Home > Reviews > Album Reviews > LITTLE CREATURES- 30
“大きな河” の歌詞に「いつも負けるぼくら」の一節がある。そうかもしれない。大きな河に浮かぶ船では仕組みをつくった賢いひとが船頭役ときまっていて、そうじゃないひとたちはいつなんどきうねる河に放り出されないともかぎらない。それこそがこの世のことわりであり、アルバムの曲名にもみえる「ことわり」とはおそらく「理」をさし道理や条理を意味するが、たとえ理を問うても、無視されるならまだしも、はぐらかされるのがこのところはセキのヤマ、とかくにひとの世は住みにくいのは漱石の時代から世の常か、それとも近代の宿痾か。青柳拓次、鈴木正人、栗原務――リトル・クリーチャーズの3人は5年ぶりの新作『30』でそのように嘆いている、頭(かぶり)をふりつつ眉根をよせている、いやただしくは怒っている。静かに、青い炎のように。
感情が腑に落ちるのは歌詞が日本語だからか。リトル・クリーチャーズといえばロック、ジャズ、アコースティックなフォーク音楽から最新型のエレクトロニック・サウンドまで、幾多の音楽性を血肉化しながら時代のツボを突くレコードを世におくりだしてきた。主眼となるのは音であり、音が語るなかにのみ彼らの真意はあり、ことばは副次的な要素にすぎない。むろんこれは推察にすぎず、真相は訊ねてみるほかないが、英語の歌詞を選択したのは基準を国内よりも海外に置き、言語の意味よりも響きを優先するかにみえた。すくなくとも記号と細分化の時代だった1990年代の落とし子として彼らを認めるものにとってことばはいつも音におくれてやってきた。
8枚目のアルバム『30』ではそのことはあてはまらない。リトル・クリーチャーズは全編で日本語の歌詞をもちいているのである。題名の『30』は1990年のデビューから30年たったことをさすという。しからば満を持しての舵取りかと思いきや端緒は5年前の前作『未知のアルバム』ですでにひらいていた。そこで彼らははじめて全編日本語詞を採用しきりつめたアンサンブルに簡素な述懐を組み合わせていた。私は不勉強ながらこのアルバムを後になって手にとり青柳、鈴木、栗原の個の合算からなりたつリトル・クリーチャーズという等式の左項と右項がひっくりかえる気持ちがした。1+1+1は3にしかならないが、3は1+2にも2+1にも、元のとおりの1+1+1になることもある。ソロからサポートまで、おのおのが個別の活動をおこなう彼らにあってバンドとはたがいの成長をたしかめあう実家みたいなもので、数年ごとにたちより英気を養ったらまたそれぞれの場所におもむいていく。音楽家のキャリアを積むなかであたりまえに青柳、鈴木、栗原の集合体だと思い込んでいたリトル・クリーチャーズはじつのところひとつの生き物(クリーチャー)だった――などと述べてもダシャレにもならないが、『30』にはこの30年3者がつちかったものが詰まった太くしなやかなうねりがある、どこをきっても個に分解できないむすびつきがあり音の疎密を問わず意思のゆきとどいた空間性が底流をなしている、それらをたずさえ彼らは別天地へむかうのである。
“速報音楽” は狼煙である。注意深く耳を傾けるものにとどく高らかに鼓吹しないファンファーレである。「そのラジオもっと音上げよう」と青柳拓次は歌いはじめる。ラジオは感受のメタファであるとともに、出会いの偶有性を意味し、おそらくは「情報をとりにいく」という主体的な行為がややもするとフェイクにまみれる昨今の風潮を言外ににおわせている。清志郎がベイエリアやリバプールからキャッチしたように、リトル・クリーチャーズのアンテナはナイジェリアやバンコクやジャマイカからやってくるホットなナンバーをすくいあげる。ポイントは「踊れる」かどうか。そして踊るというポピュラー音楽の基底部にあるものは『30』にくりかえしあらわれるキーワードになっていく。とはいえ彼らが志向するのは派手派手しいダンス音楽とも趣を異にする。存分に間をとった合奏から滲み出すグルーヴとでもいえばよいだろうか。ギターのトーン、ベースのノリ、ドラムのタメ、それらの重なり合いで生じる残像のような効果もひきだしながらトリオ編成の旨味が『30』の随所に散りばめてある。ややファットなドラムとシンプルなギターのサウンドが『30』の音像の土台となり、鈴木のベースはスラップからシンセベース風の音色まで遊動的な役割をうけもっている。めいめいが曲も詞も書くグループとあっては曲ごとの色合いもさまざまだが、アルバム総体はグラデーションを描くにも似た自然な広がりをたもっている。12曲中8曲をしめる青柳の色がつよいとはいえ、鈴木の手になる “左目” や “踊り子” の編曲の巧みさ、栗原の “悲しみのゆくえ” や “ハイポジション” のストレートなアプローチがアルバムにダイナミズムをもたらしているのはまちがいない。それらが煽情的で装飾的な方法論とは無縁になりたっているのは3者の30年におよぶ来歴を彷彿させてあまりある。現状を追認するでも冷笑主義におちいるでもない、そのような場所にふみとどまるからこそ青柳の問題提起も私たちの日々と地続きのものとうけとれるのであろう。
『30』は日本語という言語と、ハイブリッドという簡単な言い方ではおいつかない音楽的複合性で歩をすすめるリトル・クリーチャーズの現在地を照ら出している。1990年、才気煥発な若者として音楽シーンに登場し、新しもの好きのファンはもとより大向こうをうならせつづけて30年、またたくまに月日はすぎたが、思えば遠くにきたものだという慨嘆はリトル・クリーチャーズとは無縁である。『30』にもそのような姿勢はない。かわりに彼らは『30』のフィジカルを『STUDIO SESSION』と題したライヴ盤との2枚組の仕様で30年の時間の厚みを描き出そうとする。キャリア全域からまんべんなく選曲した全編英語詞の全10曲はベスト盤の意味合いもかねるが、アコースティック基調のまろやかな演奏に感じるのはいまここで前を向く彼らの姿である。2枚組のあざやかなコントラストはそのことを立体的にうかびあがらせるばかりかフィジカルの利点をしめしてやまない。
それにつけても「踊りかける」ってすてきな曲名ですね。
松村正人