Home > Reviews > Film Reviews > アス
タイトルだけを観て最初に考えたことはダヴィッド・モロー監督『正体不明 THEM』(06)と何か関係があるのかなということ。ルーマニアの初代大統領チャウシェスクは国の人口を増やすために堕胎と離婚を国民に禁じ、結果、ルーマニアの人口は増え、GDPを上げることに成功する(日本会議や安倍晋三には教えたくない政策だなあ)。しかし、無理に子どもを産ませれば歪みが出るのは当然で、子どもを育てられなくなる親はもちろんいるし、ルーマニアではストリート・チルドレンが社会問題化していく。そうした子どもたちのエイズ感染率の高さや、政府の特殊部隊として孤児たちが戦闘訓練を受けていたことも明るみに出るなど独裁政権の末路は壮絶なものとなる(本誌でも話題になったクリスティアン・ムンジウ監督『4ヶ月、3週と2日』(07)はチャウシェスク政権下で堕胎を試みることがどれだけ困難であったかを扱ったルーマニア映画)。『正体不明 THEM』はそうした史実を背景に持つ地味なフランスのホラー映画で、スパニッシュ・ホラーの評価を高めたアメナーバル監督『アザーズ』(02)の世界的なヒットを意識した演出だったことは明らかだった。「THEM」というタイトルがそもそも『アザーズ』を言い換えたとしか思えないし、少女とゾンビばかりでなく、「誰のことを怖がるか」ということがこの時期はホラー映画のトレンドになっていた。カメラに映っていたあれや『ミスト』のあれ、外の世界は放射能か化学兵器で全滅してしまったと言い張る農夫とか(あれはもっと後か……)。ちなみに僕がその当時、一番怖かったのはパク・チャヌク『Cut』(04)に出ていたエキストラ役でした。あの男は……怖かった。
「この世で一番怖いモンスターは自分自身ではないか」とジョーダン・ピール監督は考えたという。恐ろしいのは「THEM」ではなく「US」だと。海沿いの遊園地に遊びにきた黒人一家はそれなりに裕福な暮らしをしているようで、休みには別荘に出かけていく。別荘地には知り合いの白人一家もいて、彼らはビーチに寝そべり、裕福な人たちが言いそうな悪態をつき、この人たちは誰の役にも立っていない人たちなんだろうなということが印象づけられる。夜になると、家の外に誰かが立っていることに家族は気がつく。父親のゲイブ・ウイルソン(ウィンストン・デューク)は自分たちの家の敷地内から出て行けと彼らに向かって怒鳴るが、彼らは一向に立ち去る気配を見せない。それどころか、彼らは玄関を壊し始め、家の中へと押し入ってくる。それはウィルソン一家とまったく同じ4人家族。つまり、自分たち自身だったのである。監督のジョーダン・ピールが一昨年、『ゲット・アウト』でいきなりビッグ・ヒットをかましたことは記憶に新しい。(以下、ネタばれ)『ゲット・アウト』を観て、ジョン・フランケンハイマーが66年に撮った『セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身』が下敷きになっていると思った人は多いことだろう。カリフォルニアのヒッピー・カルチャーを変な角度から眺めることのできる『セコンド』は個人とアイデンティティの結びつきを絶対のものとしてではなく、最近でいえば『殺し屋1』のように書き換えることが可能だという認識のもとにつくられた作品で、キャリアの初期に『影なき狙撃者』(62)という大作を撮ったフランケンハイマーがさらにテーマを深めた傑作であった。僕が驚いたのは、『ゲット・アウト』だけでなく、『US』もまた『セコンド』にインスピレイションを得ている作品だということで、1粒で2度おいしいというか、カニエ・ウエストが単純に自分を黒人と同定できない時代につくられたブラック・ムーヴィーとして、奇妙なシンクロニシティを感じてしまったことである。マイケル・ジャクソンのように白人と黒人を対立項として扱えば議論が成立するという土壌の上にはもはやいない。『US』ではとにかく自分が襲ってくるのである。
ジョーダン・ピールは映画のプロパーではなく、アメリカではむしろ『キー&ピール』というコメディ番組の製作者として知られている。『キー&ピール』の持ちネタにバラク・オバマが世界情勢について何かコメントすると、隣でオバマの本音が炸裂するというコントがあり、オバマがしたたかだったのは彼らをホワイトハウスに呼んで、このコントを一緒に演じてしまったことである(安倍晋三にはとてもできない芸当!)。ジョーダン・ピールはここでもひとりの人間を相反する要素に分解して見せている。カニエ・ウエストが何を言っているのかまるで一貫性がなく、全体としては整合性がないように、ジョーダン・ピールが描き出す人物像も統一された人格からはほど遠い。しかも、一方はかなり暴力的である。『US』は中盤以降、そうした自分への暴力行為の範囲がどんどん拡大し、別荘仲間であるタイラー夫妻の家にウィルソン一家が駆けつけたところで最初のクライマックスに達する。スマート・スピーカーを使ったギャグや軽妙洒脱なヴァイオレンスなど、このパートには見どころがたくさんあるのだけれど、このところどんな作品に出ても絶賛されるエリザベス・モス(映画『ザ・スクエア』でのコンドームの奪い合いとか)がここでも素晴らしい演技を見せ、鏡を見てニヤリとするシーンはトラウマ級のインパクトに感じられた。本当は主演のルビタ・ニョンゴを絶賛してしかるべきなんだろうけど(実際、熱演ではあった)、しかし、個人的にはモスに全部持っていかれちゃった感じです。ああ、モスちゃんに噛まれてみたい……なんて。
ひとりの人格をふたつに分けて扱うのとは対照的に、この作品には一卵性双生児のタレント、タイラー姉妹が起用され、ふたりなのにひとり分の役割しか与えられていない。これもかなり意図的な演出なのだろう。また、この作品にはアメリカ大陸を横断する人間の鎖が登場するなど格差社会を批判する要素が持ち込まれているのは確かだけれど、そうなると最後のオチも複雑な入れ子構造になっていて、どこがどういう批判になっているのかすっきりはしなくなってくる。それこそカニエ・ウエストが「黒人は自ら奴隷になったとしか思えない」的な発言と重ねて考えると映画的な主体がどこにあったのかは少し混乱してくるし、説明的なところも気になり始める。問題意識は十分に伝わってくるし、ひとひねり加えたい気持ちはわかるけれど、最後は少し面白くし過ぎたのではないだろうか。そして、エンドロールにスティーヴン・スピルバーグの名前があったことはジョーダン・ピールがどこに向かうかを示唆していたようで、ある種の不安がこっそりと忍び寄ってくるのであった。
『アス』予告編
三田格