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音楽が空間に溶けていく。その感覚を、これほどまでに緻密なポップ・ソングの集積として成立させたアルバムは、そう多くないだろう。洗練されたソングライティング、シンセサイザーやギターが描く淡い音像、そして残響のなかにゆっくりと輪郭を失っていくヴォーカル。
ブリオンことネイサン・ジェンキンスの『Nearly』は、聴き手を「音楽」の内部へと誘いながら、しかし、その音楽をつかもうとするたびに形を変えていくような、浮遊感に満ちたアルバムであった。
本作のリリースは〈Ghostly International〉からである。〈Ghostly International〉は1999年に米国ミシガン州で設立されたレーベルで、エレクトロニック・ミュージックを軸に、アンビエントや電子音楽、インディ・ポップまで幅広く扱い、電子音とソングライティングの接点を探ってきた。本作『Nearly』も、そのカタログに自然に位置づけられるアルバムといえるだろう。
ロンドンを拠点に活動してきたジェンキンスの音楽的な出発点にあるのが、2007年に発表された『Pet Sounds: In the Key of Dee』だ。ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』とJ・ディラのビート・メイキングを融合したこの作品は、サンプリングの手法を通じて、彼の編集感覚と音楽的想像力を示した。その後、2012年の『Love Me Oh Please Love Me』、2016年の『Loop the Loop』では、電子音と生楽器、ヴォーカルを組み合わせた独自のポップを追求。2020年の『We Had a Good Time』と『Heaven Is Over』では、ハウスやシンセ・ポップの要素を取り込みながら、メロディと音響の関係をさらに洗練させていった。
ブリオンのプロデューサーとしての能力を理解するうえで、代表作として取り上げたいのが、アヴァロン・エマーソンとの『Avalon Emerson & the Charm』(2023年)である。テクノDJ、プロデューサーとして知られるエマーソンが、歌とバンド・サウンドを中心とする音楽へと踏み出した作品だ。ドリーム・ポップとバレアリックな感覚、柔らかなシンセ・ポップが交差するこのアルバムで、ブリオンは共同プロデューサーとして重要な役割を担った。
『Avalon Emerson & the Charm』の制作の出発点にあったのは、エマーソンが自宅で作ったコード進行やビートのスケッチだったという。彼女は当初、それらを完成した楽曲と呼ぶことにためらいを感じていた。ブリオンとの共同作業は、そうした断片に構成やアレンジを与え、歌として成立させるプロセスだった。象徴的なのが、冒頭を飾る “Sandrail Silhouette” である。シンセサイザーやギターを用いた小さなアイデアが、チェロなどの生楽器を取り入れることで、柔らかな輪郭を持つポップ・ソングへと発展している。電子音で作ったベースラインを実際のベーシストの演奏へと置き換えるなど、プログラミングだけでは得られない身体的なグルーヴを取り込んだ点も重要だ。
『Avalon Emerson & the Charm』でブリオンが発揮したのは、たんに音を整える技術ではない。エマーソン自身がインタヴューで語っているように、彼は歌詞の言葉の響きや、歌ったときの語感、曲のイントロが長すぎないかといった細部まで検討し、アイデアを完成形へと導いた。制作を主導しすぎることなく、アーティストの判断を引き出しながら、必要なときには具体的な修正を提案する。その柔軟な協働のあり方こそ、ブリオンのプロデュース・ワークの本質だろう。エレクトロニック・ミュージックの制作で培われた編集感覚を生かしながら、歌や演奏の自然な揺らぎを受け入れていく。『Avalon Emerson & the Charm』は、その資質がもっともわかりやすく表れた作品のひとつである。
こうした経験は、2024年のブリオン名義の『Affection』にもつながっている。カーリー・レイ・ジェプセン、パンダ・ベア、シャーロット・アディジェリーらを迎えながら、メロディの魅力と電子的な音響処理を両立させた同作では、ジェンキンス自身のソングライティングが、他者との協働によって培われた感覚と結びついていた。
新作『Nearly』はそれらの延長線上にありながら、さらに音数を絞り、余白そのものを表現の中心へと据えている点が新しい。じつに洗練された現代のエレクトロニック・ポップ/シンセポップなのだ。
冒頭の “Very Few Inspirations” から印象的なのは、音数を抑えながら、ひとつひとつの音の存在感を際立たせる手法である。続く “Roo” では、柔らかなリズムと浮遊するシンセサイザー、ギターの響きが重なり、耳に馴染みやすいメロディが残響のなかに置かれる。ヨット・ロックやソフィスティ・ポップに通じる和声感覚、ソウル由来の滑らかな旋律、電子音響の空間処理が、自然に溶け合っている。
エル・ディヴァインを迎えた “Francis Ford” と “The Arm of Cinderella” では、ゲストの声が楽曲に明確なフックを与えながら、アルバム全体の繊細な音響設計に溶け込ませている。ポップネスは、メロディを強く押し出すことだけで生まれるのではない。そうではなく声と楽器の距離、和音の移り変わり、リズムのわずかな揺れを調整することによっても、旋律は自然に聴き手の記憶に残るのだ。
その手法が印象的に結実しているのが、“Young Shiver” である。揺らぐシンセサイザーの音色にドラムが加わり、ヴォーカルの断片や残響の変化を通じて、楽曲の表情が少しずつ変わっていく。音を重ねて劇的な展開をつくるのではなく、音が加わるタイミングや、フレーズが反復される際の微細な差異によって、曲の内部に豊かな時間を生み出している。
また、“Forget Performer” では、打楽器の響きが空間に散っていくような残響処理が印象に残る。加えて “Applegene” では、シューゲイズを思わせるギターと歪んだシンセサイザーが交錯する。ここでのリヴァーブやディレイは、音を美しく装飾するためだけの効果ではない。音が消えていく時間までを設計し、メロディの感じ方や楽曲の広がりそのものを変えるための手段だ。簡素に聴こえるアレンジの内部には、細部にまで行き届いた編集と配置の技術がある。
『Nearly』の心地よさは、単に音色が柔らかく、耳当たりがよいことから生まれているのではない点にある。アヴァロン・エマーソンのように異なる音楽的背景を持つアーティストとの協働を通じて、ジェンキンスは断片的なアイデアを楽曲へと育てる技術と、歌の魅力を損なわずに音響を緻密化する方法を磨いてきたわけだが、その経験が、今回は自身のメロディとヴォーカルへと向けられているとすべきだ。ポップ・ソングとしての親しみやすさと、電子音響作品としての奥行き。その両方を無理なく成立させた『Nearly』は、プロデューサーとソングライターというふたつの役割が、ひとつの音楽的な感性へと結びついた作品といえよう。
デンシノオト