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神聖かまってちゃん

合評

神聖かまってちゃん- みんな死ね / つまんね

Dec 22,2010 UP 三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努三田 格加藤綾一橋元優歩水越真紀野田 努
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調子に乗ってすみません。べつにいいじゃねえかよぉ、調子に乗ってもよぉ文:橋元優歩


神聖かまってちゃん / みんな死ね
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神聖かまってちゃん / つまんね
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 神聖かまってちゃんの音楽は、村上隆氏の言葉を借りれば「様々なコンテキストが串刺しに」されており、そのために音楽の枠を超えて大きな存在感を持ち、狂おしいバズを巻き起こすのだが、またそのために正当な評価を損なっている部分があると感じる。ユーチューブやストリーミング配信の重用、またそのためにファンがライヴ会場ではなくネット空間に多く存在するといった、インターネットにおける新しいコミュニケーションの問題。共同体、とりわけ学校共同体への違和や怨恨、トラウマという主題。自傷的なパフォーマンス。平成不況や旧来型の社会モデルの解体状況のなかで育った「奇怪な自意識を持つ」ゆとり世代のイメージ。NHK『ミュージック・ジャパン』出演時などの有名な暴走エピソードなども、こうしたイメージを補強する材料になってしまうだろう。「ネオテニー・ジャパン」的な成熟の問題ともリンクするかもしれない。また出身地である千葉、集合住宅といったキーワードが喚起する郊外的(ゼロ年代的)風景。さらには、ニート/非リア充問題として語られることさえあり、ゼロ年代と若者論をめぐって本当におびただしい文脈を串刺しにしている。
 だが実際に音に耳を傾けると、それらが部分であり全体ではないということがよくわかる。どれかひとつのトピックから眺めていては彼らを取り逃すばかりだろう。私のように後聴きの人間にはとくにそうだ。の子はじつに瑞々しく正統的なロック・ヒーローである。忌野清志郎や甲本ヒロトにも比肩できるだろう。音や資質は異なり、の子にはむしろ彼らのような頼もしい男性性に対する批評を感じるが、自らの内に渦巻く負の記憶やエネルギーを強度のある表現に転化できる点では共通する。歌っていることが、「ああ、ほんとうのことなんだな」と感じられる。

 さて、同時リリースとなった『つまんね』と『みんな死ね』。前者はグローファイ的なムードまでとらえたエレクトロ・サイドのアルバム、後者はわりとストレートなパンク・アルバムである。さらに、前者は「運命は変わらない」というアルバム、後者は「僕は素直に生きる」というアルバムだ。あわせると「運命は変わらないが僕は素直に生きる」になる。色の異なるふたつのキャラクターが、『仮面ライダーW』のようにきっちり半々に合体する。緑っぽい黒、とかではなく緑と黒半々の身体が、の子の身体ではないだろうか。意図されたものではないかもしれないが、2作がかなりくっきりとした対照性を持っていることはたしかだ。

 まず驚くのは『つまんね』。とても風変わりなプロダクションで、ピクシーズとアリエル・ピンクをドラム式乾燥機で一緒に回したかのようにいびつなローファイぶりである。ベースは重め。雄弁なキーボードは、今作でも忘れがたくメランコリックなリフを繰り返す。アニメソングさながらのくっきりとした対旋律を描き出すのも彼だ。"天使じゃ地上じゃちっそく死"や"笛吹き花ちゃん"などでは、ベースとドラムによってライド的な疾走感が生み出されている。の子が歌うのはおもに「君はどうしようもないだろうね/どうにもならないだろうね」("黒いたまご")という運命を静観する態度だ。「黒いたまご」は、イコール「花ちゃん」であり、「芋虫さん」であり、「僕」、そしてノット・イコール「白いたまご」だ。醜くて不気味で、死んだほうがいい。だが「白いたまご」とてくだらない、しょぼい命である。生まれてきても「黒いたまご」をいじめたりして終了。いますぐ壊したほうがいい。こうした希望の薄い世界認識や、そこからとくに踏み出すことのない非積極性のモチーフは、チルウェイヴ的な音となじみがよい。"夜空の虫とどこまでも"は、絶妙のタイミングで挟まれるドリーミー・シンセ・ナンバー。悲観的で逃避的、しかし切ない。ケトルばりの感傷を持った、ミドル・テンポのインスト曲である。他の曲より秀でているとは言わないが、この曲が全体の腰の部分にあることで、アルバムの表情と方向性がバシッと決まっているように思う。つづく"通学LOW"もエレクトロで、クリスタル・キャッスルズのようないかれたバイオレンスを思いきり内向させる。いっぽうで、"いかれたNeet"もとても好きだ。ぎこちないファンク・ビートがどことなくデヴィッド・ボウイを思わせる。不気味で醜い「僕」が日課として歌をうたいつづけるという詞。の子が発音する「ニート」はすさまじい情報量に満ちている。心のすみずみから掻き出した声と言えばいいだろうか。苦しい、怖い、いやだ、死にたい、そうでもない、どうでもいい、生きたい、それらがすべて含まれている。この曲は、この「ニート」を聴く曲だ。何度も何度も繰り返されるし、一個一個身にしみる。ただの名詞なのに、無限に動詞や形容詞を感じるだろう。声変わりが終わりきらないような危ういバランスは、昔の七尾旅人にも重なる。七尾も「不気味で醜い」黒いたまごのような声を出した。運命は変わらない。だがこの声が歌う「死にたい」は、かぎりなく「生きたい」に近い。

 『みんな死ね』は曲にヴァリエーションもあり、『つまんね』の内省に比べてより攻撃的だ。前述のように音としてもかなり素直なパンク・アルバムで、前に向かうような気持ちが感じられる。
「上へ上へ駈けのぼってく/....../僕はゆきます/....../そんな感じです」("ねこラジ") 
「男にも女にもなれやしない僕だから/みんなの目が厳しいとちょっとつらい/男にも女にも嫌われてる僕だから/自分らしく生きたい/....../嫌われても人間らしく/素直に今歌いたいのです」("自分らしく") 
「さんざんな目にあっても/忘れ方を知らなくても/僕は行くのだ/僕を笑わせんなと」("怒鳴るゆめ") 
 "自分らしく"は、「男の子」にも「女の子」にもなれない「の子」の由来に言及しているようで、かつそのことを承認してほしい、してくれなくてもの子として生きる、という力強い表明がある。"スピード"や"男はロマンだぜ!たけだ君っ"では提案すらある。
「独りぼっちが好きだったら/走れ走れスピードで走れ走れスピードで/誰にも見えないスピードで」
 いずれも、歪んだギターとかまってちゃんらしいシークエンスを持った疾走ナンバーである。ヴォイス・チェンジャーも目立っては使用されない。そしてストレートなメッセージや決意がある。もちろん「そんな感じです」のような照れ隠しというか、メタな自己言及も忘れない。神様に世界の残酷な不平等を訴える"神さまそれではひどいなり"では、神様に意義申し立てをおこない、「ぶっ殺してやる」とまで叫んでおきながら、「調子に乗ってすみません。べつにいいじゃねえかよぉ、調子に乗ってもよぉ。すみません」というつぶやきで締めるのだ。コロ助の真似とおぼしき口調のしょぼい存在が、まっとうな望みを抱いてすみません。シニカルで切ないこの感覚はつねにある。もしかすると自虐を偽装することで誇りを守っているのかもしれない。必死でバランスを保ちつつ......。

 しかし最終的に耳に残るのは「最悪、みんな死んでしまえ」("最悪な少女の将来")ではないだろうか。よく動くベースと、デイヴ・フリッドマン的な、ガスが充満して爆発しているような音像、そして旋律がぴったりと言葉に合っている。思いの強さと真実さが、この旋律を導いたのだと思える。私は前向きなメッセージを100パーセント支持するものであるが、現時点では「最悪、みんな死んでしまえ」のほうがかまってちゃんの最大出力を引き出せるのかもしれない。ただし、かまってちゃんの「死んでしまえ」はナイーヴな自己完結には終わらない。定型に則ったメンヘラー的ポーズではなく、全霊で外にぶつける「死んでしまえ」であり、そのはね返りを受けてみずからも大きなダメージを受けるように見える。「死ね」と言うとき、そこに生々しい相手を想定できるだろうか。固有名でなくてもかまわない。肉体と心とをたしかに持った存在を感じながら「死ね」と言えるだろうか。それができるのなら、倫理的な問題にはパスしているのではないかと思う。「素直に生きる」ことはかくも難しい。両作はまぎれもなく傑作で、私はとても考え、一生懸命聴いた。終曲も美しいが、次はほんとに、しょぼい我々にも"口ずさめる様"に、「死んでしまえ」を逆転してほしい。

文:橋元優歩

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