Home > Reviews > Film Reviews > 悪女/AKUJO- 監督:チョン・ビョンギル『殺人の告白』 出演:キム・オク…
三田格 Feb 23,2018 UP
昨年のワースト・ムーヴィーは『ワンダーウーマン』だった。ストーリーが単純な上にとにかくテンポが悪い。『ハリー・ポッター』シリーズは監督が変わってもテンポが遅いのは子どもに観せるという大前提があるからだろうけれど、『ワンダーウーマン』にそんな制約があるとも思えない。余韻がどうという場面もないし、じっくりと観せるシーンもなかったのに、どうしてあんなにゆっくりとしか展開しなかったのか。しかし、『ワンダーウーマン』は全米で年間3位の大ヒットだったという。『ワンダーウーマン』を絶賛している声を表面的に掬い取って見ると、世間のことは何も知らない女性が性善説に基づいてアクションしまくることがいいらしく、アン・ハザウェイやジェシカ・チャスティンといった中西部受けしない女優たちが絶賛し、ヒーローものにしては女性客が50%を超えていることがひとつの特徴だという。人類にはもともと悪い心はなく、悪魔がそうさせているだけなので、純粋無垢なワンダーウーマンがその悪を退治するという展開……と書くと、やっぱり子ども向けにしか思えなくなってしまうけれど、『スリー・ビルボード』もリベラルのおとぎ話みたいなところがあると書いたばかりなので、トランプ政権下で文化系リベラルが求めていた捌け口が集約された作品なのかなと思うばかりである。
女が激しく戦闘するだけなら日本占領下の朝鮮半島を描いたチェ・ドンフン監督『暗殺』でチョン・ジヒョン演じるアン・オギュンも記憶には新しい。あれは銃があまりにも重くて、狙撃用のライフルを構えるだけでも大変だったらしい。そして、同じ韓国映画でチョン・ビョンギル監督『悪女/AKUJO』も冒頭から女の戦いっぷりは凄まじい。キム・オクビン演じるスクヒはいきなりヤクザの本部に乗り込み、組織ごと全滅させてしまう。ここまでがあっという間。ドミノ倒しのように殺されていくヤクザたちはまるで死ぬために生まれてきたかのように次から次へと倒されていく。物語はここから始まると言いたいけれど、警察に逮捕されたスクヒが連れて行かれたのは国家のためにさらに精度の高い暗殺マシンを養成する施設で、彼女はそこでさらに高度な訓練を施されることになる。この過程がまたシステマティックに構成されていて実に楽しい。スクヒはそして、国家が命じる暗殺をやり遂げればいままでとは異なる身分を国家から与えられ、自由の身になると告げられる。これが絶対に困難なミッションだろうと思っていると(以下、ネタばれ)、拍子抜けするほど簡単で、スクヒはすぐに釈放されて自由の身になれる。所内で産んだ子どもと共に彼女は新たな人生を生き始めることになる。
『悪女/AKUJO』
その後に起こることは実はどんなストーリーでもよかったのではないかと思う。スクヒは要するに売春組織から抜けられない売春婦の比喩なのだと思う。彼女は徹底的に国家から監視され、それ以上は関わらなくてもよかったはずのことにも駆り出され、自分の人生などというものは持てないどころか、むしろ過去との接点は増えていく。『悪女/AKUJO』を観ていて僕はコリーヌ・セロー『女はみんな生きている』を思い出した。韓国の売春組織がどれほど高度なものかは知らないけれど、ヨーロッパのそれが極めて複雑で女性たちにとって絶望的な組織論によって支配されているかは各種ドキュメンタリーや国連がそれに関わっていることを暴いたラリーサ・コンドラキ監督『トゥルース 闇の告発』がアメリカでは上映できなかったことでも深刻さは伝わってくる(確かガスランプ・キラーがこれについてラップしていた)。フランスの新自由主義を批判するイントロダクションから始まった『女はみんな生きている』は次第にヨーロッパの地下に張り巡らされた売春組織の実態に肉薄していき、主役の女性たちはこれに思いっきりカウンターを食らわせることになる(ファンタジーとはいえ、その方法論はとても痛快だった)。『悪女/AKUJO』もこれと似た展開をたどり、クライマックスでは長丁場のカーアクションも圧巻だし、女性がアクションしまくるという意味では何も申し分はない。しかし、この作品は『ワンダーウーマン』と同じ客層を呼ぶことはできないだろう。それはスクヒにはあまりにも葛藤があり、それが物語を根底からドライヴさせている要因をなしているからである。逆にいえば口コミ型で広まったという『ワンダーウーマン』は何ひとつ葛藤がないことが女性客を引きつけたということなのだろう。
どうして『ワンダーウーマン』を観たのかと聞かれれば、アメリカで再燃しているフェミニズムがどこかしらにテーマとして盛り込まれているからではないかと予想したからである。しかし、そのような要素はなかった。それどころか反トランプで動いている女性たちと『ワンダーウーマン』にもしも関係性があるとしたら、この運動はヤバいかもと懸念せざるを得なくなってしまった。『ワンダーウーマン』の幼児性がもしもウイミンズ・マーチやタイムズ・アップにも浸透しているとしたら、女性の尊厳というようなテーマからも一気にそれてしまうし、それこそカトリーヌ・ドヌーヴの言うように「女は子どもじゃない」と言いたくなる衝動も理解できないことはない。『ワンダーウーマン』は女性しかいないアマゾナスで育ち、世界のことは何も知らないという設定で、それは確かに子どもということでしかない。子どもが悪と戦う映画を女性客が喜んで観ているというのは……どうなんだろう。ソフィア・コッポラの新作『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』がそして、男性とは隔絶された女子寄宿学園で暮らす女性たちの話であった。1971年に公開された『白い肌の異常な夜』と同じ原作を映画化したもので、反戦や人種問題をばっさりとカットし、女性だけの空間に負傷兵がひとり紛れ込んでくるという設定だけを踏襲している。そして、男性に興味を示す女性たちの心理が事細かに描写され、前作よりも心理劇の要素が比重を増している(そして、アメリカ南部なのにヨーロッパにしか見えない衣装と)。
『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』
『白い肌の異常な夜』では負傷兵の体を拭くのは黒人メイドの仕事である(この時のセリフが実に印象的)。コッポラ版ではこのような仕事をニコール・キッドマン演じる園長のミス・マーサにやらせている。男性の肌に触れるマーサの内面を推し量るようなショットが最も雄弁にこの作品の意図を物語っている。キルスティン・ダンスト演じるエドウィナ、エル・ファニング演じるアリシアもコリン・ファレル演じるマクバニー伍長には興味津々で、クライマックスでマクバニー伍長が動き出すまでは男性にも女性にもいわゆる「理はない」としか言えない場面ばかりが積み重なる。結果的には悲劇ではあるものの、その過程は『白い肌の異常な夜』のようにあらかじめ男性=悪という描き方はせず、男性の内面はあくまで未知数になっているところが現代的だった。ウイミンズ・マーチやタイムズ・アップに対して、結果だけを見てモノを言うのはどうなんだろうという疑義がこの作品に潜んでいないとはとても思えないし、『ワンダーウーマン』を観てはしゃいでいた女性コメンテイターの感想を聞いてみたい作品ではある。とはいえ、『ワンダーウーマン』を監督したパティ・ジェンキンスはかつてシャーリーズ・セローンのブスメイクが話題を呼んだ『モンスター』を撮った監督でもある。リドリー・スコット『テルマ&ルイーズ』が元ネタにしていた事件を忠実に再現した『モンスター』はかいつまんで言えば、自分が愛した女性のために次々と男たちを殺していった娼婦の話である。世界のことは何も知らない、子どもみたいな女性が連続殺人鬼になるか、アクション・ヒロインになるか、パティ・ジェンキンスにとってはもしかすると大した違いはなかったのかもしれない。
『悪女/AKUJO』予告編
『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』予告編
三田格