Home > Reviews > Album Reviews > Stephen Cornford & Samuel Rodgers- Boring Embroidery
ステファン・コーンフォードは英国の音響作家/即興音楽家である。彼は改造したテープ・レコーダーを会場に何台も設置し、それらが同時に(もちろん、アナログな機械ゆえさまざまなズレを持って)発する不連続ループ音響によるサウンド・アート作品などを制作している。公式サイトでは、他にもいくつものインスタレーション作品の動画を観ることができるのだが、そのどれもがアナログな機械の誤動作や独特の響きの揺れなどを活用した「不確定な響き」が耳に心地よい作品ばかりである。人間の介在をまたないキカイノオトの自由な演奏、合奏。
コーンフォードのサウンド・アーティストの側面の音源は、音響作家ジュセッペ・イエラシが運営する物音響レーベル〈セヌフォ・エディションズ(Senufo Editions)〉から2012年にリリースされたアルバム『バイナトーン・ギャラクシー(Binatone Galaxy)』などに音源としてまとめられている。『バイナトーン・ギャラクシー』は、先のカセットテープ・レコーダーのインスタレーションのCD作品となっている。トラックごとに"トリオ"や"クインテット"となっており、人間の介在しないキカイノオトたちの、開放感に満ちた物音アンサンブルを満喫できる作品である。
これらインスタレーション(系統の)作品と並行して、いわゆる即興音楽家としての活動も充実している。そのCDリリースの拠点(?)が同じく英国の即興音楽レーベル〈アナザー・ティンブレ〉だ。このレーベルは、ヒュー・ディビスのリイシューや、ヴァンデルヴァイザー楽派の作品を録音した6枚組ボックスセット『ヴァンデルヴァイザー・ウント・ゾー・ヴァイテル(Wandelweiser und so weiter)』をリリースするなど、マニアの間では即興音楽/音響の現在を語る上で欠かせないレーベルである。ステファン・コーンフォードは、先のボックスセットや、ジョン・ケージの『カートリッジ・ミュージック(Cartridge Music)』などにも演奏者として参加している。ちなみに、同レーベルのケージ作品は、『フォー・4(Four4)』、ステファン・コーンフォード参加作品では、パトリック・ファーマーらとの『ノー・アイランズ(No Islands)』収録の"フォー・6(Four6)"などがある。
そして、コーンフォードの即興音楽演奏家としての重要な仕事に、ピアニスト、サミュエル・ロジャースとのデュオがある。これまでも〈アナザー・ティンブレ〉からCD-R作品『ズィンク[エクストラクト](Zinc [extract]]』や『ターンド・モーメント,ウェイティング(Turned Moment, weighting)』(2009)をリリースしており、どれもその鉱物的な響きがとにかく素晴らしい作品である。コーンフォードのノイズとロジャースのプリペアドされたピアノとのマッチングが耳に快楽を与えくれる。そして本年2013年にリリースされた『ボーリング・エンブロイデリー(Boring Embroidery)』において、ふたりのデュオ演奏が頂点を迎えたように思えた(リリースは、〈アナザー・ティンブレ〉ではなく、〈cathnor〉である。またCD-R作品ではなくプレスCDである)。
『ボーリング・エンブロイデリー』は、静寂にして芯のある音響の持続からはじまり、さまざまなノイズや、プリペアドピアノの多様で硬質で鉱物的な響きが絡まり合っていく。音響空間のなかに点描のように打たれる音から、掠れる響きの持続と接続。その共振。震動。鉄のように乾いた音。それらはいわゆる人間的な情念からは、遠く離れたマテリアルな音を発している。シリアスな演奏であるのに、不必要な重さがなく、演奏者のふたりが音の物質的交錯から生成する緊張感に全身で共鳴しているような即興演奏が続いていくのだ。
『ボーリング・エンブロイデリー』の、さらに重要な点はプリペアドではなく、ピアノの響きがより効果的に用いられている点である。このサミュエル・ロジャースのピアノが非常に良い。これまでの作品でも、ピアノの響きは聴こえてきたが、本作において、まるでアンビエントともいえるようなクリスタルな響きが、コーンフォードの鉱物的なノイズと見事に重なり合い、より大きな、そして繊細なアンビエンスを形成しているように思えた。2トラック目のはじめに、不意に打たれる乾いた鉄の欠片のようなノイズと共に放たれる、無調と調性の間にあるようなピアノ! このトラックでは、ピアノの点描的な響きと、プリペアドされたノイズが静かに絶妙に混じり合う。いや、混じり合うという言い方は正しくない。それらの音は濁った点など皆無であり、砕け散ったクリスタルとでも形容したい音である。3トラック目においては、霧のなかの微かな光のようなロジャースのピアノが次第に明晰になっていくのを聴くことができる。音の生成と移行からピアノにクリスタルな響きの生成変化へ。コーンフォードの鉱物的なノイズも、ピアノの響きの変化に繊細/ダイナミックに呼応し変化を遂げていく。まるで静かな電気ノコギリが発するような鉱物的な音と、ピアノの点描的で調性と無調の間にあるような響きの交錯がたまらない。つづく4トラック目から5トラック目にかけて、ノイズとピアノが静寂のなかに打たれる水墨画のような音の連鎖を生みだしていくのだ......。
この作品に限らず、ステファン・コーンフォードの演奏やインスタレーションの音響の質感には、不思議なコクのようなものがある。芯がある音。物質的な音の魅惑というか。それでいて不用意な重さがまるでなく、ある種の軽やかな楽天性がある。開けられた窓から感じる外気のような開放感とでもいうような。思えば、コーンフォードが参加した『ノー・アイランズ』の"フォー・6"は、開け放たれた窓から聴こえる鳥の声が、そのまま聴こえてきた。いわば鳥とマテリアルな音が共存する世界。即興演奏によるケージ解釈には、ともすれば「人間(的な何か)」が介在し過ぎてしまう危険性があるものだが、コーンフォード(と〈アナザー・ティンブレ〉の音響作家たち)の音響/演奏には、壊れた機械たちの奏でる不安定にして魅惑的な「演奏」のように、人間がいないことに対する奇妙な楽天性があるように思えた。まるでヒトがいないセカイで鳴る、軽やかでコクのある即興/音楽のように。アナログでありながらポスト・ヒューマン。マテリアルのオプティシズムが、そこにある。
デンシノオト