「OPN」と一致するもの

 デーモン・アルバーンは「民主主義が我々を裏切った」と言い放った。トム・ヨークは「老人たちの自殺行為で、とても混乱している」と再投票を要求した。ノエル・ギャラガーは「ブラック・デイ」とインスタグラムに投稿し、リアム・ギャラガーは「世界を止めろ、俺は降りる」とツイートした。それぞれ表現は異なっているものの、この四人が大枠で同じ意見を表明するなど滅多に見られぬ光景である。かれらだけではない。ジョニー・マーやリリー・アレン、エド・サイモンズやスチュアート・マードックらは憤慨あるいは落胆の言葉をツイートし、ジャーヴィス・コッカーも再投票を求める署名活動に参加している。

 ロック・ミュージシャンだけではない。ミラ・カリックスは投票の結果を受け、「48%へのサウンドトラック」というコメントとともにレディオヘッド "How To Disappear Completely" へのリンクをツイートした。ミラニーズやマウント・キンビーは投票前から残留を願う言葉を発していたし、DJフードやハーバート、コード9やクラーク、ゾンビーらが今回の投票結果を憂いている。マッシヴ・アタックはハイド・パークで "Eurochild" を演奏し、あるいは先日『ele-king』でもお伝えしたようにビル・ドラモンドはロマの一団と「第九」を演奏した。スクエアプッシャーは新曲を公開して抗議への共闘を呼びかけ、ゴールド・パンダはブレグジットにインスパイアされたEPをリリースした。

 UKだけではない。フランスではロラン・ガルニエが、合衆国ではローレル・ヘイローやDJシャドウが離脱という結果を嘆いている。OPNは「老人たちからぼくらを守れ」とツイートし、アノーニはブレグジットの原因が「25年間に及ぶ米国による犯罪的な外交政策」にあるとフェイスブックに投稿した。

 調べればもっと出てくるだろう。多くのミュージシャンが残留を願っていた。文化的なものや創造的なものは、異文化同士の接触やコミュニケイション、ヒトやモノの絶えざる往来と交流によって紡ぎ出されていく。それを肌で知っているからこそ、かれらはみなこうした怒りや嘆きを表明しているのだろう。とはいえ、そのようなクリエイティヴィティや多様性にのみ争点を限定してしまうこともできないというところが今回のブレグジットの厄介なところでもある。ミック・ジャガーやロジャー・ダルトリー、ブルース・ディッキンソンは離脱を支持していた。そのうち最初のふたりは70代である。今回の国民投票では高齢層の離脱支持率が非常に高かったことが明らかになっているが、それはミュージシャンも例外ではなかったということだ。事態は単純ではない。

 昨年『ガーディアン』に労働党党首ジェレミー・コービンを支持する声明を寄せたり、同じく『ガーディアン』でギリシャの元財務大臣ヤニス・バルファキスと対談したりしていたブライアン・イーノは、投票日の5日前というギリギリのタイミングに、フェイスブックで残留への投票を呼びかけた。そこで彼があらわにした「『偉大なる』英国への抑えがたい熱狂」に対する危機感は、彼の最新作『ザ・シップ』でも表明されていたものだが、イーノがその最新作で試みた分の悪い賭けも、今回は負けに終わったと言っていいだろう。
かれらが見ていたのは理念や理想だった。かれらには見えていなかったのだ、「地べた」が。

 まず、バンクシーのグラフィティをどでかく掲げたジャケットが最高にクールだ。ブレイディみかこ4冊目の著作となる本書には、「Yahoo! ニュース 個人」で発表されたUKの政治や社会をめぐる時評が年代順に収録されており、読者はブレグジットという決定的な転回点に至るまでのUKの2年間の歩みを、ひとつの物語のように読み進めていくことができる(これは紙の本ならではの構成だ)。

 NHSという無料の医療制度やファーザー・エデュケイション(Further Education)という成人教育システム、あるいは保守党と労働党のせめぎ合いやイングランドとスコットランドの緊張関係など、日本ではあまり報じられないUKの政治的・社会的状況が平易な文で綴られている点も参考になるが、やはり読み物としての本書の魅力を最大限に高めているのは、三人の主人公の存在だろう。スコットランド国民党(SNP)のニコラ・スタージョン、労働党のジェレミー・コービン、ポデモスのパブロ・イグレシアス。かれらがどのようにUKやヨーロッパの現状を見つめているのか、かれらがいかにその現実を変革しようとしているのか、かれらがそのためにどのような言葉を発しどのような行動を起こしてきたのか、そしてなぜそれが成功を収めているのか。本書はこの三人の闘争を追った戦記としても読むことができる。かれらが浮かび上がらせるのは、もはや「右」と「左」というタームでは整理できなくなってしまった現在のUKやヨーロッパの政治的な構図である。著者はそれを「上」と「下」というタームに置き換える。これまでも「地べた」から社会や文化を捕捉し続けてきた著者だが、とりわけ本書では彼女の「地べた」節が炸裂している。

欧州で新左派が躍進しているのは、彼らが「負ける」という生暖かいお馴染みの場所でまどろむことをやめ、「勝つ」ことを真剣に欲し始めたからだ。
右傾化する庶民を「バカ」と傲慢に冷笑し、切り捨てるのではなく、その庶民にこそ届く言葉を発すること。 (136頁)

左派は、経済をこそ訴えていかねばならない。 (233頁)

この歪みを正してくれるなら右だろうが左だろうがイデオロギーは関係ないというところにまで来ている。 (260頁)

 などなど、本書には「地べた」から投げられた石=メッセージが随所に刻み込まれているが、その中でも最高にかっこいいのが次の一節である。

米と薔薇、すなわち金と尊厳は両立する。米をもらう代わりに薔薇を捨てるわけでもないし、米を求めたら薔薇が廃るわけでもない。むしろわたしたちは、薔薇を胸に抱くからこそ、正当に与えられてしかるべき米を要求するのだ。 (281頁)

 要するに、「金をよこせ」ということである。「金をよこせ」という話に穢れたところなど少しもない。そういう当たり前の要求を当たり前にできるような社会を作っていくにはどうしたらいいのか。かつての「一億総中流」という幻想が「一億総活躍」という言葉に置き換えられ、極度に「上」と「下」との分離が進み、「地べた」が存在しないものとして処理されるこの日本では、特にそれを考える必要があるだろう。参院選や都知事選を経てどんどんと沈んでいくこの暗澹たる日本に生きる者にとって、本書で描かれるUKやヨーロッパの状況には参照すべき点が数多く含まれている。

 本書は書店の棚のジャンル名でいえば「政治」や「社会」に分類される本で、いわゆる「音楽」の本ではない。ミュージシャンもそんなに登場するわけではない(ビリー・ブラッグとイーノくらいだ)。けれど、この本からはUKの様々な音楽が聞こえてくる。かの地と同じ島国であるこの国では、海外から音楽が輸入されるときに必ずと言っていいほどその背景が切り離されてしまうが、本書が描いているのはまさに、そのように運搬中に海の中へと投げ捨てられてしまう、音楽の様々なバックグラウンドなのだ。
 確かに、残留派のミュージシャンたちには「地べた」が見えていなかったのかもしれない。それでもかの地では多くのミュージシャンがそれぞれの思いを胸に抱き、それぞれの言葉で今回の国民投票について発言している。それは、かれらにとって政治や社会の問題が音楽と同様に身近で、リアルで、大切なことだからだ。いまだに「音楽に政治を持ち込むな」などという議論が巻き起こってしまうこの国で、ブレグジットというこのタイミングに本書が刊行されたことには大きな意味がある。本書は「日本」の「音楽」ファンたちにこそ向けて投げられた石なのだ。

ele-king PRESENTS - ele-king

 この世界にエレクトロニック・ミュージックが存在し、展開される限り、〈WARP〉はかならず振り返られるレーベルである。それがまず明白な事実として挙げられる。
 信じられない話だが、1970年代においてエレクトロニック・ミュージックは血の通っていない音楽とされ、さらにまたシンセサイザーは普通の人には手の届かない高価なものだった。しかし現代では、エレクトロニック・ミュージックはダンスに欠かせないヒューマンな音楽であり、自宅で作れるもっとも身近なジャンルだ。〈WARP〉は、まさに身近なものとしてある、現代的なエレクトロニック・ミュージックの第二段階におけるもっとも大きなレーベルなのだ。ちなみに、第一段階は70年代末から80年代初頭のポストパンク、第二段階は80年代末から90年代初頭のハウス/テクノのこと。このふたつの時代に共通するのは、因習打破の精神である。
 もちろんいまでは〈WARP〉をテクノ専門のレーベルだと思っている人はいないだろう。ただ、〈WARP〉から出すものは、基本、因習打破の精神を秘め、メッセージよりも斬新なテクスチャーが要求される。エイフェックス・ツインやオウテカ、フライング・ロータスやバトルズにまで通底するのは、テクスチャーに対する拘りである。つまり、聴いたときにフレッシュであること。新しいこと。新しさを感じさせること。
 音楽の世界が懐古趣味に走って久しいが、それはもう世界が前に進まなくてもいいと諦めてしまっているかのようだ。しかし〈WARP〉がリンクしているシーンは、懐古とは対極にある。アクチュアルで、ケオティックで、それは時代のなかで更新される音楽環境において、若い世代には新しい享受の仕方があり、それは現状を好転させようとする、前向きな可能性を秘めていると信じているかのようだ。昔は良かったとノスタルジーに浸るよりもいまの世界を変えたいのだろう。
 〈WARP〉はインディペンデント・レーベルである。試行錯誤しながらも、シーンとの接点を持ち続け、25年ものあいだインパクトのある作品を出し続け、なおもシーンを更新しようと試みていることは異例であり、脅威だと言えよう。たしかにレーベルにはすでに古典と括られる作品がたくさんあり、それらはなかばノスタルジックに消費されていることも事実である。しかし、25年前から未来に開かれていた〈WARP〉の作品にはいまだに多くのヒントがあり、また現在リリースされている作品でも挑むことを止めていない。メッセージではなくテクスチャーである。サウンドの冒険である。
野田努(ele-king編集長)

以下、ele-kingの執筆陣からのレビューと作品に寄せられたコメントを掲載しよう



APHEX TWIN 『Cheetah EP』
BEAT RECORDS

Cheetah MS800という恐ろしくマニアックかつ操作困難な初期デジタルシンセを全面に押し出したEP。APHEX TWIN作品の中でも、絶妙にダーティな音像と、ウネウネ/ブチブチと蠢くシンセテクスチャーによって、脳が「ぐにゃーっ」 とトリップさせられる怪作です。
佐々木渉(クリプトン・フューチャー・メディア)

Aphex Twin(コラム)


APHEX TWIN
『Syro』
BEAT RECORDS

CDの寿命が20年とか聞くと、人類が蓄積しているデータは、その破片すら次の文明に引き継がれないことを思い知らされる。データは消えても、音楽は振動として永遠に残って行く。この音楽が僕らの時代の振動として、次の文明に引き継がれて行くことを、同時代に生きた人類として嬉しく思う。

東の医から観た彼の現在は、澱みのない色の舌と、適度に満たされた脈を打っている。今も昔も、いやむしろ今の方が、純粋に健康に音楽を楽しんでいる。稀な振れ幅の陰と陽の調和。憧れた人が、今も心地良い音楽を鳴らしていることは、どれだけ多くの人の気を増幅させたのだろうか。
伊達伯欣/Tomoyoshi Date

2014年最大の衝撃であったエイフェックス・ツインの復帰作。エイフェックス的なエレクトロニック・ミュージックの魅力が横溢し、何度聴いても飽きない。同時に徹底的に作りこまれたトラックメイクによって、「作曲家リチャード・D・ジェイムス」の側面が改めて浮かび上がってくる。まるで子供の魔法のようなテクノ。まさに傑作である。
(デンシノオト)

Syro(レビュー)


APHEX TWIN
『Computer Contorled Accoustic Instruments Pt.2』
BEAT RECORDS

プリペアド・ピアノというアイデアを発明したヘンリー・カウエルに始まり、ケージ、ナンカロウへと連なるメタ・ピアノの系譜から、ここでのリチャードは豊かな遺産を受け継ぎ、独自に発展させている。
これはすこぶるリチャード・D・ジェイムス=エイフェックス・ツインらしい、なんともチャーミングで畸形的な小品集だということである。
佐々木敦(HEADZ)

『Syro』から僅か4ヶ月でリリースされた、『Syro』とは全く方向性の異なる小品集。アコースティックなドラムとピアノのおもちゃ箱。機械的でありながらも感情豊かなドラムに、『Drukqs』を思わせるはかなげなピアノが絡んでいく様は、ピアノが打楽器でもあることを思い出させてくれる。二つの楽器が交差する際の残響音にも技巧が凝らされている。(小林拓音)

CCAI pt.2(レビュー)


APHEX TWIN
『Orphaned DJ Selek 2006-2008』
BEAT RECORDS

エイフェックス・ツインあるあるを言います。
「AFX名義だと顔出ししない」「AFX名義だと時代感を超越」「AFX名義だと選曲について悩まない」「AFX名義だと輪をかけてタイトルに意味無し」「AFX名義聴くと不思議に疲れない」「結果AFX名義が一番心地よくヘビロテ」つまり最もお薦めできるAFX名義の最新作がこれです。
西島大介/DJまほうつかい

リチャード・D・ジェイムスのアシッドハウスな側面が全開になったAFX名義、10年ぶりの2015年新作。脳髄を揺さぶる電子音シーケンスと、かつてのドリルンベース的なビートには強烈な中毒性がある。『Syro』では封印気味だった無邪気で攻撃的なRDJがここにある。90年代マナーなアートワークはデザイナーズ・リパブリックによるもの。(デンシノオト)

ORPHANED DEEJAY SELEK
2006-2008(コラム)


BIBIO
『A Mineral Love』
BEAT RECORDS

急な風で電線が揺れたり、低い雲が夕日で真っ赤に染まったり、何十回も繰り返してきた同じ種類の悲しみだったり、急に不安なる夜だったり、そうやって僕らの前に時折現れる景色や感情の起伏を、Bibioはいつもそれとなく音楽で代弁してくれるから、僕は好きだ。
山口一郎(サカナクション)

ヒップホップとエレクトロニカとフォークの愛らしい出会いを丹念に編んできたビビオが、ここではソウルとジャズとファンクの色を優しく混ぜていく。音の隙間が心地いいグル―ヴと、とろけるようなシンセ・サウンド、そしてビビオ自身のスウィートな歌が詰まっている。それは、子どもの頃の記憶をくすぐるような優しい歌だ。(木津毅)

Bibio (インタビュー)


BRIAN ENO
『The Ship』
BEAT RECORDS

EnoのI'm set freeのcoverイイ。あとEno本名クソ長い。
石野卓球(電気グルーヴ)*2016年4月27日のTwitterより引用

2ndアルバムの録音以来、Eno先生にハマってます。レコーディング中もよく聴いた。これは新譜だけど。
後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION) *2016年5月7日のTwitterより引用

イーノが辿りついた音楽/音響の天国的な境地がここに。彼が長年追求してきたアンビエント・ミュージックとポップ・ミュージックが見事に融合しており、全編に横溢する中世音楽のようなシルキーな響きが美しい。イーノのボーカルによるヴェルベット・アンダーグラウンドのカバー「I’m Set Free」は未来へのレクイエムのように聴こえる。(デンシノオト)

Brian Eno (レビュー)


MARK PRITCHARD
『UnderThe Sun』
BEAT RECORDS

森の中のアシッドフォークから、深遠なシンセアンビエントまで、まるで断片的な夢のかけらのように、
立ち表れては消えて行く、音の桃源郷のようなアルバム。
柔らかなシンセの波に揉まれながら、夏の匂いを感じたくなるような気持ちにさせられる。
Chihei Hatakeyama

リロードやグローバル・コミュニケーションとして知られるテクノのヴェテランによる、本人名義としては初のアルバム。近年はベース・ミュージックに傾倒していた彼だが、本作では一転してベッドルーム志向のテクノ/アンビエントが鳴らされている。全体的にフォーキーなムードで、トム・ヨークやレーベルメイトのビビオ、ビーンズらが参加。(小林拓音)

Mark Pritchard (インタビュー)


ONEOHTRIX POINT NEVER
『Garden Of Delete』
BEAT RECORDS

人工知能にロック(というかメタル)に関するあらゆる情報を食わせて電子音楽として吐き出させたらこんなことになる。SFとしてのメタル。スペキュラティヴアートとしてのエレクトロニカ。エイリアンの知性、すなわちAIが見た、ヒトとロックをめぐる欲望と情動の見取り図。
若林恵(wired編集長)

アンビエントから遠ざかり始めた通算7作目。NINから影響を受け、大胆にメタルを採り入れたかつてない動的な野心作。そのあまりに過剰な音の堆積はポップ・ミュージックのグロテスクな側面を暴くためのものだが、けばけばしさの中に紛れ込む叙情性はOPNならでは。音声合成ソフトのチップスピーチの採用はボカロ文化にも一石を投じている。(小林拓音)

OPN (インタビュー)


PLAID
『The Digging Remedy』
BEAT RECORDS

I’ll say it right off: I love Plaid! But, to be honest, their newest work really surprised me. “The Digging Remedy,” rather than moving further in the direction Plaid established with “Reachy Prints” and “Scintilli,” seems to be yet another distinct stage in the evolution of this eccentric duo. What a beguiling mixture of bittersweet melodies, syncopated rhythms, and wonderfully retro Vini Reilly-style guitars…
- Michael Arias film director (Tekkonkinkreet, Heaven’s Door)
単刀直入に言うと アイ ラブ プラッド♥ ただ正直言って、彼らの最新作には驚かされた。「Reachy Prints」や「Scintilli」でプラッドが確立した方向性を更に進んだのではなく、「The Digging Remedy」はこのエキセントリックなデュオの進化の過程の中で、はっきりと今までと違う別の段階に達した様だ。ほろ苦いメロディー、シンコペーションのリズム、そして素晴らしくレトロでヴィニライリー風のギターの、何と魅惑的な混ざり合い、、、。
マイケル・アリアス 映画(「鉄コン筋クリート」、「ヘブンズ・ドア」)監督

PLAIDは細部に宿る
4拍目のキックの余韻に
ロールするシーケンスの奈落に
1分、1秒、1サンプルの隙間に

PLAIDは細部に宿る agraph

2年ぶりの新作。ドリーミーなプラッド節はそのままに、これまで以上にソリッドで研ぎ澄まされたエレクトロニック・ミュージックを聴かせてくれる。「CLOCK」のデトロイト・テクノな高揚感が堪らない。トラディショナルなベネット・ウォルシュのギターも印象的だ。アルバムタイトルは10歳になるアンディの娘さんが思いついたもの。(デンシノオト)

Plaid (インタビュー)


SQUAREPUSHER
『Damogen Furies』
BEAT RECORDS

「20年間オレのヒーロー」
OLIVE OIL(OILWORKS)

トム・ジェンキンソン自らが開発したソフトウェアによって生み出された通算14作目。全て一発録り。世界情勢に対するリアクションだという本作は、これまで様々なスタイルに取り組んできた彼の作品の中で最も好戦的な一枚となっている。とにかく凶暴なドラムとノイズの嵐の中にときおり顔を出すメロディアスなDnBが、往年の彼を思い出させる。(小林拓音)

SQUAREPUSHER (インタビュー)


BATTLES
『La Di Da Di』
BEAT RECORDS

音数の減少により浮き彫りになるキック、スネア、ハットの三点グルーヴがとんでもなく強烈です。
知っちゃあいたけどやっぱ凄えわ。」庄村聡泰([Alexandros])ーMUSICA 2015年10月号

歌をどのように自分たちのサウンドと引き合わせるかが課題のひとつだった前2作から一転、初期のミニマリズム、インスト主義に回帰した3作め……が、聴けばユーモラスな感覚はたしかに引き継がれている。ストイックだと評された時代をあとにして、あくまで理性的に繰り広げられる快楽的で愉快なバトルスが存分に味わえる。(木津毅)

Battles

interview with Matthew Herbert - ele-king


Matthew Herbert
A Nude (The Perfect Body)

Accidental/ホステス

ElectronicNoiseExperimental

Tower HMV Amazon

人間が生きていくうえで、不可避的に身体が立ててしまう音=ノイズを用いて音楽を創ること。マシュー・ハーバードが新作で実践したコンセプトである。起床から睡眠まで。体を洗い、何かを食べ、トイレにゆく。それらの音たちは、極めて個人的なものであり、必然的に人間の「プライベート/プライバシー」の領域問題を意識させてしまう過激なものでもある。いわば音/音楽による「裸体」?

 そう、マシュー・ハーバートが新作で実践したこのコンセプトは、「音楽」における「裸体」の概念を導入する、という途轍もないものなのだ。むろん、いうまでもなく「映像」と裸体の関係はつねに密接であった。ファッションフォトであっても、ポルノグラフィであっても同様で、いわばジェンダーとプライバシーの力学関係が複雑に交錯する「政治」空間であったともいえるだろう(政治とは力学である)。同時に芸術においては「裸体」は、普遍的ともいえる主題でもあった(ヴィーナスから村上隆まで)。裸体、それはわれわれの知覚や思考に対して、ある種の混乱と、ある種の意識と、ある種の美意識と、ある種の限界を意識させてしまうものなのである。

 では、映像が欠如した「音楽」のみによる「裸体」の表現は可能なのか。ハーバートは身体の発するノイズ、そのプライベートな領域にまでマイクロフォンを侵入させ、それを実現する。急いで付け加えておくが、それは単なる露悪趣味では決してない。そうではなく。そうすることで、人間の身体のたてる音=ノイズを意識させ、聴き手にある自覚を促すのである。われわれは、何らかに知的営為を行う「人間」であるのだが、同時に日々の生存をしていくために「動物」として音を発する。これは極めて当たり前の行為であるはずなのだが、われわれの社会は「人間」が「人間」であろうとするために、その動物性を綺麗に隠蔽する。

 彼は、2011年に発表した『ワン・ピッグ』において、一頭の豚の、誕生から食肉として食べられるまでの音を再構築(サンプリング)し、「音楽」としてリ・コンポジションしていくことで、われわれの視界から隠蔽される食肉の問題を「意識」させたが、本作においてハーバートは「身体の発する音」を極めて美しいエクスペリメンタル・ミュージックへと再生成することで、われわれが発する「音」(動物的な?)のありようを「意識」させていくのだ。映像から切り離された音たちは、ときに自律性を発しながらも、ときに音それじたいとして主張をし、ときに元の状態がわからないサウンド・エレメントに生成変化を遂げたりもする。だが、それでも聴き手は「この音は、生活していくうえで、生物としての人間が、ごく当たり前に発する音」だと意識せざるを得ない。ハーバートが求めるものは、それである。「意識していないものを意識させてしまうこと」。それこそがサンプリング・アーティストとしての彼が「社会」に仕掛けていく「革命」なのではないか。

 しかし同時に、本作に収録された「音楽」たちが、とても美しい点も重要である。彼はまずもって才能豊かな音楽家だ。とくに本作のディスク2に収録された楽曲を先入観抜きで聴いてほしい。OPNやアンディ・ストットに匹敵するインダストリアル/アンビエントが展開されている、といっても過言ではない。だが、この美しいエクスペリメンタル・ミュージックたちは、ときに人間の排便の音で組み上げられているのだ。ハーバートは「ボディ」(ある女性とある男性だという。そしてハーバート自身の音は入っていない)の発する音の群れと、「音楽」のセッションを繰り広げているというべきかもしれない。

 今回、マシュー・ハーバートから本作について、社会について、興味深い言葉を頂くことができた。サンプリングが社会的な行為であり、同時に破壊でもあるとするなら、本作は、いかなる意味で「音楽」といえるのか。このインタヴューは、衝撃的な本作を聴く上での最良の補助線になるだろう。このアルバムを聴き、このインタヴューを呼んだあなたは、もはや「自分の発する音」に無自覚ではいられなくなる。

■Matthew Herbert / マシュー・ハーバート
1972年生まれ。BBCの録音技師だった父親を持ち、幼児期からピアノとヴァイオリンを学ぶ。エクセター大学で演劇を専攻したのち、1995年にウィッシュマウンテン名義で音楽活動をスタートさせる。以降、ハーバート(Herbert)、ドクター・ロキット、レディオボーイ、本名のマシュー・ハーバートなどさまざまな名義を使い分け、次々に作品を発表。その音楽性はミニマル・ハウスからミュジーク・コンクレート、社会・政治色の強いプロテスト・ポップに至るまでジャンル、内容を越え多岐にわたっている。また、プロデューサーやリミキサーとしても、ビョーク、REM、ジョン・ケール、ヨーコ・オノ、セルジュ・ゲンズブール等を手掛ける。2010年、マシュー・ハーバート名義で「ONE」シリーズ3作品(One One, One Club,One Pig)をリリース。2014年には4曲収録EPを3作品連続で発表。2015年には名作『ボディリー・ファンクション』『スケール』を彷彿とさせる全曲ヴォーカルを採用した『ザ・シェイクス』をリリースし、来日公演も行った。

世界をいまのままの状態で受け入れることに歯止めをかけるために。大切なもののために。闘い始めるために。探したのは逸脱したサウンドだ。

どうして、このようなコンセプトでアルバムを作ろうと考えたのですか?

MH:僕が考えていたのは、まず、サウンドを使って「世界を変えたい」ということだった。いま、世の中は間違った方向に進んでいると思う。だから僕は、それを変えたい。もしくは衝撃を与えたい。ただ、人にショックを与えて終わりではなく、みんなの考え方や受け止め方をそれによって変えることができればとも思っている。そして僕らが人生を送っていく上でのありきたりのパターンを混乱させるんだ。世界はすごい勢いで、どんどんおかしなことになっているからね。ドナルド・トランプしかり、ファシズムの台頭しかり、気候の変化しかり、核兵器しかり。僕らは、いまの自分たちのあり方を急いで変える必要があると思う。というわけで僕は予定調和を壊すようなサウンドや発想を探し求めた。世界をいまのままの状態で受け入れることに歯止めをかけるために。大切なもののために。闘い始めるために。探したのは逸脱したサウンドだ。たとえば、ショッキングだったり、不快だったり、あるいは耳馴染みがなかったり、奇妙だったり、そういう感覚を促す音だ。それは何だろう? と考えたとき、思い至ったのが自分自身の音、できれば聞きたくない音だったんだ。他人がトイレに行く音とか、そういう聞きたくない音に耳を向けていく。あ、そういえば日本には、自分の「その音」を、ほかの人が聞かなくて済むように音を隠すシステムがあるよね(笑)?

はい(笑)。

MH:他人が大便をする音なんていうのは誰も話題にはしない。誰もがやっていることなのに、それってすごく不思議だよね。誰もがすることなのにさ。何も特別なことじゃない(笑)。そんな「誰もがせざるを得ないことなのに」というのが、ひとつの出発点になったんだ。「そうか、僕がまず理解すべきなのは他人の肉体に感じる違和感なのかもしれない」と。そのためには誰か他人の肉体の音を録音してみる必要があるなと考えはじめて、それから何カ月か経ったところで僕は、それは、つまり、「ヌード」ってことだと思い当たったんだ。「裸にむき出しになるということだ、なるほど!」と。まあ、そんな感じで6カ月から8カ月ぐらいかけて発展していった発想なんだよ。ある日、目を覚ましたら急に「そうだ、これをやろう!」とひらめいたわけではない。少しずつ少しずつ、毎日そのことを考えていくうちに、そう、植物のように水をやり続けていたら、ある日、「あ、これってサボテンだったのか!」「あ、メロンがなったぞ!」となるような感覚だね。ここに至るまでのプロセスは、まさに進化の過程だった。

「ボディ」に、つまりは互いの存在に耳を傾け、受け入れる必要があるんだ。突き詰めれば人はみな同じ。女王様だってウンチはするし、カニエ・ウエストだってそう。

日本のトイレの消音システムは「自分の音を聞かれたくない」という感覚なんですよね。

MH:ああ……、だとしたら、それはそのまんまいまの世界がはらんでいる危険性だと思うよ。この資本社会において「もっとも重要な人物は自分である」と思い込まされて人は生かされているんだ。すべて自分が中心。自分自身が、個人が、すべてである、と。でも、それは真実じゃない。人は他人との関わりの中でしか生きていけない。車だってそうだ。僕は自分では作れないから誰かに造ってもらわないと、運転して子どもたちを学校へ送ることもできない。子どもたちに勉強を教えるのも、家族の食べるものを育てるのも、誰かにやってもらわなければ僕にはできない。だったら僕にできることは何か? というと、それは音楽を作ることであり、それが僕なりの社会貢献であり、教えてあげられることというのかな。
でも、それだって聴いてくれる人がいなければできない。とにかく、人はお互いを必要としているし、力を合わせる必要があるんだ。力を合わせなければ、たとえば気候の変化に歯止めをかけることもできない。消費を抑えるとか、移動を少なくするとか、みんなでやらなければ意味がないんだから。行動を共にする必要があるんだよ。そして、そのためには隣人に目を向ける必要がある。お互いに対して、あるいはお互いのために、いったい何ができるのかを考えなければならない。僕としては、このレコードは、そのあたりのことを表すメタファーになっていると思う。「ボディ」に、つまりは互いの存在に耳を傾け、受け入れる必要があるのだ、と。突き詰めれば人はみな同じ。女王様だってウンチはするし、カニエ・ウエストだってそう。みんなやることだ。そこを認めることができたら、人間性を協調させることが可能になるかもしれない。ひいてはそれがより健全な体制を生み出すことに繋がっていくんじゃないかな。

たしかに街中でもヘッドフォンをして周りの音をシャットアウトしている日本人もとても多いです。

MH:でも、それを責めることもできないけどね。だって世の中はどんどん騒々しくなっている。たとえば、これは最近じゃ常套句になってしまっているから僕がここでわざわざ言うのも申し訳ないようだけど(笑)、渋谷の町はその典型じゃないかな。音楽、テレビ、呼び込みの声。「こっちへ来てこれを買え!」という声が店やレストランから流れてくる。何かの統計を見たけど、人間の話す声はこの15年ぐらいで10%ぐらい大きくなっているらしいよ。まわりがうるさいから声を大きくしないと聞こえない。つまりマシーンの音に埋もれないように、人は声を荒げなければならなくなっているらしい。そういう意味じゃ、ヘッドフォンをしたくなる気持ちもわかるよ。あと、それで何を聴いているのかってのもあるよね。もしかしたら「沈黙について」なんていう番組を聴いていたりして(笑)。あるいはノーム・チョムスキーの講義だったりして。そう、何を聴いているのかわからないというのもまた、問題ではある。結局、人と人が繋がっていない、ということなんだから。

いまとなってはもう、ピアノもギターもドラムも僕は聴く必要を感じない。シンセサイザーだってそう。もちろん、それぞれ時と場所によっては素晴らしい音に聞こえるけれども、それが音楽の未来だとは僕は思わない。

「世界を変える」いう意味では『ワン・ピッグ 』(2011)もそうでしたね。豚の誕生から食べられるまでを音にして、聴いている人に「気づかせる」……。

MH:そう。最近、僕は音楽がすごくひとりよがりで無難なものになってしまっていると感じているんだ。いまとなってはもう、ピアノもギターもドラムも僕は聴く必要を感じない。シンセサイザーだってそう。もちろん、それぞれ時と場所によっては素晴らしい音に聞こえるけれども、それが音楽の未来だとは僕は思わない。だからナイトクラブで『ワン・ピッグ 』 を演奏して、あの大音量で聴かせる、というのは僕に言わせれば興味深くもあり、衝撃的でもあり、おかしくもあり、ちょっとバカバカしくもあり、それでいて、ごく真剣なことでもあったわけで。

さて、本作ですが、実際はどのくらいの期間で完成させていったのでしょうか。

MH:僕と「ボディ」とでやったんだけど、レコーディングは2日間かな。2日半ぐらいだったかもしれない。その音源をほかの録音機材に移して、さらに2週間ぐらいかけてあれこれ録音した。というのも彼女がその間にウンチをしなかったから(笑)。それで彼女に録音機を預けておいて、あとで催したときに録ってもらった。それでよかったと思いつつも振り返ると、違うやり方にするべきだったかなとも思ってしまう。もしかしたら最初からボディに録音機材を預けて彼女に委ねてしまったほうがよかったかもしれない。それはいわば画家が絵筆をモデルに預けるのと似た行為だよね。それってかなり斬新な解放であり、彼女にとってはそこから先の責任を自分で負えるわけで。

いま、とても驚いたのですが、本作の「ボディ」は女性だったのですね。

すごく迷ったところなんだけど、ありがちな「白人男性が見つめる女性の肉体」という視点では終わりたくなかった。

結果的にこのレコード上のジェンダーは、レコードから聴こえてくる以上に交錯しているんだよ。

MH:うん。そこはすごく迷ったところなんだけど、ありがちな「白人男性が見つめる女性の肉体」という視点では終わりたくなかった。女性の身体を見つめる、あるいは身体に耳を傾けると特定のイメージが、あらかじめできてしまいそうだから。でもその一方で、僕ではない誰か他人であることも重要だった。男性の「ボディ」にすると皆、単純にそれが僕だと思うだろうし、それだとあまり面白くない。それに僕が自分の身体が発するノイズを自分で録音して発表するのでは、あまりにも内向き過ぎる気がして、つまらないと思った。他人の音を録音する方が、僕には遥かに興味深い。他人という意味で僕と異性である必要があるとも思ったんだ。ただし、彼女には、また別の男性も録音するよう指示を出しておいた。男性のノイズも一部、取り入れるようにと、ね。だから結果的にこのレコード上のジェンダーは、レコードから聴こえてくる以上に交錯しているんだよ。女性の音かと思えば、実は男性の音も入っている。つまり、単体の女性のボディだけではない、ということ。

しかも、ご自身の音は入っていないのですね。私はハーバートさんの音も入っているものと思っていました。

MH:僕は何の音も立てていない。僕のノイズはこのレコードにはいっさい入っていないよ。僕じゃない。彼女は本当に大いなるコラボレーターだったよ。自分がウンチをする音を自分で録音して送ってくれる女性は、そう大勢はいないと思う。僕自身、このプロジェクトに取り掛かる以前は彼女のことを知らなかったんだ。あとオルガズムもそうだよね。あるいは洗い物をしたり、食事をしたり。正反対に眠るという、ものすごく無防備な状態も他人のために録音させてくれるなんてね。本当に彼女はこのレコードの重要な一部だよ。

ヒトの身体、とくに裸体というものに、聴覚だけで対峙するというのは、僕らがこれから検討していくべき使用価値の高いツールなんじゃないかな。

「裸体=ヌード」は、古来から絵画や彫刻などの芸術において普遍的な題材ですよね。しかし同時に映像のない音楽においては、「裸体」の表現は困難とも思います。だからこそ、このような方法論で音楽=ヌードが実現できるとは! と驚きました。

MH:そうなんだよ。このプロジェクトには 「パーフェクト・ボディ」という副題が付いているんだけど、それがエキサイティングだと僕は感じている。目で見るものではないからこそ「美」や「姿形」は問われず、人種も関係ない。聴いている側には、彼女が日本人なのか、ロシア人なのか、アフリカの人なのかスペイン人なのかもわからない。年齢もわからない。体の様子もわからない。男女の区別もつかない。いわゆる伝統的な感覚で美しいのかどうかもわからない。これこそ本当の意味での解放だと僕は思っている。ヒトの身体、とくに裸体というものに、聴覚だけで対峙するというのは、僕らがこれから検討していくべき使用価値の高いツールなんじゃないかな。そして人間はみな、食べないわけにはいかない。トイレにも行かなければならない。そうせざるを得ないし、しなければ生存していけない。そう考えると、「非の打ちどころのないボディ=パーフェクト・ボディ」とは、「機能するボディ」、つまりは「生きているボディ」なんじゃないか。そこからすべてがはじまっているんだ。

「命を糧として食べる」というと、ますます 『ワン・ピッグ』 の続編という感じすらしますが、その意識はありましたか?

MH:なかったよ。おかしいよね。インスピレーションというのは湧いてくるのを待つしかないんだ。自分のやっていることや決断の整合性も、あとになってようやく見えてくる場合もある。『ワン・ピッグ』 ときは、ここまでまったく考えていなかった。発想が浮かんだのは 『ザ・シェイクス』(2015) を作った後だ。実際、そう考えるとイライラするよね(笑)。自分の中にある発想に、脳みそが追いついてくるまで時間がかかって、それを待っているしかないわけだから。そして急がせることもできない。いまもまさに、その問題にぶち当たっているところだ。次のレコードをどうしようか考えているところなんだけど、まだ脳みそが追いついてこないんだ(笑)。

ちなみにハーバートさんは他人が発する音は不快ですか?

MH:う~ん……、このレコードを作ってから少しよくなったかな。でも好きではない。たとえば劇場で隣の人の呼吸音がすごく大きかったりすると、勘弁してくれ! と思ってしまうほうだ(笑)。それが、このレコードを作ることで少しは容赦できるようになった。というか、ひとつの音として受け入れられるように少しはなった、というのかな。あんまり気にしないで、ひとつの音だというふうに脳内でイメージするようにしている。

ある意味、ジャズのレコードみたいに考えればいいのかなとも思った。彼女の出す音が主役。僕がするべきことは、とにかく彼女の音を支えて、伴奏につくことだけだった。

録音された「音=ノイズ」の数々を、「音楽」としてコンポジションしていくにあたって何がいちばん重要でしたか?

MH:テーマの設定から入ったんだ。最初は、どう収拾をつけたらいいのかわからなくて、12時間の記録ということにした。1時間めは目覚め、2時間めは朝食、3時間めはジョギングというようにね。だけど、それがうまくいかなくて、こういう「行動別」のまとめになったんだ。ひとつのトラックが「洗う=「ボディ」のメインテナンスについて」というように、そのモデル(ボディ)が風呂に入るその時間がそのまま曲の長さになった。栓をした瞬間にはじまって、栓を抜くところで終わる。それが12分とか13分だったかな。だから難しかった。難しかったんだけど、ある意味、ジャズのレコードみたいに考えればいいのかなとも思った。モデルがマイルス・デイヴィスで、僕がバンドというふうに想像してみることにしたんだ。ソロイストをサポートする役が僕だ。彼女の出す音が主役。であれば僕は、彼女のすることをすべて受け入れて支えていけばいいんだとね。基本、彼女は全般的に物静かで行儀がよいから、僕がするべきことは、とにかく彼女の音を支えて、伴奏につくことだけだった。僕自身の構成とか音楽的な決断を押し付けるのではなくて、ね。

“イズ・スリーピング”は睡眠中の録音ですが、ディスク1をまるごと、この睡眠にした理由を教えてください。

MH:あの録音がその長さだったからだよ。彼女が僕のために録音してくれたものが、その尺だったんだ。そうか、じゃあ、このトラックは1時間にしないとダメだな、と(笑)。だって、どこで切ればいい? というか、切る理由は何? 3分で切るか4分で切るか、あるいは20分か? で、じつはこれが今回のレコードで僕がいちばん気に入っている「音楽」なんだ。たぶん、それは独自のリズムがあるからだと思う。

この1時間はまったく編集されていないんですね。

MH:してないよ。そのまんまだ。起きたことがそのまんま。

『ア・ヌード(ザ・パーフェクト・ボディ)』全曲試聴はここから!

僕がやろうとしたこと、あるいは僕が興味を持っていたことは、さまざまなポーズなんだ。僕は今回の作品の中で、ポーズというものの音楽における同義語は何だろう? ということに取り組んだ。

ディスク2の方は編集やアレンジがされていますね。サンプリングによる反復と逸脱という、いかにもハーバートさんらしいトラックが展開されていました。

MH:あははは。

「反復」というものがが、音楽、ひいては芸術において、どのような効果をもたらすとお考えですか?

MH:僕がやろうとしたこと、あるいは僕が興味を持っていたことは、さまざまなポーズなんだ。人間は、じつにさまざまなポーズをとる。モデルが何かに寄りかかっているポーズや、椅子に腰かけているときポーズまで。どれも静止したポーズだけれども、その人の一連の行動の中において、特定の一瞬でしかない。わかる? 静止しているけれども、モデルにとっては前後と繋がりのある動きの一環である、ということ。つまり動作と静止の「はざ間」の状態だね。そう考えるとすごく不思議だ。アートの世界では、その中の一瞬を切り取って静止した形で表現するけれど、音楽ではそうはいかない。発想がそもそも違うから。だから僕は今回の作品の中で、ポーズというものの音楽における同義語は何だろう? ということに取り組んだんだ。長尺で、これといった変化も起きない作品でも、目の前で、いや耳の前で、ほんのちょっとした震えや揺らぎが起きている。

私はこのアルバムを、不思議と美しい音響作品として聴きつつも、反復的な“イズ・アウェイク”や“イズ・ムーヴィング”、リズミックな“イズ・シッテング”などには、どこかハウスミュージックのような享楽性を感じてしまいました。

MH:ふふふ……。

で、なぜか『ボディリー・ファンクションズ』(2001)収録の“ジ・オーディンエンス”などを想起してしまったんです。

MH:マジで !? へぇぇ。

「声の反復」の感じなどから、そう感じたのですが、いかがでしょうか?

MH:そう言われてみるとたしかにそうかも。僕の頭にはぜんぜん、なかったけどね。僕が興味を持ったのは、モデルには声があるから、ノイズもメロディも、すべて彼女の声からできている、という点なんだ。それが僕にとってはとても興味深い転換なんだ。絵に描かれたものを見ただけでは、そのモデルがどんな声をして、どんな音を立てているのかわからないけれども、音楽のポーズにおいてはモデルにも声があり、その声のトーンや質にも彼女らしさがあり、それが僕のメロディや構成を生み出す上で助けになっている。ハウス・ミュージックは今回のレコードでは僕は参照していななかったけど、反復によるリズムは有効だと思う。グルグルグルと同じところを繰り返し、めぐりめぐることによって特定の場所にハマっていられるから、そこで何かひとつの発想を固定することができる気がする。そういう意味で反復やリズムは、僕にとってはものすごく重要だ。ひとつのツールとして。

MH:じつはひとつ、ぜひとも大きく扱いたかった音があった。それが「肌」だったんだ。「肌」というか「接触」かな。

アルバムに使われた音以外も、さまざまな音素材を録音されていたと思いますが、音を選ぶ判断基準について教えてください。

MH:まずは因習的な伝統を網羅しておきたかった。たとえば“イズ・イーティング”ではいろいろな食べ物を食べているんだけど、繰り返し登場する食べ物はリンゴなんだ。それはアダム&イヴが提示するものに繋がるからであり、リンゴが非常に象徴的な存在になったわけ。それで僕が「よし、じゃあリンゴでいこう」と決めて、7分とか、そんなものだったかな(ちょっと正確に覚えてないけど)、リンゴ1個を食べ終わるまでの時間をそのまま1曲にした。また、さっきいったように「風呂に入る」時間をそのまま録ってたり、さらに「爪を切る」音や「髪をとかす」音も、あとから乗せてある。つまり、サウンドのクラスタというかグループを作ったわけだ。彼女は風呂に入っているんだけれども、同時に「髪をとかす」音や「乾かしている」音も鳴っているという。いわば音の群像だね。かつ、ひとつひとつの音が明瞭に聴こえてほしかった。それが何の音か? とわかる程度に。いまひとつ明瞭ではないと判断した音は使わなかった。それが判断基準のひとつだね。

録音・制作するにあたって、苦労した音というのはありますか。

MH:小さな音はすごく扱いづらかったな。じつはひとつ、ぜひとも大きく扱いたかった音があった。それが「肌」だったんだ。「肌」というか「接触」かな。手のひらで腕をこする感じとか。そういわれると、すぐに思い浮かべることはできる音だと思うけど、これが録音で拾うのは難しくて。皮肉にも僕がもっとも録音で苦労したのが「やさしさ」ということになってしまった。やわらかで、やさしくて、ごくシンプルな感覚。人間同士の「接触」の重要性は誰もが語るところだし、それが僕の訴えたかったことでもあるのに、これを捉えるのに、これを表現するのに、すごく苦戦してしまった。マイクの宿命で、どうしてもドラマチックな音の方がよく拾えるし、技術的にちゃんと録音可能なんだよね、うんと静かな事象よりも……。おもしろいことに、まだそうやって手の届かない部分が人間の身体にはある。マイクの力が及ばない部分がある。そう考えると、ある意味、なかなかに詩的だよね。

MH:誰かが小便をしている音、と言ったときに一般的に思い浮かべる音は、じつは水と水がぶつかる音であって肉体の発する音ではない。僕としては肉体の発する音と環境音との区別にこだわって、環境音は使わないよう細心の注意を払った。

つまりサンプル音源などは、まったく使っていないわけですね。

MH:うん、それはぜんぜんしていない。「ボディ」の音だけだよ。録音は、最初はホテルの部屋ではじめたんだ。「白紙のキャンヴァスを用意する」的な考え方。ただ、たとえば誰かが小便をしている音、と言ったときに一般的に思い浮かべる音は、じつは水と水がぶつかる音であって肉体の発する音ではない。僕としては肉体の発する音と環境音との区別にこだわって、環境音は使わないよう細心の注意を払った。大便だってそうだよ。あれだってウンチが水にぶつかる音であって、聴けば、すぐに「あ、これは……」とわかるだろうけど、肉体の音ではないんだ。別物だ。そこが僕にとってはチャレンジだった。肉体の音だけを抽出するということがね。風呂に入っているときの音も、水の音に頼って音楽を作ってしまわないように心掛けた。面白みはそこにあるんじゃなくて、「洗う」という行為の方にあるんだから。大便はね、彼女がじつは下痢をしていたんだよ。驚いたことに、彼女はその状態でありのままを録音してきた。本当に勇気のある女性だよね。おかげで物体が彼女の肉体を離れる瞬間の音をとらえることができたわけ。そんな感じで、環境の音を入れ込まないように、できるだけ努力した。

「音」であっても、個人のプライバシーの領域になればなるほど、他人には不快に感じてしまうかもしれません。そして本作は、そんなプライバシーの領域に足を踏み込んだ内容だと感じました。

MH:そう、まったくそのとおりだよ。でも、人間だって結局は動物だからね。もっと洗練された生き物だと思いたがっているけれど、要はただの獣だ。僕らはじつは農場に移り住んだところで、羊を飼っている。その羊が草をはむときに立てる音が最高に美味しそうでね。同じなんだな、と。人間も何も変わらない動物で、だからやることも同じなんだよ。ただ互いのそういう行為の音を聴くことに慣れていないだけ。

となると、ハーバートさんにとって「音楽」と「非音楽」との境界線が、どこにあるのか気になってきます。

MH:うん、そこは僕自身、興味を持つところ。というのも、今回のこれも着手するにあたって「どうしてわざわざ音楽にするんだろう、ただのサウンドのままで十分かもしれないぞ」と考えたから。

MH:判断が難しいときがあるんだよ、何をもって「音楽」と呼ぶのか。ただ「音」を聴くのと「音楽」を聴くのとの違いは何なのか。

なるほど。

MH:でもね、判断が難しいときがあるんだよ、何をもって「音楽」と呼ぶのか。ただ「音」を聴くのと「音楽」を聴くのとの違いは何なのか。だから、さっき話した、彼女(ボディ)がマイルス・デイヴィスで音楽はバンドとして彼女のサポート役に回る、というのがひとつの答になるかな。「洗う」が入浴である以上、そこでラウドでアグレッシヴな音楽を奏でるのは明らかに不適当だよね。彼女はただリラックスして静かにお湯に浸かったり身体を洗ったりしているだけ。その事実、そこに乗せる音楽を定義づける。自分で考えて音楽を乗せるというよりは、風呂の情景を優先して自分は身を退く。風呂というランゲージや、そこでの時間の流れに身を委ねるしかないんだ。

ハーバートさんの方法論は物理的には制約が多いかもしれないけれど、不思議と「自由」に音楽をしているように思えます。

MH:ものすごい自由度だったよ。何しろいまは音楽を作りながら自分で下さなければならない決断があり過ぎるほどある時代だ。音ひとつ作るのにも、使えるシンセサイザーが山ほどあって、出せる音が何百万通りもある。さらにはそれを加工する方法がまた何百万通りもある。選択の自由を与えてくれているようで、音楽を作る上では、出だしからものすごい労力が必要になる。だったらむしろ「リンゴを食べる音だけで音楽を作る」という枠組みをはっきりさせておいた方が、音楽を作るという作業に専念できる。そこに僕は自由を感じる。
たとえていうなら、京都に「RAKU」(楽茶碗)って綴りの茶碗を作る工房があるんだけど、僕は、そのお茶の茶碗をすごく気に入っているんだ。その茶碗は16世紀から、おおよそ同じ作りだ。そこに僕は「作るのは茶碗。そして基本的に、こういう作り」というのがわかっている安心感の上で、思いきり制作の手腕を磨くことに専念できる、喜びみたいなものを感じるんだ。同じ枠組みの中で、どうしたら機能的で、特別で、興味深い作品を作り上げられるか。そこが勝負であって、窯を作るところからはじめなくてもいい。もちろん、そこからはじめたい人もいるだろうし、「さて、この土を練って何を作ろう」というところからはじめるのが醍醐味だと思う人もいるだろうけど、僕は「作る」という技にすべてを集中させたいから、ほかは制約しておくことがとても大事だったりする。そうしないとまったく収拾がつかなくなってしまうから。

同じ枠組みの中で、どうしたら機能的で、特別で、興味深い作品を作り上げられるか。そこが勝負であって、窯を作るところからはじめなくてもいい。僕は「作る」という技にすべてを集中させたいから、ほかは制約しておくことがとても大事だったりする。

この作品を舞台化する計画があるそうですね。

MH:いまのところ1回だけなんだけど、ロンドンのラウンド・ハウスでやる予定だよ。希望としては振付師についてもらって、いくつかのボディを登場させ、それに動きを与えて……。まだ最終的な案ではないんだけど、観ている人のそばを通りかかるボディの気配から何か感じるとか、あるいは通りすがりに何か匂いがするとか……。でもけっこう不安もあるんだよ。というのも、そもそもこのレコードの主旨としてボディの見た目に捉われないというのがあるわけだから、舞台化してもボディを普通に露出することは避けたい。そこにはこだわりたいんだ。具体的には来月あたりから打ち合わせに入るので、それからだね。

舞台作品は、アナウンスされているインスタレーションの展示とは違うものなのですか。

MH:うん、ナショナルギャラリーに常設するアート作品として寄贈する話もある。そっちの発想としては、ギャラリーの床とか壁とか天井とかに穴を空けて、そこに頭を突っ込むと音が聞こえてくる、というやつにする。目で見るのではなくて、聴く。音源は建物のどこかに仕込むことになると思うんだけど。そんな感じかな。

「三次元的な体験」ですね。

MH:そうだよ。そもそも、このレコードに影響を与えたものは、さまざまなアートなんだ。音楽だけに限らない。というより音楽以外の「アート」だ。出来上がったものも「音楽作品」というよりは「芸術作品」と自分は考えている。

「世界を変えること」が目標だとおっしゃっていたこのアルバムですが、満足するような反応は返ってきていますか。

MH:う~ん、まだちょっと早いかな。日本では7月1日のリリースだしね。まだキャンペーンもはじまったばかりで、反応らしい反応も返ってきていない状態だ。ラジオで流れるかどうかというのもポイントだね、わりとアダルトなトラックに関しては。まあ、だから、現状まだ世界を変えるには至っていない(笑)。

つまり、僕の次のレコードは、いわば目に見えないレコードってことになるかな。

もしかすると気分を害する人もいるかもしれませんが、「警鐘」という意味では大成功でしょうね。

MH:いや、人を嫌な気持ちにさせるつもりはないんだ。ただドナルド・トランプに消えてもらいたいだけ。

彼がこのレコードを気に入ってしまったらどうしましょう?

MH:あははは。いや、あいつがこれに興味を持つはずがない。自分にしか興味がない人間だから、他人の音になんか興味を持つわけがないよ。あるいは自分でカラオケをやるとか? 自分が風呂に入ったりウンチしたりする音を自分で録音して、このレコードのカラオケに乗せて流す。トランプによるトランプのためのトリビュート・レコード(笑)!

(笑)。ちなみに本作の楽曲を象徴するような素晴らしいアートワークは誰が担当したのですか?

MH:写真はクリス・フリエルだ。この国では有名な風景写真家の作品で、アートワークは僕の作品を長年手掛けてくれているサラ・ホッパーがやってくれている。『ボディリー・ファンクションズ』も彼女のアートワークだったよ。中にはフォノペイパーというものを使っているんだけど、これを使うと写真を読むことができるんだ。写真の上に電話をかざすと、写真からノイズが出て、モデルが曲のタイトルを語る声が聴こえる。そして表はグラフをイメージしている。「幽霊を測ろう」としているようなイメージ。

しかし、ここまで究極的な録音・音響作品を完成されたとなると、どうしても「次」の作品も気になってしまいます。

MH:次にやることは決まっているよ。次は本だ。『ミュージック』(MUSIC) というタイトルの本を書いたんだ。これは、僕が作ることのないレコードの解説書。つまり、僕の次のレコードは、いわば目に見えないレコードってことになるかな。

目に見えないレコードとは! それはすごい! つねに意表をつきますね。

MH:あははは。それをめざしているよ。

Gobby - ele-king

 粗悪なエイフェックス・ツイン・フォロワーといったところだろうか、いや、そんなことを言ったらエイフェックス・ツイン・フォロワーに怒られるかもな。2年前、わりとインターネット・アンダーグラウンド界隈で騒がれた『Wakng Thrst For Seeping Banhee』を聴いたときにそう思った。アルカやミッキ・ブランコなど実に強力なリリースで知られる配信レーベル、UNOからの音源である。
 ジャングル? ローファイ? えー、まじかよ、こりゃひでーや、聴けたもんじゃねーな……しかし、こうしたある種のバッド・テイストがここ数年のUSアンダーグラウンドの支流として確実にある。私見では、OPNの昨年の展開もこの流れに共鳴しているもので、つまり、これはその少し前のチルウェイヴがひっくり返った感性の表出だと言えるだろう。例を挙げればキリがないが、卑近なところを言えば、これとかさ、直感的に言えば、悪戯心満載のTOYOMUがいきなりUSで受けたり、あるいは食品まつりがUSで高評価なのもこの機運に準じているのだろう。
 つまり、ドリーミーからバッド・ドリーミーへの反転である。そして音楽ライターのひとりであるぼくもこの悪い夢に付き合っていると、そういうわけだ。
 そして、これは、最初に(なかば敬意を込めて)粗悪なエイフェックス・ツイン・フォロワーと喩えたように、ゴシック/インダストリアルのディストピックな重々しさ、かったるさとは別物である。驚くほど、シメっぽくない。容赦なく悪い詩。なかばヒステリックだがギャグが混ぜられ、下らない。そういう意味では、AFXの『ORPHANED DEEJAY SELEK』もこの時流に乗っているわけだが……。

J9tZiBwtoxE

 ヴェイパーウェイヴを経て、そして終わって終わってどうしようもなく終わってゴミクズしか残っていない現在へのあらたなる門出なのかどうかはわからないが、もうひとつぼくがここにかぎ取るのは、アンチ・ダンスの意志だ。これはEDMの母国たるUSならではの反応なんだろうけれど、とにかくグルーヴというものがここまで無いのもすごいというか、まあわからなくもないな、ユーロ2016開幕式のデヴィッド・ゲッタの動きなんかを子供心に見ていたら、DJなんかになるものかと誓っただろうし。
 ゴッビーが〈DFA〉からリリースというのは、おや、ここまで来たのか、という感じである。そして、この〈DFA〉レーベルの根底にパンク的なものがもしまだあるのなら(40周年だしね)、これまた理解できる。時代は動き、音楽も動いている、間違いない。ベッドルームは汚れ、そしてポスト・エレクトロニックポップの時代はすでにはじまっている。

interview with Gold Panda - ele-king

 ゴールド・パンダの音楽は“ゴリゴリ”じゃないからこそ共感され、愛されてきた。クラブとも、エレクトロニカやIDMとも、ましてワールドともいえない……彼の中で東洋のイメージが大らかに混ざり合っているように、彼の音楽的キャラクターもゆるやかだ。

 しかしそこにゆたかに感情が流れ込んでくる。過去2作のジャケットが抽象的なペインティングによってその音を象徴していたように、具体的な名のつくテーマではなく、さっと翳ったり日が差したりするようなアンビエンスによって、ゴールド・パンダの音楽はたしかにそれを伝えてくれる。ちょうど仏像の表情のように、おだやかさのなかに多彩な変化のニュアンスが秘められている。


Gold Panda
Good Luck And Do Your Best

City Slang / Tugboat

ElectronicTechnoAbstruct

Tower HMV Amazon

 “イン・マイ・カー”が強烈に“ユー”(デビューを印象づけた代表トラック)を思い出させるように、新作『グッド・ラック・アンド・ドゥ・ユア・ベスト』でも基本的に印象は変わらない。しかしくすむこともなく、いまもってその音は柔和な微笑みを浮かべている。変化といえばジャケットに使われている写真の具象性だろうか。後に自身のガール・フレンドとなる写真家とともに取材した「なにげないもの」が、この作品にインスピレーションを与えているということだが、もちろんそれはそこに映されている日本の風土風景ばかりでなく、ふたり分の視線やダイアローグを通して見えてきた世界からの影響を暗示しているだろう。ビートや音の色彩もどことなく具象性を帯びているように感じられる。

 彼の音楽には、そんなふうに、音楽リスナーとしてよりも、互いにライフを持った個人として共感するところが大きい。言葉はなくとも。しかし以下の発言からもうかがわれるように、ゴールド・パンダ自身はその魅力を「幼稚な音楽」と称して、知識や文脈、シリアスなテーマを前提とした諸音楽に比較し、韜晦をにじませる。もしそうした言葉でゴールド・パンダを否定する人がいるのなら残念なことだ。そのように狭量な感性をリテラシーと呼ぶとするならば、いっそ私たちは何の知識も学ぶ必要はない。アルカイックな彼の音の前で、同じように微笑むだけだ。

 グッド・ラックそしてドゥ・ユア・ベスト、この言葉は彼自身のその守るべき「幼稚さ」に向けて、聴くものが念じ返す言葉でもある。


■Gold Panda / ゴールド・パンダ
ロンドンを拠点に活動するプロデューサー。ブロック・パーティやリトル・ブーツのリミックスを手掛け、2009年には〈ゴーストリー・インターナショナル〉などから「ユー」をはじめとして数枚のシングルを、つづけて2010年にファースト・フルとなる『ラッキー・シャイナー』をリリース。「BBCサウンド・オブ2010」や「ピッチフォーク」のリーダーズ・ポールなど、各国で同年期待の新人に選出。また、英「ガーディアン」ではその年デビューのアーティストへ送られる新人賞『ガーディアン・ファースト・アルバム・アワード』を獲得。2013年にセカンドとなる『ハーフ・オブ・ホエア・ユー・リヴ』を、本年は3年ぶりとなるサード・アルバム『グッド・ラック・アンド・ドゥ・ユア・ベスト』を発表した。日本でも「朝霧JAM'10」や「街でタイコクラブ(2014)」にも出演するなど活躍の場を広げている。

マダ、ジシンガナイ。

ゴールド・パンダ:(『ele-king vol.17』表紙のOPNを眺めながら)彼とは飛行機で隣になったんだよ。

ええ! 偶然ですか? 最近?

GP:2年くらい前。僕はよく乗るから、ブリティッシュ・エアウェイズのゴールド・カードを持っていて、機内でシャンパンをもらえたんだ。でもそんなに飲みたくなかったから彼にあげようとしたんだけど、スタッフの人から「あげちゃダメ」って怒られちゃった(笑)。

ははは。音楽の話はしなかったんですか?

GP:ぜんぜん。音楽のことはわからないから、話したくない(笑)。

ええー。

GP:ブライアン・イーノが言ってたよ。ミュージシャンは音楽を聴く時間がないって……グラフィックデザイナーだけがそれをもっているんだって。

あはは。でも、以前からおっしゃってますよね、「クラブ・ミュージックに自信がない」っていうようなことを。

GP:マダ、ジシンガナイ。

いやいや(笑)。とはいえ、今作だっていくつかハウスに寄った曲もあったり、全体の傾向ではないかもしれないですけど、クラブ・トラックというものをすごく意識しておられるような気がしました。これはやっぱり、あなたがずっと“自信のない”クラブ・ミュージックに向い合いつづけているってことですよね。

GP:でも、いまだにつくれないんです。前作(『ハーフ・オブ・ホエア・ユー・リヴ』)でもやろうと思った。でも、失敗して。だから今回はむしろ、「つくろう」としなかったんだ。それがよかったのかもしれない。でも、「クラブ・ミュージック」っていうのは、いまは存在していないともいえるんじゃないかな。ただの「ミュージック」になっているというか……いろんな人が、とても幅広いものをつくっているよね。

Gold Panda - Time Eater (Official Video)


あなたもまさにその一人ですね。

GP:はは。ベン・UFOとか、とても知識があって、いつもいい音楽を探し求めているDJたちがたくさんいる。インターネットのおかげで選択肢も増えて、より自由に活動できるようになっているし、それはすごくいいことだよね。

そうですね。そしてあなたは、そのインターネット環境を前提にしていろんな音楽性が溶けあっている時代を象徴しつつも、自分だけの音のキャラクターを持っていると思います。『ラッキー・シャイナー』(2010年)から現在までの5、6年の間だけでも、その環境にはめまぐるしい変化がありましたけれども、むしろあなたにとってやりづらくなったというような部分はありますか?

GP:今回のアルバムに関しては、「ゴールド・パンダっぽいもの」をつくるのをやめていて。もっと曲っぽい構成になっていて、この作品ができたことで、ゴールド・パンダの3部作が完結すると思う(※)。1枚め、2枚めでやりたかったけどできなかったことが、今回の3枚めではできていると思うんだ。1枚ずつというよりは、今回3枚めが出てやっとひとつの作品を送り出せたという気がする。だから、ゴールド・パンダとしてはじめた音を何も変えずに、ここまでくることができているかもしれないです。いまはそのサウンドに自信が持てているから、それを変える自信もついている。次はちがうものをつくっていきたいなって感じていて。

※ゴールド・パンダのフル・アルバムは今回の作品をふくめてこれまでに3作リリースされている(『ラッキー・シャイナー』2010、『ハーフ・オブ・ホエア・ユー・リヴ』2013、本年作)

自分はポップ・ソングをつくっているつもりでやっていて。

前の2作は、たとえばインドっていうテーマがあったりだとか、メディアが説明しやすい性格があったと思うんですけど、今回はそういうくっきりした特徴はなさそうですよね。そのかわり本当にヴァリエーションがあって、いろんな曲が入っています。

GP:うん。

ぐっときたのは、“ソング・フォー・ア・デッド・フレンド”とか、曲名に「ソング」という言葉がついてたりするところです。これは歌はないけど「歌」なんだっていうことですよね。

GP:ああ、そうそう、どっちだと思いました? 自分はポップ・ソングをつくっているつもりでやっていて。ポップ・シーンがあるとしたら、自分はその端っこでつくっているという感覚があるし、自分の音楽にはソングとか曲としての構成があると思っているんだ。どうですか?

私は、これを「歌」だって言われてすごく納得できました。ただメロディアスだっていうことじゃなくて、何か思いみたいなものがあるというか……。では、音が「歌」になるのに必要な条件って何だと思います?

GP:そうだな……、人それぞれの感じ方があるから、それを歌だって感じれば歌だと思うんだけど……。

音楽的なことじゃなくてもいいんです。きっと、この曲に「ソング」ってつけたかった気持ちがあると思うんですね。それについてきいてみたくて。

GP:野田(努)さんに言ったことがあるんだけど、僕にはもう亡くなってしまったフィルという友人がいて。この曲はそのフィルに向けたものでもあるんだ。彼は、僕にずっと音楽をつくれって言ってくれてた人なんだけど、僕はそれをずっと無視してたんだよね。そして、彼が亡くなったときに、初めて音楽をやってみることにした。そしたらうまくいって……。音楽をつくるってことに対して、彼がいかにポジティヴだったのかってことをいまにして思うんだ。
僕が思うに、曲にタイトルをつけると、人はその曲につながりを持ちやすくなると思う。そういうことが、ある音楽を「ソング」にしていくんじゃないかな。タイトルを操作すると、人の気持ちを操ることができる。

なるほど。音楽の感じ方を広げてもくれると思いますよ。

GP:だから、次のアルバムはタイトルなしにしようかな! もっと長かったりとか。

ははは。あなたの曲は、タイトルの言葉もおもしろかったりするから、それは大事にしていただきたくもありますけどね。

GP:いや、実際タイトルをつけるのは楽しいんです。制作の中でいちばん好きなことかも。

音楽は楽しいしハッピーになれるはずのものなのに、どこかマジメにとらえられがちで、ダークでシリアスなものが凝ったものだ、頭のいい音楽だ、って考えている人もけっこういると思うんだよね。

へえ! じゃあこのタイトルはどうです? “アイ・アム・リアル・パンク”。実際はまあ、ぜんぜんエレクトロ・アコースティックじゃないですか(笑)。「パンク」というのは?

GP:これは〈ボーダー・コミュニティ〉の人がミックスしているんだけど──彼はノーリッジの実家にスタジオを持っているんだ!──で、彼が僕の音楽のことをパンク・ミュージックだっていうんだよね。彼が自分の楽曲をつくれないからかもしれないけど。何かをつねに気にしながら凝った音楽をつくるっていうんじゃなくて、楽しく作っているから、そういうことを指して言っているのかもしれない。これは2004年につくった曲なんだけど、ルークに「アイ・アム・リアル・パンクって曲があるんだよ」って言って聴かせたんだ。そしたら彼がその上に即興でシンセサイザーをのせて、それをリバースして……。初めはジョークのつもりでつくってたんだけど、このアルバムに馴染むなって思って、入れたんだ。
音楽は楽しいしハッピーになれるはずのものなのに、どこかマジメにとらえられがちで、ダークでシリアスなものが凝ったものだ、頭のいい音楽だ、って考えている人もけっこういると思うんだよね。エクスペリメンタルな音楽にもおかしなものはあると思うんだけど、ついつい評価しなければならない、そういう強迫観念があるように思う。好きじゃない、嫌いって言うこと、それから理解してないって思われることを恐れている人が多いんじゃないかな……。だけど、僕のこの作品は、ハッピーでポジティヴなポップ・レコードなんだ。だからもし気に入ってもらえなかったら、僕はみんなにハッピーになってもらうことに失敗しているということになる。
逆に言えば、これは嫌いになってもらえるレコードかもしれない。……もし“エクスペリメンタルな”音楽を嫌いだと言ったら、きっと「きみは理解してないんだよ」って言われちゃうよね。でも、このポップなアルバムを嫌いだと言う人がいても、僕は「理解していない」とは言わない。

ふふふ、では、これはきっと頭の悪い人を試すレコードになりますね。

GP:いや、これはバカなレコードなんだ。

(笑)

GP:メロディを持っているとからかわれるかもしれないけど、メロディを持っていたっていいじゃないか、って思ってる。パンクっていうものを「怒れるもの」だって思っている人をからかっているレコードなんだ。

パンクっていうものを「怒れるもの」だって思っている人をからかっているレコードなんだ。

いや、でも日本のリスナーはそんなにバカじゃないので、これがいい音楽なんだってことはみんなわかると思いますよ。

GP:そうだね! ゴメン、そういう意味じゃなかったんだ。

ええ(笑)そして、ポップ・ミュージックの素晴らしさもよくわかります。では、これはあなたにとってのひとつの反抗の精神ではあるわけですよね。

GP:うん。そして、やりたいからやっているんだ。べつに大きなコンセプトがあるわけじゃないし、ただ音楽をつくっているだけなのに、それを人が喜んでくれるっていうのは本当にラッキーなことだとは思うよ。アートってそもそもそういうものだと思うんだ。90%くらいは、とにかくつくってみたというだけのもので、あとの10%くらいに手を加えただけなんだよ。よく自分も音楽をつくってみたいって言う人がいるけど、つくればいいのにって思う。ピアノを習うんじゃなくて、いま弾いてみればいいじゃない?

なるほど。いまの時代、自由さとか楽観性みたいなものは、表現をする人間にとって難しいものなのかもしれないと思います。あなたがそれを貫いているのは素晴らしいですよ。

GP:そうだね。自分はついているんじゃないかな。よく、忙しくて時間がないって言っている人がいるよね、でもじつは料理をしていたりとか、それが好きだったりとかして、趣味といえるものをやれているのに、それに気づいていないっていうことがある。何かを修理したりとか子どもに服をつくったりとか。……僕は、そういうこともクリエイティヴだしアートなんだって思う。それを突き詰めてみたっていいよね。自由なものはまわりにいっぱいあるはずなんだよ。

僕が日本語を学んだ学校があるんだけど、そこで近く北京語を勉強したいと思ってるんだ。

ところで、これまでは〈ゴーストリー・インターナショナル〉からのリリースだったわけですが、今回は〈シティ・スラング〉からですね。私はそれがおもしろいなって思って……だって、キャレキシコとかヨ・ラ・テンゴとか、ビルト・トゥ・スピルとか、本当にロックだったりエモだったりをフォローする、USインディなレーベルじゃないですか。これはどんなふうに?

GP:〈ゴーストリー〉とは揉めたりしたわけじゃなくて、契約が終わったから出たというだけなんだけど──その、「レーベルのアーティスト」みたいになりたくなかったから。「ゴーストリーを代表するアーティスト」みたいにね。僕は自由が欲しいんだ。僕のマネジメントをしてくれている〈ウィチタ〉と仲のいいひとが〈シティ・スラング〉にいて、それでつながったんだ。ヘルスといっしょに仕事をしていた人なんだけど。それで、僕はいろんな種類の音楽をリリースしているレーベルと契約したかったから、ちょうどいいと思ったし、自分が好きな人といっしょに仕事をするのがいいことだと思う。

なるほど、音楽もそうですけど、人の縁でもあったわけですね。でも、ゴールド・パンダのスタンスや自由さっていうのが伝わってくる気がしますよ。
そういえば、前作では「インド」がひとつのモチーフにもなっていましたよね。あなたは日本も好いてくださっていますけれども、東洋という括りの中で、「インド」「中国」「日本」っていうのは、それぞれどんな違いを持ったものとして感じられていますか?

GP:そうだね、まず日本は何度も来ているから、自分の一部というか、自分のサウンドそのもののインスピレーションのひとつになっているんだ。インドは、僕の母方のルーツで……まだ行ったことはないんだけどね。おばあちゃんが聴いていた音楽ってことで、インスピレーションがわくんだ。中国は行ったことがあるけど、まだぜんぜんわかってなくて、もっと理解したいと思ってるんだ。ぜんぜんちがう場所だけど、香港とか台湾とかも含めてね。中国は国としての存在感をどんどん大きくしていると思う。でもイギリスではそれを感じているひとがあまりいないんだよね。中国の人はしばらく前からどんどんイギリスにも入ってきていて、いろんなところにいるし、すごい田舎にまで中華のレストランが建ってたりする。でも、なかなか混ざらないんだ。だから、世界中いろんなところを旅行していてもいろんなところに中国の人がいるけど、そのアイデンティティって何なんだろうっていうのがわからなくて。僕はちょっと漢字は読めるんだけどね。(メニュー表などで)ニクがハイッテイルカドウカトカ(笑)。ロンドンには、僕が日本語を学んだ学校があるんだけど、そこで近く北京語を勉強したいと思ってるんだ。それが何か僕の音楽にいいフィードバックをもたらしてくれるかもしれないしね。音楽のセオリーも学ぼうかなって思ってたんだけど……でも僕はそんなに音楽が好きじゃないから(笑)。

つまらないもの、とるにたらない普通の場所。日常を撮りたかったんだ。でもロンドンではそれができなくて……。

ええー(笑)。でも、ちょっとリズムコンシャスな音楽をやる人って、たとえばアフリカとかに関心が行きやすいと思うんですよね。東洋に関心が行ってしまうのはなぜだと思います?

GP:なぜだろう、僕もよくわからないんだよね。でもアフリカの音楽って幅が広くて怖いっていうか。僕は14歳で『AKIRA』を観て日本に興味を持つようになったんだけど、その経験が僕をつねに日本へ呼び戻すんだ。でも、けっして僕は「オタク」じゃない。マンガやアニメだけが好きというのじゃないんだ。僕の場合、インスピレーションはアフリカのドラムとかリズムからじゃなくて、もっと雰囲気みたいなものから来るんだ。目で見たものとか、イメージとか。

もしそういう視覚的な、映像的なものから影響されることが大きいのだとすると、今回のアルバムは日本の風景との関わりが深いとうかがっているので、そのあたりのお話をうかがいたいですね。

GP:これまでも、わりとずっとそうだったんだ。ただ、それをヴィジュアルとして表現する機会があんまりなかったんだ。だからフォトグラファーのローラ(・ルイス)といっしょに日本に来て、それをやれたのはうれしいよ。彼女はそういうことを表現するのがすごくうまいし、僕らはものの感じ方がすごく似てるんだ。……僕の彼女なんですけど。

わあ、そうなんですね!

GP:カノジョニナッタ。その過程で……(照れ笑い)。

ははは、それはよかったですね。でも、日本でもとくにここを題材にしたいって思う場所はあったんですか?

GP:つまらないもの、とるにたらない普通の場所。日常を撮りたかったんだ。でもロンドンではそれができなくて……。イギリスだと自分が慣れすぎてしまっていて、何がそれで何がそれでないかということが見えにくいんだ。でも日本だと考えられる気がした。日本だからできたことだと思うんだ。

なるほど。東洋の話がつづいてしまいましたけど、一方で“アンサンク”なんかは教会音楽的なモチーフが使われていて、これはこれであなたの音楽の中では珍しいなと思いました。この曲はどんなふうに発想されたんですか?

GP:これは間違いなんだ。

ええー(笑)!

自信があるからバカって言えるんだって、いま気づいたよ(笑)。

GP:ローラはキーボードもやるから、それを借りてレコーダーにプラグインしてワンテイクで録って……それだけなんだ。本当はそれをサンプリングの素材として使おうと思ってたんだけど、聴きなおしたらこれはこれでいいじゃないかって思って。僕はあまりピアノができないから、自分でも何をやっているのかよくわかってなかったんだよね。さっきも、ピアノを弾きたければ弾けばいいっていう話をしてたけど、そういう感じでちょっと弾いてみたものなんだよ。

じゃあ、意識してつくったんじゃない、偶然的なものだったのかもしれないですけど、でもだからこそ自分の無意識の中にあった西洋的なモチーフが出てきていたのかもしれないですね。

GP:自分にとっていい音楽っていうのは、ただ楽しんで、さっさとできてしまう音楽。あんまり考えすぎたりしないけど、後から聴いていいなって思えるもの……。まあ、よくなくてもリリースはできるけどね(笑)。

考え過ぎる音楽が多い中で、そうじゃなくていいんだっていう勇気にもなりますね。

GP:ローラも写真を撮りたいなら撮ればいいじゃない? って言ってる。それと同じかもしれないよね。フォトブックをつくろうとしてたときに、どうやったらいい写真が撮れるの? って質問したんだよね。そしたら、どんなものでも、いちど出版してしまえば、それがいいかどうかは見る人がそれぞれ決めてくれることだ、って。だから、いい写真を撮ろうとするんじゃなくて、ただ撮って、それを出版してしまえばいい。それでいいと思うんだ。

なるほど、とにかくやりたいならやって、出して、あとは「グッド・ラック・アンド・ドゥ―・ユア・ベスト」ってことなのかな。

GP:そう、自分がやりたくて、しかもできるんじゃないかって思うんだったら、きっとできると思うんだ。だからやってみたらいいと思う。中流階級の白人男性ならきっとできちゃうよ(笑)。自分の小さな世界で、かもしれないけど。

ははは。じゃあ、つまらないことを難しく言う人にこの音楽を届けましょうね。グッド・ラック! って。

GP:うん、シンプルでバカなこの音楽をね。

それは自信の表れだと解釈してもいいですか?

GP:そうかもしれない。自信があるからバカって言えるんだって、いま気づいたよ(笑)。


Tugboat Records presents Gold Panda Live in JAPAN 2016

待望の新作を携えたGold Panda、
10月に東阪京ツアーを開催!

『BBCサウンド・オブ2010』や『Pitchfork』のリーダーズ・ポールなど、世界各国で2010年期待の新人に選出。
また、英『Guardian』からは新人賞『Guardian First Album Award』を獲得。
「朝霧JAM’10」や「街でタイコクラブ(2014)」にも出演するなど、日本でも確固たる人気を確立している
英のエレクトロニック/プロデューサーGold Pandaによる3年振りのサード・アルバムが遂に完成! !
既にGuardianのthe best of this weekにも選ばれている1stシングル“タイム・イーター”ほか、
全11曲を収録し、日本は世界に先駆け先行リリース! !
そして最新作を引っさげて10月に東京・大阪・京都での来日ツアーが決定!!


2016/10/15(土) CIRCUS OSAKA

OPEN 19:00 / START 19:30
ADV ¥4,000(ドリンク代別)
レーベル割価格(限定50枚)¥3,500(ドリンク代別)
[Buy] : Pコード:294-444/Lコード:55101/e+(4/11~)
peatix https://peatix.com/event/156835


2016/10/16(日) 京都METRO

OPEN 19:00 / START 19:30
ADV ¥4,000 (ドリンク代別)
レーベル割価格(限定50枚)¥3,500(ドリンク代別)
[Buy] : Pコード:294-836/Lコード:55977/e+(4/11~)


2016/10/18(火) 渋谷WWW

OPEN 19:00 / START 19:30
ADV ¥4,500 (ドリンク代別)
レーベル割価格(限定100枚)¥4,000(ドリンク代別)
[Buy] : Pコード:294-783/Lコード72961/e+(4/11~)


主催・企画制作 Tugboat Records Inc.

Oneohtrix Point Never - ele-king

 2015年11月13日。その日は『Garden Of Delete』の発売日だった。フランスの〈Warp〉のレーベル・マネージャーはツイッターで、OPN宛てに「ハッピー・リリース・デイ!」とリプライを送った。その夜、事件は起こった。ポップ・ミュージックのグロテスクな側面を暴くというある種のメタフィクション的な試みは、図らずも凄惨な現実のサウンドトラックとなってしまったのである。
 事件発生後、LAにいたコールドプレイは公演の予定を変更し、「イマジン」を演奏した。また、現場であるバタクランには名もなきピアニストが訪れ、「イマジン」を弾いて帰っていった。1か月後にレピュブリック広場を訪れたマドンナもまた「イマジン」を歌い、当地の人々に寄り添おうとした。猫も杓子も「イマジン」だった。それはあまりにも惨めな光景だった。テロのような出来事を前にして無難に適切に機能してくれる曲が「イマジン」をおいて他にないということ、すなわちいまだ「イマジン」に取って代わる曲が生み出されていないということ、それゆえ皆が同じように「イマジン」を持ち出さざるをえないということ。そこには、人は音楽を通して何かを共有することができるのだ、人は音楽を通してユナイトすることができるのだという、あまりにも不気味なイマジネイションが見え隠れしていた。
 昨年のパリでの出来事のもっとも重要な点のひとつは、ライヴ会場=音楽の「現場」がテロの標的となったということである。たしかに、これまでにもポップ・ミュージックが攻撃されることはあった。けれど、クリミナル・ジャスティス・アクトにしろ風営法にしろ、それらはいつも決まって「体制」側からの「弾圧」だった。カウンター・カルチャーとしての音楽は、そのような「弾圧」に抗い「体制」と闘う人びとと手を取り合うものであった。だが今回は違う。音楽それ自体が「体制」側のものであると見做されたのである。テロリストたちが攻撃したのは、まさに上述したような偽善的なイマジネイションの横溢だったのではないか。そしてそれは、まさにOPNが切り取ってみせようとしたポップ・ミュージックの醜悪な側面のひとつだったのではないか。

 『R Plus Seven』以降のOPNの歩みを、叙情性からの撤退およびポップへの旋回として捉えるならば、『Garden Of Delete』はそれをさらに過激に推し進めたものだと言うことができる。『Garden Of Delete』ではメタルという意匠や音声合成ソフトのチップスピーチが採用され、かつてないダイナミックなエレクトロニック・ミュージックが呈示されていたけれど、それは一言で言ってしまえば「過剰な」音楽だった。そこには、ともにツアーを回ったナイン・インチ・ネイルズからの影響よりもむしろ、アノーニのアルバムで共同作業をおこなったハドソン・モホークからの影響が色濃く反映されていた。
 それともうひとつ『Garden Of Delete』で重要だったのは、メタ的な視点の導入である。ポップ・ミュージックの煌びやかな装いを過激に演出し直してみせることでOPNは、通常は意識されることのないポップ・ミュージックの醜い側面、そしてそれによって引き起こされる不気味なイマジネイションを露わにするのである(おそらくそれは「思春期」的なものでもあるのだろう)。OPNはアラン・ソーカルであり、彼は自作のでたらめさが見破られるかどうかを試しているのだ、とアグラフは言い当てていたけれど、これはいまのOPNのある部分を的確に捉えた指摘だろう。
 過剰さの獲得およびメタ的視点の導入という点において、いまのOPNは、かつてのいわゆる露悪的とされた時期のエイフェックスと極めて似た立ち位置にいるのだと言うこともできる。では彼は、ポップ・ミュージックの醜さや自作のでたらめさを呈示してみせて、一体何をしようとしているのか? OPNの音楽とは一体何なのか?

 今回リイシューされた3作は、彼がそのような過剰さやメタ的視点を取り入れる前の作品である。とくに『Drawn And Quartered』と『The Fall Into Time』は彼のキャリアのなかでもかなり初期の音源によって構成されたものであるが、それらの作品からも、後の『Garden Of Delete』にまで通底するOPNの音楽的な問いかけを聴き取ることができる。

 通算5作目となる『Replica』では、彼にとって出世作となった前作『Returnal』で呈示された叙情性が引き継がれつつも、そこに正体不明のノイズや謎めいた音声など、様々な音の素材が縦横無尽にサンプリングされていく。実際には体験したことがないはずなのに、どこかで聞いたことがあるようなマテリアルの埋め込みは、今日インターネットを介して断片的に集積される膨大な量の情報と対応し、聴き手ひとりひとりの生とは別の集合的な生の記憶を呼び覚ます。OPNは、美しいドローンやメランコリーで聴き手がいま生きている「ここ」のリアリティを浮かび上がらせながら、そこに夾雑物を差し挟むことで「ここ」ではないどこか別の場所を喚起させようとする。それによって生み出されるのは、どこか遠くの出来事のようで、いま目の前の出来事のようでもあるという絶妙な距離感だ。それゆえ聴き手は決して彼の音楽に逃避することができない。そのようにOPNは、聴き手がいま立っている場所に揺さぶりをかけるのである(それと『Replica』のもうひとつの特徴は、彼の声への志向性が露わになったことだ。それは後に『R Plus Seven』において大々的に展開され、『Garden Of Delete』にも継承されることになる。先日のジャネット・ジャクソンのカヴァーなどはその志向のひとつの到達点なのではないだろうか)。
 このような「ここ」と「どこか」との境界の撹乱は、ひとつ前の作品である『Returnal』でも聴き取ることができたものだ。『Returnal』においてOPNは、その冒頭で圧倒的な強度のノイズをぶちかましておきながら、それ以降はひたすら叙情的なアンビエントで聴き手の薄汚れた「ここ」を呈示する。要するに、『Returnal』冒頭のノイズが果たしていた役割を、『Replica』では様々な音のサンプリングが果たしているのである。

 『Drawn And Quartered』と『The Fall Into Time』の2枚は、かなりリリースの経緯がややこしい。
 OPNは2007年に1作目となる『Betrayed In The Octagon』を、2009年には2作目『Zones Without People』と3作目『Russian Mind』をそれぞれLPでリリースしているが、他にも2008年から2009年にかけてカセットやCD-Rで様々な音源を発表している。それら最初の3枚のアルバムと、散発的に発表されていた音源とをまとめたのが、〈No Fun Productions〉からCD2枚組の形でリリースされた『Rifts』(2009年)である。
 その後4作目『Returnal』(2010年)と5作目『Replica』(2011年)を経て、知名度が高まった頃合いを見計らったのか、2012年にOPNは『Rifts』を自身のレーベルである〈Software〉からリリースし直している。その際、〈No Fun〉盤ではCD2枚組だったものがLP5枚組に編集し直され、LPのそれぞれ1枚がオリジナル・アルバムとして機能するように組み直された(ジャケットも新調されている)。その5枚組LPの1枚目から3枚目には最初の3枚のアルバムが丸ごと収められ、4枚目と5枚目にはカセットなどで発表されていた音源がまとめられている。その際、4枚目と5枚目に新たに与えられたのが『Drawn And Quartered』と『The Fall Into Time』というタイトル(とアートワーク)である。因みに後者は〈No Fun〉盤の『Rifts』には収録されていなかった音源で構成されているが、それらはすべてすでに2009年に発表されていた音源である。
 そして翌2013年には、LP5枚組だった『Rifts』から4枚目『Drawn And Quartered』と5枚目『The Fall Into Time』がそれぞれ単独の作品として改めてLPでリリースし直された。今回CD化されたのはその2枚である。なお、LP5枚組だった〈Software〉盤『Rifts』はCD3枚組としてもリリースされているので(『Drawn And Quartered』と『The Fall Into Time』のトラックは、各ディスクに分散されて収録されている)、音源自体は今回が初CD化というわけではない。
 とにかく、『Drawn And Quartered』も『The Fall Into Time』も、時系列で言えば、すべて『Returnal』(2010年)より前に発表されていた音源で構成されているということである。

 このようにややこしい経緯を経て届けられた『Drawn And Quartered』と『The Fall Into Time』だが、単に入手困難だった音源が広く世に出たということ以外にも注目すべき点がある。それは、それまでばらばらに散らばっていた音源に、曲順という新たなオーダーが与えられたことだ。
 テクノ寄りの『Drawn And Quartered』は、メロディアスな "Lovergirls Precinct" で幕を開け、シンセサイザーが波のように歌う "Ships Without Meaning" や、怪しげな音階の反復する "Terminator Lake" を経て、おそらくはデリック・メイのレーベルを指しているのだと思われるタイトルの "Transmat Memories" で前半を終える。後半は、蝉や鳥の鳴き声を模した電子音が物悲しい主旋律を際立てるノスタルジックな "A Pact Between Strangers" に始まり、16分にも及ぶ長大な "When I Get Back From New York" を経由して、唐突にロウファイなギター・ソングの "I Know It’s Taking Pictures From Another Plane (Inside Your Sun)" で終わる。
 アンビエント寄りの『The Fall Into Time』は、海中を散策するかのような "Blue Drive"で幕を開け、RPGのBGMのような "The Trouble With Being Born" を経て、透明感の美しい "Sand Partina" で前半を終える。後半は、反復するメロディが印象的な "Melancholy Descriptions Of Simple 3D Environments" に始まり、叙情的な "Memory Vague" を経て、一転してきな臭い "KGB Nights" で幕を下ろす。
 この2作に共通しているのは、1曲目から続く流れが最後の曲で裏切られるという構成だ。冒頭から音の中へと没入してきた聴き手は、最後に唐突に違和を突きつけられ、「ここ」ではない「どこか」へと意識を飛ばされる。ここでもOPNは、聴き手の居場所を揺さぶるという罠を仕掛けているのである。

 貧困が深刻化し、差別が蔓延し、テロが頻発し、虐殺が横行する現代。自身の送る過酷な生と自身とは直接的には関係のない世界各地の戦場とが、インターネットを介して直にリンクし合い、同一の強度で迫ってくる時代。そのような時代のアクチュアリティをOPNは、聴き手の立ち位置をかき乱すことで呈示してみせる。近年のOPNはスタイルの上ではアンビエントから離れつつあるけれど、「ここ」と「どこか」との境界を攪乱するという意味で、いまでも彼はアンビエントの生産者であり続けている。あなたがいる場所はどこですか、とそのキャリアの初期から彼は、自身の作品を通して問いかけ続けているのだ。聴き手が、音楽産業が用意したのとは別の仕方で、世界を「イマジン」できるように。

interview with Seiho - ele-king


Seiho
Collapse

Leaving Records/ビート

ExperimentalEletronicadowntempo

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 世界の終わりには広告だけが残る。単位はピクセル、資本主義に食い尽くされた世界。エレヴェーターから景色を見る。高解像の過去と低解像度の未来。抵抗することはできない。感覚は麻痺しているが、ただクリックするだけでいい。なんてドリーミーな、このヴァーチュアルな広場……よそよそしいほどの無人のビル……
 たとえばこのように、我々の生活を浸食する仮想現実空間の、一見ノーマルな、その異様さ、その不穏さを捉えようとした音楽が2011年から2012年にかけて台頭した。OPNの『レプリカ』もハイプ・ウィリアムスもジャム・シティも、ファティマ・アル・カディリも、そしてヴェイパーウェイヴも、時代への敏感なリアクションだった。それはテクノとは呼べない。もちろんハウスでもエレクトロニカでもない。なにしろそれは感情を記述しないし、心地良い電子的音響でもない。視覚的な音楽という点では、アンビエントに近いかもしれないが……。
 日本にもこうした感覚の音楽がある。仮想現実のなかの薄暗いアンダーグラウンドに散らかっている音楽、テクノロジーに魅惑されながら同時に抵抗している音楽。セイホーのライヴにはそれを感じる。ピクセルの空間を切り裂くような感覚。彼の最新作『コラプス』にもそれは引き継がれている。

野菜も曲もオートマティックになって、なんでもかんでもタダになって、食材も送られてくるようになったら、僕の音楽もタダでいいです。

今作は本当に力作で、素晴らしいアルバムだと思うんですけど、ダンサブルな前作とはだいぶ印象が違う作品になりましたね。ジャズを粉々にカットアップしたはじまりも面白かったんですが、2曲目のパーカッシヴな展開もスリリングで、いっきにアルバムに引き込まれていきました。

セイホー(以下、S):ありがとうございます。この作品を作ったのが2014年から2015年なんですよ。前のアルバムが出たのが2013年。「I Feel Rave」が出て、『Abstraktsex』が出て、それから2年くらい止まったんですよね。ブレーキがかかっていたというか、エンジンがかからなかったというか。でもライヴは続いてました。

ここ数年は東京のクラブの月間スケジュール表を見ると10回くらいセイホーの名前が出てたんじゃない(笑)?

S:はははは(笑)。逆に言えばライヴに逃げていたというか。そうしないと制作モードに全然なれなくて。そのときに作っていた曲がこのアルバムの中核になるものですね。ライヴでは派手なことをやっていたんですが。

エンターテイメントもしていたしね。

S:だから途中からそこの折り合いがつかなくなってしまって。作品自体はこういうものがずっと作りたかったんですけど。

作っているときはどんな感じで作っているの? ライヴのような激しく動きながら作っているわけじゃないでしょ?

S:僕って作品を作るときとか……、たぶん人間性が変なんですよね。それをどう一般の人にわかってもらえるように折り合いをつけるかみたいな生き方をしてきたので。幼稚園のときも小学校のときも、自分の変なところをどうキャッチーに見せるかを考えていました。僕はあんまり普通にしようという気はあんまりなくて、変なところをどんどん包括してキャッチーにしていけば輪の中に入れるみたいな。

あのキャッチーさの裏にはそんな屈折した自意識があったんですね(笑)。

S:でも2010年に〈Day Tripper Records〉をはじめたときから2015年までのいろんな目標を立てていたんですよ。どんなフェスに出たいか、どんな作品を作りたいか、みたいな。でもそれが意外にも2013年くらいに全部かなってしまって。

なんとも、控え目なヴィジョンだったんだね(笑)。

S:はは、ほんまそうですね(笑)。

もっとでっかい夢があるでしょう!

S:いやいや(笑)。レーベル・メイト全員でフェスに出るのもソナーでかなったし、フジロック、サマソニに出るのも2013年で実現したし。だからこの2年間は目標がなく進んでいた惰性の期間でしたね。でもこのアルバムを作ってみて、そういう状態だったのは自分だけじゃなかったと気づいたというか。

世代的に共有する意識があったと?

S:「去年どんなアルバムがよかった?」と話したときに、みんな2013年の12月に出たものを挙げたことがあって。それはつまりみんな2年くらい新譜を聴いていないってことかと(笑)。それから同じ世代の間で空気がボヤッとして止まっているように思えたところがありました。

その空気の止まった感じというのは面白いね。あの頃セイホー君がやっていたことは、強いて言えば、海外の〈Lucky Me〉が一番近かったよね?

S:近かったですね。

シーンの動きが止まって感じてしまったのって、たとえばどんな場面でそれを感じたの?

S:SoundCloudやBandcampが遊び場として利用できていたのが、そうじゃなくなってきたというか。twitterの発言もそれはまではラフだったのに、厳密でなければいけないというか、アーティストとしてどう見られているかが大きくなってきたり……。

かつてあったアナーキーさがどんどん制限させれていった?

S:経験は、1回しかできないじゃないですか。インターネットを介してみんなが繋がっていく高揚感って、たぶん1回しか経験できないんですよ。たとえばUstreamがはじまったとき、クリスマスに岡田さんがDJをして一気に(SNSを介して)注目されたときとか、やっぱすごい高揚感があったんですね。ぼくのように大阪でレーベルをはじめた人間に、東京のクラブからオファーがきたりとか。SNSを通して音楽が広がるのをダイレクトに経験できた時期が2010年以降にあったんです。でもいまtwitterでライヴをオファーされても、もはやそんなの当たり前の話ですからね。この間アメリカ・ツアーに行ったんですけど、「いつもfacebookを見てるよ」って言われたんですけど、そういうことが物珍しく感じられなくなったというか。それが2010年だったら、すごい新鮮に思えたのかもしれないんですけど。

先日、京都のTOYOMUというビートメイカーがBandcampに上げた作品が世界的にどえらいことになったばかりで、インターネットにまだポテンシャルはあると思うけどね。俺はセイホー君のライヴを見て、「新しいな」って思ったんですけど、それが惰性でやっているようには見えなかったんだけどさ(笑)。まだ大阪からやってきたばかりのパワーが、そのときはみなぎっていたんだろうね。

S:いまもライヴをするモチヴェーションが下がったわけではないです。でも、折り合いをつけるために、パワーを使っていたというか。どこの馬の骨かわからん若者を、どうしたら見てもらえるかを考えるじゃないですか? でもその環境がある程度でき上がったときに、それと同じパワーを使えなくなったというか。

俺はあの路線でもう1枚作ってほしかったけどね。

S:でもそういうことなんですよね。逆に言うと、あの路線で作らなくなったのも、たぶん何かがスタートしているからなんです。2015年の11月くらいに、僕のなかの2016年がはじまっている(笑)。2020年までの目標がそのときにできたんですよ。オリンピックをどうするか、みたいなところまで(笑)。

なんだ、それは(笑)。

S:はははは。そこから折り合いをつけていけば、いままでの作品はまた作れるから、今作は種まきから収穫が終わったあとの冬の時期なんですよね。でも冬の時期も悪くはなかったな、みたいな。

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「去年どんなアルバムがよかった?」と話したときに、みんな2013年の12月に出たものを挙げたことがあって。それはつまりみんな2年くらい新譜を聴いていないってことかと(笑)。それから同じ世代の間で空気がボヤッとして止まっているように思えたところがありました。


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Leaving Records/ビート

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ライヴを「動」とすると、こちらは「静」なわけだけど、俺はセイホー君のライヴがすげーと思ったんだよね。あの、30秒と同じループが続かないスピーディーな展開、デジタル時代のスラップスティックというか、すっごい新しいと思ったんだよね。
 ちょうどセイホー君が脚光を浴びた頃は、ヴェイパーウェイヴとかシーパンクとか、新しいキーワードも一緒に出てきたでしょ。初期のジャム・シティみたいなベース・ミュージックも更新されたり、いろんなところで新しい動きが見えたときでもあった。そういうなかにあって、セイホー君がライヴで繰り広げるときの素速い展開って、インターネットの画面をどんどんクリックする感覚と重なるんだよね。すごい情報量が流れているというか。

S:上の世代から情報が多いって言われるんですけど。でもトーフ君とかまわりの人たちと話していると、情報が多いやつらはもっといるんです(笑)。情報量を多くした意図はないんですけどね。

なんていうかな、ここに情報過剰の竜巻があるとしたら、それを切り刻んでコントロールしているような音のイメージがあって。

S:そこは意識しているかな。サンプリングするにあたっても、食材の切り方よりも、食材をどう選ぶかって行為の方を重視しているっていうか。切るという行為に僕はフェティッシュをあんまり感じなくて。僕の選び方って文脈から外れているんですよ。サンプリングって脈絡を大事にするじゃないですか? でもそれはどうでもよくて、なんでそれを僕が選んだかが重要なんですよね。聴き心地とかフェチな部分で音を選んでいるんですけど、それが羅列されるので情報量が多いように聴こえるのかな。

展開の速さが情報量を彷彿させるんじゃないかな。曲で展開するって、じょじょに上がっていくとか、最初には白だったのに気がついたら赤になっていたとか、そういう言い方があるとしたら、セイホー君の場合は、白が来たと思ったらいきなり三角に展開するとか。そこにカタルシスがあるじゃない?

S:僕は音楽を作るときに頭に浮かぶヴィジュアルを参考にすることが多いですね。カメラの長回しは好きなのですが、ストーリーに沿った時間軸の組み立てに興味が無く、無駄な長回しや、ストーリーと関係ないカットが好きです。

そうでしょ。その感じは思い切り出ているよね。

S:たとえばSF小説を読んでいても、人の話を聞いていても、話の内容がまったく頭に入ってこない。でもラストのひとことで、理解はできないけど感動できる瞬間ってあるんです。それは『裸のランチ』みたいなビート文学を読んでいても、僕は同じ感覚があるんです。カットアップですよね。それが意味もなくチョップされているわけではなくて、その作者の選択によって切り刻まれることによってすべて経験したら、作者と似たような感情が芽生えてしまう、みたいな。

なりほどね。ぼくは、圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにしているんでね、本当に頭のなかが真っ白になるようなライヴだったんで。しかし、毎回あのテンションでライヴを続けるのもたいへんだよね。しかも、「新世代代表でセイホー」みたいなブッキングも多かったと思うし、「なんで俺はここにいるんだろう?」って思ったりもしたんじゃない?

S:あります(笑)。でも僕の場合は外に出ていないと自分の家に帰れないんですよね。

イベントに出まくってもストレスはなかった?

S:ないです。僕の場合、(ライヴを終えて)家に帰ってくる道が楽しいんですよ。崎陽軒のシュウマイ弁当を買って新幹線で食うっていう(笑)。帰ることによって、自分が来た場所を認識できるじゃないですか? ぼくが拠点を東京に移さないのも、大阪から来ているという点をみんなが見てくれているからで。自分がどこから来ているかはすごく大事なことですね。

じゃあ、とくに今回は、ライヴを終えたときの感覚が出ているのかな。しつこいけど、ライヴの激しさを残してほしかった気も正直あるなぁ。

S:2013年以降、みんなの高揚感が分岐しちゃったのも大きいんですよね。みんなが共有していた良さがあったのに、それをみんなが見てしまったがゆえにバラバラになってしまって。

世代の共有意識が分裂していったということ? たとえばトーフビーツが真面目にJポップを目指すようになったのもそういう話なのかな?

S:だと思います。何をしても許される世界にパッと入ったから、何をするかが重要になってしまって。13年、14年は散らばったというよりは、支度をはじめた感じですね。

あの頃はいくつだったの?

S: 23、24歳のときですね。

まあ、あの頃が時代の風に乗ってやっていたとしたら、今回は、ある意味では、自分がやりたかったことを自分できちんと見せることができたとも言えるよね?

S:でも僕はこの作品をあまり解釈できていなかったんです。作品が僕の思想や哲学の先を行ってしまっているんです。

それはたいへんだね(笑)。

S:いままでの作品って、作る前からそこがかなり明確だったんですよ。だから、すでに頭のなかにでき上がっている曲の設計図をコピーするだけだったのが、なぜかわからないけど設計図が渡されていてそれを作っても、やっぱりわからないみたいな(笑)。

はははは。

S:でもここ2年くらいのものを聴いていると、作品から哲学を教わることも多いんです。1曲目の“Collapse”を作ったときに、僕は人がいない世界を想像していたんですよ。

それはディストピア?

S:そうだと言えばそうなんですけどね。たとえば、50年後のTwitterを見てみたら何が書いてあるんだろう? みたいな。誰もいないのに広告だけが出続けている状態というか。現実世界では人は誰もがいないのにジュースは配送されているし、自販機でもジュースが買えるし、蛇口をひねれば水も出てくるし……。そういう世界ですよね。単純にわかりやすく説明しちゃいましたが、僕にとって自然現象(雨が降る、水が流れる)と人間社会の現象(商品の配送や、水道、コンビニに人がいて商品を買えるなど)は、両方とも同じ自然現象、事象として捉えていて。人間特有の社会形成も自然現象の一部として考えているんです。

へー、そういうイメージなんだ。聞かなければ良かった(笑)。

S:はははは。

それでなぜジャズなの?

S:あれをぼくはジャズという捉え方をしていないんですね。フィールド・レコーディングの音は、自分で録ったものとサウンドライブラリーの映画用の音源とふたつ使っているんです。演奏の方も自分で録ったものとサンプルのものが両方あるんです。これはどっちが良い悪いというわけではなくて、そこがずっとボヤッとしていて。想像のなかで言うと、スピーカーから流れているのか、そこで流れているのか、僕らにとって関係のない世界というか。演奏している人が人間であるかどうかも関係ないというか。そういう要素として、僕のなかでジャズには人の温かみがないんですよ。

その感覚が面白いよね。ジャズをカットアップして、それがコラージュと言われようがミュジーク・コンクレートと言われようが、そういうコンセプト自体は目新しいことでない。でも曲を聴いたときに「面白い」と思ったんだよね。なんかこう、異次元的な感じがしましたよ。

S:トランペットが宙に浮いて演奏していたら楽しいじゃないですか(笑)。

はははは、そういう感じあるよね。そうやって音を細かく設計するのには時間がかかるの?

S:全体を作るのはめちゃくちゃ早くて、それを削る作業の方が長いです。

音数を削っていくということ?

S:音数も、ニュアンスも。例えばジャズでブレスの音が入ると、一瞬で人が吹いてるってわかるわけだから、その音をカットしていく。ピアノもタッチの音がしたら人が弾いているってわかるから、そこを修正していくとうか。逆に人間味のないアナログ・シンセサイザーを、どう人間が演奏しているかのように見せるために削るというか。だから作り方は彫刻を削る作業に似ているんですよね。

今回は前作よりはいろんな曲が楽しめるじゃない? エイフェックス・ツインにたとえるならポリゴン・ウィンドウっていうかさ。

S:ここ数年であまりにも多くのジャンルが出てきたじゃないですか? それこそヴェイパーウェイヴやシーパンク、〈PC Music〉まわりの音もそうだし、ロウ・ハウスやハウスのリヴァイヴァルも含めて。それを僕らは大喜利的に楽しんでいたんですよ。このお題で自分がどうするか、みたいな。でもいろいろ出まくった結果、自分のなかでそれをひとつ決めるのも楽しくないというか。かといって、その全部から良いとこ取りの音楽を作ろうという気もしなくて、そのときの自分の気持ちに従ったらこうなったというか。ヴァリエーションをつけることが目標だったわけではなくて、いろいろ経由してきたから、結果的にいろんなジャンルが生まれてしまったんです。

なるほどね。さっき言ったようなコンセプトがある以上、アルバムの曲順は考えられているんだよね? 後半はアブストラクトになっていくもんね。

S:〈Leaving Records〉の要望に合わせたんですけど、ホントは2曲目と3曲目は逆がよかったんですけどね。でもおっしゃるように、曲順も含めて世界を表現したかったですね。

〈Leaving〉からリリースすることは意識したの?

S:マシュー・デイヴィッドといっしょにツアーを回ったのが2012年なんですが、楽屋裏でマシューがアルバムを作ろうと言ってくれて。そのときは「OK、OK」みたいな(曖昧な)感じで終わったんですけど、その後、僕がオベイ・シティというニューヨークのアーティストとEPを出して、マスタリングをしてもらったのがマシューだったんですけど、そのときに正式にオファーをもらいました。2014年ですね。僕のなかではストップがかかっていたときですね。「どうしようかなぁ。〈Leaving〉のカラーもあるしなぁ……」と思ったままいろいろ作ってました。でも2015年の真ん中ぐらいで、「もしかして、いままで作ってきたものって意外とまとまるんじゃないか?」と気づいたんです。それでこの作品ができたって感じですね。あとは、マシューがハマっているニューエイジ・カルチャーですよね。マシューが考えるヒッピー思想的な部分。

マシューが考えるヒッピー思想的な部分とセイホー君は全然ちがうんじゃないの?

S:その部分と、僕が思う人がいなくなった世界がミスマッチにリンクする部分があったんです(笑)。

ほほぉ。

S:僕が思うヒッピーたちって、自分が強いんですよね。キリスト教と対極的だと僕は思っていて。アメリカ人の友だちと話していてわかったんですけど、キリスト教ってひとつの運命というか結末を進むじゃないですか? でもヒッピーの人たちって、偶然の連続のなかに結末を見ていくみたいな。その偶然の連続みたいなものを決断するのは自分自身だから、人間が強くないとああいう思想は持てないなと。

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喪失感よりも、機会が増えているだけなので、マイナスのものは僕らにとってひとつもないですよ。アーティストはiTunesで働いているわけじゃないから、iTunesがない世界も作れるわけじゃないですか? 


Seiho
Collapse

Leaving Records/ビート

ExperimentalEletronicadowntempo

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今回の『コラプス』は魅力的な作品だけど、〈Leaving〉から出ているから良いのではなくて、この作品が面白いんだと思ったけどね。

S:このアルバムで現在やっていたことが、将来わかりやすいものになっているといかに証明できるか、みたいな。いまからそこに折り合いをつけていくと、2020年に普通の人が過去アルバムを聴いたときに「めっちゃポップやん! 当時にそんな難解に思われてたん?」って言われるような形にどうしていくか、みたいな。

それはまたよくわからないことを(笑)。しかし、まあ壮大な計画があるんだね。

S:はははは。

ぼくはさっきそのライヴとの対比を喋ったんですけど、よく考えてみれば、吐き出し方が違っているだけで、根本は変わってないというか、今回のエディット感もライヴの脈絡のない展開力と繫がっているんだろうね。

S:そうなんですが、そこはまだ僕もわかっていないんです(笑)。これをライヴでやるのも違うし、これをライヴでやれるような環境が2020年までにできるのか、いまのライヴ・セットにこれが組み込まれていくのかもわからないんです。けど、どういう曲を作りたいか決める前に、曲ができちゃうから難しいですよね(笑)。

実験的なことをやっても、セイホー君がやるとポップに見えるでしょ。そのキャラがそう思わせるのかもしれないけど。

S:大阪人っていうのもあるかもしれないんですけど、ギリ笑ってくれないと面白くないじゃないですか? 

ヨージ・ビオメハニカさんにも繫がる何かが(笑)。

S:それで阿木(謙)さんとの繋がりが出てくるんですね(笑)。僕が好きな映画監督もそうなんですけど、複雑な人であればあるほど、人懐っこいじゃないですか。

若い人はステージ上のエネルギッシュなセイホーが聴きたかったんじゃない?

S:今回はとくに僕よりも上の人に聴いてほしいんですよね。そもそも僕は同世代の音楽を全然聴いてこなかったし、上の人に聴いてもらって正直な感想が欲しかったというか。同世代って、何をしても繋がれるじゃないですか。音楽に限らずスポーツをやっているやつらとも、同世代だからわかるんですよね。音楽の良いところは、同世代じゃない相手ともわかり合えること。もともとの音楽体験が親とのコミュニケーションだった。オヤジやオカンと話すために音楽を聴いて、それについて語るみたいな。だから上の世代の人にも聴いてほしいし、逆に言えば、もっと下の世代にも聴いてほしいけど。

楽しみにしていることって何ですか?

S:最近はお茶会が楽しいんですよね。

面白い人だね、セイホー君って。

S:あと関西でやってるアポストロフィーってイベントがあって、同じメンバーで定期的にやっているんですが、そのイベントで生花をやっていて楽しいです。この前も東京でイカと生花のイベントをやりまして。まな板にイカを置いてそこに花を生けていくっていう(笑)。そういうのを仲間同士でやっているのが一番楽しいですね。

セイホー君が大切にしていることって何ですか?

S:僕は貧困層に生まれたわけじゃないですけど、家は商売をやっていて不安定だったので、品だけは良くしたいという思いがあって。貧乏人なのに肘をついて食べるのはカッコ悪いみたいな。だからこそ礼儀作法は大事やし、どんなに貧しくても品は保ちたいなと。さっきのコミュニケーションでいうと、礼儀さえ良くて学さえあれば、上の人とも喋れるじゃないですか。それがなかったら下とも話せないんですよね(笑)。お互い礼儀ができていたら小学生だろうが年寄りだろうが、フラットに喋れる。品というのは、レストランへ行ってマナー通りに使えるのが大事ということではありませんよ。例えばフレンチへ行って肘をつくのは礼儀が悪いし、けれども、アメ村の三角公園では友だちと酒飲みながらカップラーメン食べている方が品が良いんですよね。その場所に合った品の良さがあって、それってその場所に対する知識や学があるかってことにつながってくるんじゃないかと思うんです。

その場に合った品の良さかぁ……セイホー君はさ、ファイル交換世代じゃん? CDを買わない世代だよね? そういう世代に属していながら自分の作品は発売するじゃない? そこはどう考えている?

S:野菜がタダでできる時代になったらタダで配るかなぁ。そのぐらいの感じ。やっぱり作る時間があって、作る人がいて、そこに時間がかかっている以上は物々交換をしなきゃいけないというか。野菜も曲もオートマティックになって、なんでもかんでもタダになって、食材も送られてくるようになったら、僕の音楽もタダでいいです。

世のなかの動きはそれとは真逆へ行っているじゃない?

S:そうですよね(笑)。そうかー、ファイル交換か。でも交換は悪いことではないし。

音楽産業は遅れているように見える?

S:それよりも、音楽というものを、あまりにも聴くものにし過ぎたというか。例えばUSJにタダで行かないじゃないですか? 音楽を聴くという行為がエンターテイメントとして成立できる土壌を作らなかったことは、業界としては悪かったと思いつつも、いまだにそこをきっちりやっている人もいるし。

昔の音楽が好きだっていうけど、お父さん世代の音楽の消費のされ方といまは違うよね。フィジカルがないとか、アルバム単位では聴かないとか、そうしたことへの喪失感ってある?

S:喪失感よりも、機会が増えているだけなので、マイナスのものは僕らにとってひとつもないですよ。iTunesがない世界もアーティストとしては作れるじゃないですか? iTunesで働いている人は無理だけど、アーティストはiTunesで働いているわけじゃないから、iTunesがない世界も作れるわけじゃないですか? だからレコード会社がなくなろうが、マネージメント会社がなくなろうが、僕たちはギターが1本あって駅前で歌えばミュージシャンになれるので、……とは言いつつ、難しいですけどね。音楽業界の人たちも音楽が好きな人たちだから、全員で考えなきゃいけない問題ではあるんですよね。そこはちょっと最近大人になって言い切らないようになったんですよね(笑)。

まわりの友だちとかはCDを買う?

S:買っているやつはいますよ。買うというのも体験と一緒で、僕がお茶会やるのも、原宿の女の子がわざわざパンケーキを食べにいくのと、あんまり変わらないことなので。音楽を聴くという体験にまで持っていければ、問題はないのかなと思います。

お茶会って、どういう人たちが来るんですか?

S:おじいちゃんとかおばあちゃんですね(笑)。

だよね(笑)。……ちなみに2年間でライヴをやった本数はざっくりどのくらいなの?

S:月に6本くらいやっていたと思います。

すごいね。そういうもののフィードバックっていうものが、逆説的に今回の作品になったのかぁ……

S:けっこうそうですね。ライヴはライヴでめちゃくちゃ楽しくって、新しい出会いも増えるし。最近、クラブの店長と同い年ぐらいになってきたんですよね。これって大事なことじゃないですか。理解者が増えるほど理解が広まるから、上の世代と状況は変わらなくなるというか(笑)。

DJをやろうとは思わないの?

S:たまにやるんですけど、そんなに好きじゃないですね。でも、DJって自分が知らない曲もかけられるじゃないですか? あれはすごいですよね(笑)。これからはDJ的な立ち位置の子が増えてほしいですね。なんでかというと、作るということもそうなんですけど、キュレーション能力もどんどん問われていくと思うからです。オーガナイザーもキュレーターみたいなところがあるじゃないですか? DJでもそっちの立ち位置へいく人が増えるのかなと思って。

イベント全体を考えるってこと?

S:それもそうだし、あのアーティストとあのアーティストが一緒にやったらいいのになっていうのものの間を取り持つ役割をDJが担って、そこで完成したエクスクルーシヴを自分のセットで流すとか。そういうことができれば面白いかな。

欧米をツアーしてどこが面白かった?

S:アメリカが面白かったですね。とくにフライング・ロータスの後にやったときがいちばん震えましたね。フライング・ロータスが僕のことを紹介してくれて、そっからライヴやったんですけど、けっこう盛り上がって。

受け入れられたと?

S:はい。

やっぱオープンマインドなんだね。

S:意外とロンドンは今一でしたね。〈PC Music〉系のイベントだったこともあったと思うんですけど。

セイホー君の場合は、見た目では、そっちのほうに解釈されても不思議じゃないし(笑)。

S:まったくそうで、アメリカでもインターネット/ギーク系のオタクが集まるようなイベントにも呼ばれましたね。

そういうときはどうなの?

S:日本と同じですよ。

それはそうだよね(笑)。

Anohni - ele-king

 これまでアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ名義などで発表されたアントニー・ヘガティの楽曲は、ギター、ベース、ドラムスを中心とする伝統的なバンド編成であっても不思議な音響性があった。いわばヴェルヴェット・アンダーグラウンド的な空間的な楽器配置を継承するものだと思うのだが、そこにあってアントニーのヴォーカルは浮遊していた。浮遊する非=中心的な存在? それが、アントニー・ヘガティのヴォーカルの魅力のように思える。どこにも属していない感覚とでもいうべきか。

 その声は、まるで黄泉の国への旅立ちのように衣装を纏ってもいるようにも聴こえた。この衣装こそが、ジョンソンズのサウンドであったのはいうまでもないが、私はその点においてこそアントニーの音楽が「ロック」の末裔にあると確信している。「ロック」とは「死」へと至る「生」を着飾る衣装=モードの音楽だ。資本主義という死の市場を生きる芸術? しかし「死」への過程はひとつではない。生が複数の層によって成り立っているように、「死」の過程もまた複数的といえる。ゆえに複数の衣装(モード)を身に纏う必然性があるのだ。

 「電子音楽」(もしくはパフォーマティヴに未知の音色を探求するという意味で60年代以降の「実験」音楽も加えてもいいだろう)は、ロック史における、衣装(モード)のひとつである。電子音楽(もしくは実験音楽)と「ロック」のマリアージュは多種多様だ。ざっと思い出すだけでも、ピエール・アンリとスプーキー・トゥーズ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、ロジャー・ウォーターズとロン・ギーシン、トニー・コンラッドとファウスト、ブライアン・イーノとデヴィッド・ボウイ、坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアンのコラボレーションなど枚挙に暇がない。テクノからエイフェックス・ツインとフィリップ・グラスのコラボレーションを加えてもよい。さらにはラ・モンテ・ヤングとジョン・ケイルの関係、ザッパにおけるエドガー・ヴァレーズからの影響、シュトックハウゼンに師事したホルガー・シューカイのサウンド、ソニック・ユースの現代音楽への好奇心、レディオヘッドの『キッドA』化などを思い出してみてもよいだろう。

 なぜ、これほどに「ロック」は電子音楽や実験音楽を希求するのだろうか。電気楽器による音響の拡張を嗜好する「ロック」と、音響の拡張を志向/思考する「電子音楽」の相性の良さが原因ともいえるだろうし、電子音楽特有の音の抽象性が、「ロック」がもたらす知覚とイメージの拡張に大きな力を発揮しやすいということもあるだろう。いずれにせよ、未知の音色の導入は、それは20世紀後半の「ロック」という商業音楽における、新たな崇高性(のイメージ)を獲得するためのモードであったと思う。そう、「ロック」は常に新しいモード=衣装を刹那に求めるのだ。窃盗の魅惑? それこそまさに「ロック」の魅力ではないか。

 そして、アントニー・ヘガティあらためアノーニによる本アルバムもまた電子音楽の現代的なモードを纏っている傑作である。歌詞は、これまで以上にポリティカルだが、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとハドソン・モホークという現代の二大エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーを迎えることで、絶望の中の祈りのようなサウンドを実現しているのだ。いまさら、この二人の経歴について書き連ねる必要はないだろうが、これは先に書いたような「ロック」と電子音楽のマリアージュの歴史に、新たな痕跡を残す作品であることは断言できる。

 もっともアントニーとワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの録音は本作が最初ではない。2010年にワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが〈エディションズ・メゴ〉よりリリースした『リターナル』からシングルカットされた「リターナル」において、二人は共作している。同曲にアントニーがヴォーカルをつけて歌唱しているのである。むろん、6年の月日が流れた本作は、“リターナル”とは比べ物にならないほどの独創的な構造とテクスチャーを獲得している。“リターナル”のヴォーカル・ヴァージョンは、ピアノを主体とするトラックであったが、本作は、より複雑なエレクトロニック・サウンドに仕上がっていたのだ。また、ポップな享楽性(いわば死への快楽的な希求か?)の獲得には、ハドソン・モホークの存在と楽曲が重要であるのはいうまでもない。

 壮大なパイプオルガンのような電子音からはじまる1曲め“ドローン・ボム・ミー”は、アントニーとモホークの共作曲で、崇高なエレクトロニック・サウンドが展開する。まるで死と恐怖に満ちた現代世界への享楽的な哀歌のように響いてくる楽曲だ。2曲め“4ディグリーズ”は、アノーニ、OPN、モホークらの共作。強靭な打撃音とアノーニの絶望を称えた声が重なり、まさに「エレクトロニック・オペラ」とでも称したいほどの唯一無二の楽曲である。

 さらには胸締め付けるようなオルガン・コードが堪らない5曲め“アイ・ドント・ラブ・エニモア”から、6曲め“オバマ”、7曲め“ヴァイオレント・メン”と続くアノーニとOPNとの共作は圧巻だ。アノーニのヴォーカルとOPN的なシンセ・アンビエント・サウンド(とビート・プログラミング)が現代の受難曲のように響く。6曲め“オバマ“のアウトロで聴かれる悲痛なピアノ。7曲めのチリチリと乾いた音から溢れ出るような哀しみ……。続く8曲め“ホワイ・ディド・ユー・セパレート・ミー・フロム・ジ・アース?”はモホークとの共作で、まるで天に昇るような解放感のあるトラックに仕上がっている。全曲までとの対比が見事な構成だ。

 個人的にはOPNとの共作にして、アルバム・タイトル曲である10曲め“ヘルプレスネス”にもっとも惹かれた。シンセ・アンビエント/ストリングスに、これまで以上に強い息吹を感じるようなアノーニの歌声がレイヤーされ、この世のものとは思えない天国的な音楽的サウンド・スケープが展開されているのだ。

 それにしても、本作におけるアノーニの声は、かつてのように浮遊していない。猛烈なサウンドの情報という現実の中で格闘しているようである。その格闘を、過酷な現実への「祈り」から、新しい「崇高性」を獲得するための「闘争」と言いかえてもいいだろう。このような視点(聴点)でアルバムを聴いていくと、本作は、電子音楽とロックの邂逅における「現代の崇高なバロック・ミュージック」といいたい気分にすらなってくる。だが、バロックは地域と歴史を越境する雑多な音楽の交錯点でもあることを忘れてはならない。

 晩年のピエール・シェフェールは、自らが生み出したミュージック・コンクレートを「ドレミの外では何もできない」と完全に否定し、「新しい音楽を作る希望を捨てよ」とまで言い放った。そして、それでも残っている音楽が「バロック音楽」と断言する。さらにシェフェールは「西欧音楽で最も崇高とみなされてきたバロック音楽」とまで語り、そして「バロックとはイタリアや中世の音楽のよせ集めから作られた」とも述べていた。よせ集めから生まれる崇高さと新しさ? まさに「ロック」だ。そして、本作には、そのような崇高と猥雑と新しさに満ちた21世紀のバロッキニズムが横溢しているのである(バ/ロック・ミュージック?)。

 その意味で、OPNとハドソン・モホークが、アントニー=アノーニとコラボレーションを行ったことは、ロック史において重要な意味を持つと思う。たとえば『ロウ』にブライアン・イーノの参加したことに匹敵するような。いうまでもないが『ロウ』(とくにB面)にもまたバロック的な電子音楽(ロック)である。バロックへの希求。ロックの死、死と生。死の旅路を飾る衣装としての音楽=ロック……ゆえにボウイの死後に本作がリリースされたことは、偶然にせよ偶然を超えた偶然に思えてならない。

 黒い星から絶望へ? まさに「世界」が死と恐怖の激動の波に晒されている2016年に世に出るべくして出たアルバムといえよう。そして何よりエレクトロニックのモードを纏いつつも、本作はポップ・ミュージックとしての聴きやすさもあるのだ。電子音と声と和声とノイズによる21世紀のポップ・ミュージック。美しいピアノで終わるモホークとの最終曲“マロウ”を聴き終えたとき、あなたは、現代世界への本当の怒り、そして絶望の果てにある透明な世界を垣間見るだろう。途轍もない傑作が生まれてしまった。

interview with ANOHNI - ele-king


ANOHNI
Hopelessness

Secretly Canadian / ホステス

ElectronicExperimentalPops

Tower HMV Amazon

 「わたしは魔女です」──彼女はそう繰り返してきた。男たちの暴力的な歴史に築かれた世界の異端者として。ラディカルな主張を隠すことはなかったし、どんなときもアウトサイダーの代表だという姿勢を崩すことはなかったから、この時代の曲がり角にポリティカル・レコードをリリースするということは筋が通った話である。だが、それでも……このあまりに華麗な変身に衝撃を受け、魅惑されずにはいられない。固く閉ざされていた扉がこじ開けられ、胸ぐらを掴まれ、彼女が戦闘する場所へと投げこまれる……そんな感じだ。耽美な管弦楽器の調べではなくエレクトロニックな重低音が烈しく鳴り響き、ノイズが飛び交い、そして彼女自身の声が怒りと憎悪に満ちている。華麗なハイ・アートはもうここにはない。ミューズとなるのは大野一雄ではなくナオミ・キャンベルであり、聖よりも俗を、慈悲よりも憤怒を手にしながら、巫女の装束を光沢のある夜の衣装に着替えてみせる。そしてはじめて、彼女の本当の名前を名乗る……アノーニだ。

 ハドソン・モホークとOPNことダニエル・ロパッティンという、現在のエレクトロニック・ミュージックの先鋭的なポジションに立つプロデューサーが起用されていることからも、彼女の並々ならぬ決意が窺えるだろう。まさにバトル・フィールドの先頭に立つような“4ディグリー”はハドモの“ウォーリアーズ”ないしはTNGHTを連想させるし、低音ヴォーカルが重々しく引き伸ばされ続ける“オバマ”や“ヴァイオレント・マン”はOPNの『ガーデン・オブ・デリート』と見事にシンクロしていると言えるだろう。ヒップホップとエレクトロニカとノイズと現代音楽とシンセ・ポップを調合しながら、それを遠慮なく撒き散らすような威勢のよさに満ちている。

 「私の上にドローン爆弾を落として」(“ドローン・ボム・ミー”)、「私は見たい この世界が煮える様を」(“4ディグリー”)、「死刑執行 それはアメリカン・ドリーム」(“エクセキューション”)、「オバマ あなたの顔から希望は消えてしまった」(“オバマ”)、「もし私があなたの弟を グアンタナモで拷問していたらごめんなさい」(“クライシス”)、「どこにも希望はない」(“ホープレスネス”)――魔女は呪詛を吐き続ける。戦争と環境破壊、虐殺、資本主義の暴力、そして「希望がないこと(ホープレスネス)」。ここでの音の高揚は地獄の業火に他ならず、彼女はその身を焼かれることを少しも恐れていない。彼女ははっきりとこの世界の異端者である……だが、「トランスジェンダーであることは自動的に魔女であることなのです」と発言していたことを反芻すれば、その禍々しい言葉はかくも暴力的な世界の鏡に他ならないことを思い知る。だからアノーニは、そんな世界こそがまったく新しい姿に生まれ変わることを迫るのである……彼女自身が、鮮やかな変身を体現しながら。

 ほとんど爆撃音のようなビートの応酬をかいくぐると、アルバムはもっともジェントルなピアノが聴ける“マロウ”へと辿りつく。だがそこでも彼女は、自分が暴力に加担する一部であることを忘れてはいない。深い歌声でなにかをなだめながら、自分自身も、そしてこれを聴く者も「ホープレスネス」の一部であるのだと告げている……それこそが、この狂おしいまでにパワフルな作品のエナジーになっているからである。

■ANOHNI / アノーニ
旧名アントニー・ヘガティ。2003年にルー・リードのバック・ヴォーカルに抜擢され、アルバムの録音にも参加、一躍注目を浴びる。アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ名義で2005年にリリースしたセカンド・アルバム『アイ・アム・ア・バード・ナウ』でマーキュリー・プライズを受賞、 MOJO誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にも選出された。09年にリリースしたサード・アルバム『クライング・ライト』では彼女が敬愛する日本の舞踏家、大野一雄の写真をアートワークに使用し話題となった。2011年には4thアルバム『スワンライツ』をリリース。ビョークをはじめ、ルーファス・ウェインライト、ブライアン・フェリーなどさまざまなアーティストとのコラボレーションも行っている。2015年に新曲“4 DEGREES”を公開、前作から約5年半ぶりとなる新作『ホープレスネス』を2016年5月にリリースする。

エレクトロニック・ミュージックは、素晴らしいエネルギー、喜びさえも人びとに与える。それを使って、真実を表現したかったんです。

少しさかのぼって訊かせてください。ライヴ盤『カット・ザ・ワールド』には非常にラディカルな内容のスピーチである“フューチャー・フェミニズム”(「神の女性化」を想像し、男性原理に支配された世界を糾弾する内容)が収録されていましたよね。あのライヴ盤自体、あのスピーチを世に出すという目的が大きかったのではないですか?

アノーニ:あのレコードでは、いままでに自分が聴いたことがないようなものを作りたかった。ポップ・ミュージシャンが10分(註:実際には7分半だが、じゅうぶんに長尺)のスピーチを含んだ作品をリリースするなんて、なかなかないでしょう? スピーチを挟むのは、自分のショウですでに探求していたことだったんだけど、それをCDに取り入れてみて、一体どうなるかを見てみたかった。気候や環境の緊張感とフェミニストの見解を繋ぎ合わせるという“フューチャー・フェミニズム”のアイデアは、2、3年前からずっと持っていたものだったから、それをライヴ・ショウやCDに取り入れてみたかったんです。

そして『ホープレスネス』は、ある部分で“フューチャー・フェミニズム”を引き継いでいると言えますか?

アノーニ:『ホープレスネス』はエレクトロニック・レコードで、私が持っていたアイデアは自分でも聴くのが楽しいポップ・レコードのような作品を作りたいということでした。これまでの私のシンフォニックな音楽作品とは違うものを、言ってしまえばダンス・ミュージックみたいなものを作りたかった。でも、音はダンス・ミュージックであっても、曲のなか、つまり歌詞はかなり政治的なものになっていて、まるでトロイの木馬のようになかに兵士が隠れているんです(笑)。それが新作のアイデア。コンテンポラリー・ライフとモダン・ワールドに関する内容で、とくにアメリカのポリシーにフォーカスが置かれている。アメリカのポリシーとはいえ、いまではそれが世界的な問題になっているけどね。

非常に政治的なテーマを持ったアルバムとなりましたし、その根本にあるものは「怒り」であると事前にアナウンスされていました。エレクトロニック・サウンドを選択したのは、そのようなテーマに適すると考えたからなのでしょうか?

アノーニ:もちろん。そうすることで、より真実を伝えたかったから。真実を伝えるという効果を、より強いものにしたかったんです。そこにエネルギーを使いたかった。ダンス・ミュージックにはエナジーがあるから、エレクトロニック・ミュージックを使ってそのエナジーを作り出したかったんです。エレクトロニック・ミュージックは、素晴らしいエネルギー、喜びさえも人びとに与える。それを使って、真実を表現したかった。その真実が苦いものであったとしても、喜びを通してそれを叫び、皆に伝えることもできると思ったんです。

ハドソン(・モホーク)と作業を初めてから、ポリティカル・エレクトロニック・レコードという方向に急進していったんです。

ハドソン・モホークとダニエル・ロパッティンを起用したのはどうしてでしょうか? 彼らのそれぞれどういったところを評価していますか?

アノーニ:ハドソンの音楽には、本当に惹き込まれます。彼の音楽はすごく喜びに満ちているんですよね。多くのミュージシャンが何かひとつの方向性に違ったものを混ぜ、そこからあちらこちらの方向に進んでいます。でもハドソンの場合は、さまざまなものが混ざりながらも、すべてはひとつの方向に進んでいるんです。彼の目的はひとつで、込められた感情は決して複雑ではなく、高揚感に統一されている。だからこそリスナーは、我を忘れるような喜びに心が躍るんです。それが複雑な歌詞をひとに届けるのに最適な方法だと思いました。ダークで重い緊張感がある歌詞を、魅力的で簡単に楽しめる音楽に乗せるのがベストだと思ったのです。歌詞の内容は高揚感のある音楽の真逆で、アメリカ政府やテロリズム、環境破壊、石油問題といったヘヴィーなもの。音楽と歌詞にはコントラストがあるんです。
 ダニエルは、さまざまなサウンドからエッセンスを抽出して、そのアイデアを組み立て、自分独特のサウンドを作り出してくれます。基となる要素とはまったく違うものを作り出すから、まるでマジシャンみたいなんです。私は、そこに知的さを感じますね。彼は音楽に対してすごくモダンな考え方を持っていて、サウンドの意味を考えます。その意味がどう変化しうるかを考え、それを自分で操作していく。もともとはダニエルと作業を始めたんだけど、さっき話したようなエレクトロニック・ミュージックのスタイルになっていったのは、ハドソンと作業をはじめ出してからでした。彼が書いた音楽に、私がメロディと歌詞を乗せて、そこからレコードの目的に合うよういろいろと手を加えていきました。ハドソンと作業を初めてから、ポリティカル・エレクトロニック・レコードという方向に急進していったんです。

トラックの制作について、ハドソン・モホークやダニエル・ロパッティンにどのようなリクエストをなさいましたか?

アノーニ:曲のほとんどが、ハドソンがまず曲を書いて送ってきてくれたんです。それに私がヴォーカルをのせて返して、それから、ダニエルといっしょに曲を整えていきました。バラバラに作業してメールし合うこともあれば、同じ部屋で作業することもありましたね。私自身も、レコードをミックスして聴き込むのにかなりの時間を費やしました。3年くらいかかりましたからね。待たなければいけないことも多かったし、考えなければいけない時間も多かった。曲の歌詞はかなり強烈だし、それが本当に自分の書きたいことか確信を得るのに時間がかかったんですよ。リリースする勇気がなかなか出なくて。それを長い時間考えなければならなかったんです。

なかなか勇気が出ないなか、リリースする覚悟ができたきっかけはあったのでしょうか?

アノーニ:人生はすごく短いでしょう? 本当に短いから、できるだけ強く関わりたいと思うようになったんです。どこまで自分が関与できるのか、それに関与することで、自分が何を感じるかを知りたかった。受け身ではいたいくないと思ったんです。世界は驚くべきスピードで変化しているし、私は生物多様性の未来を本当に心配しているし、それに自分が地球と深く繋がっていると心から感じる。だからこそ、地球を護りたいと思うようになったんです。

これまで私は自分のことについて歌ってきました。自分のなかの自分の世界、自分の人生についてね。でも今回は、かなり大きな、ショッキングとも言える一歩を踏み出したんです。

リリースしたことで何か実際に感じましたか?

アノーニ:いままで音楽的にやったことのないことだったから、やはり勇気が出たし、自信がつきました。いままでの私の音楽を聴いてきたひとたちはわかると思うけれど、これまで私は自分のことについて歌ってきました。自分のなかの自分の世界、自分の人生についてね。政治やランドスケープに触れたことは一度もなかった。でも今回は、かなり大きな、ショッキングとも言える一歩を踏み出したんです。歌詞の内容に驚く人も多いと思う。でも、このレコードで人びとの考えを変えたいとまでは私は思っていないんです。自分と似た考えと世界観を持つ人びとをサポートしたいだけで。何かに対して戦う勇気を彼らに与えるサウンドトラックを作りたかったんです。

また、アノーニ名義としてのはじめてのアルバムとなります。この新しい名前――本来の名前と言ったほうがいいと思いますが、ANOHNIとしてリリースすること自体があなたの世に対する意思表示だと言えるでしょうか?

アノーニ:そう。アノーニは私の本来の名前。プライベートで何年か使ってきた名前で、公の場で使うことはこれまでなかった。でもいま、もう少し「正直」である時期が来たんじゃないかと思って。自分のなかの真実を人びととシェアする時が来たんじゃないかと思ったんです。アノーニは私のスピリチュアル・ネームなんだけど、私はトランスジェンダーだから、自分のスピリチュアル・ネームを使うことによって、ひとがより自分の存在を理解することができるんじゃないかと思いました。人びとが私をもっとクリアに見ることができると思ったんですよ。もし私が男性の名前を使えば、それは欺きになってしまう。私はただ、正直でありたかったんです。

アノーニは私のスピリチュアル・ネームなんだけど、私はトランスジェンダーだから、自分のスピリチュアル・ネームを使うことによって、ひとがより自分の存在を理解することができるんじゃないかと思いました。

アノーニという名前を使うことで、何か変化はありましたか?

アノーニ:この名前を使うことで、よりいろいろなものをシェアできるようになります。たとえば私は普段怒りをあまりシェアしないし、音楽でそれを表現しようとすることはなかったんです。でも、このレコードでは確実に怒りが表現されている。それは私にとっては新しいことだし、同時にそれはすさまじいエネルギーを発するものでもあるんです。

ビートがアグレッシヴな箇所も多く、たしかに「怒り」を強く感じる瞬間も多いですが、しかし、わたしは聴いていると同時に非常に優雅さや優しさも感じます。この意見に対して、もしその理由を問われればどのように説明できますか? 

アノーニ:優雅さに通じるかはわからないけど、曲のなかではそれが反心理学によって表現されているものが多いから、それもあるのかも。曲のなかで「この恐ろしいことが起こってほしいと願っている」と歌っていても、もちろん本当に意味しているのはまったく違うこと。そう歌いながら、その出来事を批判しているんです。私が「アメリカの死刑実行制度について快く思っている」と歌っていればそれは、いまになっても死刑を実行しているこの国に住んでいることを残念に思う、というのが本音。このアルバムではそういった反心理学的な歌詞が多いから、その効果かもしれないですね。

この質問を作成した時点ではまだ歌詞を拝見できていないのですが、トランスジェンダーであることはこのアルバムのテーマのひとつと言えますか?

アノーニ:トランスジェンダーであることやトランスジェンダーの声だけに歌詞が置かれているわけではないですね。でも私自身がトランスジェンダーだから、歌詞はアメリカではアウトサイダーとされているトランスジェンダーとしての私の視点で常に書かれています。つまりトランスジェンダーに重点を置いているのではないけれど、トランスジェンダーから見た世界が表現されているのは事実。でも、それがトランスジェンダーすべての意見というわけではないんです。それはあくまでも私の世界観。私のゴールは、自分と同じような考えを持つ人をサポートすること。彼らに強い勇気を与え、背中を押したい。私にとって、女性の視点から何かを書くのは意識することではなくて自然なことなんです。

私のゴールは、自分と同じような考えを持つ人をサポートすること。彼らに強い勇気を与え、背中を押したい。私にとって、女性の視点から何かを書くのは意識することではなくて自然なことなんです。

この世の中で、トランスジェンダーの声や意見はまだまだ隠れていると思いますか?

アノーニ:トランスジェンダーに限らず、女性の意見、声というのはこの世界でまだまだ隠れていると思います。その女性の声のひとつが、トランスジェンダーの女性たちの声だと思うんです。それがもっと表に出て、人びとに受け入れられるようになるまで、この世界に希望はないと私は思います。女性の声というのが、世界を救うと私は思っているんです。私たち(女性たち)は、自分たちの力を取り戻さなければいけない。それを取り戻すために立ち上がるのは怖いかもしれないけど、それをやらなければこの世界に未来はないと思う。この世界には、女性からのガイダンスが必要なんです。女性の視点が必要。それがあってこそはじめて自然を守ることができるし、人間の尊厳を取り戻すことができる。
 男性政治家たちを見ればわかるけど、彼らは失敗ばかりしているでしょう? 彼らが操作してきたいまの世界を見てみると、この世を破滅させるのにじゅうぶんな武器が存在し、森、山、海がどんどん破壊されていますよね。伝統的に、家族やコミュニティを守ろうとするのが男性の役割で、彼らはそのために戦うための軍隊とチームを作る。いっぽう、女性の役割というのはすべてのチームの繋がりを考えること。女性は家庭のなかで子供のために平和を作ろうとします。すべての環境の繋がりを把握し、それを基に平和を作り出すのが女性なんです。男性は仕事をして自分の家族だけを守ろうとするけど、女性は家族を「作ろう」とする。いまの私たちに必要なのは、世界で家族を作ろうとする女性のスキル。そうしなければ、自分たちと自然の繋がりを見出すことができないんです。それどころか、私たちは自然を殺してしまいかねない。だからこそ女性のリーダーが必要だし、とくに年配の女性たちの知恵や見解が必要なんですよ。彼女たちの助けが必要だし、いっぽうで若い女性は強くあり、前に向かって進み、いまのシステムに対抗することに挑んでいく必要がある。男性が世界を破壊しようとしているわけではないのだけれど、単純に、彼らにできることと女性にできることが異なるんです。いまの世界に必要なのは、女性の力です。

女性で、実際いまそこまで考えているひとはどれくらいいるのでしょうね。

アノーニ:そうなんですよね。立ち向かうというのはすごく難しいと思う。でも、興味や関心をもっていなくても、気候や世界はどんどん変化し続けます。海も死にかけています。それなのに私たちは海からさらに多くのものを奪おうとしています。海が死んでしまっては、海のなかの生命体や魚はすべて消滅してしまう。そうなったら、いったい世界はどうなってしまうんでしょう。私はそういう未来が心配です。でも日本はすごく美しい国だと思うんですよ。自然とひととの繋がりが、他の国よりもきちんと考えられている国だと思います。日本には古い文化がまだ存在していて、さまざまな自然との美しい共存の仕方が受け継がれていると思います。

世界に希望がない(ホープレスネス)というのは事実ではないけれど、私たちが持っているフィーリング。でもそのフィーリングがあるということは、その対処法を見つけなければならないということなんです。

日本では昨年よりLGBTQの話題がちょっとブームのようになったこともあり、少しずつ一般的にも認知されるようになりました。ただ、わたしの見解としては、日本ではそこにカルチャーやアートがあまり追いついていないようにも思うんですね。あなたのマトモスとのコラボレーションなどを見ると、政治的な共闘がありつつも、やはり何よりも「アート」だと思うんです。LGBTQイシューに限った話ではないですが、「アート」が社会にできることがあるとすれば、どのようなことだとあなたは考えていますか?

アノーニ:私はすごく日本のアートに影響を受けているんだけど、とくに土方巽や大野一雄の舞踏にはすごくインスパイアされています。第二次世界対戦のあとにとくに浸透したアートで、すごく強烈なイメージを持っている。生きるための困難や美しさ、そして、何が美しいのかという考え方の変化が表現されているんですよね。原爆投下後の最悪な光景に目を向けなければならなかったから、あの強烈なイメージが生まれたんです。地獄のような光景。舞踏では、そういった苦しみが表現されました。そういうものを表現しようとする創造性には、ものすごいパワーが存在していると思う。それを理解し、ダンスや音楽で真実を伝えるというのは、すごく重要なコミュニケーション方法だと思います。

タイトル・トラックである“ホープレスネス”では自然と切り離されたことの悲しみが歌われていますよね。“ホープレスネス”とは非常に強い言葉ですが、これがアルバム・タイトルともなったのは、これこそがあなたの実感だということなのでしょうか?

アノーニ:日本ではどうなのかわからないけれど、アメリカやヨーロッパでは、地球の未来は明るくないと考えられているんです。世界に希望がない(ホープレスネス)というのは事実ではないけれど、私たちが持っているフィーリング。でもそのフィーリングがあるということは、その対処法を見つけなければならないということなんです。

COP21(国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)第21回締約国会議)に合わせた“4 ディグリーズ”のパフォーマンスがとても話題になりました。何かあなたにとって嬉しく思えたリアクションはありましたら、教えてください。

アノーニ:みんなが音楽の中に自分自身の精神をそれぞれに感じることができていると思えたのが嬉しかったわね。

ANOHNI - 4 DEGREES

マーガレット・サッチャーも、女性ひとりが男性のルールのなかでリーダーになっただけ。でも、政治自体が女性から指揮されるようになれば世界は変わると思います。

オノ・ヨーコさんとのコラボレーションは、このアルバムに間接的に影響を与えていますか? というのは、彼女が敢えて自分を「魔女」と呼ぶタフな態度に、あなたは共感するところがあると思ったからなんですが。

アノーニ:彼女からの影響はあると思う。彼女は勇敢だし、自分の政治活動にすごく自信を持っているから。そして、アーティストとしてそれを自分の作品に反映させている部分にも共感します。それに、私も自分を魔女と呼んでいます。それは、女性のパワー、そして女性と地球の繋がりを意味します。そして女性と地球のコネクションというのは、ほとんどの男性が恐れていることでもあります。その力の偉大さを知っているから、それが起こらないようにコントロールしたがるんです。そして、そのパワーを盗もうとさえします。男性は、もっと女性に対して謙虚さを学ぶべき。それが、いま私たちが求めているものなんです。

“アイ・ドント・ラヴ・ユー・エニィモア”から“オバマ”へと流れが続くのでドキッとするのですが、この曲順は意図的なものですか?

アノーニ:そう(笑)。アメリカではいま、オバマに対する期待は薄れています。男性に解決できることではないと、みんなが気づきはじめているんです。変化を起こしたければ、男女ともに取り組みに関わらなければいけないんです。

ということは、あなたはヒラリーを支持しているのでしょうか?

アノーニ:もうわからないんですよね。もちろんサポートするべきなんだけど、同時に信用もできない。彼女をサポートすることは必要なんだと思うけど、リーダーひとりが女性であるという事実だけではじゅうぶんではないと思う。政治の世界で、女性の割合そのものが増えなければ意味がないんです。マーガレット・サッチャーも、女性ひとりが男性のルールのなかでリーダーになっただけ。でも、政治自体が女性から指揮されるようになれば世界は変わると思います。30%を越さなければ、リーダーが女性であってもすべては男性主体のままだと思いますね。

怒りはその中に存在する一部で、とくに強くなるために、そして真実を主張するためには怒りは必要なんです。自分たちの感情は、表に出さないことが多いでしょう? とくに世界という大きい規模の物事に対しては、それを受け入れるだけで、何もしないことが多いと思う。

あなたはこのアルバムを通じて、現在の世界における「理想」を探究しているように思えます。あなたにとって、理想的な社会とはどういったものだと言えるでしょうか?

アノーニ:今回のアルバムの内容は、現在の世界の危機について。だから、あまり理想社会については触れていないんです。夢の世界にはあまりフォーカスを置いていない。私にとってのパラダイスとは自然界です。何億年もかけて作り上げられた自然が自分にとっては理想の社会ですね。彼女(自然)が私たちとわかちあっている素晴らしい世界。動物、緑、海……彼女(自然)の人生そのものがパラダイスなんですよ。私はその一部だし、その一部であることが夢のよう。同時に、それは愛の世界でもあります。

わたしはこのアルバムに限らず、あなたの表現の底には怒りと、そのことを隠さない強さがあると考えています。あなたにとって怒りや悲しみは原動力だと言えますか?

アノーニ:どうでしょうね。それはわからないけれど、すべての感情がお互いを支え合っていると思います。今回のレコードは、自分の真実、そして世界に対する私の考え方を表現した結果。怒りはその中に存在する一部で、とくに強くなるために、そして真実を主張するためには怒りは必要なんです。自分たちの感情は、表に出さないことが多いでしょう? とくに世界という大きい規模の物事に対しては、それを受け入れるだけで、何もしないことが多いと思う。コントロールの力が大きいから、自分たちが小さいと感じてしまうんですよね。でも、真実を語るというのは大切なこと。みんなの行動が未来に影響するのだから。その行動がパワフルかどうかは関係なくて、すべての行動が影響するんです。だからこそ私たちは立ち向かい、努力しなければならない。私たちを取り巻く世界は、私たちの世界なのですから。

今日はありがとうございました。

アノーニ:こちらこそ。より多くの日本の女性たちが、このインタヴューを読んでくれますように。

OPNはどこからきたのか? - ele-king

 電子実験音楽家、ひとまずはそう呼ぶとして、もはやその存在をどう位置づけていいかわからないほど鋭く時代と交差するこのプロデューサーについて、興味深いリイシューが3作届けられた。

 ジャネット・ジャクソンにルトスワフスキにナイン・インチ・ネイルズ、ソフィア・コッポラにANOHNIにFKAツイッグス……一つ一つの作品には緻密に詰められたコンセプトがあるものの、コラボもカヴァーも交友も、多彩にして解釈のつけにくい軌跡を描くOPNは、その旧作のカタログにおいてもかなりの整理しづらさを見せている。しかしそれもふくめて『Garden Of Delete』(2015年)――削除のあとに楽園があるのだと言われれば、なんとも居心地悪く笑うしかないが、この感覚はOPNを聴く感覚でもあるだろう。ともあれその複雑さを整理する上で、今回のリイシューは無視できない3枚である。

それでは簡単にそれぞれの内容説明を。

ライナーがどれもすばらしくおもしろいので、お買い上げになるのがよろしいかと思います。

 〈ワープ〉からリリースされ、ワールドワイドな出世作となった2013年の『R Plus Seven』、その同年に制作された『The Fall Into Time』は、初期のエッセンスが抽出されたものとして注目だ。

これは、2009年当時のシングルやライヴ音源などを含めたアンソロジー的内容の5枚組LPボックス作品『Rifts』を構成する1枚であり、コンパクトなアンソロという意味でも、また、純粋にノスタルジックなアンビエント作品を楽しむという意味合いでも、手にしておきたい再発である。

 じつは、その初期集成『Rifts』を構成する5枚のうち、3枚はそれぞれ独立した作品としてすでにリリースされている(『Betrayed In The Octagon』『Zones Without People』『Russian Mind』)。今回は先ほどの『The Fall Into Time』に加え、残りの『Drawn and Quartered』もリリース、これで5枚すべてがバラで買えるかたちとなった。これには“Transmat Memories”といった曲なども収録され、彼のやって来た道がほの見えるとともに、OPNによる「テクノの源流へと遡る旅」(ライナーより)とさえ言えるかもしれない。

 そして、今回の再発の中ではもっとも馴染みの方が多いであろう『Replica』。歯医者で聴こえるの摩擦音にTVゲームにイージーリスニングなど、雑多で儚いマテリアルを幽霊のように拾うプレ・ヴェイパーウェイヴ――いまやOPNの特徴のひとつとしてよく知られるようになった音が生まれた作品だ。

 リイシュー作品一挙3タイトル同時リリースを記念し、特典CDや〈Software〉のエコ・バッグがもらえるスペシャル・キャンペーンも開催される。特典CDの内容は下記をチェック!


Oneohtrix Point Never
The Fall Into Time

Software / ビート

■amazon
https://goo.gl/LjxosM

収録内容
1.Blue Drive
2.The Trouble With Being Born
3.Sand Partina
4.Melancholy Descriptions Of Simple 3D Environments
5.Memory Vague
6.KGB Nights



Oneohtrix Point Never
Drawn and Quartered

Software / ビート

■amazon
https://goo.gl/KIiaMu

収録内容
1.Lovergirls Precinct
2.Ships Without Meaning
3.Terminator Lake
4.Transmat Memories
5.A Pact Between Strangers
6.When I Get Back From New York
7.I Know It's Taking Pictures From Another Plane (Inside Your Sun)




Oneohtrix Point Never
Replica

Software / ビート

■amazon
https://goo.gl/oKcY6F

収録内容
1.Andro
2.Power Of Persuasion
3.Sleep Dealer
4.Remember
5.Replica
6.Nassau
7.Submersible
8.Up
9.Child Soldier
10.Explain


特典CD内容

1.Replica [ft. Limpe Fuchs] (Matmos Edit) (Bonus Track For Japan)
2.Replica [ft. Roger Robinson] (OPN Edit) (Bonus Track For Japan)
3.Remember (Surgeon Remix) (Bonus Track For Japan)
4.Nassau (Richard Youngs Remix) (Bonus Track For Japan)
5.Replica [ft. Roger Robinson] (Falty DL Remix) (Bonus Track For Japan)

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