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水滴のような電子音楽。〈ラスター・ノートン〉からリリースされたダーシャ・ラッシュのアルバムを聴いたとき、そのようなことを感じた。彼女はロシア人のエレクトロニクス・ミュージックのプロデューサーである。モスクワで育ち、現在、フランスで暮らしている。同時に世界中を飛び回る人気DJでもある。
ダーシャ・ラッシュのサウンド・コンポジションは、ダンス・ミュージックとエクスペリメンタル・ミュージックの境界線を曖昧にする。このアルバムも同様だ。聴く人をはぐらかし、夢の回廊へと誘うサウンドが16曲も収録されている。音の光と音の水滴を、その肌に感じさせてくれる音楽/音響とでもいうべきか。ロシアで水とくれば、どこかタルコフスキー的なイメージだが、ことはそう安易ではない。聴くことと無意識が混然一体となり、イメージとサウンドが融解する。そんなリスニング体験が本作にはあるのだ。
まずはダーシャ・ラッシュの音楽的経歴を振り返っておこう。最初の公式リリースは2004年に自身のレーベル〈ハンガー・トゥー・クリエイト〉から発表した12インチ・シングル「アンタイトルド・ハンガー」である。2004年暮れには、ダンス・ミュージックにフォーカスを当てた〈フルパンダ〉を〈ハンガー・トゥー・クリエイト〉のサブ・レーベルとして設立。同レーベルから2005年に12インチ・シングル「フルパンダ」を、2006年にファースト・アルバム『フォームス・アイント・フォーマット』をリリースした。いくつかのシングル・リリースを挟み、2009年に〈ハンガー・トゥー・クリエイト〉からセカンド・アルバム『アイ・ラン・アイロン・アイ・ラン・アイロニック』を発表。どの作品もテクノの機能性とエクスペリメンタルな音響処理が融合した作品であった。
ダーシャ・ラッシュのルーツはテクノにあるという。じじつ彼女は、世界中で人気DJとして活躍している(日本のドミューンでも見事なプレイを披露したことを覚えている人も多いはず)。12インチ・シングルのリリースも活発である。しかし、その音が機能的なダンス・ミュージックのクリシェに陥っていない点が重要なのだ。トラックの中心が水の流れのように流れ、はぐらかされ(歯車の流れを内側から変えていくように)、音の深層は官能的な表面性へと転換される(音のカーテンに触れているように)。リズムとサウンドは構造的に分断せずに空気のように融解していくのだ。それはビートの効いたトラックでも、エクスペリメンタルな作風の曲も変わらない彼女の強い個性に思える。
近年でもLars Hemmerlingとのユニット・ラダ(LADA)においては、ダーク・アンビエントな音を展開し、〈ソニック・グルーヴ〉や〈ディープ・サウンド・チャンネル〉からリリースされたソロ・シングルでは、インダストリアル/アンビエントなトラックをリリースしている。
2015年にネット上にアップされている彼女のスタジオ・ライヴを観てみよう。テクノを基調にしつつも、そのアンビンエンスな音響美学にさらに磨きがかかっているのがわかるはずだ。
そして、〈ラスター・ノートン〉からリリースされた待望の新作は、エクスペリメンタルな作風とレーベル・カラーのマリアージュが実現している傑作に仕上がっている。これまでのアルバムやトラック以上にテクノ的機能性は控えめで、サウンド・デザイナー、ダーシャ・ラッシュの個性が全面に出ているのだ。アルバムのテーマは不眠と眠りがテーマという。CD盤には豪華なブックレットが付属され、そこにダーシャによる世界各地の写真に詩が添えられている。音とヴィジュアルと言葉によって、自身のアートや思想を表現しているように思える。
同時に、これほどに音の温度・色彩・光の濃度が変化していくような不定形な感覚に満ちた音楽も稀だ。ピアノ、ビート、電子音、微かなノイズ、アンビエント、そして彼女のポエトリー・リーディングなどが霧のように交錯し、不可思議な浮遊感を漂わせている。何回聴いても聴ききった気がしない。夢に宙吊りにされる感覚。それゆえ思わず繰り返し聴いてしまう悦楽。
最初に書いたように、そのサウンドは水滴のようだ。ピアノのアルペジオもビートも電子音のアンビエンスも滴り落ちる水滴のように透明で不安定な優雅さがある。また、深海から光を見上げるような感覚もある。さらにはビートには、闇の中のバレエのステップのようなリズムも感じる。
私は、そんな彼女の音を聴いていると20世紀初頭の芸術運動を想起してしまう。ダーシャ・ラッシュは形式の安定性を揺るがし、言葉や表現の意味をずらしていく。そうしてフォームとフォームを結合させていく。ダダ、未来派、シュールリアリズムのように。じっさいダーシャ・ラッシュは教会や劇場などでジャンルを越境するようなコンサートのプレゼンテーションを行っているという。本作のために作られたティーザー映像にもどこか無声映画時代の映像を感じる。
2015年。20世紀が終わり、21世紀に突入し、既に15年が経過した。いよいよもって20世紀的な経済構造や社会構造が限界と終局を迎えつつある時代である。それは終わりの始まりの時代といえる。
インダストリアル/テクノ以降のエクスペリメンタル・ミュージックは、そのような時代の無意識を敏感に察知し、20世紀初頭のモダニズムへと回帰している。それが円環的な回帰なのか、終局の反復なのかはわからないが、20世紀の総括を無意識に求めているという点は事実だろう。世界中でリミテッド・リリースされているエクスペリメンタル・ミュージックは、その無意識を敏感に察知している。たとえば、〈エントラクト〉からリリースされているカフカの病床での手紙やメモを即興演奏で音響化したジョセフ・クレイトン・ミルズ『ザ・ペイシェント』は、カフカと即興演奏を接続させていくことで、ドイツ/文学/無声映画/音響と20世紀の芸術の歴史を越境させている傑作であった。また。AGFのエレクトロニクス・ミュージックにおけるダダイズム的な旺盛創作なども例に上げていいだろう。もちろんアンディ・ストット=〈モダン・ラヴ〉のサウンド/ヴィジュアル運動も、である。
ダーシャ・ラッシュの新作も同様だ。彼女はシュールリアリズム的なイメージを援用することで、20世紀の芸術運動を21世紀の音楽に内包させている。これは反復やノスタルジアではない(じじつ、だれもその時代に生きていたわけではない)。文化・芸術を、ここで総括させるという無意識の発露であり、終わりからの始まりを示す重要な兆候といえる。そしてその本質にあるのは不安の発露だ(彼女は形式の円滑な作動を内側から優雅に壊す)。このダーシャ・ラッシュの新作は、そんな私たちの無意識=不安に作用するアルバムなのである。だからこそ水滴のような音で私たちの不眠と夢の領域を曖昧にするのだ。睡眠へのステップ。不安。闇。光。水滴。まさに夢の回廊のような稀有な作品である。
デンシノオト