Home > Reviews > Album Reviews > Issugi- The Joint LP
スラックもそうだが、イスギのアルバムにもリリックが掲載されていない。言葉は音ともにあることをダウン・ノース・キャンプ(DNC)は暗に主張しているのだろう。日本の音楽シーンの言葉好きに関しては、歌詞カードがあって当然というリリース形態に象徴されているが、それは世界共通の考えではないことは輸入盤を聴いている人なら当たり前のように知っている。音楽における言葉は音ともにある。しかし、われわれは言葉だけを聴いているときがある。音はせいぜい伴奏であり、言葉の意味のみをどこまでも追いかける。そして言葉に寄りかかり、ときとしてミュージシャンは道を示す導師のごとき扱いを受ける。そうしたある種の自己啓発めいたシーンから遠く離れた場所で、DNCのようなDIY主義者によるヒップホップは動き続けている。
イスギはこのアルバムを発表する前に、超限定で前作『Thursday』のインスト&リミックス集を発表しているが、今年はスラックもブダムンキーとのリミックス・アルバムを発表しているように、DNCクルーはずいぶんと音作りの冒険にはまっているようである。イスギのセカンド・ソロ・アルバムとなる『ザ・ジョイント』というタイトルも、一面では、このアルバムに参加した多彩なトラックメイカー――マス・ホール(メダラ)、16フリップ(モンジュ)、パンピー(PSG)、ブダムンキー、マリク、グラディス・ナイス、およびラッパー――仙人掌、Mr.PUG、O.Y.G、タム、ヤヒコ、スラックたちとの協同作業を意味しているのだろう。イスギのハスキーな声は、彼らの作る素晴らしいうねりの数々のなかで息づいている。それらの楽曲は〈ストーンズ・スロー〉やジェイ・ディラのソウルフルな破壊衝動、ウータン・クランやMFドゥームの薄明かりの地下街へと連結するように感じられる。
ビッグ・バンド・ジャズのホーン・セクションが不吉なイントロを吹くと、霧の中から1曲の"ザ・ジョイント"がはじまる。そしてひび割れた音とピアノのループによる"ニューデイ"へと続く。この2曲だけでも充分に、夜遅く静まりかえった通りに潜んでいる魔物たちの夢に連れていかれる......と、まあ、とにかく格好いいのである。
16フリップによるエレガントでメロウな"ビッグ・マウス"は路上の叙情詩で、マス・ホールによる"ジ・アンセム"はファンクの部品をひとつづつずらしながら解体していくような幻覚を与える。イスギは、彼の日々の雑感のような言葉をラップしている。混乱、酩酊、生活と厭世、そして怒りと夢が語られている。"ミスター・ランページ"は容赦ない憤怒のスリリングな一撃だ。パンピーの手掛けるトラックは、尺八のような音とトライバルなビートが夜の新宿のような、独特な無国籍感を演出している。危険な風を運ぶストーンしたビートの"タイムイズナウ"とジャジーなピアノ・ループによる"ファイン・バット・サッド・ウエザー"はブダムンキーによる曲で、後者の曲でイスギは真夏のけだるいひとときを、海辺の青春のひとコマではなく、アスファルトと冷房の夏を描いている。16フリップによるメランコリックなヘヴィ・ファンク"ジャス・ミュージック"は地下室に深く反響し、アルバムがいよいよ佳境に来たことを告げる。そして『ザ・ジョイントLP』は、スラックが参加した"キングダム"でさらに激しさを増す――。
だが、ある意味では『ザ・ジョイントLP』には、クライマックスがない。いわばアンチ・クライマックスと言える。彼のリリックにはリスナーを勇気づけるような気の利いた言葉もなければ、偉そうな教訓も色恋もなく、お涙頂戴のメロドラマもない。断片化された古いジャズやソウルの残骸の上から、何かを生み出そうとする衝動があり、そして東京で暮らすボヘミアンとしての小さな放浪が描かれている。正しくなくてもかまわないという意味においては、迷いのない現在が表現されている。いや......、彼はひょっとしたら、世間や音楽が押しつける正しさやポジティヴな態度に抵抗しているのかもしれない。
野田 努