Home > Reviews > Film Reviews > オンリー・ゴッド
虚無的なLAの街に流れていたのはシンセ・ポップだった。それは、寡黙で暴力的な男が主役のクライム・ムーヴィーにはまるで不釣合いなほど甘ったるく、しかし同時に、どこか幼さを残すライアン・ゴズリングの不器用な恋心を代弁するのにはそれ以上の音楽はないように響いた。世界に野心的な監督の才能を発見させたニコラス・ウィンディング・レフンの前作『ドライヴ』の成功は、あの画面をシンセ・ポップで満たそうとしたセンスだったといまでも思う。台詞による言葉よりも、映像と俳優の佇まいと音でドラマティックな瞬間を示そうとするウィンディング・レフンはいまどき貴重なほど映画に奉仕するシネアストであり、一種古風で典型的な映画作法を用いながらもしかし新しい領域を模索せんとする探求者だ。快楽的でありながら、同時にまだ見ぬ可能性の香りがこのひとの映画にはある。
バンコクというよりはLAに見える虚飾が煌く街を舞台に、ライアン・ゴズリングが画面のなかで押し黙っているレフンの新作『オンリー・ゴッド』は『ドライヴ』からの連続性を強く感じさせるがしかし、あのシンセ・ポップのような甘いひとときは皆無だ。少女をレイプし殺害した兄がその父親に惨殺され、そのさらなる復讐を犯罪組織のボスでもある母親に命じられるプロットの上で、過激と言うにはドライなあまり美しくすら思える暴力描写が次々に続く。『ドライヴ』が一種典型的な犯罪映画を下敷きにしていたように、本作もわたしたちのギャング映画や西部劇の記憶をかすめるが、それがギリシア神話や格闘技映画と接続されることで何か奇妙な手触りを残す。
古風なようでいて、しかしどういうわけかこれは見たことのないものだと直感させられてしまうレフンの現代性はどこにあるのだろう? 『オンリー・ゴッド』においてそのヒントは、クリスティン・スコット・トーマス演じる(怪演!)絶対権力者である母親が、ゴズリングに「お前は自分よりもペニスの大きい兄に嫉妬してた」と、よりによって会食の席で口にする台詞にあるように思える。『ドライヴ』でのセックスの欠落はドライバーの恋の初々しさを示すものでもあったが、本作においてのそれは主人公ジュリアンが性的に未熟であることをほのめかしているようだ(母が溺愛する兄は「すごいペニス」を持っていて、そして少女をレイプするような男である)。レフンはそのフィルモグラフィで暴力的な男たちを溢れさせてきたがしかし、あどけなさを残すゴズリングという格好の被写体を得て、旧来のマッチョイズムには回収されない含みを漂わせる。男の出来損ないとしてのヴァイオレンス……映画における、性のステレオタイプの揺らぎが示唆されているのではないか。
そして復讐劇であったはずの映画は、信仰の問題に分け入っていく。ゴズリングは『ドライヴ』同様にここでも孤独な存在で、母親の絶対的な支配から逃れるようにして別の「神」を求めていく。これまでに暴力描写においてギャスパー・ノエの映画を参考にしたというレフンだが、ノエが『エンター・ザ・ボイド』において(よくも悪くも)スピリチュアルな領域に入り込んでいたのをここで思い起こさせる。ただ、本作はほとんど感傷を介在させていない点でレフンのほうが一枚上手であるように僕には思える。ジャンル映画を接続し、ミニマルな様式でそのじつ多くのことを(語るのではなく)ほのめかす、なるほどこれから先の映画を切り拓いていくだろう才能による勝負作である。
最後に音のことに触れておくと、クリフ・マルチネスによるオリジナル・スコアはインダストリルな感触のエレクトロニック・ミュージックだ。その辺りのセンスにも、やはりゾクゾクさせられる。
予告編
木津毅