Home > Reviews > Film Reviews > キック・アス ジャスティス・フォーエバー
木津 毅
ナイーヴな文化系男子たちがいかにクロエ・グレース・モレッツが好きか、前作『キック・アス』での少女の登場にヤラれたかはわかった。それはいい。冒頭、防弾チョッキを着てクロエに吹っ飛ばされる主人公デイヴの嬉しそうな表情には「やれやれ」とはまあ思うけれども、それは自分のなかでずいぶん前に解決した問題だ。だから先に書いておくと、たしかに本作のクロエもまた、最高だ。学園ドラマのヒエラルキーの最高ランクに位置する女王蜂とその取り巻き(たぶん、きみのことを10代のときにキモいオタク扱いしたあいつらだよ)を、颯爽とクソ扱いし、将来とアイデンティティに迷うデイヴを(そして、きみを)男として鍛え上げてくれる。
問題は、「ジャスティス」のほうだ。第一作の時点で、クリストファー・ノーラン『ダークナイト』においてぐずぐずと正義に悩んでしまうバットマンに対するカウンターとして機能していた本シリーズはまたこの2作目で、(バットマンのような)特権階級でもなく、警察のような権力でもない、普通の人びとの正義はもっとシンプルなものであるはずだと主張する。たしかにそうだ……いや、そうなのか? 僕はそこに引っかかる。「市井の人びとの理想主義」を称揚する僕のような人間はむしろ本作を味方しなければならないのではないか、という内なる声も聞こえるがしかし、彼らが作る自警団に賛同しきることができない。
この映画で敵として設定されるのは、私怨を晴らすために金で暴力を雇う資産家だ。それが現代資本主義社会のカリカチュアであるならば、本作の主張は「正しい」。しかしその正しさはおそらく同時に自分の首を絞める罠にもなり得るだろう。たとえばクロエ演じるヒット・ガールが卒業試験としてキック・アスと戦わせるチンピラたち、彼らにどれほどの「悪」があるのだろう? 資本主義の奴隷だから? そうかもしれない……が、本シリーズは痛快さを追求するあまり、おもにゼロ年代からのアメコミ・ヒーローものが取り組んだ倫理の多様性の問題をやや大雑把に扱っているように感じられてしまう。
たしかに僕も『ダークナイト』は過大評価されているとは思う。あの薄暗い画面のなかで、自意識を募らせるばかりで身動きが取れないバットマンには苛立ちを感じる……。ただ、もしあの映画に「正義」があったとすれば、観念的な論理を繰り広げるジョーカーに翻弄される「ヒーロー」の下にではなくて、暴力の被害者になりながらあっさりと暴力の誘惑を放棄するフェリーの船長……まさしく「小市民」の下に、であった。だとすれば、本作『ジャスティス・フォーエバー』で自警団の闘いがどうにも小競り合いに見えてしまう僕にとって、ここでの正義は主人公デイヴの父親の下に宿っているように見える。小市民たる父は暴力に屈するばかりなのだが、しかし自分の弱さを隠さない。しかしながらそれは「正義」という言葉よりも、「愛」のほうが近いのかもしれない。
『キック・アス』が3部作になるとして、僕が次回作に期待したいのはデイヴの成長ではなくてヒット・ガール=ミンディ=クロエ・グレース・モレッツの成長だ。それは本シリーズのコアがまさにクロエそのものであるという事実によってだけでなく、彼女が自分の強さのなかに弱さを見つけたときに、またそれを認めたときにこそ、『キック・アス』における人びとの正義は深みと多様性を持ち始めるのではないかと思うからだ。『バットマン』シリーズへの痛快な苦言としてではなく、ヒット・ガールがただ存在するだけでパワフルなメッセージが放たれる瞬間が見たい。
木津 毅