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美しき誤解の乱反射
それが家族だろうと恋人だろうと友人だろうと、他人の心のなかなんてついにはわかるはずもなく、僕たちは他人の振る舞いを見ながら、「この人はこういう人なんだな」とか思ったりする。近しい人でさえそうなのだから、たとえば、べつに親しくないクラスメイトなどに対しては、ほんの一瞬、断片的な振る舞いを見ただけで、「あいつはああいうヤツらしい」とか決めつけたりする。でも、そんな断片的な振る舞いは、本人からすればもちろん自分の一部に過ぎないし、決めつけはそもそも誤解だったりする。じつは僕、職場が中学校・高校なのだが、学校の教室というのはまことに、「あいつはああいうヤツらしい」をめぐる闘争の場になっているようだ。自分はどのように見られたくて、実際はどのように見られているのか。そんなつもりじゃなかったのに。そこでは、誤解にさらされつづける断片的な振る舞いたちが乱反射している。
奥田亜紀子の初単行本『ぷらせぼくらぶ』(IKKIコミックス)は、中学校を舞台にした連作短編集で、岡ちゃんと田山というふたりの女子中学生を中心に細やかな人間関係を描いた、みずみずしい青春マンガである。とは言え、青春と言うほど爽やか一辺倒でもない。むしろそこでは、「そんなつもりじゃなかったのに」というすれ違いが執拗に描かれている。思っていることがなかなか伝わらない。むしろ、思ってもみないことが伝わってしまう。『ぷらせぼくらぶ』にひしめくめくるめく誤解が、痛くも面白い。たとえば、岡ちゃんの気持ちは、なかなか田山に伝わらない(「ぷらせぼくらぶ」)。たとえば、田山は知らず知らずに香川を傷つける(「運命のプロトコル」)。たとえば、先生のほめ言葉は、とても無神経に響く(「ぷらせぼくらぶ」)。たとえば、岡ちゃんは武庫島が土屋をいじめていると思い、「このド腐れメガネ河童。河で流れてろ」と言い放つ(「放課後の友達」←ここでの岡ちゃんの武庫島へのあたりのきつさは最高だ!)。断片的な振る舞いからしか判断できず、断片的な振る舞いでしか表現できないから、大事な気持ちが全然伝わっていかない。それがもどかしい。
でも逆に、断片的だからこそ良いこともある。武庫島が土屋のことをうっとうしがる、まさにその武庫島の態度に土屋は感動するし、駅のホームで見せる大場くんの演劇への思いは、岡ちゃんにとってかけがえのないものとして映る。僕たちは、思いもよらず人を悲しませることもあるけど、思いもよらず人を喜ばせることもある。すれ違いや誤解は、もどかしくもあるが、輝かしくもあるのだ。とくに、「運命のプロトコル」のラストに示されるすれちがいの、なんと感動的なことよ!
それこそ作品の断片から想像するしかないのだが、作者はもしかしたら、自分の気持ちが他人にきちんと伝わるなんてことを信じていないのかもしれない。『ぷらせぼくらぶ』には、安直な和解など全然描かれない。誤解やすれ違いばかりである。でも、だからこそ『ぷらせぼくらぶ』は同時に、たんなる誤解でしかない喜びに対しても、敏感に視線を向ける。そして、そのような誤解に満ちた振る舞いたちの乱反射は、たぶんとても美しいのだ。土屋は「と、友達が笑っただけで、世界が輝きだしたぞっ」と、泣きながら、鼻水を垂らしながら言っていた。武庫島の安いへらへら笑いが、土屋の世界を輝かす。『ぷらせぼくらぶ』の世界は、土屋が見た景色のように、まことに美しく輝いている。この美しく輝いた世界をぜひ確認してほしい。わかりやすい感動でも、わかりにくい機微でもない。ほんの一瞬の、断片的な輝きである。
誤解ばかり間違いばかりで、うまくいかず、しんどい毎日である。でも、もしかしたら、そのうまくいかなさが世界を輝かしているのかもしれない。そんなふうに考えると、明日もまた頑張れそうである。
文:矢野利裕