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ラップの根源的な快楽へ 文:中里 友
Fla$hBackS FL$8KS FL$Nation & Cracks Brothers.Co,Ltd |
ミックステープ『1999』がブレイク・ポイントとなったJoey Bada$$をはじめ、彼が率いるPRO ERAのクルー、Schoolboy QやKendrick Lamarも所属するBlack Hippy、〈Brainfeeder〉と契約を果たし、ミクステ『Indigoism』も好評のThe Underachiever、それにFlatbush Zombies、レイダー・クラン......ジャンル内で多様化が進むなか、いま列記した連中の作る曲は質感としては粗野で生々しく、つんのめった初期衝動的な高揚感がある。それが「90年代的」と評されるのも納得いく話だと思う。こうした90年代をリヴァイヴァルせんとする機運を多くの人が感じているとは思うが、トレンドというよりむしろ、90年代に幼年を過ごした少年たちがロールモデルに選んだのが、若かりし頃のNasであり、2Pacであるかのような、そういった印象を受ける。サウンドをとってみれば、ここ日本でも同様の現象は起きている。
2月にリリースされたライムスターの最新作『ダーティー・サイエンス』は、DJ JIN曰くジェレマイア・ジェミーのサウンドに影響を受けたという。そこから、80年後期~90年代前半のハードなローファイ・サウンドのトラックに対比して、よりアップデートした「いま」のラップを乗せるというアルバムのコンセプトが生まれたのだが、イリシット・ツボイの貢献により、よりカオティックで荒々しい印象を持たせることに成功している。去年からOMSBやsoakubeatsの作品など、示し合せたようにラフで攻撃的なラップものが続くなか、ようやくのフィジカル・リリースを果たしたFla$hBackSは少し趣きが違っていた。腰を落ち着けたリズムをとりながら、ひたすらクールで散文的にカットアップされたリリック、それに煌びやかなトラック......瑞々しい若さによって彼らは別の道筋で90年代を再解釈、アップデートしてみせた。コンセプチュアルで計算された作品のなか、息せき切ったような早いBPMで、言葉にエモーションを込めるライムスターとは、まるで対照的だった。
そういえば、「90年代生まれによる90年代再解釈の......」と野田努が評する通り、いつかクラブで会ったとき、Febbは、1994年生まれの彼は90年代の音楽に対する憧憬をはっきりと語ってくれた。TETRAD THE GANG OF FOURのメンバーであるSPERBと共にCrack Brothersなる不定ユニットでも活動する彼は、16歳でGOLD FINGER'S KITCHENのMPC BATTLEの本戦でベスト4へすすむトラック・センスを持つ。しかし、個人的にはなんといっても、彼のラップを素晴らしいと思う。Crack Brothersの音源の他、Black SwanコンピやBCDMGでの客演でも彼のラップが聴けるので、興味がある方は是非チェックしてほしい。どっしりと胴を据えながら、B.D.やNIPPSのように、ゴロ合わせのようにはめていくラップ。それはときに連想ゲームのようにイマジネーティヴな単語の連なりであったり、ときには刺激的なパンチラインとしてするりと耳に入ってくる。そうした(勿論痛快でカッコいい)ラップが、ともすれば「ドープ」だとか「玄人好み」という言葉に回収されてしまいそうになってしまうところを、より開かれた音楽としてメロウに、そして時にロマンチックでフレッシュなものにしているのは、Fla$hBackSの音楽性の形成に大きく寄与したjjjのトラックのおかげだろう。声ネタを多用したソウルフルで華やかな上モノ、緩急入れた力強いビートはインスト物として聴いても十分に楽しめるほど。彼の作品集『ggg』はもちろん、個性派ラッパーとしていま注目のあべともなりに提供している楽曲"ヨルナンデス"は、彼の独特のタイム感や野性的な一面をうまく引き出した素晴らしいトラック・ワークだ。そしてFla$hBackS第3の男、KID FRESINOもトラック・メイキングとDJの他に、ラップをはじめたということで(アルバムが早くも4月3日に〈Down North Camp〉からリリース予定)、Fla$hBackS本隊にどんな作用が起きるか、いまから楽しみでしかたない。
そして、もうひとつ。Fla$hBackSを聴いてヤラれてしまったポイントがある。それは歌詞の合間、もしくはイントロ・アウトロに挿入される相づちや掛け声、シャウトアウトなど、おそらくは彼らのリリック・ノートにも記されていない言葉のカッコよさだ。人によっては拍を取ったり、ラップを入れる前のチューニング感覚に近い。
もっと言うとそれは、単なる「ノリ」で発せられることが大きいのだけれど、なんといっても、その「ノリ」がとても重要だ。何故なら、自然と発せられたそうした言葉こそが、何より彼らの特別なセンスを表すものでもある。相方がラップしている
裏で、好きにスピットする言葉が曲に躍動感を吹き込み、新たな情報を加える。決して雑な印象はなく、むしろそれが聴いていて、とても気持ち良いのだ。Febbが時折入れる「A-ha」はとてもチャーミングだし、jjjの名前ひとつとっても、音が楽しい。何を言っているかはさして重要ではなく、彼らが発せざるを得なかった言葉が持つ響きが、ジャストなスパイスとして効いている。
Down North CampやBlack Smokerの関連諸作等々、歌詞カードを掲載しないアーティストたちに共通しているのは、言葉の持つ意味性に囚われすぎず、音として純粋に楽しんでほしいという気持ちの表れであることは明らかだ。だがそれ以上に、彼らが純粋培養し、大切にしてきた仲間内の独特のノリを感じとってほしいがためなのかもしれない。総じてゆるいBPMであることも、個々の自由なノリを重視すればこそだと思えば、合点がいく。もしかしたら、彼らは90年代なものに回帰しているのではなくて、ラップをすることの、ヒップホップをやることの、根源的な快楽へと立ち返っているのかもしれない。付け加えていうなら、それは遊び心溢れる実験性への道でもあるはずだ。いま、何度かの最盛期を迎えているこの音楽が、また新たなステージに向かっているように感じられてならない。
文:中里 友