Home > Reviews > Album Reviews > Rinbjö- 戒厳令
菊地成孔が菊地凜子のアルバムをプロデュースすると聞いたとき、漠然とヴォーカル・ジャズのようなものを想像していたが、実際に発表されたRinbjö『戒厳令』は、かなりエグいヒップホップのアルバムだった。SIMI LABの面々やI.C.I、トラックにSHIRO TANAKAが参加するなど、JAZZ DOMMUNISTERS『BIRTH OF DOMMUNIST(ドミュニストの誕生)』の延長としても聴ける。とはいえ、もちろんそれだけにとどまらず、DJ TECHNORCHによるハードなガバのトラックがあったり、サウンドは多彩だ。
菊地凜子が菊地成孔にプロデュースを頼んだとき、「エロくてエグいものを」という要望があったらしい。たしかに、一聴して「エグい」と、次いで「エロい」と思った。アルバム全編を貫く、頽廃的でセクシーなリリックのことではない。アルバム冒頭、“戒厳令 ft.菊地一谷”のトラックがエグいと思った。尖ったシンセがうねっていると思うと、ヴォーカルとベースが入ってくる。ヴォーカルはシンプルだが、なんだか全体的に不安定。同時に鳴らされるタメの効いた変則的なクラップ音が気持ち良くて、いい感じに体が痙攣してくる頃に、ブレイクで強いビートが来て、安心して頭が振れる。しかし、その背後にはシンセが飛び交っているので、どこか分裂的。菊地一谷(QN)のラップは、当然のことながら、アクセントの置きかたにエグさがある。これは、デフォルトだ。そして、その好き勝手に振る舞っているサウンドと、ヴォーカル&ラップが妙に溶け合っている感じが、とてもエロティックである。
同じくSHIRO TANAKAがトラックメイクをしている“反駁 ft. Paloalt”は、“戒厳令”ほど複雑なリズムではないが、やはり音の数が多くて、シリアスながら楽しい。韓国人ラッパーのPaloalt(Hi-Lite Records)のラップは、後半に3連で盛り上がってくるところでテンションがあがる(3連で押していく感じに、同じ韓国のMC Snyperを思い出した)。エレキギターも新鮮に響いて良い。その他にも、SHIRO TANAKAのトラックを筆頭に、QN(“sTALKERs ft. N/K”“アニー・スプリンクル”)やHi-Spec(“MORNING ft. N/K, I.C.I”)、三輪裕也(“さよなら ft. OMSB”)など、本作のヒップホップのトラックは、音色もゆたかだし、音の配置のされかたも微妙なズラしが効いているし、展開もあるし、総じてエグさとエロさがある。エロさはともかく、このエグいビートの感覚がないと、もうしんどいと思うようになった。ヒップホップのトラックの基準は、ここまで来ている。サウンド解析については(サウンド解析以外についても)、TABOOのウェブサイトの自己インタヴューが詳しいので参照のこと。
それで、エグさとエロさなのだが、これはなにかと言えば、やはりズレの感覚なのだと思う。ビートを聴きながら、そのビートに対して少しだけズレてみせる感覚。イクと見せかけてイカない素振り。まわりからすると、思わせぶりで勝手気ままな態度。かと思えば、周囲をドン引かせるくらいの変態性――要するに、マイナーな振る舞いである。そしてその意味において、なるほど菊地凜子という人は、正しくマイナーな存在である。 そもそも、Rinbjö(リンビョー)という名前の由来となった、地元でのあだ名が淋病だった、という嘘か本当かわからないエピソード(TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」より)が、まず周囲をドン引きさせるに十分だ。国際的な女優になり染谷将太と結婚してもなお日本に馴染んでいないような存在は、エグくてエロいトラックと相性が良くないわけがないのだ。一方、SIMI LABもSIMI LABで、マイナーな存在として社会を生きている。OMSBやDyy PRIDEは以前、ダブルでありながら日本語しか話せないことに対する劣等感を語っていたことがあった。まさに「普通ってなに? 常識ってなに?」(SIMI LAB “Uncommon”)という感覚が、彼らには貫かれている。ラップは、必ずしもマイノリティの表現であるべきだとは思わないが、マイナーな言葉であるべきだとは思う。これまで歌われてこなかったような言葉をあっけなく音楽として成立させてしまうのがラップという表現に他ならない(だからこそ、「だよねー」「だよねー」というオウム返しも歌詞として成立した)。そして、そういう言葉使いを突きつけられたとき、リスナーは「エグいなあ」と思うのだ。マイナーな存在としてのSIMI LABのラップとトラックは、そういうエグさに満ち満ちていた。
だとすれば、本作のハイライトのひとつは間違いなく、3 bitchesによるマイクリレー“3b ft. MARIA, I.C.I”だろう。男性中心主義的なヒップホップにおいて、フィメール・ラッパーはつねにマイナーな存在でありつづけたが、この曲はさらに段階が進んで、日本語と英語を操る/操りきれないバイリンガルのbitchesの言葉が乱れ飛んでいる。しかも、途中にはジャパングリッシュで交わされる会話が延々と繰り広げられている。これにはアメリカ文学/ポピュラー音楽研究者の大和田俊之も関わっているみたいだが、これが素晴らしい。そういえば僕も、10年くらい前に渋谷のマクドナルドでこういう女子の会話を聞いたことがある。インターナショナル・スクールの仲間か、会話のなかでナチュラルに英語が混ざってくる感じが、とてもオシャレに響いた。マクドナルドの深夜バイトに、アジア系とアフリカ系が多くなってきた頃である。この、目を凝らせばどこにでもあるような特異な言葉が、音楽の言葉として成立したことは個人的にはけっこう感慨深い。まあ、いま考えれば、SIMI LABでほぼ達成されていたわけではあるが。あと、トリリンガルのTAKUMA THE GREATとか。
このようなマイナーな言葉が――ここではとくに異言語のミックスされた言葉が――なにを撃つかと言えば、やはりドメスティックなカルチャーだろう。“空間虐殺 ft. オダトモミ”は、「地球の終わりなんて救うわけねえだろ、バーカ!」と(ややステレオタイプではあるが)セカイ系的なものを批判しつつ、「キモオタ撲滅するエージェンシー」を遂行する。DJ TECHNORCHのトラックはオタク文化にも親和性が高いハードコアなテクノだが(実際、DJ TECHNORCHには、オタク文化とハードコア・テクノの関係を論じた著作がある)、ここでは、その「強シンクロ」(菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー』)的なビートが攻撃性に転じているように聴こえるからおもしろい。ドメスティックなカルチャーは、内側と外側から攻撃されている。クールジャパンの悪口を言う気はあまりないが、どちらにエグさとエロさを感じるかと言えば、もちろんマイナーなズレの振る舞いであり、個人的にはそちらを好む。
ちなみに言えば、べつにオタク文化が悪いわけではなくて、どんな文化であろうがガラパゴスがいけないのだと思う。自己インタヴューでの菊地成孔の言葉を借りれば、「マッチョな狭い世界での腕比べ。頭の固いファンの結束と消費。ジャズミュージシャンから分離した者として言わせてもらうならば、それは音楽の死を意味する」ということか。とりわけ、曲中で「切り裂けクールジャパン」と言われているように、異国とのミックスが乏しいカルチャーは寂しい。だから、ここで攻撃されているのは、成熟を避けてガラパゴス化したカルチャー全般のことなのだと思う。したがって、メッセージは「黙って割礼の列にお並びくださーい!」ということになる。
盆踊りからオタ芸まで、ズレのないビートに合わせて、ズレのない振付をするのは、もう飽きた。マイナーな存在たちとともに、周囲とのズレに満ちたマイナーなステップで踊るほうがいい。そこには、エグさとエロさがある。クールなジャパンよ、戒厳令の夜が来たぞ。
矢野利裕