Home > Reviews > Album Reviews > Maarja Nuut- Hinged
これは世界を明るく照らす音楽だ。しかも、素晴らしいことにこの音楽は、押しつけがましさの微塵もない。ある記事のなかで彼女は言う。「世界の誰も私の音楽を待ってはない。ただ私は私のために作っている」
民謡(フォーク・ミュージック)や民俗音楽とエレクトロニカとの融合といえばビョークが有名だが、バルト海に面した小国、エストニアのマーヤ・ヌート(Maarja Nuut)はその系譜におけるもっとも眩しい才能のひとりである。本作は最新作だが、彼女はこの6年で共作を入れると5枚ほどのアルバムを発表している。そのほとんどがレーベルなしの自主リリースで、積極的にプロモーションされたという形跡はない。それでも2016年に発表した『Une Meeles』なるアルバムは、ただその音楽の魅力によって彼女の名前を欧州諸国でバズらせて、昨年はあのサン・アロウとの共作を1枚出しているということを、たまたまこの新作に巡り会えたぼくは最近になって知った。
サン・アロウとの共作のタイトルが『ヴァイオリンとギターのためのファンタジア(Fantasias For Violin And Guitar)』というように、マーヤはヴァイオリニストだ。かなりの腕前なのだろう。バルト海から数マイル離れた小さな町ラクヴェレで生まれた彼女は、指揮者である母親を持ち、7歳からヴァイオリンのレッスンを受け、ストックホルム音楽大学ほか3つの大学で音楽を学んでいる。同時に、彼女は早い時期から古来から村々に伝わる民謡(フォーク・ミュージック)に興味を持ち、それをエレクトロニカと接続することを試みていたという。この機会に彼女の過去作も聴いてみたが、そのどれもが魅力的で、とりわけ先に挙げた『Une Meeles』におけるオーヴァーダブされたヴァイオリンの共鳴、それから2018年の『Muunduja』におけるエレクトロニクスとの美しい融合、2020年の『World Inverted』におけるポップと静寂の絶妙なバランスなど、この人の音楽が北ヨーロッパから西へと伝わっていったのもうなずける。
本作『ヒンジ(Hinged)』は彼女のキャリアにおいて初めての、リズムの躍動を前面に打ち出したアルバムだ。曲によっては、ニコラス・ストッカーというパーカッショニストが参加している。表題曲の“Hinged”はキラキラしたドラミングと小躍りするブリキの合唱で、続く“On Vaja”は後期CANの遊び心と共振しする。“Kutse Tantsule”は電子の鼓動と遊び心ある子守歌、“Mees, Kes Aina Igatses ”は木管楽器と民謡風のメロディがのどかに重なり、そしてオルガンのロングトーンが印象的な“Vaheala Valgus”、ミニマルな電子のパルスがじょじょに高揚する“Subota”、草むらのなかで耳にするミニマル・テクノのごとき“A Feast”、小宇宙にこだまするダブの饗宴“Jojobell”、英語で歌う透き通ったポップ・ソング“A Scene”、で、アルバムの最後はエーテル状のアンビエント“Moment”。
この作品を知ってぼくはまず、エストニアという国について調べてみた。最初はそこからはじまった。旧ソビエトの一部で、北ヨーロッパのバルト三国のひとつ。多くの島々を擁する海に面した多様な地形、インターネットで見れるその景色は、いかにも北ヨーロッパの美しい田舎といった風情で、彼女のスタジオも海の近くにあるというが、きっと美しい土地に違いない。本作は、彼女の祖母が残した農場を受け継ぎ整理するかたわら、スタジオでモジュラーをランダムに配線し、いろいろ試しながら録音されている。タイトルの『ヒンジ』とは英語ではつなぎ目/ものごとをつなぎ止めるリンクで、エストニア語では離れた精神(split)と魂(soul)を意味しているという。
野田努