Home > Reviews > Book Reviews > 村上 潔- 主婦と労働のもつれ - その争点と運動
野田編集長時代の『リミックス』で文章を書いていた村上くんが、京都の大学で主婦の研究をしているという話は、10年近く前から聞いていた。それがこんな本になった――。
80年代初頭、専業主婦は人気がなかった。少なくとも私の周囲には「専業主婦になる(なりたい)」と言っている若い女はいなかった。JALの女性社員募集要項から「容姿端麗」の4文字が消えたことが話題になってまだいくらも経ってはいなかった。いま専業主婦はそれなりに人気があるという説もあるが、現実問題としてそれは非常に難しいし、「なりたい」と言っている人たちだってそれはよくわかっているのだろうと思う。
数年前、勝間和代が司会をする、ハタチくらいの女性(たしか大学生)を集めたシンポジウムのような番組があった。稼いで独り立ちできる方法を説かれた後で、それを聞いていた女性たちが発言していて、何人かが「母と同じ専業主婦になりたい」と言っていたことに驚いたことがある。驚いたのは「専業主婦になりたい」の部分ではなく、「母と同じ生き方をしたい」というところだ。ひとりではなく数人が同じことを言っていたのだ。明治以降、大変控えめに「戦後」と言ってもいいけれど、日本の女たちで「母と同じ生き方をしたい」と考えていた若い女が現れたのは初めてなのではないかと、根拠はないが思ったのだった。お母さんのような不自由な生き方をしたくない、あんな我慢はしたくない、と、別にDV家庭でなくても、ことに大学に進学するような多くの若い女は思っていたのではなかっただろうか? もちろん「あんな不自由な生き方」の筆頭は職を持たずに主に家事労働をする生き方だった。いまハタチくらいの娘を持つ50くらいの、まあつまり私と同年代の女たちは、そんなに後輩にうらやましがられるような生活をしているのか? 娘が大学に通い、母は専業主婦だと言うのだから、同年代のなかでもかなり裕福な暮らしをしていると言うこともあるのだろうが......。いや、その生活を保障していた裕福さ自体がもう簡単には実現しないということを知っているというだけのことなのかもしれない。
「主婦」とひと言で言っても通勤に1時間かかる職場でフルタイムで働いている主婦もいるし、パートタイムで働いている主婦もいる。自営業の主婦もいるし、無職の主婦もいる。子どもがいたりいなかったり、その年齢も違うし、年寄りの介護をしていたりいなかったり、配偶者の収入が多かったり少なかったり、そもそもいなかったり、いても家では役立たずだったり、パートで働いているのに夫には「専業主婦」としか見なされていない主婦もいたりと立場はそれぞれだ。「それぞれ」というのは本当に「それぞれ」違うということだ。例えば、パート主婦のなかにも、非課税限度額上限ギリギリまで、家計の補助や自分の小遣いにと働く「恵まれた」主婦もいるし、その「非課税限度額上限ギリギリ」を前提に作られた賃金体系の為に貧困に陥っているシングルマザーもいるというくらいに......。そして80年代から、主婦の半数以上は何らかの仕事をしてきている。
『主婦と労働のもつれ』の著者である村上潔は、「主婦の労働」のことを「労働問題だけでなく、お金の問題だけでもなく、意識の問題だけでもない。素朴に言えば、とても複雑で、やっかいで、収まりのつかない、すっきりしない問題」ととらえて、冒頭で「これがすっきりすることは、おそらく、ない」と言い切っている。「どんな制度が出来ても、どんな法律が出来ても」と。私もそうだと思う。だって「主婦である」ということは"家族と生活してる人"くらいの意味でしかないし、にもかかわらず小さなイメージにまとめられ過ぎてるから、「主婦問題」というテーマの建て方が大ざっぱ過ぎてしまうのだと思う。それでも「主婦」は存在する。本書にあるように、例えば、日本の主婦はせいぜい大正時代の都市部に生まれ、高度経済成長期の昭和30年代くらいまでに一般化した。当時の企業は、勤め人と専業主婦と子どもふたりの「標準家庭」を維持できるような給与体系を作っていたし、社会保険や税制はじめさまざまな制度もそういう家庭を優遇するように作られていった。そういう激しい性別役割分担が高度経済成長にあっていたのではないかと思う。その主婦の歴史から、著者は主婦を巡って起こった論争をていねいに掘り起こしながら、「主婦」のもつ多くの顔をあらわにしていく。
「主婦働くべきか?」にはじまる主婦を巡る論争と、現実に作り出されたパートタイム労働市場とそこで働くということ、さらにそこでも逃れられない(守ってくれる)主婦という立場を主婦たち自身が定義しようとする過程と、昭和の女たちの語られなかった歴史になっている。第五章で取り上げられている、はじめは主婦という立場をポジティヴに捉える新しい「働き方」の試みだったワーカーズ・コレクティヴという試みが、労働環境が悪化している今、主婦や女たちの生き方の問題だけでなく、正規社員として家族分の給与を受け取る(主に)男たち以外の、さまざまな理由で(いまの日本社会では)"半人前"と見なされる人たちにも振り返る価値のある試行錯誤だと思う。
「自分は恵まれている。自分よりも貧しい人の税金で扶養控除を受けている。これでいいのか」などと主婦として生きている自身を相対化してきた主婦たちがいて、パート労働者の権利と尊厳を国会に求める運動をした主婦たちがいて、主婦の立場のまま営利企業とは違う働き方を模索し実践して来た主婦たちがいる。悲壮だったり戦闘的だったりするどの人たちの言葉も、いま読んでも胸に残る。立場の違いはあれ、多くの主婦たちが止むに止まれず、もっとよく生きたいと思いながら主婦を生きて来た。タイトルに「もつれ」と付けられただけあり、主婦というものを一面から見ることは出来ないとつくづく思う。そしてこういっちゃおしまいだけれど、やっぱり「その人」がどう生きたいと願うかからはじまることだ。少女時代、私は「主婦になった自分」を想像して、主婦にはなりたくないと考えていた。社会から遮断され、家のなかに閉じ込められてしまうと恐れていたのだ。当時の小娘からは、「主婦」というものはそういうふうに見えていた。いまでは家事労働の多くを楽しんでいるが、それでも「これが義務だったらやっぱり嫌だろうなあ」と思う。そしていまの私が家事労働を楽しめるのは、全部ではないにしても、あの少女時代の恐怖感があったからだとも考えている。そういう警戒心を与えてくれたのは、実在の女や架空の女たちのさまざまな体験や言葉だった。
「母と同じ専業主婦になりたい」と考える人は、あるいは将来働く主婦になる人も、家庭であれ職場であれ、働く主婦とともに生きようと思う人もそのお母さんに連なる先輩たちが考えて来たこと、やって来たことにも耳を傾けてみてはどうかなと思う。
水越真紀