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新実存主義

新実存主義

マルクス・ガブリエル(著) 廣瀬覚(訳)

岩波新書

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松村正人   Apr 21,2020 UP

 新型コロナが猛威をふるう一方でペストがはやっている。といっても後者は本、アルベール・カミュの1947年の小説をさす。『ペスト』の表題をもつこの本に言及した文章を2020年の3月以来頻繁に目にするようになった。新聞の論説、書評欄、コラム、ネットでの記事、テレビでも一週間前の日曜だったかに教科書的名著を何回かの放送で要約する教養番組で『ペスト』の回の一挙再放送があったばかり。おそらく多数の言及があるのは『ペスト』は感染症を主題にした小説の嚆矢であるとともに、戦争の災禍という不条理とそこへの反抗、それが結果した人間の行き方をも射程に入れることでいまここにある現実のかっこうの手引きたらんとする。むろん感染症をあつかったフィクションは文学の他分野から映画やドラマや舞台にもいくつも存在し、現実を下敷きにしたものもあれば、記号的道具立てにとどまる場合も象徴的な機能を担うパターンもある。多くの場合、作品は寓話的なニュアンスと現代文明への象徴性をはらみ、いかめしい顔つきなのは題材が生と死に無縁でないからだが、そのように一見して鈍重な扉でも開くと、個々の作品はそれが作品と呼ぶにあたいするものであれば、数語の見出しにはとうていおさまらない広がりをしめす空間性をもつ。あいにく私は思春期にひもといたきり、『ペスト』は再読しておらず、本稿をおこすにあたってせっかくだから読み直してみようと図書館を訪れるつもりが、私の暮らす東京の街の図書館は完全に門を閉ざしてしまった。そのようなことで『ペスト』については遠いむかしの記憶をたよりすることをお断りするが、カミュと同じくノーベル文学賞を受けた小説家の感染症がモチーフの小説でも、ル・クレジオの『隔離の島』やジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(原書の刊行はともに1995年)よりずっとおもしろかった(憶えがある)。全体や具体的な細部をいうのではない。本を読むさなかにある読者の身体に働きかける力といえばいいだろうか、読むものを前にすすめるなにかがあった。むろん異なる条件下の比較であるから割り引いてお考えいただきたいし、いざ再読してみるとそうでもないこともままある。とまれ極限の状況下でのさまざまな来歴の登場人物からなる群像劇はロックダウンした都市が舞台の点で──島が舞台のル・クレジオの『隔離の島』ともかさなるが両者の比較は本稿の任ではない──私たちの現在を彷彿しそれを背景に倫理が迫り出すのも同断である。ただしカミュの描く倫理は哲学、宗教、政治のための普遍を意味しない、作中人物の胸のうちに去来し自問しときに対話のなかにあらわれる、いうなればフィクションのなかのキャラクターの発言や内面にすぎないが、そのようなものであっても、というより、そのようなものであったればこそ、たしかに存在するのだと、マルクス・ガブリエルなら述べるに相違ない。

 そのような論点をふくむガブリエルの、まとまった翻訳書としてははじめの本となる『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳/講談社選書メチエ)が話題になったのは2018年。最新(かどうかはおってご説明したい)の哲学的知見をふまえながらやわらかな語り口と1980年生まれの若さ、その時点ですでに大学に教授職をえた聡明さにたのみ、同書は初版発行の2、3ヶ月後、私が手にしたときにはもう5刷を数えるほどのヒットを記録していた。さらに2年後、ガブリエルがみずから築きあげた思想の体系をさす『新実存主義』(廣瀬覚訳/岩波新書)を世に問い、本稿はそれを述べるものだが、上述の『なぜ世界は存在しないのか』と昨年刊行の『「私」は脳ではない──21世紀のための精神の哲学』(姫田多佳子訳/講談社選書メチエ)とも、かさなりあう点もすくなくないので、あわせてみていきたい。
 『世界』の序にあたる「哲学を新たに考える」には新実存主義についてふれた箇所がある。それによれば新実在論(『世界』では「新しい実在論」)は「ポストモダン」以後の時代を特徴づける哲学的立場なのだという。用語だけとれば、ポストモダンは本媒体にも頻出する(自戒をこめてもうしておりますよ)ので読者にもおなじみのことばかもしれないが、ガブリエルの見立てでは、この世界にはおよそ私たちにあらわれるかぎりでの事物しか存在しないとするのであり、その背後にはひとはみずからの認識をとおして世界を(再)構成するのだという構築主義がかいまみえる。すなわち私たち人間には認識がすべてあって、それ以外には知りようもない──というこの立場は、人間よりむしろその感覚や経験の向こう側の現実の総体である「世界」についての論理を展開しようとする形而上学とまっこうから対立する。
 ちがいは世界のなかへの人間の位置づけ方にある。構築主義には人間が認識する世界しかなく、形而上学には人間と関係なく世界だけがある。とはいえこれだとふつうの人間の実感に乖離している。それゆえに新実在論の出発点になるのは「それ自体として存在しているような世界を私たちは認識しているのだと」という仮説である。
 ここで「心」が問題になる。「心」と聞くと、すわ自己啓発本かと身構えたり身を乗り出したりする読者がおられようが、新実存主義が「心」をとりあげるのはその一語で包括できる実存や現象は存在しないということである。心がもたらす現象には生物学的な物理法則が支配的な側面があれば、意識があったり自己自身を知っていたりする心の動きの側面もあり、それらをあらわすことばを心的語彙というが、「そうした語彙によって拾い上げられる一個の対象など、この世界には存在しない」。しかし一方で、人間を人間たらしめる心を自然に帰して一件落着とするわけにはいかない。ここでいう自然とは自然主義的な自然、文明や規範や神などのいない自然であり、『世界』では「宇宙」と呼ばれる「意味の場」である。私たちは森羅万象を包括するものとして「宇宙」という言い方をよくするが、新実存主義において「宇宙」は自然科学の対象領域にすぎず、レコードやギター、それによって奏でられるラヴソングや、ふやけた歌を批判する批評や、そのような歌に涙すエモーションや、『ペスト』に登場する医師や新聞記者や神父など、物質や非物質、虚構や表現や行為や想念など、あらゆる対象領域を包括する「世界」よりはずっと小さい。というより原理的に宇宙は世界にふくまれるが、ガブリエルによれば、およそ存在するものは、彼のいう「意味の場(Field Of Sense)」に現象しなければない。存在するものに先行するでも随伴するでもない意味の場、存在の影にも似た意味の場が必要なのだが、すべてを包括する世界があるとして、ではその世界はどのような意味の場に影をおとすのか。世界とて存在論では特権的ではない、意味の場から免れるわけにはいかないのだから──との理路が導く無世界観が書名にもなった「世界は存在しない」という結論なのである。このような考えが描出する世界は文字にするととりとめもないが、形而上学的な無謬の統一性がないかわりに、ポストモダンのトリックもなく、私たちの暮らす世界ほどちかいリアリティをもっている。本邦の読者がガブリエルの思想をこれだけ広くうけいれたのはおそらくそのようなバランス感覚に富む説得力による。とはいえこのことはガブリエルが穏健派であることを意味しない。哲学には古代ギリシアにはじまる大河のような歴史があり、きら星のごとき賢者たちが星の数ほどの問答のはてに遠大な知の地層をつみあげてきたが、『新実存主義』はその最上部をともに構成する幾多の知見へ批評を投げかけるのを臆さない。
 目立つのは自然主義への批判であろう。自然主義とは先にもすこし述べたが、世界から心や超越的存在をとりのぞいた、科学的な考察、自然の語彙を対象とするもので、唯物論や認識論や進化論をふくむ。いま風にいうと理系分野を中心に客観性を謳いエヴィデンスをもつ事物となるだろうか。一般的にもっとも信頼できるはずのこれらの知見へ新実存主義は意義をもうしたてるのは自然主義が心をうまくあつかえないから。その端緒には心と身体は同じか否かを考察したデカルトにはじまる心身問題がある。心身問題は二元論ないし一元論の哲学の命題のひとつとして、いまでは心と脳をあつかう心脳問題に移行しているが、非物質を相手にしない唯物論では心はせいぜいニューロンの発火がもたらす現象にすぎず、心と身体(脳)の関係について議論を深めるためのテーブルに就こうともしない。一方でテーブルの上座(がテーブルにあるかはともかく)に鎮座する心の哲学、心脳問題が主要なテーマの心の哲学におけるチャーマーズの有名な思考実験(ゾンビ論法)などでも唯物論は退けられないとガブリエルはいう。このへんのながれは説明するにもこみいってしまうので、読者は本書および『「私」は脳ではない』を手にとっておたしかめいただくとして、心と自然のちがいをみとめながら両者のギャップを自然のなかに位置づける(いうなれば心を科学=物理現象に還元する)唯物論ないし自然主義におちいらないために、ガブリエルが編み出した道具立てが「精神」である。
 彼のいう「精神」にはドイツ語の読みである「geist(ガイスト)」をあてる。「精神(ガイスト)」とは心をもつ意識の主体が自己を表現するのにもちいる心的語彙をとりまとめる不変の統一構造をさすのだという。ガブリエルは自然種と精神における言語の意味論的なふるまい──自然の法則が完全に支配する前者と、意志にかかわる後者──を比較検討し、精神と自然種を論理的に区分することで、私たち人間はたんに自然の法則に縛られた奴隷ではなないのだと論を運ぶ。いかに厭世的で過激な自然保護主義者であっても彼の描く人間観は精神に基づいており自然種には属さない、さらに人間観をたずさえた主体の行為がかたちづくる歴史や規範や制度もまた自然ではない。
 そのように人間を描く思想が新しい実存主義を名乗るのもうなずける。もっとも実存主義にはカント、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、ハイデガーからサルトルにいたる伝統がある。初期には実存主義者とみなされた冒頭のカミュもふくめ、彼らが共有する前提は「精神、つまり人間の心に制度をつくる能力があるという信念」であり、それゆえに『ペスト』における規範喪失状態(アノミー)は精神をむしばむ不条理となる。もっともガブリエルの文体はサルトルやカミュほどの文学性や韜晦さもない。とはいえ『新実存主義』の歯ごたえは一般向けの教養書の体だった『世界』や『「私」は脳』ほどやわらかくはない。お得意のたとえ話(思考実験?)も、ちょっとばかしハルキ風だった『世界』や『「私」は脳』にくらべると堅苦しいし、そもそも本書は構成からして、ガブリエルによる新実存主義を解説に4人の同業者が疑問、反論を加え、ガブリエルが再反論する体裁をとっている。本稿が述べるのは本論の概略で、新書版200ページあまりの数十ページにすぎず、それさえもうまくいっているかいささか心許ないがそれはさておき、読者にはマクリュール、テイラー、ブノワ、ケルンら4名のコメントにもお目通しいただければ、ガブリエルの思想の明晰な提言性があきらかになる。新実存主義はそのマニフェストであり、前提や行間に多くのものをふくむその体系を数語に要約するのは乱暴だが、本書の「序論」をかねるマクリュールの一文の表題「穏健な自然主義と、還元論への人間主義的抵抗」は実感に即している。これまでみてきたように新実存主義は自然主義に批判的だが、科学に弓をひこうとしているのではない。あらゆるものを科学に還元する思考法を手厳しく批判するのである。すべてを包括する形而上学的な理論の無効性を主張する新実存主義は自然とともに心や精神の存在をみとめることで唯物的人間観をくぐり抜け、『「私」は脳』の最終章にあるように、運命(決定)論をのりこえた先の人間の「自由意志」を肯定する、そこにいたるガブリエルの熱っぽい口ぶりこそ、私たちが彼をして若きオピニオンリーダーに推すゆえんであろう。その背景にはおそらく、唯物論との親和性をテコにした科学的な実証性や数学的な厳密性によるかこいこみからの出口を模索したい人間の精神の働きがある。
 つまるところ世界をあらわす包括的な概念など存在しないし人間の精神は神経系の運動に還元できないのだから、AIは心ではないし科学主義だけが現実を動かす燃料でもエンジンでもない。なのに私たちは科学者たちに盲目的な信頼を置く。むろん感染症対策のような領域では専門知が大きな比重を占めるが、それを活かす規範の考究は人文科学(ヒューマニティーズ)の役割であり、人文主義(ヒューマニズム)の恢復こそ21世紀の課題であるとのガブリエルの構想は本書をはじめとした彼の著作にも通底する。ここからデジタルプロレタリアートなどの概念をつかったGAFAらプラットフォーム企業への批判まではほんの数センチである。短評のつもりがいたずらに長くなってしまった本稿はそこにはたちいらないが、システム論、ネットワーク論の側面もあるガブリエルの思考はグローバリズムの反作用でもある新型コロナウイルスのパンデミックにおおわれた「世界」にあって、その内部にとどまり現実(リアル)にむきあった考察をうながすのである──
 というのがまさに古典的実存主義の主張であり、このことからもガブリエルが故国ドイツのお家芸である観念論の系譜につらなることがわかる。しからば新実存主義に哲学の王道の復権以上の意味はあるのか。
 私もそんなふうに考えたクチで、それもあって『世界』を手にするにも間があった。きっかけは本媒体に寄せた映画評だった。2018年初頭に公開したオーストリアの映画監督ウルリヒ・ザイドルがアフリカで娯楽としての狩猟に興じるヨーロッパ人を追ったドキュメンタリー映画『サファリ』の幕引きちかくで狩猟区の白人の経営者が「やがて人間は滅びて自然だけがのこる」的なことをつぶやく場面がある(映画自体がパッケージになってないしサブスクにもあがっていないので試写の記憶をたよりに書いています)。そのセリフに私はレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の最終節にあらわれるあの「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」の一文を想起し、そのようなことも書いたはずだが、そう書きながら私ははたしてその行き方しかないのかと悩んだ。行き方とは作品の構成以上に私の発想の脈絡──ようするに現代思想とは構造主義以降であり、存在と認識と言語と差異に焦点をあてることだという思いこみ──だったが、構造主義の登場から半世紀がすぎ世紀まであらたまった2010年代後半の私はおなかいっぱいになっていた。レヴィ=ストロースのあの一文の背後には洋の東西の融合についての考察があり、さらにその背後には執筆当時(1954~55年)欧州を席巻していた思潮への批判がある。『悲しき熱帯』で彼が「法的で形式主義の合理論」と批判したものこそ実存主義であり、実存主義の人間中心主義の批判的なのりこえをはかるという図式のなかで現代思想はブームとなり20世紀後半にポストモダンを呼び寄せた。私の満腹感はその末席を汚す、レイト20世紀少年特有のオブセッションだったかもしれないが、そんな私を尻目に、ポストモダンはなやかなりし1980年生まれのガブリエルはそもそもポストモダンなどというものはもとから存在しないと喝破し、返す刀で唯物論者が忌み嫌う人間中心主義を謳うのである。それがたんに回顧的であれば見向きもされないが、ガブリエルの新実存主義の特色は脳科学や進化生物学、量子論やひも理論以降の科学の思弁的な実証性(などということばがあるかはわからないが)や、精神医学やもろもろ心理学などが、心的語彙の統一構造としての「精神」にもたらした地殻変動をおりこんでいる点にある。すなわちポスト・ヒューマンを云々する21世紀にいかなるヒューマニティが可能かという問いであり、なにげに構想的で戦略的なガブリエルのふるまいは、俗にいう大陸哲学と分析哲学の統一を目するかにもみえる(この点についてガブリエルは本書の注で明確に否定しているのだ)が、いずれにせよ、若き哲学者のくもりなき視界が映し出す人間の描像が私たちに示唆するものは、絶望がはびこる現在、なおのことすくなくない。あたかも、人間を悲観することはない。いまここで視線を上げ前を向こう、と鼓舞するかのように。

松村正人