Home > Reviews > Film Reviews > ジュピターズ・ムーン
これといってカーチェイス・シーンのファンでもないし、この映画の主題でもないけれど、後半で展開されたカーチェイスはとても印象的だった。『ミニミニ大作戦』でも『新しき世界』でもカーチェイスというのはたいてい無茶な運転が醍醐味というもので、迷惑の限りを尽くすことが制作者にとっては努力目標だったはずである。それがコーネル・ムンドルッツォ監督はカメラの位置を下げただけなのである。「だけ」ではないかもしれないけれど、カメラの位置を下げ、視点を道路に近づけただけで、カーチェイスというものがこんなに恐ろしいものになってしまうとは思わなかった。道路が近いので激突の恐怖が増し、視界が狭いことも恐怖なら、対向車がいきなり視界に入ってくることも相当な恐怖だった。そして、この「視点を下げる」ということは、人々が「空を見上げる」ことを忘れ、下界=現実ばかりに拘泥しているという主題とも関わりがある撮り方だったのである。なんという方法論だろうか!
セルビアからハンガリーに流れ込むシリア難民たち。父とはぐれたアリアン(ゾンボル・ヤェーゲル)は国境警備隊のラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)に銃撃される。撃たれたアリアンはなぜか空中に舞い上がる。ここまでの描写がまずは息を飲む。ハンガリー国境を越えるということはシリア難民がヨーロッパに辿り着けたことにほかならない。それはバルカン・ルートと呼ばれるコースで、難民たちにとってはいわば最後の壁なのである(ハンガリー政府は2015年に緊急事態宣言を発してフェンスを設置、欧州委員会にも難民の受け入れを拒否している)。一方で捕まえた難民を隔離・収容したキャンプで働くシュテルン医師(メラーブ・ニニッゼ)はワイロを受け取り、難民たちをハンガリー国内に送り込んでいる。前夜の騒ぎを受けて、その日の難民キャンプは人で溢れかえっていた。そして、シュテルン医師の診察室にはアリアンが運び込まれてくる。アリアンはシュテルンの前でまたしても空中浮遊を始める。シュテルンは驚いてその様子をスマホで撮影する。シュテルンには大金が必要だった。その理由は映画の後半で次第に明らかにされる。ちょっとした経緯を経てシュテルンは、国境ではぐれた父を探しているというアリアンに空中浮遊で金を稼ぐことを提案、その金があれば父を探し出せると説得し、ふたりは次々と富裕層めぐりを始める。富裕層たちはアリアンの空中浮遊を見て驚愕する。
この映画、難民尽くしであり、後半でも難民問題が思わぬ展開を呼び込むにもかかわらず、社会派という印象はまったく与えない。物語をドライヴさせていくポイントはシュテルン医師が神を信じていないということで、奇跡を行うものが目の前に現れても金儲けしか頭に浮かんでこない現代人がまずは焦点化されている。ほかにも様々な要素が編み込まれ、途中までどこに向かってもおかしくない話だと思わせるにもかかわらず、「人々が神を信じられた時代は良かった」という価値観を中心に据えたまま、メイン・ストーリーはシュテルン医師の行動をどのように追っていくかで決まっていく。撃たれたことで空中浮遊が可能になったアリアンはいわば救世主のようでありながら、その力はほとんど役に立っていない(同じくイエス・キリストが村にやってきたという設定の『哭声/コクソン』とはまったく逆のことが起きたとも言える)。予想外のクライマックスを経て、ラスト・シーンで彼は人々に「空を見上げ」させる。その時のカメラの位置も非常に低く、なかなか不思議なアングルからこの光景を体験させてくれる。このシーンを言葉に置き換えることはなかなかに難しい。『ジュピターズ・ムーン』とは生命体が存在するかもしれない星が木星の衛星にはあり、その星は「エウロパ」と名付けられていることに由来する。空を見上げた人たちが未来のヨーロッパになると監督は思いたかったのだろう。
シリア難民を早い段階で受け入れると表明したカナダは人道的というよりも金持ちや才能のある人を選んで先に引き取ってしまい、自国の活性化に役立てたというのが本当のところらしい。それこそ企業誘致と似たような発想で移民を捉えたわけで、6人しか受け入れなかった日本とは反対に国際的にも感謝されたことを思うと実にスマートな政治判断だったというしかない。ナチスに見習ったらどうかねと麻生太郎はいうけれど、それをいうならトルドーに見習ったらどうなんだろうと(日本も少子化対策として孤児だけを引き受けるとか、考えようはあっただろうに)。難民の受け入れはあとになればなるほど残り物になってしまい、それこそ人道的でなければできない行為になってしまう。ハンガリーやポーランドが突きつけられたのはそこだった。地中海の無人島をひとつ買い取り、その島にシリア難民の町を建設した大金持ちもいたけれど、さすがに550万人ともなると人道で解決できる範囲は軽く超えている。地理的にいって最も数を受け入れざるを得なかったのはその半数を受け入れたトルコで、現実にはヨーロッパに辿り着けたシリア難民は昨年あたりからトルコに逆流する動きを見せつつある。原因は「ヨーロッパのヘイト意識」にめげてしまったからである。トルコのエルドアンも相当ヒドい指導者だと思うけれど、アサド政権やヨーロッパよりマシと判断されたのである。ヨーロッパよりマシと。
難民キャンプを訪れたムンドルッツォ監督が、その時の体験をSF映画として構想したものがこの作品で、しかし、実際には製作中に現実に追いつかれてしまい、もはやSF映画には見えなくなってしまったと監督本人は述懐している。「できるだけ現在を描くことを避けてきた」とも語るムンドルッツォ監督は『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』(犬好きは観ない方がいいかも)で日本でも一部の注目を集めたハンガリーの映画監督、その奇抜な発想はある意味、ハンガリー映画の王道とも言える。『ハックル』や『タクシデルミア ある剥製師の遺言』のパールフィ・ジョルジ、『リザとキツネと恋する死者たち』のウッイ・メーサーロシュ・カーロイ、『ニーチェの馬』のタル・ベーラや『サウルの息子』のネメシュ・ラースローなどハンガリー映画は南米のマジック・リアリズムに匹敵する奇妙な作品の宝庫である。『ジュピターズ・ムーン』はそうした系譜にあって、ハンガリー映画に新たな時代をもたらす傑作ではないかと思う。
三田格