など、メジャーな公式に当てはまらない過激さを打ち出した素晴らしいプロダクションを盛り込んだ作品と言えるだろう。特にペギーが Roland のサンプラー1台で全曲を作曲したと明かすように、サンプルを分割してソースを配置する技量はまさに頂点に達しているように見え、そこに鼻音混じりの声でリズムを自分のものにしてしまうフロウを持つ独創的なラップ・キャラクター=ダニーの参加はちょうど似合う。彼らが引き起こす刺激は終始騒がしいが、意外と「多彩なテクニック」を誇る。
 “Lean Beef Patty” はサンプリングやソース配置の技術、パフォーマンスまで奇抜かつ完璧に仕上がっていて、本作の登場を楽しみにさせるリード・シングルだった。次のシングルの “SCARING THE HOES” は作中で最も奇妙な曲で、ダーティ・ビーチズのフリー・ジャズ系の演奏をサンプルに、ホラー映画のような映像演出で不気味さを増す。上記のシングルは、ふたりに期待される実験的で過激なエネルギーをよく表している。
 サンプルの用例は様々だが、日本の音楽を用いた2曲はそれぞれ異なる魅力を発する。CMのチャントとファミコン・ゲームの効果音を借りた “Garbage Pale Kids” は、荒々しいベース・ドラムを落としたり、途中でファジーなギターを打ち込み、作中で最も刺激的なサウンドを完成させている。一方、某声優のシングルをサンプリングした “Kingdom Hearts Key” は、メロウ・ポップの質感を生かしつつ幻想的でダイナミックな展開を作り出している。
 他にもポップ・ソウル曲をいじったり、オーケストラやゴスペルなどの荘厳な原曲に卑猥な歌詞をばら撒いたりするなど、サンプリングを使った様々な遊戯の試みは聴き手の集中力を持続的に牽引する。
 ペギーのトラックメイキングの技量はまさに頂点に達しているように思われ、敏腕なラッパーのダニー・ブラウンの参加はその価値をさらに高める。プロデュースを手がけ、自分の領域を確実に構築しているJペグマフィア、コラボレーション相手をはるかに凌駕するダニー・ブラウンのパフォーマンス力。その相反するアンバランスがむしろ新しい重心を見いだしたように見える。

 2020年代のヒップホップの風景を眺めると、レイジ(rage)やドリル(drill)、ハイパーポップのようなハードコア化や、ロックやエレクトロニックとの融合が積極的におこなわれてヒップホップのステレオタイプを問い直すオルタナティヴ化などが進み、その形を激しく変貌している。一方、ペギーとダニーが Roland のサンプラーの上で戯れる姿は「新しい」を志すよりむしろ文化レガシーへのノスタルジーに近い。が、彼らの遊戯が、だんだん過激化していくジャンルのなかでも、最も奇妙で刺激的なサウンドで集まった矛盾を見ると、この奇人たちの皮肉は痛烈に通じたようだ。

 すごい面子が揃ったものだ。ロンドン発のイヴェント「MODE」が5/25から6/2にかけ東京で開催されることになったのだが、エクスペリメンタルな実力者たちのオールスターといった気配のラインナップとなっている。5/25はイーライ・ケスラーカフカ鼾ジム・オルーク石橋英子山本達久)、パク・ジハ。5/28は伶楽舎。5/30はベアトリス・ディロンルーシー・レイルトンYPY(日野浩志郎)。6/1はメルツバウスティーヴン・オマリー。6/2はFUJI|||||||||||TAと、初来日のカリ・マローン+オマリー+レイルトン。貴重な機会のアーティストも多いので、下記詳細を確認してぜひとも足を運びましょう。

[5月23日追記]
 上記イヴェントにふたつのプログラムが追加されることが決まりました。ひとつは、エイドリアン・コーカー&渡邊琢磨、アキヒラ・サノによるサウンド・インスタレーション(「MODE」の初回プログラム・ディレクターを務めた故・坂本龍一と、デイヴィッド・トゥープによる作品も同時上映されます)。もうひとつは、ポスポス大谷、リキ・ヒダカ、エイドリアン・コーカー&渡邊琢磨ほかが出演する下北沢SPREADでの公演。強力なランナップがさらに堅牢なものとなりました。実験音楽に浸る初夏!

[5/23追加情報]

MODE LISTENING ROOM & POP-UP at DOMICILE TOKYO

Adrian Corker & Takuma Watanabe、Akhira Sanoによるサウンドインスタレーションがドミサイル東京・ギャラリースペースにて発表。

また同会場にて、MODE 初回プログラムディレクターを務めた坂本龍一氏への追悼企画として、Ryuichi Sakamoto & David Toop のパフォーマンス映像(2018)が、NTSとの共同企画により放映される。

詳細:
実験音楽、オーディオビジュアル、パフォーミングアーツを紹介するイベントシリーズ『MODE』 のプログラムの一部として、5月29日~6月3日の期間、原宿のコンセプトストア「DOMICILE」(渋谷区神宮前4-28-9)に併設するギャラリースペースにて「MODE LISTENING ROOM」と題し、Adrian Corker & Takuma Watanabeによる新作インスタレーション『The Impossible Balance』、Akhira Sanoによるサウンドインスタレーション『Magnify Cyte』が発表されます。またストアでは、先行して5月26日より、MODE関連アーティストの音源やTシャツなど限定アイテムを集めたPOP-UPが開催されることが決定しました。

さらには、MODEの初回プログラムディレクターを務めた坂本龍一と、David Toopによる当時のパフォーマンス映像『Ryuichi Sakamoto & David Toop (2018)』をロンドン拠点のラジオプラットフォーム「NTS」との共同企画により放映することが決定いたしました。同企画は先日 逝去された坂本龍一の意志を引き継いだ、氏の所属事務所や家族によって立ち上げられた植樹のためのドネーションプラットフォーム「Trees for Sakamoto」への寄付プロジェクトの一環として開催されます。

【開催日程詳細】

MODE LISTENING ROOM
会期:5月29日(月)- 6月3日(土)12:00‒20:00
会場:DOMICILE TOKYO 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-28-9 チケット料金:入場無料

参加アーティスト:Adrian Corker & Takuma Watanabe (エイドリアン・コーカー & 渡邊琢磨/UK,JP)
Akhira Sano(アキヒラ・サノ/JP)(
上映作品:Ryuichi Sakamoto & David Toop (2018)

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実験音楽、オーディオビジュアル、パフォーミングアーツを紹介するイベントシリーズ 『MODE』の追加プログラムが、
5月31日に下北沢SPREADにて開催決定。 Posuposu Otani、Riki Hidaka、Takuma Watanabe & Adrian Corkerが出演。

Posuposu Otani/ Riki Hidaka/
Takuma Watanabe & Adrian Corker ‒ The Impossible Balance
feat. Atsuko Hatano (vn), Naoko Kakutani (va), Ayumi Hashimoto (vc), Tatsuhisa Yamamoto (ds), Takuma Watanabe (cond)

スロートシンガーソングライターで口琴演奏家、倍音印象派のPosuposu Otani(ポスポス大 谷)をはじめ、ギタリストのRiki Hidaka(リキ・ヒダカ)、映画音楽を数 多く手掛け、デイヴィッド・シルヴィアン、フェリシア・アトキンソンらなど海外アーティストと の協業でも知られるTakuma Watanabe(渡邊琢磨)と、音楽家であり、レーベルSN Variations、Constructiveを運営するAdrian Corker(エイドリアン・コーカー)の新プロジェ クトThe Impossible Balanceが発表されます。ライブには、波多野敦子(バイオリン)、角谷奈緒子(ヴィオラ)、橋本歩(チェロ)、山本達久(ドラム)、渡邊琢磨(コンダクト)が出演。

【開催日程詳細】
公演日時:5月31日(水)19:00開場/19:30開演 22:00終演
会場:SPREAD 〒155-0031 東京都世田谷区北沢2-12-6 リバーストーンビルB1F
チケット料金:前売3,000円 当日3,500円 U23 前売・当日 2,000円[全自由・スタンディング] ※ZAIKOにて販売中

出演者:
Posuposu Otani(ポスポス大谷/JP)
Riki Hidaka(リキ・ヒダカ/JP)
Takuma Watanabe & Adrian Corker (渡邊琢磨&エイドリアン・コーカー/JP, UK)
波多野敦子(バイオリン)、角谷奈緒子(ヴィオラ)、橋本歩(チェロ)、 山本達久(ドラム)、渡邊琢磨(コンダクト)

33-33 x BLISS present MODE TOKYO 2023
2023年5月25日 - 2023年6月2日

実験音楽、オーディオビジュアル、パフォーミングアーツをフィーチャーする
ロンドン拠点のイベントシリーズ「MODE」が東京にて開催。初の来日公演となるカリ・マローンはじめ、スティーブン・オマリー、イーライ・ケスラー、ベアトリス・ディロン、カフカ鼾、伶楽舎、FUJI|||||||||||TAなど、全5公演、11組のラインナップを発表。

ロンドンを拠点とする音楽レーベル兼イベントプロダクションの33-33(サーティースリー・サーティースリー)が贈る、実験音楽、オーディオビジュアル、パフォーミングアーツを紹介するイベントシリーズ『MODE』が復活。
2019年ロンドンでの開催以来となる2023年のエディションが、日本を拠点として実験的なアート、音楽のプロジェクトを展開するキュレトリアル・コレクティブBLISSとの共同企画により、東京都内複数の会場にて開催します。世界のアート、音楽シーンで評価を受けているアーティストたちが集結し、9日間にわたって国際的なアートプログラムを実施します。
今回の東京開催の背景には、主宰の33-33と日本の芸術や音楽との長年にわたるコラボレーションがあります。2018年にロンドンで発表された第一回のMODEでは、日本の作曲家、ピアニスト、電子音楽のパイオニアであり、先日3月28日に惜しまれつつ逝去された坂本龍一氏がプログラムキュレーターを担当しました。敬意と追悼の意を込め、MODEは今回のシリーズを氏に捧げます。

※公演チケットは各プログラム限定数での先着販売となっております、追加販売予定はございませんのでお早めにお買い求めください。


【開催日程詳細】

@The Jewels of Aoyama *Co-presented with Bar Nightingale
公演日時:5月25日(木)18:00開場/19:00開演 22:00終演 
チケット料金:前売6,000円[スタンディング]※ZAIKOにて販売中
出演者:Eli Keszler(イーライ・ケスラー/US)、カフカ鼾(Kafka's Ibiki/US, JP)、Park Jiha(パク・ジハ/KR)
会場:The Jewels of Aoyama 〒107-0062 東京都港区南青山5丁目3-2

一連のイベントシリーズの幕を開けるのは、NY拠点のエクスペリメンタル・パーカッショニストEli Keszler。Jim O’Rourke(ジム・オルーク)、石橋英子、山本達久によるトリオ、カフカ鼾。そして初の来日公演となる、韓国の伝統音楽を主軸とした現代音楽家 Park Jihaが出演するプログラム。また、このプログラムは世界中のアーティストらに支持される会員制の実験音楽バー「Bar Nightinegale」との共同企画で開催される。

@四谷区民ホール ※関連プログラム
公演日時:5月28日(日)15:30開場/16:00開演
チケット料金:前売3,000円・当日3,500円[全席自由]
https://reigakusha.com/home/sponsorship/4403 参照
出演者:伶楽舎(Reigakusha/JP)伶楽舎雅楽コンサートno.40 〜芝祐靖作品演奏会その4〜
会場:四谷区民ホール 〒160-8581 新宿区内藤町87番地

1985年に発足した雅楽グループ伶楽舎による『伶楽舎雅楽コンサートno.40 〜芝 祐靖作品演奏会その4〜』をMODE 関連プログラムとして紹介する。伶楽舎は現行の雅楽古典曲だけでなく、現代作品の演奏にも積極的に取り組み、これまでに湯浅譲二、一柳慧、池辺晋一郎、猿谷紀郎、伊左治直、桑原ゆうなど多くの作曲家に新作を委嘱。日本を代表する現代音楽家、武満徹作曲の雅楽作品『秋庭歌一具』の演奏でも複数の賞を受賞。長らく音楽監督を務めた芝祐靖は雅楽の世界に新風を送り続けた人物で、MODEで紹介される現代音楽表現のルーツの一部を体験できるプログラムとなっている。

@WALL & WALL
公演日時:5月30日(火)19:00開場/19:30開演 22:00終演
チケット料金:前売4,000円[スタンディング] ※ZAIKOにて販売中
出演者:Beatrice Dillon(ベアトリス・ディロン/UK)、Lucy Railton(ルーシー・レイルトン/UK)、YPY(ワイ・ピー・ワイ/JP)
会場:WALL & WALL 〒107-0062 東京都港区南青山3丁目18−19フェスタ表参道ビルB1

実験的電子音楽に焦点を当てたこの日のプログラムは、前作『Workaround' (PAN, 2020)』が、The Wire紙によって’Album of the Year’に選ばれた、ロンドン拠点の作曲家・サウンドアーティストのBeatrice Dillonと電子音楽レーベル「NAKID」主宰し、バンド「goat」の中心人物で作曲家・音楽家の日野浩志郎によるソロプロジェクトYPYが共演。イベントのオープニングを飾るのは、先日オランダのフェスティバルRewireにて世界初公開され反響を呼んだ アーティスト・詩人のパティ・スミスによるプロジェクト『Soundwalk Collective & Patti Smith』や、今回初の来日公演となるKali Maloneの作品にも参加する、イギリス人チェリスト・作曲家であるLucy Railtonの日本初公演。

@Shibuya WWW
公演日時:6月1日(木)19:00開場/19:30開演 22:00終演(予定)
チケット料金:前売4,500円[スタンディング] ※ZAIKOにて販売中
出演者:Merzbow(メルツバウ/JP)、Stephen O’Malley(スティーブン・オマリー/US, FR)
会場:WWW 〒150-0042 東京都渋谷区宇田川町13−17 ライズビルB1F

20年以上にわたり、SUNN O)))、 KTL、 Khanateなど数々のドローン/実験的プロジェクトの構想や実行に携わってきたStephen O'Malleyと、説明不要の世界的ノイズ・レジェンドであるMerzbow a.k.a. 秋田昌美によるダブルヘッドライナーショー。

@淀橋教会
公演日時:6月2日(金)18:00開場/19:00開演 21:00終演 
チケット料金:前売6,000円[全席自由] ※ZAIKOにて販売中
出演者:FUJI|||||||||||TA (フジタ/JP)、Kali Malone(カリ・マローン/US, SE) presents: 『Does Spring Hide Its Joy』 feat. Stephen O’Malley(スティーヴン・オマリー/US, FR)& Lucy Railton(ルーシー・レイルトン/UK)
会場:淀橋教会 〒169-0073 東京都新宿区百人町1-17-8

今シリーズのフィナーレは、新宿区大久保の多国籍な街中に位置する淀橋教会にて開催される。パイプオルガンによる作品で知られる作曲家・サウンドアーティストのKali MaloneがStephen O'Malley、Lucy Railtonとともに、国際的に高評価を得て、Billboard Classical Crossover 4位を獲得した最新作品『Does Spring Hide Its Joy (2023)』を日本初公演にて披露する。ダブルヘッドライナーとして、近年日本を拠点にヨーロッパ、アメリカで高い評価を得ている自作のパイプオルガン奏者でサウンドアーティストFUJI|||||||||||TAが登場。

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About 33-33:
33−33(サーティースリー・サーティースリー)は、ロンドン拠点のレコードレーベル兼イベントプロダクション。年間を通してイベントプログラムを企画制作するだけでなく、33−33レーベルからのレコードのリリースや、アーティストとともに個別のプロジェクトを制作するなどしている。
33−33は、イースト・ロンドンの教会にて2014年以来開催されているイベント『St John Sessions』を機に発足。過去にはガーナ、東京、ベイルート、カイロでイベントを開催している。2018年には音楽、アート、パフォーマンスを紹介するフェスティバル『MODE』を設立。2018年には坂本龍一氏がキュレーションを行い、2019年にはLaurel Halo(ローレル・ヘイロー)がプログラムを構成した。

About BLISS:
BLISS(ブリス)は、2019年に日本を拠点として設立されたキュレトリアル・コレクティブ。アートと音楽の分野において、実験的な展覧会、イベントなど行う。抽象性が高く、実験的な表現を社会に発表、共有し続けることが可能な環境をつくることを目的としている。主なプロジェクトに、Kelsey Lu at Enoura Observatory (2019)、INTERDIFFUSION A Tribute to Yoshi Wada (2021)など。

Works of BLISS:
Kelsey Lu at Enoura Observatory
INTERDIFFUSION A tribute to Yoshi Wada

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SUPPORTED BY
アーツカウンシル東京
グレイトブリテン・ササカワ財団
大和日英基金

PARTNER
EDSTRÖM OFFICE

Jeff Mills - ele-king

 いよいよ明日に控える Rainbow Disco Club への出演が決まっているジェフ・ミルズ。直後の5月2日(火)、特別なイベントが開催されることになった。
 ひとつは、彼自身が監督を務める映像作品「MIND POWER MIND CONTROL」(2022年、66分)の上映会。同映像作品は2022年発売のアルバム『Mind Power Mind Control』のテーマに関連したもので、パルコ8階のミニシアター、ホワイトシネクイントにて5月2日の19:00から20:06にかけ上映される(事前整列は18:30より。限定50席)。
 もうひとつは、それと連動したパルコ9階にあるSUPER DOMMUNEでの特別番組だ。上述の映画上映中はさまざまなゲストを招いたトーク番組が(yukinoiseとMars89も登壇)、上映後はミルズのインタヴュー番組が、そして最後にはミルズによるセッションが予定されている。
 ぜひとも会場に足を運びましょう。

ジェフ・ミルズ「MIND POWER MIND CONTROL」特別上映会を開催
同日、上映記念特別番組『THE INTERVIEW』をDOMMUNEにて生放送配信

GW真っ只中の5月2日(火/祭日前)にRainbow Disco Club 2023出演で来日中のジェフ・ミルズが自身が監督を勤めた「MIND POWER MIND CONTROL」特別上映会を渋谷PARCO8F WHITE CINE QUINTにて開催する。また、上映を記念したトーク&DJプログラムが上映中と上映後、同じく渋谷PARCOの9F SUPERDOMMUNEで開催する。上映中は作品内容にとどまらず様々な事象に関してそしてスペシャルゲストが語り合うトークセッション「洗脳原論2023」が行われる。上映後はジェフ・ミルズのインタビュー映像「ジェフ・ミルズ / ザ・インタビュー」を上映、最後にジェフ本人による貴重なリスニングDJ SESSIONが行われる。


Jeff Mills ジェフ・ミルズ
映像作品「MIND POWER MIND CONTROL」
(マインド・パワー、マインド・コントロール)

映像作品「Mind Power Mind Control (マインド・パワー、マインド・コントロール)」はエレクトロニックミュージック界の重鎮ジェフ・ミルズの世界を表現したコンセプチュアルな映像作品のコレクションである。2022年発売のアルバム「Mind Power Mind Control」のテーマに関連した様々なスタイルの作品から成り立っている。
ジェフ・ミルズが何十年にも渡って貫き通している音楽制作の様式のごとく、映像はあたかも夢を見ているかのようにつながっていく。あるときは色、形、テクスチャーがはっきりとしており、またあるときは断片的で捉えどころがないものだ。

コロナ禍以前、過去6年間に渡って制作された作品群はミルズの一貫した思想が象徴され、精神力による自制、自己防衛、依存、そして人間の特殊能力の可能性を作品を通じて表現しようとしている。

今回の上映は日本でのプレミア上映となり、パリ、デトロイトに次いで世界3箇所目の上映となる。

【監督からのコメント】

本作品は精神的な説得力、いかに弱みを見透かされ従順にマインド・コントロールされていくかをアートフォームとして検証していくことに焦点を当てている。そのことによって、すべての人がいかなる人生の段階においても陥る可能性があるこのテーマをクリエイティブに、より深く考えることができるようになる。いかに我々が物事を感じ取るかは革命的なサバイバルの知識の一部なのだ。誰一人として全く同じ考え方を持っている人は存在しないのだから、憶測や誤解に陥ることなく、“事実、思想、方法をありのままに伝える”ことに重きを置くのが本作品の大きな目的である。

アーティスティックにまた科学的に、本作品はマインドをコントロールする様々なテクニックを探求している。いかに人類が人々の精神、社会性、現実の捉え方をコントロールする、形而上学的かつ考えを歪めるようなテクニックを生み出していったのかを探り当てようとしているのである。

―ジェフ・ミルズ

トレイラー
https://vimeo.com/710423349

映画タイトル 「Mind Power Mind Control」
2022年作品、 66分
監督・プロデューサー・音楽:ジェフ・ミルズ
制作:Axis Records

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上映記念 DOMMUNE PROGRAM「THE INTERVIEW」
(ザ・インタビュー)

<渋谷PARCO9F:SUPER DOMMUNE>
JEFF MILLS Presents「MIND POWER MIND CONTROL」上映記念 PROGRAM「THE INTERVIEW」<配信有>

■19:00-20:30 上映中プログラム「洗脳原論2023」〜マインド・コントロールと音楽
GUEST:苫米地英人(認知科学者)出演:野田努(ele-king)、弘石雅和(U/M/A/A Inc.)、宇川直宏(DOMMUNE)& MORE!!!
■20:30-21:00 上映後プログラム「ジェフ・ミルズ / ザ・インタビュー 」
出演:Jeff Mills(AXIS|Detroit)
■21:00-22:30 【After Party】JEFF MILLS LISTENING SESSION
DJ:Jeff Mills(AXIS|Detroit)BROADJ#3177

■番組概要
「Mind Power Mind Control (マインド・パワー、マインド・コントロール)」はエレクトロニックミュージック界の重鎮ジェフ・ミルズの世界を表現したコンセプチュアルな映像作品のコレクションである。2022年発売のアルバム「Mind Power Mind Control」のテーマに関連した様々なスタイルの作品から成り立っている。ミルズが何十年にも渡って貫き通している音楽制作の様式のごとく、映像はあたかも夢を見ているかのようにつながっていく。あるときは色、形、テクスチャーがはっきりとしており、またあるときは断片的で捉えどころのない… コロナ禍以前、過去6年間に渡って制作された作品群はミルズの一貫した思想が象徴され、精神力による自制、自己防衛、依存、そして人間の特殊能力の可能性を作品を通じて表現しようとしている。
今回、パリ、デトロイトに次いで世界3箇所目の上映となる日本での待望のプレミアが、5/02(火/祭日前)渋谷PARCO8F:WHITE CINE QUINTで開催(限定100席)!そして上映を記念したトーク&DJプログラムが上映中と上映後、渋谷PARCO9F:SUPERDOMMUNEで開催(限定50席)!スペシャルゲストには、何と認知科学者で洗脳についてのオーソリティーである苫米地英人がDOMMUNE初登場! 安倍晋三元首相銃撃事件によって、旧統一教会の様々な問題が再浮上する中、21世紀の洗脳社会で戦う術を解き明かす?!マインド・コントロール防止対策や、被害者救済に向けた政府の新たな法案に対しての賛否両論が渦巻く現在、ジェフ・ミルズの試みは我々にどう響くのか?そしてマインド・コントロールと音楽の関係は?聞き手には、ジェフと深い縁のある野田努、弘石雅和、宇川直宏 他が登壇!そしてプログラム中盤は「未来から来た男」ジェフ・ミルズ本人が、作品内容にとどまらず様々な事象に関して語る!! そして後半は、After Partyとしてジェフのこれまでの人生に於いて、心のひだに入り込んだ曲や、インスピレーションを得たトラックなどを、ジェフ本人がプレイする貴重なリスニングDJ SESSION!! 映画、記念プログラム共に超濃密な一夜!!是非、劇場とスタジオへ!!!!!

チケット情報

■チケット1:
映画鑑賞のみのチケット
︎https://jeffmillsdommune.peatix.com/
■19:00-20:06 ジェフ・ミルズ Presents「マインド・パワー、マインド・コントロール 」映画上映(66 min)
<上映中のトークプログラム「洗脳原論2023」のみ、翌日05/03より1週間アーカイヴ観覧可能>
■1900円(限定50席)■事前整列|18:30 ■開場|18:45 ■上映:19:00 - 20:06(上映終了)
■渋谷PARCO8F:WHITE CINE QUINT
https://shibuya.parco.jp/shop/detail/?cd=025848
(劇場は自由席です。18:30に事前整列して頂き、入場順に自由に席に座って頂くスタイルです。)

●チケット2:
映画鑑賞+SUPER DOMMUNE入場チケット
https://jeffmillsdommune.peatix.com/
■19:00-20:06 ジェフ・ミルズ Presents「マインド・パワー、マインド・コントロール 」映画上映(66 min)
■上映+After Partyプログラムチケット3900円(限定50席)■事前整列|18:30 ■開場|18:45 ■上映:19:00 - 20:06(上映終了)
■20:06-22:30 JEFF MILLS Presents「MIND POWER MIND CONTROL」上映記念 PROGRAM「THE INTERVIEW」
■上映終了後それぞれ9Fスタジオへ イベントは22:30迄(プログラム終了)
<上映中のトークプログラム「洗脳原論2023」のみ、翌日05/03より1週間アーカイヴ観覧可能>
(劇場は自由席です。18:30に事前整列して頂き、入場順に自由に席に座って頂くスタイルです.DOMMUNEの会場も自由席です。)
■渋谷PARCO8F:WHITE CINE QUINT
https://shibuya.parco.jp/shop/detail/?cd=025848
■渋谷PARCO9F:SUPER DOMMUNE
https://shibuya.parco.jp/shop/detail/?cd=025921

・注意事項
ホワイトシネクイント及びDOMMUNEは渋谷PARCO駐車場サービスは対象外です。

<新型 コロナウイルス等感染症予防および拡散防止対策について>
発熱、咳、くしゃみ、全身痛、下痢などの症状がある場合は、必ずご来場の前に医療機関にご相談いただき、指示に従って指定の医療機関にて受診してください。
エントランスで非接触体温計にて体温を計らせて頂き37.5度以下の場合のみご入場可能になります。
感染防止の為、マスクのご着用をお願い致します。
手洗い、うがいの励行をお願いいたします。
お客様入場口に消毒用アルコールの設置を致します。十分な感染対策にご協力ください。
会場にて万が一体調が悪くなった場合、我慢なさらずに速やかにお近くのスタッフにお声がけください。
本イベントはDOMMUNEからの生配信を実施いたします。
DOMMUNE YouTubeチャンネル(http://www.youtube.com/user/dommune)、もしくはDOMMUNE公式ホームページ(https://www.dommune.com)からご覧いただけます。
生配信では、YouTubeのスーパーチャット機能による投げ銭を募っております。何卒サポートをよろしくお願いいたします。
会場の関係などにより、開演時間が前後する可能性があります。予めご了承ください。

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【ジェフ・ミルズ】プロフィール
1963年アメリカ、デトロイト市生まれ。

現在のエレクトロニック・ミュージックの原点ともいえるジャンル“デトロイト・テクノ”のパイオニア的存在。

マイアミとパリを拠点に1992年に自ら設立したレコードレーベル<Axis(アクシス)>を中心に数多くの作品を発表。またDJとして年間100回近いイベントを世界中で行っている。

ジェフ・ミルズの代表曲のひとつである「The Bells」は、アナログレコードで発表された作品にも関わらず、これまで世界で50万枚以上のセールスを記録するテクノ・ミュージックの記念碑的作品となっている。

ジェフ・ミルズは、音楽のみならず近代アートのコラボレーションも積極的に行っており、フリッツ・ラング監督「メトロポリス(Metropolis)」、「月世界の女(Woman in the Moon)」、バスター・キートン監督「キートンの恋愛三代記(The Three Ages)」などのサイレントムービー作品のために、新たにサウンドトラックを書き下ろし、リアルタイムで音楽と映像をミックスしながら上映するイベント、“シネミックス(Cinemix)”を数多く行う。

また、ポンピドーセンター「イタリアフューチャリズム100周年展」(2008年)、「Dacer Sa vie」展(2012年)、ケブランリー博物館「Disapola」(2007)年など、アートインタレーション作品の展示も行う。

数々のアート活動が高く評価され、2007年にはフランス政府より日本の文化勲章にあたる芸術文化勲章シュヴァリエ(Chevalier des Arts et des Lettres)を授与される。

ジェフ・ミルズは長年にわたりシンフォニー・オーケストラとの共演を行ってきており、その模様をDVDとして広くオーディエンスに拡散した世界初のDJでもある。2005年、フランス南部のポン・デゥ・ガールにて行われた、モンペリエ交響楽団との演奏は「ブルー・ポテンシャル」としてDVD化され。これをきっかけに世界中のオーケストラとの共演がスタート。ポルトガル、ベルギー、オーストラリア、オランダ、ポーランドなど世界中で公演を行っている。

2013年にはシルベイン・グリオット編曲による新作「ウェア・ライト・エンズ(光の終局点)」を発表し、フランス7箇所にて公演。「ウェア・ライト・エンズ」は、日本人で初めてスペースシャトルに宇宙飛行士として搭乗した、日本科学未来館館長の毛利衛氏との対話から生まれた作品で2013年4月にCD作品として発表されたものである。2016年、東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで開催されたイベント『爆クラ!presents ジェフ・ミルズ×東京フィルハーモニー交響楽団』の中でも披露され、毛利衛氏も来場し会場を沸かせた。

なお、2013年、日本科学未来館館のシンボル、地球ディスプレイ「Geo-Cosmos(ジオ・コスモス)」を取り囲む空間オーバルブリッジで流れる音楽「インナーコスモス・サウンドトラック」はジェフ・ミルズが作曲。現在もその音楽が使用されている。(*2001年の開館時、Geo-Cosmosの公開とともに、坂本龍一氏が音楽を担当。2013年から、ジェフ・ミルズの音楽に変更)

オーケストラとの共演以外には、クロノス・クァルテット、キャサリン・スプローブ(ピアニスト)、ミハイル・ルディ(ピアニスト)、エミル・パリジアン(サックス)、トニー・アレン(ドラマー)などとコラボレーションの経歴がある。

エレクトロニック・ミュージック・シーンのパイオニアでありながら、クラシック音楽界に革新を起こす存在として世界の注目を浴びている。さらに、2017 年 6 月にはロンドン、バービカンセンターにて1週間のレジデンシーで『Planets』 クラシックコンサートのほか、シネミックスやコンテンポラリーダンスイベントなど Jeff Mills のキュレーションと参加によるパフォーマンスを開催された。
2017年にはフランス政府よりシュヴァリエよりさらに高位なオフィシエの称号を元フランス文化大臣のジャック・ ラングより授与された。
最近はエレクトロニック、クラシック以外にも、ジャズ・フュージョン、アフロ・ビートなど幅広いジャンルに手を伸ばし、コラボレーション企画やプロデュース作品など多くの作品を録音している。最新作は人間の内面性を追求した「Mind Power Mind Control」、フランス人キーボード奏者、Jean-Phi Daryとのユニット、The Paradox(ザ・パラドックス)による「ライブat モントルー・ジャズ・フェスティバル」。
コロナ禍中には、若手テクノアーチスト発掘支援のためThe Escape Velocity (エスケープ・ベロシティ)というデジタル配信レーベルを設立。既に60作品をリリースしている。

www.axisrecords.com
https://twitter.com/JeffMillsJapan
https://www.facebook.com/JeffMills
https://www.instagram.com/jeff_mills_official/

Jungle - ele-king

 ジョシュ・ロイド=ワトスンとトム・マクファーランドからなるロンドンのエレクトロニック・ダンス・デュオ、ジャングル。総ストリーム数が約10億にものぼり、大型フェスではヘッドライナーを任されるほどの人気を誇る彼らが、4枚目のアルバム『Volcano』を8月11日にリリースする。
 多様な歌声をとりいれることが狙いだったというその新作には、ルーツ・マヌーヴァなどのゲストが参加。現在、ブルックリンのヒップホップ・グループ、フラットブッシュ・ゾンビーズのエリック・ジ・アーキテクトをフィーチャーした新曲 “Candle Flame” が公開中だ。「愛や人間関係における浮き沈み」をテーマにしているという同曲、MVも印象的なので視聴しておきたい。

ノエル・ギャラガー、ジャミロクワイ、ジャスティン・ティンバーレイクら大物ミュージシャンがこぞって大絶賛!!
極上のフューチャー・ディスコ・ユニット、ジャングルが帰還!
ニューアルバム『VOLCANO』8月11日リリース決定!

Radio 1【HOTTEST RECORD】選出の新曲「CANDLE FLAME FEAT. ERICK THE ARCHITECT」が先行解禁!
日本限定で数量限定トートバッグセットと日本語帯付きLPも同時発売!

マーキュリー賞にもノミネートされたデビュー・アルバム『JUNGLE』が、UKで9ヶ月に渡ってチャートインを記録する超ロング・セラーとなり、総ストリーミング数は10億以上、今や大型フェスのヘッドライナーも務めるフューチャー・ディスコ・ユニット、ジャングルが、8月11日に最新アルバム『VOLCANO』をリリース決定! アルバムからRadio 1【HOTTEST RECORD】にも選ばれた先行シングル「Candle Flame (feat. Erick the Architect)」を解禁した。

Jungle - Candle Flame (Ft. Erick The Architect) (Official Video)
https://youtu.be/esqRBsVumrw

デビュー以来、ノエル・ギャラガー、ジャミロクワイ、ジャスティン・ティンバーレイクら大物ミュージシャンが賞賛し、ダフト・パンク不在のダンス・ミュージックにおいて、今やシーンを牽引する存在にまで成長を遂げたジャングル。前作『Loving In Stereo』は、全英チャート初登場3位を記録し、米ビルボードのダンス・アルバム・チャートでは見事1位を記録。ビリー・アイリッシュのアリーナ公演にもゲストとして出演し、テイラー・スフィフトのリミックスも手掛けるなど、ポップ・ミュージックのファンからも注目を集める存在となった。そんな飛躍を遂げた前作以来、4枚目のスタジオ・アルバムが今作『VOLCANO』だ。時代を超えたディスコ、ソウル、ヒップホップの要素を、ジャングルらしい未来志向のプロダクションで見事にまとめ上げた新曲「Candle Flame」は、彼らのライブセットで披露した瞬間にオーディエンスの心を奪うであろう、大胆かつ情熱的なエネルギーを放つトラックだ。

俺たちは「Candle Flame」をすごく誇りに思ってる。パーソナルで親しみやすく、愛や人間関係における浮き沈みを、詩的で真に迫る方法で探求したかったんだ。エリック・ザ・アーキテクトと一緒に仕事をするのは本当に楽しかったよ。彼のユニークな視点と才能が、この曲にさらなる深みと豊かさを加えた。「Candle Flame」は、俺たちがバンドとして支持するもの、すなわち創造性や情熱、そしてファンの心を動かす音楽を作るというコミットメントをすべて表しています。この曲をみんなに聴いてもらうのが待ち遠しいよ。この曲が聴く人すべてに喜びとインスピレーションをもたらすことを願っている。
- Jungle

『VOLCANO』を駆け抜ける自由奔放なエネルギーが、本作がいかに自然に完成したかを物語っている。ジョシュ・ロイドとトム・マクファーランドは、レコーディングに入る前のツアー中にLAのAirbnbで大部分の曲を書いたという。その後ロンドンに戻り、二人のお気に入りという【Metropolis Studios】のStudio Bでアルバムは完成した。今回二人が求めたのは、より多種多様な歌声をアルバムに取り入れること。先行シングルに参加したラッパー、エリック・ザ・アーキテクト (フラットブッシュ・ゾンビーズ) 以外にも、前作収録曲「Romeo」やFKJとのコラボでも知られるバス (Bas)、UKを代表するMC、ルーツ・マヌーヴァ、コンプトン出身のアーティスト/プロデューサー、チャンネル・トレス、ロンドンの気鋭シンガーソングライター、JNRウィリアムズらがアルバムにフィーチャーされている。

『VOLCANO』のジャケットは、デビュー作から続くミニマルな美学を継承し、ユニット名のロゴを中心に添えつつ、アルバムのサウンド・スタイルを反映させた夏を感じさせる明るく鮮やかな背景となっている。

ジャングルは、8月26日にはロンドンの人気音楽フェスティバル『All Points East』にヘッドライナーとして出演し、その後には北米/ヨーロッパ・ツアーを行う予定。トータルで20万人近いオーディエンスに向けて最新セットを披露する。

ジャングルの最新アルバム『VOLCANO』は8月11日(金)にCD、LP、デジタル/ストリーミング配信で世界同時リリース! 国内盤CDにはボーナストラックが追加収録され、歌詞対訳と解説書が封入される。LPは通常盤(ブラック・ヴァイナル)に加え、限定盤(スプラッター・オレンジ/クリア・ヴァイナル)、BEATINK限定盤(オレンジ/ホワイト・ツートーン・ヴァイナル)、日本語帯付き仕様盤(歌詞対訳・解説書付)で発売される。さらに、国内盤CDと各種日本語帯付き仕様盤LPは、日本限定のトートバッグセットでも発売される。

label: BEAT RECORDS / CAIOLA RECORDS
artist: JUNGLE
title: VOLCANO
release: 2023.08.11 FRI ON SALE

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13338

Tracklist
01. Us Against The World
02. Holding On
03. Candle Flame (Feat. Erick the Architect)
04. Dominoes
05. I've Been In Love (Feat. Channel Tres)
06. Back On 74
07. You Ain't No Celebrity (Feat. Roots Manuva)
08. Coming Back
09. Don't Play (Feat. Mood Talk)
10. Every Night
11. Problemz
12. Good At Breaking Hearts (Feat. JNR Williams & 33.3)
13. Palm Trees
14. Pretty Little Thing (Feat. Bas)
+ (Bonus track)

輸入盤LP

BEATINK.COM限定LP

インディー限定LP

Dirty Projectors + Björk - ele-king

 00年代ブルックリンを代表するバンド=ダーティ・プロジェクターズと、ビョークによるコラボEP「Mount Wittenberg Orca」が13年の時を経て蘇ることとなった。DPにとっては代表作『Bitte Orca』(2009)を出したころで、ノりにノっている時期。ビョークにとっては『Volta』(2007)と『Biophilia』(2011)のあいだのタイミングに当たる。巧みなコーラス・ワークを聴かせるDPとビョークの特異なヴォーカルがみごとに融合したポップかつ実験的な名作だが、新装版にはなんと20曲もの未発表音源が追加されるという。あの美しいハーモニーをもう一度、新しいかたちで楽しみたい。

Dirty Projectors + Bjork

ダーティー・プロジェクターズとビョークによる奇跡のコラボレーション作品が20曲の貴重な初出し音源を追加収録して新装盤『Mount Wittenberg Orca (Expanded Edition)』として4月28日にリリース決定!

09年4月にデイヴ・ロングストレス率いるダーティー・プロジェクターズとビョークがニューヨークで行ったチャリティ・コンサート用に書き下ろした7曲をスタジオ・ヴァージョンとして収録した奇跡のコラボレーション作品『Mount Wittenberg Orca』。2020年にデジタル配信され、2011年に〈Domino〉によってCD化された本作が、4月22日のレコード・ストア・デイに合わせて初LP化! また4月28日には日本限定で新装盤CDのリリースも決定! 新装盤には、20曲の貴重な初出し音源が追加収録される。

Dirty Projectors + Bjork - On and Ever Onward
https://youtu.be/qfLXxrJ0cZU

両者の交流は、2008年に発表されたビョークの2ndアルバム『ポスト』のトリビュート・アルバム『Enjoyed: A Tribute to Bjork's Post』にダーティー・プロジェクターズが参加し、ビョークがダーティー・プロジェクターズのヴォーカル・アレンジを気にいったことから始まったという。

オリジナル盤は、デイヴ・ロングストレスとビョークが、1500年代にオペラが生まれたイタリアの小劇場について話したことをきっかけに、マンハッタンの小さな書店「ハウジング・ワークス」にて、アンプなしでパフォーマンスをするために書き下ろされた7曲が収録されている。ドラムやギターは一切使用されず、ほとんど声だけで構成された本作は、どこか童話のようでもあり、不可思議な未来から届いた合唱曲のようでもある魅惑的な楽曲集であり、ダーティー・プロジェクターズのディスコグラフィーの中でも異彩を放つ名盤であると同時に、音楽家ビョークの底知れる才能を理解する上でも重要な作品と言える。ビョークの力強い歌声、デイヴ・ロングストレスのしゃがれたリード・ヴォーカル、ダーティー・プロジェクターズのメンバー、アンバー・コフマンとエンジェル・デラドゥーリアン、ヘイリー・デクルのコーラスが、驚くべきハーモニーを生み出している。3日間のリハーサルを経て、まるで50年代初期のロックンロールのようなシンプルかつダイレクトな形で録音され、オーバーダブはリードヴォーカルのみという特殊な制作方法も、本作に特別な魅力を加えている。

日本限定の新装盤CDには、オリジナルのスタジオ音源7曲に加え、2009年に「ハウジング・ワークス」にて披露された実際のライブ音源や、デモ音源、リハーサル音源などの全て初だしとなる未発表音源20曲を加えた全27曲収録の超豪華盤となる。今回の新装盤CDには、歌詞対訳と解説書が封入され、本作の魅力を最大限楽しめる内容となっている。

label: Domino
artist: Dirty Projectors + Bjork
title: Mount Wittenberg Orca (Expanded Edition)
国内盤CD release: 2023.04.28
輸入盤LP release: 2023.04.22 (RSD商品)

BEATINK.COM: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13297

tracklist:
国内盤CD
01. Ocean
02. On And Ever Onward
03. When The World Comes To An End
04. Beautiful Mother
05. Sharing Orb
06. No Embrace
07. All We Are
08. Intro (Live from Housing Works, 2009)
09. Ocean (Live from Housing Works, 2009)
10. On and Ever Onward (Live from Housing Works, 2009)
11. When The World Comes To An End (Live from Housing Works, 2009)
12. Beautiful Mother (Live from Housing Works, 2009)
13. Sharing Orb (Live from Housing Works, 2009)
14. No Embrace (Live from Housing Works, 2009)
15. All We Are (Live from Housing Works, 2009)
16. Wave Invocation (Inverness Demo I)
17. Motherwhale Song (Inverness Demo II)
18. Whale Watcher Song (Inverness Demo III)
19. Fugal Swim (Inverness Demo IV)
20. First Duet (Inverness Demo V)
21. Migration (Unfinished Inverness Demo)
22. Jubilation (Inverness Demo VI)
23. Benediction (Inverness Demo VII)
24. When the World Comes To An End (Freewrite)
25. When the World Comes To An End (Vocalise Rehearsal Rough)
26. Beautiful Mother (Vocalise Rehearsal Rough)
27. On and Ever Onward (Full Rehearsal Rough)

interview with Kelela - ele-king

自分はジャズ・シンガーになるんだと思っていた。でも、インディ・ロックもジャズも、実験的で自由なように思えて、じつはすごく保守的。フリー・ジャズとかも、音的には形は自由かもしれないけれど、服装や演出の面ではスタイル的にコントロールされていると思う。

 掛け値なしに素晴らしいアルバムだ。ケレラ・ミザネクリストスの、実に5年ぶりのニュー・アルバム『RAVEN』。ここには──素晴らしい作品が常にそうであるように──個人的な経験や生々しい現実の語りと、内面世界の探究の結晶化の両方がある。「私」と外の世界との摩擦から生じたもがきや苦しみ、そして、ひとり部屋に閉じこもって、ときには涙を流しながら音やテキストと戯れて深めた思索。『RAVEN』は、彼女の外にも中にも存在しているそういった二面性、多面性を積極的に肯定する作品だ。

 キーになっているのは、ブラック・フェミニズムやインターセクショナリティについての思惟である。2022年9月、まだアルバムのリリースすらアナウンスされていなかった頃、『デイズド』に載ったインタヴューには、『RAVEN』を理解するためのヒントが散りばめられている。たとえば、序文には、彼女が、黒人差別やフェミニズムに関する本、ポッドキャスト、動画などの詰め合わせを友人や家族、ビジネス・パートナーたちに送った、と書かれている。自身が学んだことを人びととシェアして、自分が所属する小さなサークルから少しでもベターな社会を構築していくための、ささやかでたしかな行動。『RAVEN』は、そういった抵抗と対話のアクションの延長線上で、ケレラからリスナーの手に直接渡された小包のような作品でもある。

 さらに、次のインタヴューでは、彼女が誰に語りかけているかを明言している。歌詞は、黒人たち、女性たち、ノンバイナリーたちのためのものだと。そして、明確な対象に語りかけているそれらの言葉は、そうであるからこそ、誰にとっても力強く歌えるものなのだ、とも言う。バラバラに散らばって、疎外され、抑圧された「ひとりたち」のあいだに細い糸を通して結びつけ、小さくひそやかな声で交信すること。ケレラの音楽は、差異と分断の時代に、差異と分断を前提にしながら、苛烈な闘争と政治のその先を優しく提示しているようにすら思える。

 だからこそ、『RAVEN』は、アップリフティングなダンス・アルバムでもある(まるで、ビヨンセの『RENAISSANCE』のように)。“Happy Ending” の扇情的なジャングルから “On The Run” のセクシーなレゲトン、“Bruises” のミニマルなハウス、“Fooley” のダブまで、ダンス・カルチャーやレイヴへの愛に満ちている。彼女はダンス・ミュージックの逃避性について「クラブは現実を知るための場所だ」と言い切るが、その言葉はクラブの音楽やカルチャーについての、とても誠実で聡明なコメントだと思う。そうでありながらも、ここでは、たゆたうアンビエントR&Bすらも等価に溶け合っている。ケレラはいま、サウンドの海を自由に泳ぎまわっているのだ。

Cut 4 Me』(2013年)や『Take Me Apart』(2017年)の頃から考えると、彼女はずいぶん遠くまで来た。言い換えれば、彼女の新たな音楽の旅がここからはじまっている、とも言える。さあ、あなたもオールを握って、ケレラと新しい海に漕ぎだそう。ただ、そこに浮かんでいるだけでもいい。目の前には、苦痛も涙もよろこびも受け入れる、穏やかな場所がある。

エレクトロニック・ミュージックは白人の判断が基盤になっていて、「白人、テクノ、ストレートな男」みたいなイメージがあるし、一方で伝統的なR&Bやソウル・ミュージックを聴くのは黒人女性のイメージで、そういう人たちはエレクトロニック・ミュージックは聴かない。私はずっと、このふたつの間でつねに交渉をしているような状態だったんです。でも、「もういいや」と思えた。

こんにちは。本日はよろしくお願いします。そちらは朝ですよね?

Kelela:そう。もしかして私の声でわかったとか(笑)? 昨日ニューヨークからロンドンに来たところで、まだこっちの時間に慣れようとしているところで(笑)。

そうなんですね(笑)。早速インタヴューをはじめさせていただきますが、『RAVEN』は本当に素晴らしいコンセプト・アルバムでした。ダンサブルなのに、聴いていると、あなたの内面世界に深く導かれたような気分になります。

Kelela:ありがとう。

まず、アルバムについて具体的にお聞きします。一貫した流れを感じるダンス・アルバムだと感じるのですが、ダンス・カルチャー、クラブ・カルチャーからあなたが得たもの、学んだことを教えてください。

Kelela:まず、私が初めてダンスやクラブ・カルチャーに触れたときのことを思い出すと、私は普通とは違うレヴェルのパーティーに足を踏み入れていたんですね。説明するのがすごく難しいんだけれど、LAには本当に様々なクラブ・シーンがあって。言語は同じだったかもしれない。けれど、ストレートな白人によるテクノ・シーンと、私がLAに来たときに初めて衝撃を受けたダンス・ミュージックの空間は全く違うものでした。私が入り込んだダンス・ミュージック界にはいろんなタイプの人たちがいたんです。アメリカには、ブラック・ダンス・ミュージック限定の空間もある。でも、私が通っていたのは、そっちでもなかった。ハウス・ミュージックやテクノをベースとした音楽が多いなか、私が通っていたのは、フリークス(変わり者たち)がいる空間だったんです。つまり、エキセントリックなキャラクターや様々なバックグラウンドを持つクィアたちが集まっていて、とてもミックスされた空間だった。

なるほど。

Kelela:でも、私のクラブ・カルチャーの経験でいちばん印象的だったのは、「匿名性」ですね。初めて本物のパーティーに足を踏み入れたような感覚を覚えたんです。その空間に私を連れてきてくれたのは、私の友人のアシュランド(トータル・フリーダム)です。彼は、私を誘い込んだ張本人で、私のレコーディング・セッションに立ち会っていたことがあるらしく、私が歌っているところを目撃したときに、そのシーンが私に合うと思ったみたいで。あれは、大晦日のパーティーでした。当時はLAにぜんぜん友だちもいなくて、ひとりで過ごすことも多かったし、ちょうど別れを経験したところでもあったから、彼にメッセージを送ったんです。私は、そのときはまだ彼のことをよく知らなかったんだけど、メッセージを送ってみたら、彼からの返事に書いてあったのは、4つの数字と住所だけ。

えっ(笑)!?

Kelela:すごくミステリアスな文章に惹かれて、私はその家に行ってみたんです。そしたら、そこがとにかく巨大な家で、びっくり。それで、入ってみると、本当にたくさんのキャラクターがいて。コスプレしてる人もいれば、仮面をかぶっている人もいるし、とにかくいろんなキャラクターがいて、本当に楽しかった。そして、「この場所では自分がなりたいものになれる」という感じがしました。判断や批判をされることもなく、他人とちがうことをしたり、変わった方法で自分を表現したいと思ったりすることで、仲間外れにされることもないんだって。他にも経験したダンスやクラブ・カルチャーのシーンはあるけれど、それが私がLAにきて入り込んだ空間でした。

素晴らしい経験ですね。

Kelela:私が音楽を作りはじめたとき、その基盤は、私がそのシーンに触れる前から築かれていたと思う。ジャズもそうだし、どのように実験し、どのように音楽を作るのかを教えてくれたものは、たくさんあるから。でも、あのシーンは、私になんの制限もない居場所を与えてくれたように感じます。そして、もっと探求できる方法があることに気づかせてくれた。最終的に、自分にはいろいろな姿があるんだ、と思えるようになったんです。それまでは、自分はジャズ・シンガーになるんだと思っていたけど。私はポスト・バップ系のジャズ・シンガーになるんだろうなって。でも、インディ・ロックもジャズも、実験的で自由なように思えて、じつは、実験をしながらもすごく保守的。彼らの実験は特定の枠のなかでおこなわれていて、私にはジャズにも音楽のルールがある気がして。フリー・ジャズとかも、音的には形は自由かもしれないけれど、服装や演出の面ではスタイル的にコントロールされていると思う。それに、ジャズ・ミュージシャンになると、ジャズ・ミュージシャンとしてジャズの空間に追いやられているようなところもあるんじゃないかと。ジャズ・シンガーがダンス・ミュージックやポップ・ミュージック、インディ・ミュージックのような世界に進出するのは難しいし、稀なことなんですよね。いまでこそ、少しはそれができるようになってきたかもしれないけれど、当時はとても無理な話だった。そういう意味でも、他のシーンは、将来は他のサウンドを追求したい、実験してみたいと思っていた私にとっては、良い踏み台にはならなかったと思う。

そうだったんですね。

『Aquaphoria』は、初めて存分にアンビエント・ミュージックの実験ができたレコードなんです。あのレコードで私は、アンビエント・ミュージックを完全に探求することを自分自身に許したんですね。『Aquaphoria』を作ったあとも、あの感覚から抜け出せなかったんですよね。

Kelela:あと、私は、自分に本当にヘヴィでハードなプロダクションが必要なこともわかっていました。私の声は風通しがいいというか、柔らかいんですよね。だから、私が一生懸命に叫んで、声で怒りを表現しているときでも、なんだかかわいらしく聞こえてしまう(笑)。なので、基本的には、自分の声とプロダクションでバランスを取りたくて。それが、よりヘヴィなプロダクションを選んだ大きな理由のひとつです。それは、さっき話したダンス・シーンが私に与えてくれたもののひとつだと思う。最初にそのシーンに触れたときの衝撃は、私にとってすごく爽快なものだったし、すごく豊かだった。だから、このシーンに惹かれたんです。このシーンは、遠くに飛躍するための本当に自由なキャンバスを私に与えてくれたし、そのキャンバスの上ではなんでも探検できるような気がして。『Aquaforia』(2019年に〈ワープ〉の設立30周年を記念しリリースされたミックスで、エングズエングズのアスマラとの作品)はその典型的な例ですね。多くの人は、私がダンス・ミュージックを作っているから、ヘヴィなプロダクションで、純粋にソフトなアンビエント・サウンドを探求することには興味はないだろうと思うかもしれない。でも、私は『Aquaforia』で、そのキャンバスを皆に提供しようとしたんです。

『Aquaforia』は素晴らしいミックスでした。

Kelela:もうひとつは、クィアと黒人、黒人と女性であることを同時に経験するような、インターセクショナルな経験がある場合、その交差によって、様々な拠りどころや特異なアイデンティティを理解できるようになると思うんですよね。もちろん、ストレートの白人男性たちがみんな偏った考え方でセンスがない、というわけではないけれど、正直に言って、厳格さというものは、大抵の場合、白人性から生まれる。というのも、有色人種のクィアたちは、みんな白人社会の中で育ってきたから、多くの白人の拠りどころを理解しているんです。そして、それに加えて有色人種の間でも育ってきた経験のある彼らは、他の多くの拠りどころを理解することもできる。だから、私が投げかけるものがなんであれ、彼らはそれを理解しようとする気持ちがあるんです。それが、私が感じたダンスやクラブ・カルチャーの美しさだった。それは、私が音楽業界に入ったときのシーンの雰囲気や前例とは非常に対照的でした。私が最初にこのシーンに入ってきたときは、インディの全盛期のような雰囲気だったから。でも、LAに引っ越してきて、初めてそのカルチャーに出会ったんです。

よくわかりました。『RAVEN』のサウンドとビートは、ジャングルからUKガラージ、ダブなど、とても多彩ですよね。特に、ジャングルのビートが印象的でした。これらのダンス・ミュージックは、若い頃、思春期に出会ったものなのでしょうか?

Kelela:ダンス・ミュージックに関して言えば、アメリカのメインストリーム以外のものに初めて触れたのは、ナップスターが登場したとき。私は、周りで最初にナップスターをはじめたひとりだったんです。友だちと一緒にナップスターに夢中になっていて。大抵、周りは年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんを通してそういう音楽を見つけていたけど、私には兄も姉もいないから、すべてはナップスターでした。当時、家のコンピューターが私の寝室にあって、私はそれを大きな特権だと感じていて(笑)。それで、寝る前にランダムにいろんなものをクリックして、音楽をダウンロードしていたんです。ダウンロードされるまで、何が出てくるかわからない。寝る前にサイコロを振って、朝にその目が出る、みたいな感じ。朝起きると、まるで抽選会みたいでした(笑)。運が良ければ、良いトラックに出会えた。ダウンロードがうまくいかなかったり、まだ70%しかダウンロードできていなかったり、ダウンロードできてもめちゃくちゃだったりするから。

ナップスターとは意外ですね(笑)。でも、世代的によくわかります。

Kelela:私はいろいろなものをダウンロードしていたけど、ある日アートフル・ドジャーの曲がダウンロードされてたのは、いまでも覚えています。それから、クレイグ・デイヴィッドの曲もたくさんあった。まだクレイグ・デイヴィッドがソロ・アーティストとして登場する前の話。彼の曲をベッドルームで発見したとき、そのプロダクションがあまりにも衝撃的で、信じられなかったのを覚えています。いま、説明しながら汗ばんじゃうくらい(笑)。新しい何かを見つけた感覚と、秘密というか、私だけの何かを自分で見つけたような気がして。イギリスではすごく人気だったんだろうけれど、ワシントンDCの郊外に住んでいた私にとっては、ものすごく大きな発見でした。そのあとから、それ系のダンス・ミュージックや関連するものを探し続けて。そうやって、自分にとって神秘的なものを見つけていったんです。「このスピードアップしたヴォーカルはいったい何!?」って思っていましたね。当時、アメリカにはそんな音楽はなかったから。インターネットがいまほどは普及していなかったから、美的感覚が太平洋を越えるのには、まだ時間がかかっていた時代だった。だから、私にとって、そういう音楽を見つけられたのは、すごくパワフルなことでした。

その話題につなげると、あなたは以前からUKのプロデューサーやシーンとの関わりが深いですよね。今回、特にUKのダンス・ミュージックの要素が色濃くなった理由は?

Kelela:今回のアルバムを作りはじめるとき、私は、「自分が望むものであれば、何をつくってもいいんだ」と思うことができていたんです。ヴォーカル曲みたいな領域から初めて、それをリミックスでダンス・ミュージックの領域に移動させたり、改めて解釈しようとしたりしなくてもいい、と思ったんですね。以前は、いまはいない観客を取り込むことに興味がありました。でも、同時に、R&Bが好きな人たちが留まることができるものを作りたかった。つまり、ヘヴィなヴォーカルの瞬間がある一方で、プロダクションが好きでエレクトロニック・ミュージックに傾倒している人たちも満足できるような音楽。だから、私は音楽を作りながら、その両者を満足させようと、ずっと考えていました。

まさに、それこそが、あなたの音楽のアイデンティティですよね。

Kelela:その理由は、私は自分がそのふたつのものに繋がっていると感じているから。このふたつは、私がやっていることの大きな柱なんです。でも、この二面性を行ったり来たりしてしまうと、一体どっちなのかがわからなくなってしまうので、なんとかできないかと考えていました。だって、そのふたつって、全然ちがうからね。エレクトロニック・ミュージックは、白人の判断が基盤になっていて、「白人、テクノ、ストレートな男」みたいなイメージがあるし、一方で伝統的なR&Bやソウル・ミュージックを聴くのは黒人女性のイメージで、そういう人たちはエレクトロニック・ミュージックは聴かない。だから、もし実験的な音楽が盛り込まれすぎていたら、彼女たちは、いったい何が起こっているのかって混乱してしまうかもしれない。それもあって、私はずっと、このふたつの間でつねに交渉をしているような状態だったんです。

なるほど。

Kelela:でも、『RAVEN』を制作しているときは、「もういいや」と思えた。難しく考える必要はなく、ふたつの場所を行き来しようとしなくても、自分がいる場所をそのまま表現すればいいんだって。直感的なものを書いて、サクサク進めていけばいいんだと思えたんです。ポップ・ライターと一緒に曲を書くつもりもなかったし、参考にするものも自分の身近に存在しているものでよかった。それもあって、自然に、いままででいちばんダンス・ミュージックにフォーカスしたレコードになったんだと思います。

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私は、泳ぐことができるんです。このアルバムで、私は、サウンドの海を泳ぎまわれているような気がします。アルバムを理解できない人や興味を持てない人がいても、そんなことはどうでもいい、と思えた。それを理解してくれる人たちだけに、何かを届けたいと思ったんです。

その一方で、ビートのないアンビエント的なプロダクションの曲も要所に配置されています。ドラムレス、ビートレスの曲にシンガーとしてどのようにアプローチしましたか?

Kelela:『Aquaphoria』は、初めて存分にアンビエント・ミュージックの実験ができたレコードなんです。あのレコードで私は、アンビエント・ミュージックを完全に探求することを自分自身に許したんですね。あのプロジェクトであそこまでアンビエントを感じ、それを探求できたことは、とても実りのある経験だった。だから、『Aquaphoria』を作ったあとも、あの感覚から抜け出せなかったんですよね。あのレコードを制作したあと、もっとアンビエントな音楽を聴きつづけて、特に2019年の秋はずっとずっとそういうものを聴いていたから、あのとき、私はまさにアンビエントのゾーンにいたんです。そして、そのときから OCA のレコードも聴きはじめたんだけれど、それはまるで、私が美しいゾーンにいるような感覚だった。それが『RAVEN』に引き継がれたんだと思います。

ええ。

Kelela:2020年の1月に、今回のアルバムの制作を始めた頃、OCA に声をかけました。OCA に「次のアルバムでもっとアンビエントを実験したい」と言ったら、彼らは「もちろん」と答えてくれたんです。しかも、彼らは、自分たちの曲の私のミックスを聴いて、「泣いた」とも言ってくれた。しかも、そこから深く影響を受けて私を気に入ってくれたらしく、じつは私が声をかける前から、私といつかコラボできたときのために、すでに曲を作ってくれていたんです。それを聴いて、私は「すごい!」と思いました。本当に美しくて、とても意味があった。そして、初めて彼らと一緒に作業をはじめたときは、もう魔法みたいな瞬間でしたね。アンビエントなサウンドを、実験しながら即興を乗せていく、すごくリッチな時間。

素敵なエピソードですね。

Kelela:私は、ハードなサウンドが好きな人も、ハードなサウンドだけが好きとはかぎらないと思うし、実際、みんな、柔らかさというものをどこかに求めていると思うんです。だから、私は、LSDXOXO のビート主体のトラックと、アンビエントでビートレスな私自身が探求したいサウンドを合わせて、その意味を見出そうとした。それをどうやったらいいのかはわからなかったけど、とにかく納得できるまでやってみようと思ったんです。そうやって夢中になって作業していると、その週の終わりには、15曲中13曲が完成していました。そして、それらの曲は、ビートをベースにしたトラックとアンビエントなトラックのあいだを行ったり来たりしていたんです。正直なところ、そのふたつの組み合わせがどう意味をなすのか私にも完全にはわからない。でも、説明のできない意味をなしているように感じるんですよね。とても自然に、それができ上がっていました。

そのふたつの同居こそが、このアルバムの肝だと思います。

Kelela:このアルバムは、私がアーティストとして生きている場所と同じ。私は、泳ぐことができるんです。このアルバムで、私は、サウンドの海を泳ぎまわれているような気がします。今回は、アルバムを理解できない人や興味を持てない人がいても、そんなことはどうでもいい、と思えた。それを理解してくれる人たちだけに、何かを届けたいと思ったんです。いまの私は、そんなふうに考えられるようになっている。そして、その場所にいることがとても幸せです。この場所にいたら、もっと良い音楽を作ることができると思うから。

私にとって、クラブは何かから逃げ、忘れる場所ではないんです。クラブは、現実を知るための手段であり、感情的な体験から抜け出すのではなく、むしろ、そこに入っていくためのもの。

「海を泳ぐ」ということに関連してお聞きすると、前作やそれ以前と比べて、あなたのファッションやヴィジュアル表現もずいぶん変化しましたよね。カヴァーアート(ジャケット)の写真は、プレス・リリースにある「社会の中で虐げられた黒人女性としての視点」というテーマを表しているように感じます。カヴァー写真が表しているもの、カヴァーの制作プロセス、『RAVEN』のヴィジュアル・コンセプトについて教えてください。

Kelela:あのアヴァターのことは知ってます? ケレラ・アヴァター。彼女は、何年か前からすでに何度か登場していて、最初のひとつはリミックス・プロジェクトでした。あのプロジェクトでは、私の顔を3Dスキャンしたんです。で、実際に3Dの胸像を作った。で、それにいろんなウィッグをかぶせて実際に写真を撮りました。つまり、あなたが見ているのは偽物。要するに、すごくメタヴァースなイメージなんです。『Aquaphoria』のアートワークにもアヴァターを使ったけれど、私は、彼女はもう一度命を吹き込まれる必要があるんじゃないかと感じたんですよね。

なるほど。

Kelela:私は、このアルバムは、「水」が中心になっていると思うんです。水の中を移動しているような、もしくは洗礼を受けて生まれ変わったような、そんな感じ。私が経験したことの再生、みたいな感じがする。そして、水は浮遊するのを助けるだけでなく、地面に叩きつけてあなたを痛めつけることもできるように、幅広さを持っている、という面もあります。私も同じなんです。だから、水の中に存在する、あの幅が好きなんだと思う。そして、私は、その両方を表現したかったんだと思います。何か困難なことを乗り越えつつも、浮かんでいる私。水が、私をどこかに導いて、連れて行っているんです。私の顔は水に完全に取り囲まれているけれど、私の顔には穏やかさがある。私自身には、あのカヴァー写真は、水に沈められそうになりながら浮いているような、そして、困難な状況にいながらももがき苦しんでいる様子を感じさせない何かがあると感じるんです。水が暗くて、色が黒いのもあり、不吉な海だという雰囲気を漂わせながらも、私は空回りしているわけでも、苦労しているわけでもない。あの水は、深くて暗い海で、感情の奥底のようなもの。あれは、その深海に身を置きながら、その中に完全に入り込む方法、居場所を見つけた私の姿。私の中の交点があの場所なんだと思います。

歌詞についてもお聞きしたいです。“Raven” に「I’m not nobody’s pawn」というリリックがあり、タイトル・トラックがアルバムのメッセージを集約しているようにも感じます。“Raven” のリリックについて教えてください。

Kelela:“Raven” は、サウンド的には、最初にアスマラのシンセで実験したサウンドに魅了されて作りはじめた曲です。そのサウンドをどう表現しようか、という感じで作りはじめました。あの曲は、すぐにビートが来るんじゃなくて、長いビルドアップがあるんですよね。そして、そこに到達したとき、私にとっては、ダンスフロアを一掃するような瞬間を思い起こさせるんです。あれは、クラブでいちばん美しい瞬間だと思う。DJがそれをやれば、それがその夜のピークになるような。一掃するというのは、みんながいなくなるという意味ではなくて、立ち止まって両手を挙げるような感覚。個々のカタルシスのようなものかな。誰もが自分だけの時間を過ごしているような、でも、それを他の人びとと一緒に経験しているような、そんな感じのことです。

わかります。

Kelela:シンセを聴いた瞬間に、「これならあの感覚を味わえる!」と思った。クラブに活力を与えるような、そんなサウンドを作りたいと思ったんです。クラブ・ミュージックやクラブ・カルチャーでは、何かから逃げるような──特に、生き延びるためのエスケーピズム(実生活や現実などからの逃避主義)が構成要素になっている部分がある。私はそれを批判するつもりはないけれど、アーティストとしての私は、自分の貢献や自分の音楽が、逃げるのではなく、人びとが物事に直面するのを実際に助けることを望んでいます。私の音楽が、人びとが実生活に直面するのを助け、彼らが得るカタルシスが、それに対処する助けになることを本当に願っているんです。クラブから帰って朝目覚めたとき、本当に起こっていることについて何も考えられない状態でいるよりも、実際に直面していることに対処するための活力を感じてほしい。私にとって、クラブは何かから逃げ、忘れる場所ではないんです。クラブは、現実を知るための手段であり、感情的な体験から抜け出すのではなく、むしろ、そこに入っていくためのもの。クラブで涙を流すというのは、『Cut 4 Me』以来、私のモットーでもあるんです。その感覚を伝えたいとずっと思っていたんだけれど、それがうまく表現できずにいました。私は、自己発見、自己肯定、そして解放的な音と文化の体験に興味があって、それが、私が自分の音楽を通して人びとに与えたいものなんです。クラブにいる人たちにとって、実際に起こっていることを忘れるための手段は提供したくない。だって、それは現実ではないから。逃げるだけでは、朝起きたときにその現実が戻ってきて、最悪な気分になってしまう。私は、クラブをそんな存在にしたくないんです。クラブは、私にとって大好きな場所であってほしい。私が好きなクラブは、帰り道で私を泣かせてくれるクラブなんです。朝起きて、友だちに電話して、「すごいクレイジーな経験をしたんだ!」って言えるような。泣いて、話して、すごく気分が良くなるような。ちょっと二日酔いで頭が痛くたって、自分に気合を入れられたと思うことができればそれでいいんです。

私たちがダンス・ミュージックとして知っているものの多くは、黒人が発明したもの。それなのに、そのシーンで黒人が疎外感について話したり、尋ねられたりするのはどうしてなんでしょうか?

さらにアルバムの核心に迫りたいのですが、昨年の『デイズド』『ガーディアン』のインタヴューでは、ブラック・フェミニズムについて熱心に語っていましたよね。『Take Me Apart』などの過去の作品では表現されていなかったので、驚きました。冒頭でもインターセクショナリティについて言及していましたが、アフリカン・アメリカンであること、かつ女性であることが、『RAVEN』のコア・コンセプトになった背景について教えてもらえますか?

Kelela:自分のなかで、ブラック・フェミニズムという枠組みが、より明確になったんだと思います。これが革新的な概念だとはまだ言いがたいけれど、言えることは、ブラック・フェミニズムの理論が、多くの社会正義に枠組みの原動力になっている、ということ。エイジアン・ライヴズ・マター運動のようなものも、そのひとつ。アメリカや世界の有色人種にとって、こういった運動の理解の枠組みは、女性であるアメリカの黒人理論家に由来するところが大きい、というのはあると思う。私にとって、それはつねに明確ではあったんだけれど、この場所にもっと足を踏み入れる前に、もっと調べたり読んだりする必要があった。いまは、それができた状況なんです。そういう研究を、私はずっと続けてきました。

そうだったんですね。

Kelela:でも、ここ数年は、ダンス・ミュージックにおける自分の経験、つまり交差的な経験を点と点で結びつけ、この領域で自分が直面している疎外とは何なのかを理解しようとしているんです。肌の色が明るいアーティストではない私は、色彩主義(colorism)というのは、国際的な言説になっていないような気がします。たしかに、アメリカでは黒人が虐げられているけれど、少なくとも、ダンス・ミュージックや音楽ビジネス全般において、色彩主義をめぐる言説は、世界中の多くの人びとがもっと注目して、考えるべきことだと思う。黒人女性は、音楽業界からの初期投資がない限り、オーディエンスから発見してもらうこともできません。そして、音楽業界は、反射的に肌の色が明るいアーティストに投資するんです。私が白人女性としてこれまで作ってきたような音楽を作っていたら、もっと大きな存在になっていたと思う。地球上のもっと多くの人が、私の名前を知っていたと思う。それが起こらなかったのは、サウンドのクオリティのせいではないんです。ただ、人びとがより明るい肌の身体からこの種の音楽が生まれるのを見たいということと、音楽ビジネスの専門家たちにとって、より市場が強いことが関係しているだけ。

ええ。

Kelela:ブラック・フェミニズムは、これらのことが同時に進行していることを理解するのに役立つ枠組みだと思います。音楽全般、特にダンス・ミュージックにおいて、黒人女性としての自分の現実を解体するために使える枠組みなんです。私たちのジレンマは、自分の仲間たちに関係している空間のなかで、どうしてこんなに疎外感を感じてしまうのか、ということ。私たちがダンス・ミュージックとして知っているものの多くは、黒人が発明したもの。それなのに、そのシーンで黒人が疎外感について話したり、尋ねられたりするのはどうしてなんでしょうか? これは本当にクレイジーな現実で、そのなかで経験する不協和音の体験はおかしなものです。そこで何が起こっているのかを理解するためには、たくさんの本を読み、リサーチをする必要があります。このアルバムで、誰に語りかけるかという点で中心になっているのは、黒人、女性、ノンバイナリーの人たちです。歌詞を書くときは、車を運転しながら、歌詞を叫んでいる彼らの姿を想像しながら書きました。彼らが叫べるような歌詞にしたいと思って。彼らが叫べば、その周りの人びとにも力を与えられるから。ノンバイナリーである黒人が叫べる歌詞なら、それはどんな人も力強く歌えるような歌詞になるはずだと思ったんです。

そのとおりだと思います。いま、エイジアン・ライヴズ・マター運動にも言及されましたが、パンデミックの影響で日本を含むアジア人は酷い差別を受けました。また、同質性の高い日本社会には、いまも外国人差別があります。レイシズムや色彩主義に対して、歌や音楽ができることはどんなことだと思いますか?

Kelela:アジア人差別は、私がとても興味を持っていることのひとつ。次のインタヴューでは、ぜひそれについて話してみたい。日本でそのような経験をしたことがある人に話を聞いてみたいんです。誰かがこういうトピックについて自分が考えていることを話せるような場を設けることができたら、最高。歌や音楽は、そういう問題に対して、間接的に何かをしているとは思います。人びとがもっと勇気づけられ、もっと肯定され、もっと自分の価値を明確に感じられるようにすることで、その手助けをしていると思う。そうすれば、この世界で人びとがもっと大きな声を出すことができて、自分はひとりではないんだということを知ることができるから。そして、その体験がつながりを生み、その人たちが解放される瞬間になる。それは、すごく意味があることだと思います。

わかりました。質問は以上です。ありがとうございました。

Kelela:素晴らしい質問をありがとう。

Aaron Dilloway - ele-king

 モダン・ノイズのカリスマ、アーロン・ディロウェイが来日する。元ウルフ・アイズのメンバーにして、『Wire』誌にいわく「ノイズの扇動者」、そしてテープ・ミュージックの急進主義者、2021年にはルクレシア・ダルトとの素晴らしい共作『Lucy & Aaron』も記憶に新しいアーロン・ディロウェイが来日する。もちろんあの傑作『Modern Jester』(2012)や『The Gag File』(2017年)の作者です。
 ディロウェイは2013年に初来日しているが、そのときのすさまじいライヴ・パフォーマンスはすでに伝説になっている。今回は10年ぶりの再来日。東京の〈Ochiai soup〉と大阪の〈Namba Bears〉の2公演のみ。すべてのノイズ・ファンをはじめ、変な電子音楽/実験音楽/アヴァンギャルド好きは必見。

■Rockatansky Records Presents
Aaron Dilloway Japan Tour 2023

2/11 Sat at Ochiai soup
Open 6 pm, Start 6:30 pm
Door 3,500 yen
w/ Incapacitants
Rudolf Eb.er
Burried Machine
ご予約 | reservation:
https://ochiaisoup.com/?event=2022-02-11-sat-rockatansky-records-presents-aaron-dilloway-japan-tour-2023

2/19 Sun at Namba Bears
Open 6 pm, Start 6:30 pm
w/
Solmania
Burried Machine
Info: https://rockatanskyrecords.bandcamp.com
 
 なお、2月10日にはDOMMUNEにて、来日記念番組があり。アーロン・ディロウェイのほか、今回の競演者でもあるキング・オブ・ノイズこと美川俊治。初来日に続き今回の来日も主宰、Nate Youngの初来日も企画するなどWolf Eyes関連との交友を持つBurried Machineこと千田晋、そして編集部・野田も出ます。アーロン・ディロウェイってどんなアーティストなのかを知りたい方は、ぜひチェックしましょう!
 
Talk : Aaron Dilloway(Hanson Records)、美川俊治(Incapacitants)、千田晋(Rockatansky Records/Burried Machine)
ゲストMC:野田努(ele-king)
Live:The Nevari Butchers

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