Home > Reviews > Book Reviews > ヒロインズ- ケイト・ザンブレノ 訳:西山敦子
「なんじゃそれ」と思う。大学の入試問題。性差で試験の点数が異なるってどういうこと? 男のぼくは得したことになる。それでいいのか女たちよ。オレより君の方が能力が上なのにただ男ってだけでオレは優遇されちゃうのよ。それでよいの? と自分の性を棚上げにして思う。しかし女性の怒り狂った声はほんの少ししか聞こえてこない。諦観ゆえなのか。それとも怒る感情を忘れてしまったのか。怒るやり方を思い出そうというならぜひともこの本を読んでほしい。
1977年生まれの著者は怒り狂っている。1920年代、男のものであったモダニズム文学の歴史からさかのぼって、その作家の妻たち、ゼルダ・フィッツジェラルド、ヴィヴィアン(T・S・エリオットの妻)、ジェイン・ボウルズら、また女性作家のヴァージニア・ウルフやシルヴィア・プラスなどと読書というチャネリングを通して共謀し男性作家たちの行状をつまびらかに明らかにしてゆく。なぜ女たちは自分たちの言語で語ることが困難なのか。なぜ男たちの作った土壌の上で書かなければいけないのか。なぜ女たちの言葉は軽くみられるのか。なぜ男の作家たちは妻の書く言葉を恐れるのか等々。そしてモダニズム文学の周縁に置かれ続けてきた彼女たちの姿を浮かび上がらせてゆく。
20年代はモダニズム文学の時代であるとともに精神分析の時代。たくさんの作家たちが精神の破綻を文学のなかに取り入れた。彼女たちは作家の創作の汀で精神の安定を失っていく。「婚姻」によってただ男の傍らに置かれたもともと創作好きなフツウではない女たちが被る不自然な社会的な構造状態が浮き彫りになるのだ。表現者の妻、つまり一番作家の文学に近しい同志であるはずなのに、婚姻という制度が間に置かれることによって破綻をしてしまう。作家自身もどこか社会的にフツウでない存在ではあるけれど作品によって、また男という立場によって社会的な地位を得ることができる。しかしその妻はただ狂気のなかに置いてけぼりを喰ったまま。そして妻の狂気を夫は作品にさえ記録してしまいその表現が文学として大きな評価を得てきたのだ。考えてみてほしいのは、妻たちも自分たちの言葉を必死に書いたということ。しかし彼女たちは精神分析によって、また作家によってフツウではないと二重に都合よくカテゴライズされその存在をある意味消されてきたのではないか。
女の存在を消してしまう文学とはなにかという問題系はヴァージニア・ウルフやジェイン・ボウルズなどが男性作家のなかで、また家庭を持ちながら創作をする困難から説明される。そこにはどこか男性のように書かなくてはいけないという規範が押し付けられていないか。また家庭を維持しながらよい妻、よい母親でいながら書かなくてはいけないという困難など。
この本はそのように表現者の女性たちをスポイルしているものが何かを問う本であるのと同時に、著者が「何かを書きたい」と思ってからの半生を振り返ったものでもある。作品をむさぼり読む。ゼルダたちの作品にもならなかった手稿、手紙、日記までを丹念に読み込んでゆく。なぜ私は書けないんだ、作家になれないんだ、前に立ちはだかる抑制され洗練された男たちの文学に対して怒りをぶちまけながら立ち向かってゆく半生が描かれる。
そして現在の若者文化。手帳、紙片、日記、ブログ、タンブラーに書き散らされたさまざまな痛々しくも切実な「自分を描きたい」という衝動の言葉の数々をも著者はそれが文学表現なのだという。また「作家であるか否かは基本的にアイデンティティの問題だ」とまでいう最終章を読みながら、考えてしまう。スノッブが洗練されない落書を評価しようとするようなやり方だとは思わない。まずは書くことをあきらめないこと。始める場所だけは取り戻さなくちゃ。
作家には誰でもがなれるのかもしれない。しかし著者が作家になるために書かなければならなかった400頁にも及ぶ分量はどうだろう。彼女の言葉を読ませてしまうのは、やはり彼女の書く文学の強度であり、むさぼり読んだ後に出来上がった否定し去るべきモダニズム文学も併せ持った文体なのではないだろうかとも思うのだ。それに「私」というものの豊かな厚み。抑制のない書き散らされた散文から強固に作り上げられたモダニズム文学までのふり幅のなかで書かれているからこそこの本が面白いのではないかという矛盾がはらまれている。著者のフェミニズムが異性とのファックをも肯定したフェミニズムでもあるように著者のなかに矛盾を矛盾のまま抱え込んでいて、だからこそこちらに強く届くのだ。
zineを作ったり個人ブログの公開をするなどして無名なまま創作する人たち、とくにそのような表現をしようという女性たちに向ってこの本は書かれている。どんなことがあっても自分がここにあるという表現を手放してはだめだというアジテーションで締めくくられている。
本書はC.I.P. Booksという静岡県の東側、三島市の小さな版元から出版された第一冊目。CIP(クライ・イン・パブリック)は本書の訳者:西山敦子さんが主宰しているオルタナティブな場所で、日々さまざまなミーティングやワークショップやライブが行われている。
市原健太