Home > Reviews > Book Reviews > Jazz The New Chapter- ――ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平
本書は、2000年代以降のジャズを積極的に紹介した音楽ガイドである。監修をつとめた柳樂光隆は、『クロスビート』の最終号に「ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズのファミリー・ツリー」という記事を書いているが、本書はその記事をさらに展開した本だと言える。ジャズの新しい潮流をフォローした内容なので、最近のジャズに明るくない人などは、ぜひ新しい音楽と出会ってほしいと思う。僕自身も、聴いていない盤はこれから順々に聴きたいと思っている。しかし本書の意義はそのようなディスクガイド的側面だけにとどまらない。本書は、単なる音楽紹介以上に意欲的で挑発的で批評的だ。
重要なミュージシャンとしては、やはりロバート・グラスパーが挙がる。グラスパーは、『Black Radio』シリーズがヒップホップなど一部のクラブ・ミュージックのファンに支持されている一方、ジャズ・リスナーからは批判も多く、それ自体挑発的な存在である。したがって、グラスパー的な視点から見たジャズの見取り図は、やはり挑発的に映るのかもしれない。いや、ジャズ・プロパー以外から見てもじゅうぶんに刺激がある。
僕は2000年あたりからDJをはじめ、ヒップホップやR&Bを聴くことも多かったのだが、本書を読んで驚くのは、現在のジャズ・ミュージシャンらが、コモンやJ・ディラ、ディ・アンジェロなどに対して、自分とぜんぜん違った受け取りかたをしていたことだ。たとえばディスク・レヴューの、コモン『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』の欄には、グラスパーが“セロニアス”(J・ディラのプロデュース作)をよくカヴァーしている、と書かれている。しかし『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』(2000)が発売された当時、ラジオやクラブで流れていたのは、圧倒的に先行シングルの“ザ・シックス・センス”だったと記憶している。
僕の同アルバムに対する印象もそのあたりばかりだ。DJプレミアのプロデュースだし、90年代東海岸ヒップホップのノリで聴いていたのだ。同じように、モス・デフ『ブラック・オン・ボース・サイズ』(2002)では“ウミ・セズ(Umi Says)”が名曲とされているが、当時のクラブヒットは、断然“ミス・ファット・ブーティー”のほうである。“セロニアス”も“ウミ・セズ”も、ビートが控えめで、とくに大きいフロアでは地味になってしまいそうな曲である。当時の僕なんかからすれば、他の曲を差し置いてこれらがフィーチャーされることに驚くのだが、グラスパー的な価値観からすればむしろ、細かく緻密なビートや、ウワモノとビートのアンバランスな関係が刺激的だったのだろう。
したがって、そのような実験的なトラックを作りつづけたJ・ディラに対して、グラスパーらの注目が集まるのは必然であり、だからこそグラスパーたちは、そのJ・ディラのトラックをライヴでシミュレートする。このことは村井康司・原雅明・柳樂鼎談で詳しく語られているが、グラスパーがジャズ・シーンにおいて挑発的だったのは、プレイヤーの技術を、インプロヴィゼーションではなく、J・ディラ的なビートの影響下で発揮させたことだろう。インプロに価値を置かないから、ジャズ・ファンからは物足りないものに映ってしまう。ゆえに批判も多い。しかしそこには、既存の評価軸ではなかなか捉えきれない力学が働いているのだ。
本書はこのように、既存のジャズの評価軸では捉えきれない力学を丁寧に紐解いている。グラスパーとヒップホップの関係は、ほんの一例である。さまざまなミュージシャンがさまざまな音楽に啓発されている。したがって、グラスパーに限らず、現在のジャズを語るには、J・ディラやLA・ビートシーンのことを知らなくてはならないのだ。いや、クラブ・ミュージックだけでなく、ジョン・マッケンタイアのことだってアニマル・コレクティヴのことだって知らなくてはならないのだ。本書は、現在のジャズが周辺ジャンルと絶え間なく交通していることを解釈的・実証的に示しているが、「Introduction」で柳樂が喧嘩を売っている(!?)ように、この作業自体、インプロヴィゼーションを中心化するジャズ批評に対して論争的である。もっと言えば、インプロ中心主義で紡がれたジャズ史を、一気に再編成しよう目論んでいるようである。その点が、とても批評然としている。
でも考えてみれば、このようなジャンルを越えた音楽史の再編成は、いつでも起こっていると言えるのかもしれない。ジャズ・プレイヤーがジャズだけを聴いているわけはないし、ロック・ミュージシャンがロックだけに閉じこもっているわけもない。あるいはDJは、つなぎやすい曲を無節操につないでいく。僕自身、ジャズやロックを網羅するようなところまではぜんぜん及ばないが、ニック・ドレイクとミルトン・ナシメントとファラオ・サンダースを並列的に聴くような感じはある。それらは、別々のレコード棚から見つけてくるので別々の音楽かのように思い込んでいたが、案外そうでもないのかもしれない。実際、DJとしての僕も、それらをひとつにつなげようとする。グラスパーがコモンやニルヴァーナの曲を演奏するのも、ダニエル・ラノワのバンドが“リング・ジ・アラーム”(テナー・ソウのダンスホール・クラシック!)を取り上げるのも、同じような感覚なのだろう。『Jazz The New Chapter』は、まさにそのような感覚から出発している。ヴァラエティ豊かな執筆陣も、このようなジャンル越境的な感覚を共有している人たちなのだろう。
今後、ジャズ批評が本書以前/以降という区分のもとで語られることを願う。論争も起こってほしい。そのくらい本書は、ジャズ・シーンに対して批評的に介入していると思う。そしてこの批評的介入は、ジャズに限らない。ヒップホップのファンは、ヒップホップの系譜のひとつとしてグラスパーを聴かなければならないし、オルタナティヴ・ロックのファンは、オルタナティヴ・ロックの系譜のひとつとしてティグラン・ハマシャンを聴かなければならないのかもしれない。だから、あらゆる音楽リスナーに読まれてほしい。そのとき、『Jazz The New Chapter』は、今度は最良のディスクガイドとして現れるはずだ。とりあえず僕は反省して、コモンの“セロニアス”でも聴き直そう。
矢野利裕