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木津 毅 Jan 17,2013 UPあなたはいつも 許されたがっている
ビーチ・ハウス "マスター・オブ・ノーン"
西洋占星術にはサターン・リターンという考え方がある。星占いの世界において、試練・現実・社会的責任などを意味する土星(サターン)が黄道の約29年の周期を一回りし、そのひとが誕生したときの位置に帰ってくる時期のことで、ここでは社会的な意味での子どもから大人への通過儀礼が行われるとされる。要するに28、29歳くらいの時期で、自分の人生の現実に誰もが向き合わねばらない、ということだ。いち部の占星術師は、カート・コバーンとエイミー・ワインハウスはサターン・リターンを迎えられなかった典型的なポップ・スターであると言った。その言説の是非はともかくとして、たしかに、30歳前後の大抵の人間が責任と役割を果たす「大人」になることを、この社会は強要しているように見える。女性誌は表紙に「30代女子」という(本来であれば語義矛盾の)コピーを踊らせるいっぽうで、定期的に結婚・出産の特集を組んでタイム・スケジュール的に人生をコントロールすることを提案する。星占いのページでは、「土星があなたに課す試練は、大人になるためのレッスン」だと言う。サターン・リターンを迎えた「女子」たちは、生理的にも社会的にも、ある選択を迫られる......。
ミランダ・ジュライ監督作の『ザ・フューチャー』の画面のなかには呆れるほどの「女子」が映し出されるが、彼女、ジュライ自身が演じるソフィーはとっくに土星が2周目を走っている35歳の独身女性である。恋人のジェイソン(ハミッシュ・リンクレーター)とは同棲4年目で、この映画が物語の冒頭で設定する、怪我をした猫"パウパウ"を迎え入れるための30日間というのはつまりモラトリアムの期限のことである。ソフィーはその30日間のあいだに、自己表現の象徴であるダンスを創作しようとするがうまくいかず、彼女と同じように自己実現を控えめに目指す同胞のような恋人のもとを去り、単純に生物としての女を求めてくる別の男と過ごすことのラクさに甘んじてしまう。
たとえばソフィア・コッポラ的にノスタルジックな意味の「少女」ではなく、もっとリアルで、そしてやっかいな自分のなかの「女子」との向き合い方。女優であり、アーティストであり、映画監督であり、作家であるミランダ・ジュライのような眩しい才能に恵まれた人物が、言ってしまえばこんなにごく普通の女性の問題を扱っていること自体に微かに驚きつつ、しかしこれ以上ない現代性をもここに嗅ぎ取れるだろう。僕には当然、女性の人生の岐路は実感としてはわからないが、だからこそ面倒な時代の女性の生き方の難しさを考えずにはいられない。「将来」は女性誌のなかでは希望に満ちたものではなく、たんにタイム・リミットのことである。この映画のなかにあるような、しばらく会っていなかった友人たちが揃って妊娠しているエピソードなどはどこででも聞く話だ。
だからジュライは、そんな取るに足らない、くだらない現実に奇妙なやり方で遠慮がちながらも抵抗する。話者を猫に設定したり、月が喋ったり、Tシャツが地を這ったりするのもそうだが、決定的なのはソフィーが別の男の話をしはじめたとき、それ以上聞きたくないジェイソンが時を止めてしまう箇所だろう。そこでは、もしかするとこの国でいうセカイ系をも微妙に掠めつつ、しかし情けない逃避こそを的確に映画的に見せてしまう。
そんな映画に流れるのがビーチ・ハウスなのである。彼女らの"マスター・オブ・ノーン"ははじめパソコンから流れるソフィーのダンス音楽として使用され、ダンスが思うように作れない彼女自身によってイントロ部分で止められてしまう。映画も終盤に差し掛かった頃、今度は純然たる映画音楽としてイントロから歌へと到達する。そこでソフィーはそのビーチ・ハウスの音楽、キミとボクのセカイの歌に合わせて、不恰好ながらも異物として奇妙なダンスを繰り広げるのだ。MOR? きっとそうなのだろう。それは強い主張もなく、将来への自信もない、「大人」になることができないか弱いひとたちのための歌と踊りだ。
結局、ふたりの「ザ・フューチャー=将来」は想定していたものから瓦解し、取り返しのつかない痛みを残しながら何も解決を見せずに、ただ「いま」という時間だけが引き延ばされていく。けれどもその地点からしか続いていかないものとしての「ザ・フューチャー」はタイム・リミットから解放されて、ただ未知のものとしてふたりに還ってくる。その感触は、そう、ヴィクトリア・ルグランの歌声のように、切なくもどこまでも甘美なものである。
木津 毅