Home > Reviews > Album Reviews > Steve Jansen- Tender Extinction
美しい写真のような音楽だ。もしくは、まだ観ぬ/存在しない映画のサウンド・トラックのような音楽でもある。シルキーで、エレガントで、ときに仄暗く、ときに眩い光が射し込むかのごとき優美な楽曲たち。柔らかいストリングスや水滴を思わせるピアノ、細やかなリズムと緻密な電子音、多彩なボーカリストたちの声が交錯し、聴き手に深いイマジネーションを与えてくれるだろう。だが、しかし、それらは、過剰なロマンティシズムに変化する直前に、音楽の具体性に慎ましく留まる。誠実さ、慎ましさの美徳、具体的な音そのものの美に。音楽の美しさに。かといって現実のキャズムから目を背けているわけではない。彼は世界の矛盾や陥没地点に透明な眼差しをむけるのだ。まるで、彼の写真集『スルー・ア・クワイエット・ウィンドウ』のイメージのように、静謐で、誠実で、寡黙で、透明な意志のロマンティシズムが、このアルバムには満ちている。そう、スティーヴ・ジャンセン、9年ぶりソロ・アルバムのことである。
スティーヴ・ジャンセン 。彼はいうまでもなくデヴィッド・シルヴィアンの実弟としても知られているミュージシャン/音楽家である。ジャパンからナイン・ホーセスまで、ドラマーとして、コンポーザーとして、サウンドデザイナーとして、シルヴィアンと密接なコラボレーションを続けてきたジャンセンは、2007年に最初のソロ・アルバム『スロープ』をリリースする。シルヴィアンが運営する〈サマディサウンド〉からのリリースであった。このアルバムは当時のエレクトロニカ的手法を用いつつも、ジャンセンのソングライティングとサウンドデザインによって、いわばアダルト・オリエンテッド・エレクトロニカとでも呼びたいエレガントなアルバムに仕上がっていた。シルヴィアンはヴォーカルで2曲、ギター演奏で1曲参加している。
本作は、その『スロープ』から9年ぶりのセカンド・ソロ・アルバムだ。リリースは〈サマディサウンド〉を離れ、〈ア・スティーヴ・ジャンセン・プロダクション〉から。まずはバンドキャンプで配信され、CDはオーダー制となっていた。一般販売は、この「国内盤」が初という快挙である。本作にはシルヴィアンは参加していないが、ほとんどの楽器演奏を彼自身が手掛け、前作同様に電子音楽を基調したパーソナルでロマンティックな作品集になっている。制作は、ほかのプロジェクトと並行しながら、3年もの月日をかけたという。じっさいトーマス・ファイナー、
メレンティニ、ペリー・ブレイク、ティム・エルセンバーグ、ニコラ・ヒッチコックなど魅惑的な声の質感を持つヴォーカリストたちを招いているが、作品のトーンは彼のスタティックな美意識で見事に統一されており、まさに「ソロ・アルバム」といった仕上がりだ。
1曲め“キャプチャード”のヴォーカルはトーマス・ファイナー。彼は〈サマディサウンド〉からアルバム(音源)をリリースしているヴォーカリスト/音楽家で、シルヴィアンを思わせる低音ヴォイスが魅力的なシンガー。彼の歌声とともに、朝霧のような弦の響き、ピアノの香水のような音、グロッケン、ベース、電子音が繊細に折り重なり、緻密にしてミニマルなオーケストレーションが展開する。2曲め“サッドネス”を歌うメレンティニは、ジャンセンがサウンドクラウドで見出したシンガーとのこと(村尾泰郎氏による国内盤ライナーノーツ参照)。管楽器とベースとシンセサイザーが折り重なり、曲名どおり深い悲しみを表現する。3曲め“ハー・ディスタンス”のゲスト・ヴォーカルはアイルランドのシンガー、ペリー・ブレイク。この曲もミドルテンポの曲で、ジャンセンらしい打楽器のグルーヴを感じることができる。ティム・エルセンバーグがヴォーカルを担当する5曲め“ギブ・ユアセルフ・ア・ネーム”も打楽器のリズム感が魅力的だ。ソングライティングは伝統的な構成になっており、ナイン・ホーセスの曲を思わせる。元マンダレイのニコラ・ヒッチコック歌唱による7曲め“フェイスド・ウィズ・ナッシング”は、50年代のポップソング・バラードのようなシルキーな曲。ジャンセンの作曲力とトラックメイクのセンスのよさも満喫できる名曲といえよう。
そして忘れてならないのが、ジャンセン自らがヴォーカルをとった8曲め“メンディング・ア・シークレット”と、10曲め“アンド・バーズ・シング・オール・ナイト”である。とくにアルバムの最後を締める後者は、短い収録時間ながらアルバム屈指の名曲。イントロで聴けるスウェーデンのフルート奏者ステリオス・ロマリアディスの演奏は、どこか日本の雅楽を思わせ、時間と国境を超越するようなフォーキーな楽曲に仕上がっている。またインスト曲も素晴らしい。徳澤青弦がチェロで参加する4曲め“メモリー・オブ・アン・イマジンド・プレイス”、マイクロなサウンド・エディットとギターによる幽玄なエレクトロニカ的トラックである6曲め“ダイアファナス・ワン”、曲名からしてミニマルなアンビエント曲といえる9曲め“シンプル・デイ”など、彼の慎ましやかなロマンティシズムの本質がよく表れているトラックばかりだ。どの曲も都市の光景に寄り添う(存在しない)映画のサントラのようにも聴こえてくる。物語性、もしくは旅の光景=記憶のような情感があるのだ。
いや、そもそも本作は、アルバムとおして「旅」の(ような)記憶が結晶のように生成している作品ではないか。全10曲、まるで彼の写真集のページを捲るように、記憶の結晶のように音楽が展開していくのだ。それは具体的な音による記憶ともいえる。まるでスティーヴ・ジャンセンの美意識と人生そのもののように。本年、翻訳が刊行されたクリストファー・ヤングの評伝『デヴィッド・シルヴィアン』には次のような一節が出てくる。シルヴィアンはジャンセンについてこう語る。「スティーヴと僕は多くの問題で、ことに哲学や精神性、信念体系に関する問題で、けっして目と目を合わせずにきた。彼を不可知論者と呼んでいいのかどうかわからない。独我論者かもしれない。彼はどんな神でもなかなか認めることができないんだ。自分自身の経験の範囲外にあるものはなんでも、存在を認めることを拒絶する」。だが、これはジャンセンの特有の美意識、つまり「見えるもの」や、「記憶」を、いかに大切に慈しむか、という意味にとれるだろう。そう、まるで彼の写真作品のように。音楽のように。
ラストを飾る“アンド・バーズ・シング・オール・ナイト”は、ジャンセン自身が「パーソナルな曲」と語っていたが。じじつ、ステリオス・ロマリアディスのフルートと、イオルゴス・ヴェアリアスのギターとジャンセンの詞と歌と電子音によって奏でられる「微かな諦め、続いていく人生と、別れの曲」である。ここでの彼は、人生の淡い情景の中で、終わりを誠実に見つめている/歌っている。何かが終わり、そして、何かがはじまること。音楽とともに、芸術とともに続いていく人生。世界がどれほど醜悪になっても、微かな光を見出すために。まさにスティーヴ・ジャンセンの「アート・オブ・ライフ」である。むろん、私たち聴き手の人生にとっても……。
デンシノオト