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自分のお気に入りのDJを紹介できるというのは光栄なものだ。もうかれこれ3~4年前の話だが、その晩僕はひどく落ち込み、うちひしがれ、死にそうだった。ナイトライフを過ごせるような精神状態ではなかったが、約束があったので、僕は重たいドアを開けた。
ブースのなかにはヨーグルトがいた。彼は......すでにアッパーだった。「おいおい、何時だと思っているんだ」と僕は思った。「まだ11時だぜ」、フロアには10人いるかいないか。こちとら死にそうなほど落ち込んでいるというのに、この寂しいフロアにアッパーなテクノかよ......やれやれ参ったな。
しかもその飛ばし屋のプレイはそこにいる10人を完璧にロックしていた。落ち込んでいる人間がこういう光景に出くわしたとき、通常ならますます落ち込んでくるものだが、DJヨーグルトのプレイにはどこか無邪気なものがあった。ドラッギーだが、リー・ペリー的というか、ドロドロした感覚がないのがDJヨーグルトの個性だ。トランシーだが、アーシーなセンスがあるからなのだろうか、デーモニッシュな方向にはいかない。DJ saved my lifeという有名な言葉があるけれど、DJヨーグルトのグルーヴは、その晩の僕を助けてくれたかもしれない。
![]() SOUNDS FROM DANCEFLOOR UPSET RECORDINGS |
2001年にDJ Uとのアップセッツとしてデビューして、3枚のアルバムと数枚のシングルを発表すると、2008年には〈ラストラム〉からDJヨーグルトとしての過去の作品集『Singles&Remixes 2005 To 2008』、そして2010年にはDJヨーグルト&コヤスとして『CHILL OUT』と『SOUND OF SLEEP & MEDITATION』の2枚をリリースしている。
DJヨーグルト&コヤスとしての3枚目となる最新作『SOUNDS FROM DANCEFLOOR』 は、それまでの2枚のアンビエント・アルバムとは打って変わって、いまどきこんなに無邪気な、ケレンミのない、ピースでトランシーなダンス・ミュージックがあるのかといった趣だ。この10年は、90年代とは違って愛情を欠いたダメなクラブも目に付くようになったが、それとは別の場所ではピースなパーティが続いていることを『SOUNDS FROM DANCEFLOOR』は我々に教えてくれる。取材には相方であるコヤスも同席してくれた。
バンド仲間でアジアを旅するのが流行りはじめて、「3万あれば1ヶ月滞在できるよ」って言われて、カネは無かったけど時間は余っていたし刺激を求めていたので、じゃあ俺も行こうと思って。で、何度か日本と海外を往復しているあいだに91年にゴアでたまたま野外パーティに出会ったんですよね。
■最初に知ったのは、ヨーグルトが渋谷のシスコ店で働いているときだったね。店長の星川慶子さんから「三田さんのファンです」って紹介されたんで、すごくよく覚えているんだよね(笑)。
ヨーグルト:そうですね、三田さんが来店するとずーっとしゃべってるという。
■で、「どれどれ、どんな服を着てるんだ?」と思って(笑)。
ヨーグルト:それはもう、三田カジェアルですよ(笑)。冗談はともかく物書きの人のなかで三田さんはほんとに昔から気になる存在だったんですよ。
■レコード店で働くまではインドを放浪しているようなトラヴェラーだったんだよね。んで、いつまでも漂泊できないっていうことで、飯食うためにレコード店に入ったんだっけ?
ヨーグルト:ですね。インド~ヨーロッパの旅から帰ってきて、よくクラブで一緒に遊んでいる仲間のなかに初期の〈イエロー〉の店員のジュリアって人がいたんですよ。その彼が星川さんと仲が良かったんですよね。もともと僕はディスクユニオンで働きはじめて、ロックやジャズとテクノの新譜と中古を担当してて、このままユニオンで働いていくか悩んでいた頃にシスコのテクノ店がオープンして、「こういうテクノの新譜だけで成り立つ店ならいいな」と思って星川さんに自分のことをその友だちに紹介してもらったんですよ。ちょうど佐久間さんとシャッフルマスターがテクノ店を抜けるタイミングでテクノ店に入りました。
■しかしね......その頃の若さでなんでゴアに行くようなヒッピーになったんですか?
ヨーグルト:ヒッピーって自覚はなかったですけどね(笑)。もともとクラブ好きでしたよ。ゴアに行く前も東京のクラブにもよく行ってたし、地元にいるときはたまに地元で遊んでました。
■どこの出身?
ヨーグルト:愛媛の松山です。地元が盛り上がっていたわけではないですけど、東京に来たのが88年ですね。当時はクラブに人は入ってて盛り上がっていたんですけど。もっとむちゃくちゃでもいいんじゃないか、もっと盛り上がってもいいと思ってましたね。いまひとつ物足りなさを感じていました。
■92年ぐらいから東京もむちゃくちゃになってましたけどね。
ヨーグルト:たしかにすごいパーティが東京でもあったと思うんですが、自分は出会わなかったんですね。その後のゴアとかロンドンで見たときに「俺が求めた解放感や自由な雰囲気を含んだパーティってこれだ!」と思いましたよ。
■目覚めてしまったんですね。
ヨーグルト:89年ぐらいは俺、バンドやってたんですよ。でもバンドの練習で同じ曲を何度も演奏するのに飽きてしまって、歌や演奏が飛び抜けて上手いわけでもなかったのでバンド活動は2年ほどで終息して。ちょうどそのバンド仲間でアジアを旅するのが流行りはじめて、「3万あれば1ヶ月滞在できるよ」って言われて、カネは無かったけど時間は余っていたし刺激を求めていたので、じゃあ俺も行こうと思って90年に初めてインドに行きました。で、何度か日本と海外を往復しているあいだに91年にゴアでたまたま野外パーティに出会ったんですよね。まだトランスが根付く直前だったので、UKレイヴものからイタロ・ハウス、アシッド・ハウス、打ち込みのニューウェイヴ、ボディ系の音までいろいろかかっていました。でも音楽を聴きはじめた頃は打ち込みの曲はそんなに好きじゃなかったんですよ。
■ヨーグルトのルーツって何になるの?
ヨーグルト:10代前半は60年代から80年代のUKのロックやパンク、ニューウェイヴ、10代後半の頃はレゲエとかブルースですね。
■レゲエが好きなのは、アップセッツっていう名義にしてるぐらいだからね。
ヨーグルト:レゲエは好きでしたね、レゲエを好きになったきっかけは、ストーンズやクラッシュがカヴァーしていたレゲエだったりするので、10代後半の頃好きだったのはロック流れのレゲエやロックステディですね。ラスタとかは正直わからないこともいろいろあります。で、ゴアでは打ち込みが苦手な自分がパーティの熱気に巻き込まれて、そしてメチャクチャ踊れるじゃないですか、それで「これすごいな」と思って、もっと探求したいと思ったんです。テクノとか全部エレクトリックな音で構成されてる音楽って、独特のフィーリングがあるじゃないですか。
■ある種の麻薬性みたいなところに惹かれたんだね。
ヨーグルト:う~ん、そうですね、苦手だったぶん、より惹かれたってことですかね。
■多くのレゲエが好きな人って、けっこうテクノを苦手とする人が多いんだよ。
ヨーグルト:けど、もうバッチリで。テクノで踊った後は歌ものレゲエよりもダブを聴くことが格段に増えて、90年代半ばだとマッドプロフェッサーがマッシヴ・アタックをリミックスしたやつとかを愛聴してました。
コヤス:僕、はじめ『ノー・プロテクション』ぜんぜんわかりませんでした。
一同:ええーー(驚)!!
コヤス:そのうちわかるようになりましたけど。
■コヤスくんはヨーグルトと何歳はなれてるの?
コヤス:5歳です。
■けっこう離れてるね。
コヤス:95年に交通事故で足をケガして、そこから3年ぐらいまったく遊んでないです。
ヨーグルト:コヤスくんはけっこう卓球さんファンで。
コヤス:最初は卓球さんでしたね。
■日本で打ち込みの音楽やっている人で、もともとは卓球ファンっていう人は本当に多いよね。
コヤス:最初の入りはデジタル・ロックだったんですよ。
■なんだっけ、デジタル・ロックって?
コヤス:ケミカル・ブラザーズとかプロディジーとか。
■ああ、そうだったね。
コヤス:もともとバンドやってたんですよ。僕の場合交通事故にあって足をケガして立って楽器を弾けなくなっちゃって、そのときにケミカル・ブラザーズを聴いて、これならひとりでもできると思ってサンプラーを買って、曲を作りはじめました。
■そのとき何歳だったの?
コヤス:22~23です。
■そうなんだ。コヤスくんも......運命というか、よりによってヨーグルトといっしょにやるとはね......。当時からヨーグルトは謎だったよ。「彼はいったい何者なんだろう?」っていつもレコードを選びつつ横目でちらっと見つめては思ってたもん。
ヨーグルト:シスコ・テクノ・ショップのいち店員ですけどね(笑)
■あの頃はCDを担当してたよね?
ヨーグルト:そうですね、CDの担当だとテクノという概念に含まれる音楽なら何でも全ジャンルやれるのが良かったです。ドローンや民族音楽系の作品も扱っていました。
■あの頃CDで発売されるものって〈ファックス〉とかのアンビエントが多かったじゃない。それでアンビエントが好きなのかなって思ってたんだよ。
ヨーグルト:そうですね、90年代にちょっとテクノに疲れちゃった時期があって。90~93年ぐらいまでは無邪気に遊んでましたけど、94年ぐらいにガックリ疲れて、4つ打ちをもう聴きたくないってときにアンビエントにのめりこんでいきました。
■あの頃はヨーグルトや星ちゃんの口車に乗ってずいぶん散財したよ(笑)。
ヨーグルト:はははは。お世話になりました!
■もし自分もレコード店で働いていたら、同じことしたと思うけど。
ヨーグルト:お客さんが買おうとしている作品にはダメだししにくいですね(笑)。でも、俺はわりと無理には勧めないほうでしたけどね。
コヤス:僕はアルタのシスコでアベさんの当時の楽曲制作の相方だったDJユーに勧められていろいろ買わされて、家帰ってから「なんでこんなの買ったんだろう?」ってことよくありましたね(笑)。
■ほら!
ヨーグルト:まあ、そのあたりが難しいとこですよね。自分の好きなものだけ売って成り立つんならいいですけど、塩梅がね。当時だとアンダワールドはとにかく売らないといけないみたいなのあるじゃないですか。でもそこでレコード店でバイヤーの経験を積むことで幅広い視点を持つ勉強にはなった気がしますね。
■それは重要だよね。ところでヨーグルトを名乗った理由はなんなんですか?
ヨーグルト:本名でも良かったんですけど「DJアベとかDJシュウジとか名乗って覚えられるかな?」と思って、「俺は覚えられない」と思って(笑)。いっぱいいそうだし。あとムードマンとかコーネリアスとか、名前以外を名乗る人がいたんで。
■なんでヨーグルトなの?
ヨーグルト:う~ん、それが覚えやすいのと意味合いですかね。
■精子のメタファーなんだよね。やっぱそこでエロティシズムをほのめかしている。
ヨーグルト:アメリカではそうみたいですけど、英語圏以外では違うらしいですよ。トルコ語では撹拌するとかゆっくり混ぜるという意味があると聞いたことがあります。柔らかいイメージと、身体のなかに取り込んで変化するみたいな意味合いもあるんですね。音楽もそうだし。
■便通も良くなるしね。DJをやるようになったのはいつなんですか?
ヨーグルト:たぶん〈マニアック・ラヴ〉で「スローモーション」の一番手をやるようになったのがきっかけですね。レギュラーでやるのはそれが最初です、それまでは友だちのパーティでやるぐらいでしたから。「スローモーション」はディープ・ハウスのパーティで、野田さんもたまに来てましたよね?
■あれは楽しかったよね、客はいなかったけど。ムードマン、3E(蓑田+三田)、ヨーグルト、あとたまにゲンイチだっけか。96年か97年ぐらいだよね。フレンチ・ディープ・ハウスが流行りはじめた頃だったね。
ヨーグルト:モーターベースがすごい人気でて、そのあとダフト・パンクがブレイクして。
■「スローモーション」が火付け役だったからね。
ヨーグルト:えー、そりゃわかんないですけど(笑)。いち部の人たちのあいだでじゃないですか?
■エチエンヌ・ド・クレイシーとイアン・オブライエンに関しては確実に「スローモーション」でしょ? 俺が来るとどや顔でベーシック・ソウルをかけていたもんな。「マッド・マイクみたいだろー」って感じで(笑)。
ヨーグルト:そうですかね。三田さんが『エレキング』で頻繁に書いていた印象は強いですね。しかしまさかここまでダフト・パンクがブレイクするとは、当時まったく思ってなかったです。
■それでムードマンがムーディーマンとセオ・パリッシュだったね。
ヨーグルト:「スローモーション」って、ちょうど自分の耳がジェフ・ミルズなんかのミニマル・テクノに疲れちゃったときにはじまったパーティなんです。ウェザオールもちょうどディープ・ハウスをやってるときで、「これはもうやるしかない」って思いましたね。俺も最初は客として行ってたんですけど、いいコンセプトだなと思ってDJやらせてくださいってオーガナイザーの蓑田くんにお願いしました。三田さんに「疲れました」って言ったら、「だろ!」って言われて(笑)。ちょうど三田さんもジェフ・ミルズからフィッシュマンズにシフトした時期でしたね。そんな原稿を三田さんが『エレキング』に書いてました。
■あー、覚えている。ジェフ・ミルズのDJ聴いて、家に帰ってフィッシュマンズを聴いたっていう原稿あったよね!
ヨーグルト:そうそう、それで俺、三田さんに誘われて野音にフィッシュマンズ見に行ったら、三田さんがいちばんガン踊りしてました(笑)。
■あー、それ俺も行った。バッファロー・ドーターが出たやつじゃない?
ヨーグルト:たしかそのときはバッファッロー・ドーターはいなくて、ワンマンでしたよ。ザックさんがPAやってました。ザックさんのPAがものすごくて、歌が聴こえないぐらいベースが出てて、「こんなアヴァンギャルドなミックスやるんだ」って驚きました。ON-Uを見ているような感覚でしたね。ほんと声がわかないぐらいディレイとEQがかかるのが良かったんです。佐藤さんのヴォーカリストとしてのエゴが感じられないライヴでしたね。そこが音楽的にはとても良くて、その日からフィッシュマンズの大ファンになりました。
■とにかく、それで「スローモーション」でヨーグルトはデビューしたわけだけど、「スローモーション」が終わってから、さらに音楽活動が活発になっていくじゃない。90年代末にいっかいクラブが落ち目になったときがあって、その頃からヨーグルトは制作のほうもやるんだよね。すごいなーと思ってたんだけど、アップセッツ名義でプロダクションをやるあたりの経緯はどうだったんですか?
ヨーグルト:98年頃からMPCで楽曲制作をはじめて、エレクトロニカ的なビートものを制作しつつ、アンビエントにハマっていた時期に考えたアイデアをどこかで音にしないとすっきりしないって思ってたんですよね。90年代だと作りたいと思っても、まだパソコンの性能がそこまで良くなかったから、ある程度のミュージシャンじゃないと頭のなかで作り上げた構想はなかなか実現できなかったんです。で、2000年半ばにMPC叩いて作ってたスタイルからパソコンに全部移行したんですよ。そこでやるようになったら当時自分が考えていたことが具現化できることがわかって、2001年に『サウンド・オブ・スリープ』の1枚目としてリリースしました。実際は2000年にはもう出来てましたね。そのファーストCDはアンビエントだったんですけど、ファースト・12インチ・シングルはサイケデリックなハーバートみたいな曲でそれは700枚ぐらい売れました、いまより売れてる(笑)
■知ってますよ。「アンコンヴェンショナルEP」(2001年)だっけ? 真んなかにアップセッツって書いてあるやつでしょ。レヴュー書いた覚えがある。
ヨーグルト:あれはハーバートと60年代のサイケデリック・バンドのレッド・クレイヨラとリー・ペリーをミックスさせたらどうなるか? っていうアイデアから生まれた楽曲なんです。
■つねにサイケデリックだよね、つねに。
ヨーグルト:つねに(笑)、ってわけじゃあ......。
■ヨーグルトのDJも本当にアシッディだしね(笑)。
ヨーグルト:あんまりあからさまじゃなくて出汁のように利いてる感じじゃないかと自分は思っているんですけど(笑)。コンブの出汁みたいな。
■それでゼロ年代途中でジェット・セットに職場を変わって。でもバッサリやめて音楽活動に専念するんだよね。
ヨーグルト:ジェット・セットでは3年ぐらい働いてました。でもDJの活動が忙しくなってきたので思い切って仕事やめて音楽に専念したかったんです。
■やっぱ売れてたんだね。
ヨーグルト:スタートが低いから売れてきているように感じているっていうのもありましたけどね。自分のスタートはフロアには誰もいない「スローモーション」のオープニングでしたから。
■はははは。まあそれで、サイケデリックというコンセプトをヨーグルト&コヤスでもさらに展開していると?
ヨーグルト:その前にもいろいろあって、アンビエントも追求しつつ、快楽主義も忘れず、でもわりと生真面目に試行錯誤してたんですよ(笑)。ヒカルくんと2002年に出会ったのも大きかったんです。彼も出演した「FORESTED OVA」って野外パーティで自分のDJを聴いて気に入ってもらえて、自分もヒカルくんのDJを聴いてこれは!というモノを感じたので、「いっしょにやろうよ」ってことになって、2003年からヒカルくんのレギュラー・パーティにときどき参加するようになりました。当時からヒカルくんには熱心なファンがいましたね。20~30人ぐらいは来ることも多くて、それで平日でもパーティがガンガン盛り上がる時間帯があるんです。自分はそれまではラウンジやメインフロアの早い時間とかでいろんなタイプの音楽をかけることが多かったんですけど、ヒカルくんとやるとひと晩にふたりで2~3回交替しながら回すことが多くて、そうするとヒカルくんのDJでダンスフロアが大盛り上がりした後にDJするわけですよ、それが自分にはすごくいい経験になりました。面白かったし、そのドンチャン騒ぎを維持しつつフロアを作る技術というか、メインフロアのピークタイムのフィーリングを多少なりとも学んだのは彼のおかげですね。それまでは前座しかやれませんでしたからね。
■やっぱDJも縦社会だからね。でもそれは仕方がないよ。だってジェフ・ミルズが客入れやるわけにはいかないし。
ヨーグルト:そうなんですよね、だからちょうどDJとしての活動が煮詰まってたときにヒカルくんに会ったんですよ。90年代に国内外の先輩DJたちから良いところを吸収して、ゼロ年代に入ってヒカルくんや自分らがワイルドに爆発させたってところがあるかも、ですかね、熟成させたっていうか。
取材:野田 努