Home > Reviews > Album Reviews > Suphala- Alien Ancestry
タブラというこのマイナーな楽器における世界的に著名な奏者といえば、やはりザキール・フセインの名を挙げねばならないだろう。彼は民族楽器と呼ばれるものをその伝統の檻から解き放ち、種々のアーティストと交流しつづけることでいまもなお絶大な影響力を保っているのであるが、その父アラ・ラカもまたタブラの使い手であり、こちらは祝祭と狂乱の奇蹟としていまだに語り継がれているあのウッドストック・フェスティヴァルにおいて才能をいかんなく披露していたのだった。この偉大なる親子に師事したスファラはタブラを扱う「正統」な後継者とも呼べるのであろうが、そのことは北インドの歴史を背負いつつも、それが根づこうとする圧力には抗いながら音楽を奏でているということを意味する。彼女の名義による4枚めのアルバムが、鬼才ジョン・ゾーンの主宰する〈ツァディク〉から、先鋭的な女性の音楽家に注目する「オラクルズ」シリーズの一環としてリリースされた。周知のようにこのレーベルにおいては、実験のための実験に堕することのないいわば快楽に対して開かれた音楽が数多く出されており、本作品もまたタブラがもつユニークな音色とその連なりが生みだす躍動感がダイレクトに聴く者を刺激する、爽快なアルバムに仕上がっている。
スファラはインド系移民の両親のもとにアメリカ合衆国でこの世に生を享けた。それは生誕からして、ある民族に固有な血の流れが伝統として育まれる領域に、安住することを許されていなかったのだとも言える。この宿命的なタブラの後継者は、1枚めのアルバムにおいてエレクトロニクスを大胆に導入してみせ、つづく2作品ではハスキーな低音とクリアーな高音が特徴的な自身の声をも駆使することで新たな境地を切り拓いたのだったが、本作品に至ってようやく、彼女によるタブラの演奏それ自体が前面に押し出された音楽が生みだされることとなった。それはたとえば、1曲めの“インタールード”に参加した新世代のジャズ・ヴォーカリストであるホセ・ジェイムズの歌声が、まるで声明のような唸りを持続させることによって、歌い手を焦点化することを徹底的に回避しようとしていることからも窺えるだろう。歌というものは、あらゆる楽器を後景に退かせる強度をもっている。実際、前2作において歌い手をフィーチャリングした楽曲では、スファラがどれほど魅惑的な打撃を行おうとも、それらはどうしても歌声を脇で支える役目から前に出ることはできないでいた。しかしここにおいて聴かれるのは声を基層とすることで際立つタブラの響きであり、その鋭いリズム感覚なのである。
続く楽曲においても、その中心は常にスファラとタブラの間に生まれる即物的な緊張関係におかれている。旋律を奏でるということがメタファーではなく具体的に、それもスティールパンのようにあらかじめ設えられた音高を組み合わせるのではなく掌の微妙な力加減によって実現できるこの特異な打楽器から聴かれるのは、奏者の肉体と呼応する音の流れ。まさにスファラの掌が歌う。それはタブラに触れ、撫でまわし、一方で烈しく叩きつけるという北インドの身体性を、ニューヨークの地下水脈を掘り起こすようにして実現するという重みをもっている。そうして8曲めの“エイト・アンド・ア・ハーフ・バーズ”に至ったとき、音の質感がガラリと変わることに聴き手は驚かされる。この楽曲はスファラの3枚めのアルバムのある楽曲を、彼女と同様にインドの歴史を背負ったピアニストのヴィジェイ・アイアーがリミックスしたもので、いわばスファラとタブラが織り成す緊張関係を解剖台の上におくことでつぶさに観察できるようにしたものとなっている。さらに最後の楽曲である9曲めの“ヴァシカラン”では、ザキール・フセインとユニットを組んでもいるベーシストのビル・ラズウェルによって、本アルバムそのものがリミックスの素材にされる。聴き手はこれまでの体験を辿り直しながら、記憶と記録のあわいへと投げ込まれることとなる。
本作品に限ったことではないのだが、スファラが奏するタブラには、不思議と異国情緒の響きがない。彼女は打撃という非楽音=ノイズの瞬間的な発生、もしくは曖昧な輪郭をもったまとまりによって生まれる音の微細な固有性といったものを際立たせ、そして歌わせる。ピアノ、トランペット、サキソフォンなどの西洋楽器によるエスニックな旋律を、タブラの「都会的」な音色とリズムが先導する。このことはしかし伝統の脱色を意味することはない。彼女の音楽はあくまで特定の民族楽器に独自な語法に定位しつつ、そこに堆積した時間の澱みを凝固させることなく現在の文化の中へと鋳直すことで、伝統の再活性化を図ろうとするものであるからだ。だからかつて世の中を賑わせたようなワールド・ミュージックといったたぐいの、表層的なエスニシティの乱用とは異質なものでもある。そしてこうした試みの内実は、彼女によるタブラの演奏が中心におかれることでやっと明確化されたのだ。このように考えたとき、本作品は単に若手の先鋭的な女性タブラ奏者が名だたるジャズメンとセッションを繰り広げたというだけでは収まりきらないような、伝統と革新の往還運動がもたらす悦びを、聴き手に届けてくれるのである。
細田成嗣