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Tirzah

DowntempoExperimentalR&B

Tirzah

Colourgrade

Domino/ビート

野田努   Oct 11,2021 UP
E王

 夏が来る前のこと、年内にティルザの新譜が出る予定だと知ったときには心躍るものがあった。ポップ・ミュージックこそ実験であり、冒険すべき未来がまだあるのだと、そんなヴィジョンを甘美なエレクトロニカR&Bとでも呼べそうな1枚として具現化した2018年の『Devotion』は、これだけ情報過多な今日でもたまに聴きたくなるアルバムだ。幼友だちのミカチュー(広くはオスカーにノミネートされたこともあるMica Leviとして知られる)と作り上げたデビュー・アルバムは、言うなれば90年代後半のビョークを更新する音楽で、レトロな意匠をもったゼロ年代UKのシンガーたちとは対照的に、スタイルよりもテクスチュアに、個人よりもサウンドに重きが置かれている。
 もっとも、歌モノのバックトラックをそうした現代風エレクトロニカにする向きは、ここ数年はとくに他にもたくさんいる。またそれかよ、などと思われた方もいるかもしれない。が、その一群において『Devotion』が頭ひとつ抜けていたのは、ミカチューによるサウンドプロダクトの妙技はさておき、なんと言ってもティルザに歌手としての魅力があるからに他ならない。彼女の声は、自分を思う存分に主張するような性質のものではない。滑らかな優しさを持っているそれは、抽象的でありながら親密で、夜の大気に溶けていく、喩えるならそんな感じだ。というわけで、彼女の新作は楽しみでしかなかった。

 それでまあ、数ヶ月前に先行リリースされた“Tectonic”を聴いたわけだが、これが正直なところぼくには最初ぴんと来なかった。『Devotion』とはずいぶんかけ離れているというか、ミニマル・ビートと語りに近い彼女のヴォーカルとのコンビネーションによる“Tectonic”は、前作がロマンティックな夜風ならこちらはマンホール下の艶めかしい廃棄物ように思われたのだ。身勝手な話だと思うが、それはぼくが彼女の音楽に望んでいたものではななかった。
 しかしながら、人生においてもっともきつかった夏が終わり、“Tectonic”から数ヶ月という時間を経たうえで、ようやく届いたアルバム全曲を最初から通して聴いてみたところ、自分の感性がティルザ&ミカチューの冒険心についていけなかっただけのことだったと、そう思い知った。これはすごいアルバムだ。前作から3年、33才になったティルザはこの間結婚し、二度出産を経験している。人生の幸せな時期にいると言えるだろう。そんなときに彼女が選んだのはサウンドを更新すること、赤ちゃんを寝かしつけた後、友と一緒にさらに夜を冒険をすることだった。
 1曲、彼のパートナーであり、シャバカ・ハッチングスとも共演しているジャズ・ミュージシャンのクウェイク・ベイスと、ロンドンでもっとも謎めいた芸術家のひとり、ディーン・ブランドとの共作がある。その曲“Recipe”は初期のトリッキーのダークサイドを迂回しながら、インダストリアルな響きを持ってアンビエントへと発展する。じっさい彼女はまだ無名だった2014年、トリッキーのアルバムで2曲歌っているわけだが、なるほど本作はブリストル・サウンドにおける暗い揺らめきと共鳴しているように感じる。“Tectonic”だって、そしてまた、前作に引き続いてのゲスト参加のCoby Seyと一緒に歌う“Hive Mind”という曲も、マッシヴ・アタックがやるべきサウンドを彼女たちが先にやってしまった感がある。

 『カラーグレード』は真夜中の音楽だ。ゼンマイ仕掛けのドラムンベースが綿のようなシンセ音とともに繰り返されるなか咳払いしながらその美しい歌唱を響かせる“Beating”、歪んだギターに機械の軋みを交えながら歌が流れる“Sleeping”、壊れた8ビート・ドラムと一緒に囁くように歌う“Send Me”、トム・ヴァーレインをトリップホップで再現したかのような“Skin In”……。曲は音数少なく静的で、ときに官能的で、ときにおおらかで夜風のように優しい。聴くたびにイメージが湧き上がり、脆弱な日々のなか、ティルザが音楽に夢中にさせてくれる。ここにはぼくが望んでいた以上のものがあった。

野田努