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粉川哲夫

粉川哲夫

アキバと手の思考

せりか書房

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三田格   Jun 30,2016 UP

 前宣伝を見てリドリー・スコット監督『オデッセイ(原題:Martian)』はメンタルな映画だと思い込んでしまった。「火星にたった独り取り残された宇宙飛行士」だとか「奇跡のSFサバイバル」と謳われていれば、そう思わない方が不思議ではないだろうか。そして、その謳い文句は間違っているわけではなかった。実際に「火星にたった独り残された宇宙飛行士」が「奇跡のSFサバイバル」をやってのけるのだから。ただし、それは『127時間』や『ゼロ・グラビティ』のように「独り取り残された宇宙飛行士」が絶望したり、希望を抱いたりという精神的なプロセスには微塵も時間を割いていなかったのである。
 何をしていたのか。
 手作業である。
 「独り取り残された宇宙飛行士」は植物学者という設定なので、頭を抱えるシーンもなくいきなり食料をつくり始め、記録(=自撮り)を開始し、あちこちを修繕し、地球とも交信(=チャット)ができるようにする。主人公はまったく手を休めることがない。マット・デーモンによるそれらの演技はとくにコミカルな描写というわけではないものの、ゴールデン・グローブ賞ではコメディ/ミュージカル部門賞を受賞する。全編に流れるディスコ・ミュージックがそうした方向性を決定付けた気もしないではない。最初に予想したような悲壮感は地球に戻れるかもしれないという段階になって初めて訪れる。「独り」でいることはまったくネガティヴな響きを持たなかったのに。

 この作品を観る前に、粉川哲夫著『アキバと手の思考』を読んでいれば、リドリー・スコットの問題意識にもっと深く分け入ることができたかもしれない。タイトルから察することができるように、これまで逸早くニュー・メディアやコンピュータ社会を先取りしてきた著者が、本書ではこれからは「手作業」だと示唆している。粉川氏にしては珍しく、自らの生い立ちを導入部とし、戦後の秋葉原に通いつめた話から自由ラジオ、そして、執拗に繰り返されるのは半田ゴテでパーツを繋ぎ合わせていく手作業のプロセスで、時にはケガをすることから多くのフィードバックを得ていることがよくわかる。「自己責任」という言葉が秋葉原では早くから使われていたという指摘なども興味深い。
「手作業」の対極に置かれているものはパッケージ化された商品である。ラジオやコンピュータを自分で組み立てるのではなく、秋葉原でも始めから出来上がっているものが売られるようになっていくことを粉川氏は快く思っていない。パッケージ化されることで、身体性は疎外され、能動性を失っていくことに危惧があるからである。『オデッセイ』に即していえば、想定外のことが起きて物流が絶たれた場合、食料もつくれないし、地球との交信も確保できない人間が量産されていくことを意味している。
 粉川氏の本の書き方もパッケージ型とはだいぶ性格が異なっている。部品だけを並べたような構成で、これはデビュー作が書かれた80年代からまったく変わっていない。たとえばそれは「手作業の復権」というような思想をマニュアル化して読者にそのまま流し込もうというような性質からは遠ざかり、どの部分からでも好きに思考を発展させて下さいという書き方なのである。要するに使える人と使えない人が出てくる。僕は、まあ、上に書いたように『オデッセイ』という作品に手作業の復権という解釈を当てはめてみたと。

 マッチョの両義性にこだわってきたリドリー・スコットは、なんでも「手作業」でやってしまうことに同種のオブセッションを投影してみたのかもしれないけれど、ただ単純に「手作業」の面白さを伝えてきた映画監督には、たとえばミッシェル・ゴンドリーがいる。ダフト・パンクのクラスメートだったことから知名度を得たせいか、僕のまわりでは非常にバカにされているムードしかないものの、『僕らのミライへ逆回転』や『ムード・インディゴ』で全面展開される手作業の数々が類まれな爽快感を運んできたことは間違いない。そして、ハリウッドに疲れ、フランスに戻って撮った最新作『グッバイ、サマー』には彼の原点である少年時代の「手作業」が同じように爆笑を伴って再現されていた。子どもたちは廃品を集めて自動車をつくりあげる。ライセンスを取得できなかった二人は自動車にさらなる手を加えて、まんまと旅に出てしまう(どうやら実話らしい)。『オデッセイ』は追い詰められて仕方なく始めた「手作業」だった。しかし、『グッバイ、サマー』のそれは勝手に始めた「手作業」である。それが楽しかったからという以上の理屈は存在しない。粉川氏が「(アートの誕生日を祝う)「アーツ・バースデイ」は、「自主独立というよりも「勝手」にやるお祭りでありパーティである」(P110)と評した箇所にどこか重なるものがある。しかし、無条件で楽しいはずの「手作業」が実際にはパターン化され、お祭りからはほど遠いものになっていることも確かで、たとえば僕は自動改札の普及がすぐに思い浮かぶ。

 鉄道の改札が自動手改札に切り替わった頃、僕はボーッとして切符を入れる穴に家の鍵を差し込もうとしたことがあった。あの時、僕の手は何も考えていなかった。いまではパターン通りに動くようになってしまったけれど、自動改札に切り替わってすぐに、切符を裏にしたり横にしたり、様々なインサート方法を試みていた人もいた。そこにはこの世界とどう付き合うかという方法論や距離感が、ただ単に馴れてしまうだけではなく、予想外の回路を開くことがないかと「考える手」が躍動しているという印象があった。ヒドいのになると、前の人に続いて自動改札を通り抜ける時に、自分の切符は隣の自動改札に入れてしまうというのもあった。隣の改札は人数に対して一枚切符が多いだけだから、流れに支障は生じないけれど、その人が通り抜けた改札では自分は次の人の切符でゲートが開くものの、次の人は自分の切符がリターンしてくるにもかかわらず、ゲートが閉じてしまうという目に合ってしまう。この人は、しかし、わざとそうしたわけではない可能性もあることに僕は気がついた。利き腕の問題なのである。自動改札というのは右手で切符を入れるようにしかつくられていないので、左利きの人がそれに慣れていなければ=右手で考えるようにしなければ、システムには順応できないのである。どうして自分のなかからそんな動作が出てくるのか、本人にもきっとわからないに違いない。そういうことを目撃してからしばらく僕は左手で切符を入れるようにしてみた。いつしかそれにも馴れてしまったけれど、それだけのことがけっこう大変だったという記憶が僕の「左手」には残っている。

 自動改札が機能しなくなった時に、それを復旧させて通り抜けるのが『オデッセイ』なら、既存の自動改札の横にもう一台、自動改札を設置してしまうのが『グッバイ、サマー』だろうか。あるいはマルクス・ディートリッヒ監督『ビームマシンで連れ戻せ(原題:Sputnik)』はさらに面白い次元に辿り着いている。これは旧東ドイツの子どもたちが「ベルリンの壁」を無効にしてしまう装置を発明してしまうという映画で、裏打ちされている政治性とファンタジーの交錯がここまで見事だった作品はそうはない。それこそ自動改札にはなんの特権性もなくなり、自動改札がそこになければならない理由まで解体してしまうからである。「手作業」でここまで飛躍してしまうことは現実にはありえないけれど、なんとも面白い話を考えたものである。

 興味深いことに糸井重里もこのところ「手作業」の見直しを繰り返し訴えている。粉川哲夫と糸井重里はまったく接点がないし、それどころか資本主義に対する考え方は正反対のような気がしなくもない(?)。さらには思想的にも相容れなかった花田清輝と吉本隆明の思想をそれぞれに伝えるなど、場合によってはいがみ合う位置に行ったとしてもおかしくはないにもかかわらず、しかし、おそらくはまったく違う回路を経て同じことを予見しているのである。機械いじりが極端に苦手な僕としては、とにかく耳が痛い予見ではあるけれど(ちなみに糸井重里が「ほぼ日」のトップ・ページで毎日書いていることの全部とは言わないけれど、90%はミッシェル・ゴンドリー監督『僕らのミライに逆回転』にすべて盛り込まれている)。

三田格