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冬だ。ホラー・アルバムを2作。
1枚目はアンディ・ヴォーテルがインドのホラー・ムーヴィーからセレクトした『ボリウッド・ブラッドバス』。これは、しかし、1ミリも怖くない。ブックレットにはオリジナルとなる16作品のジャケットや概要も紹介されているんだけど、音楽を聴いている限りはどれも陽気なサスペンス映画としか思えない。ズンチャカ、ズンチャカ。インド人というのは、これがコワい音楽なんでしょうか?? 焦って『インドの時代』や『カルカッタ染色体』も読んでみたけれど、わからない~(M・K・シャルマ『喪失の国・日本』が一番面白かった~)。でも、このバカバカしさはいいですよ。2011年はタイのレア・グルーヴにかなり溝を空けられていたけれど、まだまだインドの山奥は出っ歯のハゲ頭でしょう(こんなこと書いて、サラーム海上さんに殴りかかられたらどうしよー。『セカンドバージン』の鈴木行のようには避けられないぞー)。
続いては「1772 オカルト小説へのサウンドトラック」とサブ・タイトルが付けられたイメージ・アルバムで、18世紀に書かれたフランスの恐怖小説『ル・ディアブル・アモーレ(=『デヴィル・イン・ラヴ)』を素材に22組のミュージシャンがメランコリックな演奏を畳み掛けるもの。同小説は読んだことはないけれど、ライナーによるとヨーロッパ文学のなかではエソテリックなテーマを扱った先駆だそうで、さらには「プロト・クイアー・ノヴェル」として位置づけられるというから、もしかするとゲイ的な価値観のなかから生まれてきたコンピレイションなのかもしれない(エントリーにはギャビン・フライデーやスワンズからジャーボー、懐かしいところでは「ロックのエドガー・アラン・ポー」と呼ばれたポール・ローランドの名前も散見できる)。同作ではラクダの姿で現れた悪魔はコッカー・スパニエルに変身(?)し、最後は「ビューティフル・アンドロジニアス・ガール」の姿になるとあるので、もしかすると、時期的にこの企画は『ぼくのエリ』として映画化され、さらにはハリウッド・リメイクもされた『モールス』になんらかのリアクションを仕掛けた企画だという気がしないでもない(『モールス』の原作は、ちなみにモリッシーに捧げられている)。つまり、テーマといい、音楽性といい、あまりにもヨーロッパの深いところと結びついているので、どんな時代と結びつこうとも、訴えかけてくるものは何ひとつ変化のしようがないのではないかと(実際、〈チェリー・レッド〉のコンピレイションとして聴いていても、なんの違和感もない)。
とはいえ、シャーロン・クラウスによる優美なアンビエント・ドローン、ジョン・ゾーンによるメランコリックな弦楽四重奏、アール・ゾイドはインダストリアル直球で、デーデンス・ラムンガーはどこかノイエ・ドイッチェ・ヴェレと、手法は多種多様で音楽的なヴァリエイションにはもちろん予想外の広がりがある。EUだけでなく、日本からもマナブ・ヒラモト(シンキロウ)とケイジ・ハイノが参加している(クール・ジャパンとは言わないけれど、いかにも和風のアプローチを見せる後者はかなり興味深い上に、なぜかひとりだけバイオグラフィが黒く塗りつぶされている)。
冒頭では安直にホラーと記したけれど、『デヴィル・イン・ラヴ』は奇しくも紙エレキングVol.4で2011年のキーワードにあげた「ウィッチネス」とオーヴァーラップする部分が多い。ここでもゴシックというほどではなく、もう少し民族的な気質や風土に根ざした惰性ともいうべきものに依存した感覚といえばいいだろうか。少し前に公開された映画で、ブルガリアのカメン・カレフ監督『ソフィアの夜明け』には政治的な立場と音楽との結びつきが全体を通して暗示的に映し出されるという構造があり、「ウィッチネス」というタームがある種の軋轢のなかで果たす役割が肌で理解できる場面を観ることができた。基本的にはヨーロッパにおけるネオ・ナチの台頭を背景とした作品なので、そこには実際にセラピー効果のようなものが認められ、「必要性」さえ認識できたのである。これをヨーロッパの限界と見るか、それともセーフティ・ネットのようなものと考えるか(......インドの人はもちろん、わかりません~)。
三田 格