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これぞファンクの芸術である。ビッグ・ボーイの、騒々しくいかがわしいソロ・デビュー・アルバム『サー・ルシャス・レフト・フット:ザ・サン・オブ・チコ・ダスティ(Sir Lucious Left Foot: The Son of Chico Dusty)』は、ヒップホップ世代による未来派ゲットー・ファンクの最高峰である。Pファンク、ソウル、ジャズ、サルサ、レゲエ、ゴスペル、R&B、ブルース、サイケデリックによる狂乱の宴である。最初に断っておくが、この原稿ではファンクという単語を連発するが、それは仕方ない。なぜなら、そういう音楽だから! この最高に快楽的でイカれたヒップホップを聴いていると、無性に胸がわくわくしてきて、ひとり部屋のなかで踊り出してしまう。そして、「ああ、黒人音楽が好きで良かった」と性懲りもなく反芻する。あのジョージ・クリントンも参加している。ビッグ・ボーイの陽気な高笑いが、マザー・シップの操縦席から聴こえてくるようだ。ワッハッハッハッハッハ!
冗談はさておいて、ビッグ・ボーイことアントワン・パットンとアウトキャストのこれまでの歩みをざっと振り返っておこう。75年に生まれたビッグ・ボーイは、90年代初頭、ジョージア州アトランタで高校の同級生だったアンドレ3000ことアンドレ・ベンジャミンとアウトキャストを結成する。プロデューサー・チーム、オーガナイズド・ノイズのリコ・ウェイドから才能を見出された彼らは、94年に『Southernplayalisticadillacmuzik(邦題:ストリートの掟)』でデビューする。続く2作目『ATLiens(邦題:反逆のアトランタ)』(96年)は、ブッシュが唱えた新世界秩序のパラノイア、高度なテクノロジーによる監視社会の進行、右派愛国運動家の陰謀論の流行、『Xファイル』が描く悲観主義の拡がりといった時代的背景のなかで制作され、一転してダークなアルバムに仕上がっている。僕は、アウトキャストのこういったシリアスな態度も嫌いじゃない。ヒップホップが急激に商業化し、パフ・ダディのような商売人がアメリカの資本主義社会で成り上がろうとしていたのとは対照的である。"反逆のアトランタ"という邦題が付けられたのはそういう背景もあったのだろう。
2作目の閉塞感を打ち破り、Pファンク、サイケデリック・ロック、ソウル、ジャズ、ゴスペル、ブルースといったいくつもの黒人音楽をぶちこんだ3作目『アクエミナイ』(98年)は、アメリカのヒップホップ専門誌『ザ・ソース』のレヴューにおいてマイク5本という最高の評価を与えられる。そして、その路線でさらにご機嫌なエナジーを爆発させ、混交的なゲットー・ファンクの美学を完成させた『スタンコニーヤ』(00年)は非の打ちどころがないほど格好良く、当時流行していたギャングスタ・ラップの暴力性から距離を置いた点も批評家から評価された。そして、このいかがわしい乱痴気騒ぎのなかに、反米的なメッセージを忍ばせているのもさすがである。このアルバムは第44回グラミー賞のベスト・ラップ・アルバムにも輝いているが、マイアミ・ベースとサイケデリック・ロックとゴスベルの出会いとでも言うべき「B.O.B.」のテンションは凄まじく、アウトキャストが愉快な音の革新主義者であることを明快に証明したと言える。
それから3年、レイヴ・サウンドを大胆に取り入れた、ビッグ・ボーイとアンドレ3000によるダブル・アルバム『スピーカーボックス/ザ・ラヴ・ビロウ』でアウトキャストは同時代のBボーイのみならず、多くの革新派のアーティストでさえ手に負えない領域まで到達し、ついにグラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーまで獲得する。ここでは、ポップとアヴァンギャルドの幸福な融合が実現しているわけだ。USのチャート・アクションで大成功を収めた"ヘイ・ヤ!""ザ・ウェイ・ユー・ムーヴ"といった軽快なブラック・ポップも素晴らしいが、アンドレ3000がプロデュースした、マイアミ・ベースとスウィート・ソウルをレイヴィーに加速させた"ゲットー・ミュージック"の変態性と言ったら、興奮のあまり笑ってしまう。L?K?Oのようなアヴァン・ポップなDJにクラブのピークタイムにプレイしてもらいたい曲だ。
ビッグ・ボーイは、『スピーカーボックス/ザ・ラヴ・ビロウ』において、ラッパーとしてだけではなく、プロデューサーとしてもその音楽的才能を十二分に発揮している。実際のところ、『サー・ルシャス・レフト・フット』は『スピーカーボックス/ザ・ラヴ・ビロウ』の延長線上にある。アウトキャストは、06年に彼らが出演した同名映画のサウンドトラック『アイドルワイルド』をリリースしているが、ここで紹介した作品のどれもがいまだ古びていない。時間とお金と関心があれば、ぜひ聴いて欲しい。そして、『サー・ルシャス・レフト・フット』のできは、これまでアウトキャストを追ってきたファンの予測とここでビッグ・ボーイにはじめて関心を持ったリスナーの期待をきっと裏切らないだろう。
アルバムは物悲しい口笛とPファンク風のおどけたピアノとワウ・ギター、そしてザップ流のトーク・ボックスが絡み合う不気味なイントロ"フィール・ミー(Feel Me)"から幕を開ける。続く2曲目"ダディ・ファット・サックス(Daddy Fat Sax)"はGファンクの未来系だが、ビッグ・ボーイがドクター・ドレを敬愛しているのは有名な話である。"シャッターバッグ(Shutterbugg)"は極彩色のサイバー・エレクトロ・ファンクで、ここでもトーク・ボークスが絶妙なスパイスを加え、唐突に男女のヴォーカルのユニゾンによるソウル・・・ソウル"バック・トゥ・ライフ"のフレーズが挿入される瞬間がある。これだけはちゃめちゃなことをやって、生楽器を含むさまざまなサウンドが有機的に絡み合い、楽曲の構成として破綻していないことに驚かされる。『ピッチフォーク』は「THE TOP OF 100 TRACKS OF 2010」の5位にこの曲を選んでいるが、しかし、まだまだこれは序の口なのだ。"ジェネラル・パットン(General Patton)"ではオペラ『アイーダ』で演奏される厳かな凱旋行進曲"Vieni,o guerriero vindice"(サッカー番組でもときどき使われるあの曲です!)をサンプリングし、ダーティ・サウスの不良たちを祝福するクワイアへ変換してしまっている。ハハハハハ、これはある人たちからしたらある意味冒涜でしょうね。さらに、アンドレ3000がプロデュースした"ユー・エイント・ノー・DJ(You Ain't No DJ)"は、ミッシー・エリオットがサイボトロンを引用した"ルーズ・コントロール"のBPMを落としたかのようなスロー・ファンクである。ジェイミー・フォックスとの"ハッスル・ブラッド(Hustle Blood)"やジャネル・モネイとの"ビー・スティル(Be Still)"といったセクシーなR&Bテイストの曲には背筋がゾクゾクする。
オーガナイズド・ノイズやリル・ジョン、ロイヤル・フラッシュからサラーム・レミまで、多彩な面子がプロデューサーとして起用されている。しかし、エクゼクティヴ・プロデューサーをビッグ・ボーイ自身が務めているからだろう、この狂乱のファンクの宴は見事な統一感を保っている。また、ビッグ・ボーイはラッパーとしてもキレまくっている。キャデラックとマリファナとセックスと高級ストリップ・クラブとハスリング、あるいはアクセントとしての社会的発言について、伸縮自在のフロウとライムを駆使して、ときに滑稽に、ときに挑発的に強烈なラップをくり出す。英詞から憶測するにそういうことをラップしているが、仮に間違っていたら謝るしかない。ハハハ......。同じくアトランタを拠点とするT.I.やグッチ・メイン、B.o.Bやベテランの元祖ピンプ・ラッパー、トゥー・ショートといった灰汁の強いゲストたちがずらりと並んでいるが、それでもこの匂い立つブラック・ゲットー・スタイルの世界の主役はあくまでもビッグ・ボーイである。まったく隙がないという意味においては、ドレイクの『サンクス・ミー・レイター』と同じである。
セールス的には『スピーカーボックス/ザ・ラヴ・ビロウ』に遠く及ばないだろう。日本盤も出ていない。僕は別にそこに関して悲観も楽観もしていない。そういう時代であるとしか言いようがない。まあ、野暮な上に杜撰な条例で性表現や生き方を規制しようとするこの国のお偉方には、こういう淫らな表現の奥底にある生を肯定するエネルギーをたまには体感して欲しいと思いますけどね。いずれにせよ、『サー・ルシャス・レフト・フット:ザ・サン・オブ・チコ・ダスティ』を聴けて、オレは幸せだ!
二木 信