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昨年、イランで1日だけSNSが使えるようになった日があり、その翌日には政府が公式には解禁を否定するという報道があった。穏健派のロウハニがSNSを使えるようにすることで何が起きるかテストをしたのだろうという希望的な見解が大勢を占め、このところ観光客が激増しているイランの開放路線にさらなる期待を寄せるという欲望がそれには先立っているように感じられた。ロウハニはたしかに国際平和にとって希望の星だとは思いたい。しかし、映画界を見れば、いまだにマルジャン・サトラビもバフマン・ゴバディも国外逃亡の状態が続いている。庶民的な家族像を描くマジッド・マジディが悪い監督だとは言わないけれど、『オフサイド・ガールズ』(2006)を撮ったために20年間の映画製作禁止を言い渡されたジャファール・パナヒの例といい、イランがSNSを解禁したところで、政府に不都合なことを書き込み、500回以上RTされたら逮捕されるとした中国(最初の逮捕者は中学生だったとか)と大してちがうことにはならないだろうと思えてしまい、こういうことがいわゆる朗報には感じられない。安倍の「洗脳」もネトウヨの「自虐史観」もつまるところは批評行為を許さないということにしか行き着かないし、レイラやドクター・アトモといったイラン系の音楽家からその背後にある文化に興味を持つようになった身としては、このように興味深い映画が片端から潰されていく事態はやはり受け入れがたい。
テクノには基本的には言葉がないからか、同じくイランの首都テヘランで生まれ、〈ワープ〉からソートの名義で『エレクトリック・デフ』(2002)をリリースしたアタ・エブテカールは一時期ベルリンに居住し、現在はテヘランとサンフランシスコを自在に往復しながら活動を続けているミュージシャンである。もともとはドクター・アトモと同じく90年代にジャーマン・トランスが音楽の入り口となったようで、ドラムン・ベースのミュージシャンに何例かあったとおり、途中でイスラム圏にある祖国に戻り、その後は伝統音楽とテクノの融合を試みるひとりとなっていく。じつはアラベスク模様がキレイだなと思って手に取った『オーナメンタル(Ornamental)』(2009)の作者がソートと同一人物だということを後になってから知り、彼がそれ以前にもイランの電子音楽の歴史を振り返った『ペルシアン・エレクトロニック・ミュージック イエスタデイ・アンド・トゥデイ 1966 - 2006』(2007)のような作品にも手を出していたことにも気づいたのだけれど、それらがどこに向かおうとしているのかはよくわからなかった。あるいはソートで展開していたドラムン・ベースとの距離はどんどん広がる一方で、先に「融合」とは書いたけれど、もしかして伝統に呑み込まれていくだけでは……という訝しみも生まれていた。少なくとも彼がアタ・エブテカールの名義を使うときはそのように感じていた。
そして、7年ぶりにソートの名義である。レーベルもモーフォシスの〈モーフィーン〉とくれば、さらに期待は高まる。モーフォシスはレバノン出身のDJで90年代からおもにドイツやイタリーで活動をつづけ、アンソニー・シェイカーやチャールズ・コーヘン、メタスプライスやコンティナー(また出た!)といった曲者のリリース群だけでなく、自分でトラックを作りはじめたら、これも大絶賛という、いまや波に乗りまくった存在である(『ele-king vol.14』p.71)。この波にまさかソートが加わるとは思っても見なかった。アルバム・タイトルは『知識体系』。そして、全7曲がまさしく〈ワープ〉で展開していたドラムン・ベースとイランの伝統音楽から持ち帰ってきたような神秘性の融合、あるいはダイナミックなドラミングから一転してアンビエンスへと翻る柔軟性と、どこを取ってもワールド・ダンス・ミュージックのフロントラインと呼べる独創性を感じさせる。しかも、これまで彼がつくってきた作品のなかではダントツに気持ちがよく、イラン政府が禁じたくなるような快楽性に満ち満ちている。そう、映画監督たちが外側から食い破れなかった政治体制をもしかしたら内側から食い破ってしまうかもしれない可能性を感じさせるのである。“リル”や“ボリデ”といったファニーな曲がそれこそイランのイメージを変えていったらおもしろおもしろいのに。
三田格