Home > Reviews > Film Reviews > 嘘八百
邦画をバカにしていた頃、とくにエンターテインメントだと、観終わってから「ハリウッド・リメイクあり」か「なし」を判定して遊ぶということをやっていた。「日本人にしかわからないからいい」という場合もあるのでややこしいけれど、まあ、たいていは面白くて外国の人にも通じる普遍性があれば「あり」というような判断だった。その習慣にならっていえば『嘘八百』は「リメイクあり」。ハリウッドというよりイタリアかフランスには楽しんでくれる人がいそうだなと。最近のフランス映画でいえばクザビエ・ボーヴォワ監督『チャップリンからの贈りもの』ともよく似ていて「駆け引き」で見せるところも通じている。『チャップリンからの~』はチャップリンの遺体が墓から盗まれ、遺族に身代金が要求されたという史実を元にしたコメディ。企画を持ちかけられたチャップリンの遺族は思い出したくもない過去をほじくり返され、最後は……ノリノリで出演までしているという制作話がまたよかった。これにストーリーもテーマも被るものがあり、「チャップリン」の位置にくるのは『嘘八百』では「千利休」ということになる。『百円の恋』の監督と脚本家が再タッグを組んだということだけで興味を持った僕は何も知らずに見始めたので、まさかコメディで、しかも「利休の茶碗」をめぐるスウィンドル・ムーヴィーだとは思ってもみなかった。外国の人に伝わらないとしたら、この「利休の茶碗」というモチーフになるのでしょうか(「風流」というのはクール・ジャパンなんだろうかどうだろうか?)。
骨董品を扱う小池則夫(中井貴一)が娘を連れて民家を訪ねてまわり、蔵などから掘り出し物を探すところから話は始まる。企画の発端は堺市に焦点を当てることだったそうで、最初から堺市の町並みを強調していたのかもしれないけれど、僕は行ったことがないので、映像にそのような醍醐味があるのかないのかもわからなかった。貧富の差に関わらず全編を通して堺市の町並みには閉塞感だけが感じられた(道を歩いていても誰かに会う気がしないという)。小池が最初に尋ねた家には野田佐輔がいて、気安く蔵の中を見せてくれる(野田役を演じる佐々木蔵之介はちなみに『夫婦フーフー日記』で「”I’M FISH”」のTシャツを2回も着ていた人気の京男)。そして、骨董品屋に売りつけられたという茶碗を見せられた小池はそれは偽物ですねといって安く買い取り、その茶碗を売った骨董品屋に詐欺の証拠品として突きつけてみるも店主には軽くいなされてしまう。あぶく銭をせしめられず腐っている小池に今度は野田の方から電話が入り、小池はある書状を手掛かりに「利休の形見」を発見する。しかし、案の定(以下、ネタばれ)それは偽物で、しかも野田はその家の住人でもなければ蔵の持ち主でもないことが判明。野田の足取りを追って小池が発見したのは居酒屋を拠点とする贋作グループの存在であった(そのひとりとして『0.5ミリ』でも抜群の演技を見せた坂田利夫が登場~)。
『ウルフ・オブ・ストリート』はディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートとジョナ・ヒル演じるダニー・アゾフが投資会社を始めるところから話は滑りだす。同じくジョナ・ヒルとマイルズ・テラーが手を組んだ『ウォー・ドッグス』もふたりが兵器の輸入会社を興すところから話は大きくなっていく。統計を取ったわけではないけれど、邦画には『トラック野郎』や『まほろ駅前多田便利軒』のように似た者同士がタッグを組むということはあっても、ひとりが独特な才能を持ち、もうひとりがマネージメント能力でこれと結びつくという関係が軸になる作品がすぐには頭に浮かんでこない。ひとりで孤独な戦いに挑むか3人以上の集団で何かを成し遂げるという話はいくらでもあるのに、そもそも「ふたり」という単位が少ないというか、映画的な主人公はひとりであっても、その動きが「ふたり」を起点としているという発想になかなか出会うことがない。『昭和残俠伝』はパートタイム的だし、『下妻物語』も戦う場所は別々。うまく言えないけれど、師弟コンビのように上下のある関係ではなく、ある種の才能とそれを管理する才能があくまでも対等に位置しながら世界に対していくという設定が不勉強のゆえかどうしても思いつかない。強いて言えば夫婦で結婚詐欺を繰り返す『夢売るふたり』がそうかなと。『嘘八百』も詐欺を仕掛けるのはグループといえばグループなんだけれど、集団性がそのダイナミズムを生み出したり、大きな波が個人を飲み込んでいくようなものにはなっていかない。「小池と野田が手を組んでから」はあくまでも個人と個人が力を引き出し合っていく。
日本の雇用は流動性が低いとされる。非正規雇用の増大には流動性を高めるという目的もあったと記憶しているけれど、それは小池と野田が手を組むように、ケース・バイ・ケースで個人と個人が能力を引き出しあう機会を増やし、特定の関係や組み合わせを固定しない社会を生み出したかったということではなかったかと記憶している。しかし、実際に非正規雇用が増えると、そのマイナス面ばかりが目立ったということは、非正規は労働の組み合わせを変える要因ではなく、タテ社会そのものはまったく変更が加えられていないので、単にその下部組織にしかならなかったという結論が出ているのではないかと。日本の労働はやはり家父長制的で、部下の能力を正確に評価するよりも忠実な奴隷と化した者に権力を譲渡するというパターンが大半なのだろう。こうした組織のあり方に馴染めなかった人たちが結果的に非正規として締め出されただけだとすると、個人の能力が生かされる場面などはこれからもとうてい望めないだろうし、日本企業が活性化せず、異次元緩和で延命しているだけという現状はやはり危機感を抱かざるを得ない(いまから思えば日テレもよく『ハケンの品格』などというドラマをつくっていたなーというか)。『嘘八百』で組む「ふたり」がすでに中年だというのはとても象徴的で、従来の組織で生かされなかった「ふたり」の才能が出会い、詐欺とはいえ経済を動かすということは、まるでかつて非正規が夢見せられた働き方を異次元で成立させているかのようなファンタジーにも見えてくる。「非正規よりも正社員に」という流れの中にこの作品を置いてみると、なんというか、これが最後の「抵抗」にさえ思えてくる。
また、小池と野田が能力を発揮する場面が上等な部類に入るものだとしても、やはり詐欺行為にカウントされるということはある種の示唆に富んでいる。就職氷河期と呼ばれ、いわゆる正規職につけなかった世代の始まりと共に増大したのがオレオレ詐欺で、そもそもそれは政策の失敗から導かれた犯罪ではなかったかと思ったりもするからである。相関関係を証明した人はいないかもしれないけれど、正規雇用の門が閉ざされればそのようなスピン・オフが起きることは経済の専門家さんたちに予想されてもよかったのではないかと。
『嘘八百』にはまた、並行してラヴ・ストーリーも描かれている。その収め方というか、メイン・ストーリーとの絡め方も意表をついていて楽しかった。惜しむらくは「嘘八百」の「八百」は江戸八百八町に由来しているので、堺市なりのタイトルをひねり出して欲しかったということくらい。
三田格