Home > Reviews > Album Reviews > 相対性理論- 正しい相対性理論
仕事の電話で資料の送付先を聞かれることがたまにある。
「ええ! 宛名は、松竹梅の松に市町村の村。下の名前は正しいに人です。そうそう! 正しい人です! 決まってるじゃないですか!」
こういっているときに私は表面上は穏やかだが内心は怒っている。誰に怒っているかというと、三田さんいうところの「極度のマイナー体質」であることにうすうす勘づいているにも関わらず、名は体を表すとはいえない自分自身に怒っている以上に名づけ親に怒っている。いや、そうではない。私の名前候補はほかにあった。「角栄」というのがそれだ。自民党支持者だった私の父は私が生まれた二日後に総理大臣になった田中角栄にあやかってつけようとしたらしいが、それを思いとどまってくれただけでも私は親父をリスペクトしたい。角栄となれば、私はモノマネ芸人になるか、『笑っていいとも!』とかの「珍名さんいらっしゃい」的なコーナーに出るか、列島改造を叫んで地元に原発を建てるかしかなかった(もっとも「康弘」とか「純一郎」とかでなかったのは不幸中の幸いだけど)。
相対性理論がリミックス作のタイトルに『正しい相対性理論』とつけたのに私の親父以上の葛藤があったかどうかは知らないが、リミックス・アルバム(彼らの説明によれば「再構築アルバム」)という自己解体的なアルバムを「正しい」と呼ぶことにふくむところはあった。相対性理論はそこに自己言及的なユーモアだけでなく、相対性理論という科学思想の正誤を問う観点と同時に、観測者の条件であるときは「一般」となり、「特殊」ともなる相対性理論というものの考えをアートの枠組みに移したとき、奇妙な転倒が起こるということをはじめて意識的に示した。言葉遊びというよりも暗示だった。暗示であるがゆえに、このアルバムでは相対性理論とリミキサー以上にリスナーが相対性理論の正しさを、正しさという概念を含め、検証する側にまわることになる。内容は問題にならない......わけはないが、名は体を表すことはときとしてあり得る。
では中身はといえば、『正しい相対性理論』の各曲は各人が各人の方法論にきわめて自覚的に解体~再構築を施していて、誰がどの曲をやったかクレジットを見なくてもわかる。それは想定内ということではない。ハーバートからコーネリアスまで、『正しい~』の10人のリミキサーは相対性理論を触媒に音楽を自由に遊ばせながら、その底にある旨味をひきだすことで音楽そのものに語らせている。何を語らせるのか、といえば彼らの音楽のつかまえ方である。やくしまるえつこの歌とピアノをフェイズさせた坂本龍一のミニマル・ポップにしろ、曲を解体~再構築する過程で疑似スパンク・ハッピー(カラオケversion?)を仕立ててみせた菊地成孔にしろ、独自の音響空間を作った大友良英にしろ、『正しい~』は三者三様の、というか、十者十様の音楽の思考形態を明解に奏でていて、3月11日からこっちの重苦しいムードのなかでも、誰もが好き勝手にものを考えている(た)というあたりまえのことを、言葉でなく音楽で語るようだといったらいいすぎかもしれないですが、複数の声(ヴォイス)を共存させた『正しい相対性理論』の多様性はすくなくともそのことを暗示している。リスナーはむしろ、ファンク~ヒップホップ調の"Q/P"、ロックンロール風の "Q&Q"、宅録ポップな"(1+1)"といった彼らの3曲の新録の方が相対性理論っぽくないと思うのではないか。習作的なニュアンスのあるこの3曲は『シンクロニシティーン』でひとつの完成をみた相対性理論のポップ・ミュージック、ちょっと乱暴にいいきってしまうと彼らの80Sマナーの「先」に何があるかほのめかすようだ。想像をかきたてる。目をつむってちょっと考えてみてくれ。
そのみらいはきっと全部正しい。
君は正しい、僕も正しい。
松村正人