Home > Reviews > Album Reviews > R.E.M.- Part Lies, Part Heart, Part Trut…
結局、R.E.M.を野外フェスティヴァルの大きなステージ――日本でだったら、もちろんフジロックだ――で観るという僕の夢のひとつは、永遠に叶わないものとなってしまった。僕が観たのは2005年の1回だけで、ブッシュ政権時代のど真んなかだったこともあり、活動自体に重苦しさもあったせいか、古いファンからは「かつてほどのキレはなかった」との声も聞いた。けれども、僕にとっては『オートマティック・フォー・ザ・ピープル』におけるもっとも美しいパートである"ナイトスウィミング"と"ファインド・ザ・リヴァー"を聴けたことで特別な夜になった。"ファインド・ザ・リヴァー"はこんな歌詞を持った美しいバラッドだ――「僕の進む道をさえぎるものは何もない」
この最後のベスト盤――『いくつかの嘘、いくつかの心、いくつかの真実、いくつかのガラクタ』とでも訳せばいいか――にも収められている"ナイトスウィミング"の歌詞を10代で初めて読んだときはポップ・ソングが持ち得る最高の部類の言葉だと感じたが、その思いはいまでも変わらない。「君を 僕は知ってると思ってた/君を 僕には裁けない/君は僕を知っているはずだと思っていた/息を殺して静かに笑っているこの男を/夜の水泳」......大切な過去の誰かを思いながら独りで泳ぎに耽るしかない、晩夏の静かな夜の美しさと残酷さ。振り返ってみれば、いつだってマイケル・スタイプは虚空を見るような表情でこのようなことを歌っていたように思える。つねに傍らにいたU2が少年の使命感と理想を掲げていたのに対して、R.E.M.が鳴らしていたのは喪失感や諦念、しかしそれでも捨てられない人生への執着とそれ故のどこか開き直ったような楽観だった。そこで生き続けるしかない、とでもいうような。
世界はまるでオイスター ほろ苦さのくり返し
神は僕は導いてくれるけれど 僕はここにはいられない
("ハレルヤ")
多くのバンドのように解散ライヴもやらず、代表曲を年代順にそっけなく並べたアルバムを出してさよならというのは彼らにしてはクールすぎるようにも思えたが、最後に収められた新曲3曲、いや、正確に言えば最後の3曲を聴くと、その言葉の重みに彼らは本当にその30年間に幕を下ろすのだと実感せざるを得ない。「もう週末を待つのに疲れた」と言うシュールな軽さを持った"ア・マンス・オブ・サタデイズ"、「これで本当にいいんだよね?」と繰り返すバカラック調の"ウィ・オール・ゴー・バック・トゥ・ウェア・ビロング"、そして最後には上記の歌詞で始まる"ハレルヤ"。間違いなく、これはR.E.M.の音楽と歩みをともにしてきた人びとに向けた最後のメッセージだ。それは僕のように、彼らの音楽と同じくらいにマイケル・スタイプの誠実な、しかし洒落た言葉に魅了されてきた人間にとってはあまりにも説得力のあるものだろう。
僕のような若輩者が生まれる以前から、R.E.M.が3つのディケイドをじっくりと歩み続けてきたことがこのアルバムを曲順に聴けばよくわかる。80年代、メジャーとは価値観を異にする現在に続く意味での「インディ」を最初に広めたのがソニック・ユースでありR.E.M.だったが、インディ時代とメジャー時代を分断するものはここからは聴こえない。彼らの活動のあり方はアメリカの多くのロック・キッズに希望を与えた。ピーター・バックの滑舌の良いアルペジオ・ギターとマイケルのもごもごした聴き取りにくいヴォーカルの齟齬感こそが味になっている初期のロック・チューンから出発し、カントリー、南部のブルーズ、室内楽、エレクトロニクスなど様々な音楽的語彙を獲得しながら、しかしどこまでもアメリカン・ロック・バンドであるという軸はぶれることはない。そして彼らの辿ってきた時代――ベトナム戦争の後遺症、レーガン~ブッシュ政権、カート・コバーンの死、90年代末の「オルタナティヴ」の弱体化、9.11、それからブッシュ政権、イラク戦争――に対する怒りや悲しみやその他の複雑な思いが言葉と音の端々にこめられている。そして、彼らは自分たち自身が迷いや苦難を抱えつつ、いつもそんな生きづらいアメリカで生きるしかない人びとに向けて歌っていた。10代の自殺に心を痛めたという動機から彼らにしてはあまりにシンプルな言葉を持った"エヴリバディ・ハーツ"のような大衆的な「アンセム」こそが、むしろR.E.M.の核を言い当てているのかもしれない。「頑張って、持ちこたえるんだ」......まるでロック少年少女たちのためのソウル・ミュージックのようにそのリフレインは続く。それは、いま日本で生きる「しかない」我々にも響くものがあるだろうか?
たとえ孤独でも、現実は最悪でも、世界が終わりを迎えても、気分は晴れやかで僕は自由だ。だから、僕はここで生きるし、君もどうにか持ちこたえるんだとR.E.M.は歌ってきた。「来いよ、君が泣いてるのなんて誰にも分かりやしないさ」("イミテイション・オブ・ライフ")。そんな彼らが「ここにはいられない」と言う。結果として最終作となった『コラプス・イントゥ・ナウ』のレヴューで、「R.E.M.には終わり方が見えているのだろうか?」と書いたことを僕は後悔していないが、彼らのその決着のつけ方、引き受けるものの大きさにはただ圧倒されるしかない。かすれ気味のマイケルのバリトン・ヴォイスで繰り返される、いくらか大げさな「ハレルヤ」のコーラス。そこにたしかなカタルシスを残して、彼らは去っていく。R.E.M.、さようなら。
木津 毅