Home > Reviews > Film Reviews > ルイの9番目の人生
1970年代にニューエイジはオカルト化した。精神世界が善への一辺倒からだんだんと両義的なものになり、媒体と化した人間がそれまでとは異なるものを自らの内側に呼び込むようになる。紙エレキング最新号でも取り上げた『哭声/コクソン』が韓国版『エクソシスト』のような様相を示していたのに加え、このところ立て続けに観た3本の新作もその過程にあることを示している……かのようだった。これはそのうちの1本。オカルト映画はホラー映画とはちょっと違う(と思う)。
9歳になるルイ・ドラックス(エイダン・ロングワース)は毎年、もう一歩で死にかけるような事故に遭っていた。シャンデリアがベビーベッドに落下し、コンセントにフォークを刺して感電死しかけ、毒グモかと思えば食中毒と、生死の間を何度も彷徨ってきた。そして、ついに9年目に家族でピクニック中に崖から落ちて昏睡状態に陥る。小児神経科で昏睡が専門というアラン・パスカル(ジェイミー・ドーナン)が担当となり、治療の過程で母親のナタリー・ドラックス(サラ・ガドン)に興味を持つ一方、ルイが崖から落ちた日から消息のわからない父親・ピーター・ドラックス(アーロン・ポール)の行方をダルトン刑事(モリー・パーカー)は捜索し始める。物語は過去と現在を往復し、だんだんとルイがどのような少年であったかがわかってくる。どこか悟りきったようなところがあるルイは学校で友だちができないためにペレーズ先生(オリヴァー・プラット)のセラピーを受けていたこともあり、どこか悪魔的な表情を印象付ける。大人を小バカにしたようなことを言うのは日常茶飯事で、「ペットは平均寿命よりも長生きしたら殺してもいい」などと言い、自分が飼っていたハムスターを『ハリー・ポッター』の本で潰して殺したり(あるいはそうしたかのように思わせたり)。
俳優のマックス・ミンゲラが父・アンソニー・ミンゲラが生前に撮ろうとして叶わなかった作品の脚本と制作を推し進めたもので、いわゆる文芸肌だった父親よりもこれをズバッとエンターテインメントに仕上げている(監督は現在、寺沢武一『コブラ』の映画化を進めているらしきアレクサンドル・アジャに依頼)。そこはある種の週刊誌的な興味が入口となって見始めた作品で、そうなると『イングリッシュ・ペイシェント』や『リプリー』など重厚長大な作風で知られるアンソニー・ミンゲラが撮っていればこうはならなかったろうという面も含めてトラップだらけのつくりには驚かされる。伏線というよりは誤解させる要素を可能な限り詰め込み、テーマをはぐらかし続けるというか。実際、最後に真実が明かされ、真相がわかってみると、あれもこれも引っ掛けだったことが判明し、自分でも騙され過ぎだとは思うけれど(以下、ネタばれです)それらをすべて納得させてしまう代理ミュンヒハウゼン症候群という病気(実在する)にはかなりたじろいでしまった。代理がつかないミュンヒハウゼン症候群は周囲の関心を引くための自傷行為、代理ミュンヒハウゼン症候群だと自分ではない人間を代わりに傷つけることで自分に注目を集めようとする病気だという。これに子どもの側から母親の望むことを汲み取るというファクターを付け加えたのがこの作品のオリジナルで、子どもの賢さが裏目に出ていたことがわかった瞬間は実にやるせない瞬間でもあった。『シックス・センス』や『ハサミを持って突っ走る』など母親よりも子どもの方が大人びていて、周囲からは異常に見える少年がトリックスターを演じるという設定はひとつのスタイルとして定着してきたとはいえ、ルイによる「昏睡状態が気に入っている」というセリフにはこれまでにない諦観が滲み出ていた。子どもからしてみれば、このままの状態でいれば、これ以上、死にかけることはなくなり、それと引き換えにするほどこの世界には興味が持てなかったという意味にもなる。とはいえ、それがジ・エンドではない。価値観の転倒はまだその先にもある。
ルイが昏睡状態で意思の疎通が不可能になっていることから、いわゆるオカルト的な解決策がこの作品には導入される。催眠術と憑依である。「昏睡状態が気に入ってい」なければ、昏睡状態からは目覚めてルイが真実を語り出すという展開でもよかったんだろうけれど、昏睡状態に陥るきっかけとなった母子関係ではなく、義父との関係もミステリーとして閉ざしているために、このような手段に訴えるしかなくなったのだろうか。言ってみれば虐待を受けている児童に本当のことを話させるのは、それぐらい困難なことであり、『エクソシスト』で少女とのコミュニケーションが不可能に近かった頃と何かが変わっているわけではないとも言える。ニューエイジというのは、もともと人類は無意識で全員が結ばれているという考え方であり、『Her 世界でひとつだけの彼女』では人工知能がそのようなものの具現だといえるし、『インターステラー』や『メッセージ』もその変形に思えるけれど、そのような意識状態に対して、ここへ来て「悪魔が来たりて個人に分断する」という流れが生まれているとしか思えない。この映画では「海にいる全部の魚より愛している」というセリフが繰り返され、全体が無意識で結ばれている状態を「魚」に喩えた上で、それ「より」もひとりの人間がひとりの人間を「愛する」ことに価値があると言いたいのではないだろうか(デル・トロの新作『シェイプ・オブ・ウォーター』も海を比喩として使い、『ルイの9番目~』とは結論が正反対だった)。海以外の景色がすべて冴えない色調で撮られているのもわざとなのか。いわゆる「目に焼き付けたくなるシーン」が一箇所もない作品というのも、なんというか珍しく、「昏睡状態が気に入っている」というセリフには、そういう意味でも説得力があった。病室のセットは逆にエキセントリックで不思議な感じが醸し出されていたり。
「9番目の人生」というと普通はネコのことである(エジプト起源の考え方らしい)。9回殺されかけても生き延びたルイはまさにネコであり、ハムスターを殺してもいいというのはそこから来た発想だったのかもしれない。ハムスターにはラスプーチン3世という名前がつけられていて、だとすると博学なルイはハムスターにラスプーチンの特徴としてよく知られる性豪という意味を与えていたということだろう。母親が代理ミュンヒハウゼン症候群になった理由は作中では明かされず、彼女が妊娠している姿で映画が終わるということは淫乱であることは明らかだし、一方で、ルイはレイプされてできた子どものように思えるセリフもあり、途中まで僕はそれが児童虐待を引き起こす原因だろうと推理しながら観ていた。ミュンヒハウゼンというのはホラ吹き男爵の本名に由来する病名なので、最終的には嘘だったと取るべきなんだろうけれど、やっぱりこれは紛らわしい。レイプという問題をそのようにギミックであるかのようにして扱うのはちょっとどうかなと。
三田格