Home > Reviews > Album Reviews > Sea Level- Dictionary (Handwritten)
刷新を迫られる日大アメリカンフットボール部に限らず、「脱中心的」で「民主的な」組織というのは目指すべきものとして常に人びとの憧憬の的になってきた。
しかし、もっとも卑近にして巨大な例「国家」においても、脱中心的な政治空間の持続・保存がいかに困難なものであるということは、我々の思考の俎上よりもはるか下の基層的なレベルで、(遺憾ながら)すでに常識化してしまっている。あるいはまた企業法人における組織構成の可能性ということを考えてみても、そこには結局資本という人称化できない力点への中心化の欲望が隅々まで敷衍されている。
なぜ我々は、これほどまでに脱中心化への憧憬を抱きながら(教育、通俗倫理、そしてネット上の言説など、そういうものに溢れているにも関わらず)もその一方で、権力の中心化の蠱惑に拐かされるのだろうか。そのような膠着的指向性の中にあって、それを解毒しうる方法があるとすればそれはいったい何なのであろうか。
SEA LEVELは、構成するすべてのメンバーが、このバンドとは別にメイン・プロジェクトを持っているミュージシャンたちである。現在のラインナップは、macmanamanやKELPで活動するヤマモトタケシ、蝉やtepPohseenなどで活動する小貫誠、ウマノイ等の北里英雄、その他の短編ズの板村瞳、コンポーザー/ピアニストとしてソロ活動を行うsoejima takumaの5人だ。2014年から活動を開始したSEA LEVELは、各メンバーの拠点も福岡と東京に分散していたり、作品ごとに参加メンバーや担当楽器が変わったりと、パーマネントな活動を行いづらい形態であると言える。
今回のファースト・アルバム『Dictionary(Handwritten)』でも、それぞれのメンバーが一箇所に集結して制作を進めていくといういわゆる「バンド的」な制作手法でなく、遠隔地間でデータをやりとりしながらレイヤー的に音を重ねていくという作業で制作されたという。それ故なのか、バンドの組織形態自体を反映するように、各楽曲ともにどこか「中心」が欠落している感覚が漂う。ポップ・ソングの成立条件であるところの構成が溶け出し(というかそもそも特定の構成が想定されていない)、かといって反復性によって逆説的にストーリーをあぶり出していくようなテクノ・ミュージック的快楽性に回収されることもない。極めて淡々と、全方位的に音楽要素が放出されていき、ときにひとつの要素が主役に躍り出たかと思えば、また違った要素が立ち代わって現れ、そして消えていく。
もしかすると聴感上、この音楽をあらわすのにもっとも近い語彙は「アンビエント」なのかもしれない。しかし一般に、アンビエントとはその音楽が描く表象とは違って、むしろ一個の作家的個性によってそれが実現されていることが多い。「あえて」ストリクトな作家意識を封印して流れるままに作ってみました式のアンビエントにしても、その実ひとりの作家が制作する場合には、どうしても固有の音楽的統一点(=中心意識)が想定されざるを得ない。
しかし本作では、各メンバーによって奏でられる電子音、器楽音、人声がモアレを形作るように垂らしこまれ、それぞれが混ざり合い、淡く歪んだ音空間をが立ち上がる。目指されるべき青写真は、演奏者間で共有され参照されることを免れ、ヴィジョンは消却される。なにがしかの統一的意思によって楽曲が「まとめ上げられる」ことが避けられる。ファジーなテクスチャーが浮かんでは消えるような優美なインスト曲においてはもちろん、例えば比較的メロディや構成が前景化しているM3“Draw to the End”のような楽曲にしてすら、なにがしかの明確な到達点が想定された上で制作が進められたとは感じがたい脱中心的弛緩に包み込まれている。あるいは、多くの曲で、歌詞ともつかない音をモゴモゴとマンブルするヴォーカルが、ポップ・ソングにおける人声の自明的特権性(中心性)を嘲笑するように、奔放に寄せては消える。また、各メンバーが自由に発案して持ち寄ったのであろう楽曲達の統一感の欠如は、このアルバムが、固有の視座から特定の物語を語るということもはじめから関心が無いということを示唆しているようだ。まさしくこれは様々な面において、中心への志向が見当たることのないという稀有な「バンド」作品なのだ。
本来、ビートルズ登場以降における「バンド」とは、制作においては民主的手続きを重視し、聴き手へは各メンバーの個性をプレゼンテーションしていく、という欲求を成し遂げようとする試みでありつづけてきた。しかし我々もすでに広く知っているように、その試みへの憧憬以上に、音楽的な局面においても(運営的な局面においても)、遅かれ早かれ権力中心化の欲望が頭をもたげてくる。それを前提として継続する道を選ぶバンド(ザ・ローリング・ストーンズのような)と、崩壊してしまうバンド(ザ・ビートルズのような)がいる中で、脱中心的組織形成への憧憬が挫かれることなく持続していく第三の道はありうるのだろうか。
そう、SEA LEVELという組織体の稀なる存在感は、彼らの作る音楽が示唆するように、まさに彼らがその第三の道をいま現在進みつつあるということからくるものなのだと思う。中心化への欲望とはそもそも、「この道以外には無い」というリアリズムが反駁的に要請するニヒリズムであるのかもしれないのだ。「そうは言っても誰かリーダーがいてくれなきゃね」「目的を達成するには多少のことには目をつむろう」、そういった諦念に形を借りてニヒリスティックな欲望は肥大する。中心化の趨勢がいまや、我々に他の道を実行、いや想像させることすらも不可能にしつつあるいま、その中心化への誘惑を断ち切ろうとすることは悪くないことだろう(それどころかとても貴い事になりうるだろう)。「有り得べき何か」を想定し、それを志向することを暫定的に停止し、「目的を持たない」ことへ自らを投げ出してみる勇気こそが、第三の道へのとば口となるかもしれない。
SEA LEVELは無作為だ。この無作為は、我々が加担し、加担することよって反駁的に我々を疲弊させてきた中心化への欲望を、鮮やかに解毒してくれるかもしれない。
柴崎祐二