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パーティは続いていたの
銀のカブリオレ走らせて
"DIVE"
パーティは続いていた......一十三十一の新作『CITY DIVE』は、そのファンタジックな享楽性(ないし空虚性)によって、もうひとつの2012年を立ち上げる。国の経済成長は継続し、富は景気よく再分配され、溢れかえるミドル・クラスは果てることのないショッピングで資本主義の恩恵を謳歌している。男も女も、ドレスアップして街へと繰り出していく。あるいは、煌びやかなダンス音楽を聴いてもいい。ダンスフロア、でなければ車のなかで、助手席に意中の相手を乗せながら。ふたりはこれから、夜の海を見に行くところだ。会話の隙間を、甘いメロディが埋める。やがて恋人たちの時間がはじまる。多くの人が、こんな毎日が永遠に続けばいいのに、と思っている。そこでは誰もが、(少なくともその外見上は)幸せそうに生きている。たとえばそう、虚ろな目で終わらない夢でも見ているかのように......。
おそらくはDORIANと組んだ"Summer Rich"(2011)が好評だったのだろう。ミドルなディスコ・ビートに、ピアノ、ストリングス、ホーン、そしてニュアンス程度の心地よいギター・リフとメロディアスなシンセサイザーで贅沢におめかし。80年代を打ち抜いた(とされる)ある種の空虚を、そこで完全にリヴァイヴァルする。山下達郎で言えば『FOR YOU』(1982)あたりの手触りが継承されているとも言えるか。とにかく序盤の"DIVE"と"恋は思いのまま"で完全にノックアウト。最初、UAのフォロワーに位置づけられ、いわゆるJ-R&Bのアーティストとして扱われることの多い彼女だが、これまでのキャリアの評価軸をなしてきたのが、ASA-CHANGらのアヴァン・ビートをエレガントに乗りこなすオルタナティブ・ポップスだったことを考えると、本作の突き抜け方はちょっとすごい。これまでセーヴしていたチャンネルがあったとすれば、そのすべてのスイッチを目盛りの限界まで引き上げてオンにし、舵を思いっきりアーバン・ポップのど真ん中なかへと切っている。シンセサイザーはもう一度、華美な俗世を親密に照らし、ドラムマシンは夜を踊っている。
クニモンド瀧口(from 流線形)がコンセプチュアルな指揮監督を行ったとはいえ、DORIAN、そしてPan Pacific PlayaのKashif(a.k.a STRINGSBURN)と、三人の異なるアレンジャーが並走しながらも、2012年にエイティーズ・カラーをまとった実質上のコンセプト・アルバムが成立しているというのは、あの時代に注がれる類似した視線というものが、何かしら存在しているからなのだろう。それがいったい何なのか、この1週間、ぼんやりと考えている。プロデューサーによる具体的な「ネタバレ」はHMVのウェブ・ページに詳しいが、当然、1986年に新潟で生まれた筆者に、あの時代を批評するに足る記憶も実感もなく、様々なクリシェで便宜的に「豊かな時代」だったと認識づけるしかないし、当時は、もしかしたら本当に都会のオシャレな人たちが聴いていたのかもしれないが、あの時代のポップスは、後追いで好意的に接触しつつもどこか本心では受け入れられなかったのが本音である。シティ・ポップは、私にとってはTSUTAYAのニュー・ミュージック・コーナーで学んだものでしかなかった。特権的な都会はすでに失われ、地方都市に陳列されていたのだ。
そう、都市伝説的な大都会の週末、海岸沿いに引くそのロマンティックな逃走線に、地方市民が遠くで憧れるということ。アーバン・ポップとは、つまり、都会に憧れながら(ありもしないロマンスに夢を馳せながら)、田舎住まいの人間が聴くものであり、私にとってのアーバン/シティなる概念は、むしろサバービアでの閉塞として記憶されている。もちろん、いまでも多くの人が、消費文化を謳歌して、ドラマティックなロマンスを求めているのだろう。実際、赤文字系の女性誌などをたまに読むとそこに提示される価値観に絶句することがあるが、しかし、いまやバブル世代が編集するファッション誌のなかにしかないような広告業的な豊かさに、「持っていない人たち」が素朴に憧れることはないのではないか(若者の○○離れなんて好きなだけ言わせておけばいまは2012年なのだ。そんな物語はとっくに失われている。ヘリコプター・デートやカブリオレどころの話ではない。身も蓋もないことを言えば、そもそもドライヴに出掛ける車がないのだから......。
そんないま、それでもこの都市伝説的な音楽が――過去、豪華に光を放った記憶を宿すフェイク・ポップが――フラットに供給され、なぜ(筆者含めて)20代のリスナーからも支持を集めることができるのか。緩やかな下り坂で見る贅沢な時代の後ろ姿、その勾配のきいた場所で聴く、時代錯誤のゴージャス・ミュージックを通して立ち上がるものとは何なのか......。
少なくともそれは、経験したことがない過去への盲目的なノスタルジアでも、アッパーさを望めない未来に対する不安の裏返しでもないハズだと、私は思う。社会が希望的な空気やアッパーな雰囲気を準備してくれる時代が終わったのだとすれば、私たちはどうやってパーティを続けていくことができるのか。端的には、パーティを続けたいから続ける、というところまで来ていると思うが、しかしだからこそ、(((さらうんど)))なんかとも同期して、「メッセージ性」という渦の中でいつしかポップ・ミュージックがはぐれてしまった「空虚性」を、本作は強く再評価しているように思える。お前たちは空虚を無目的に愛せるか、それを試すためのアイロニカルな批評として提出されている、というのはやや言い過ぎにしても、「楽しむことを楽しむために楽しむ」という、快楽が原理的に抱える絶望的な空虚さと、もう一度向き合うべき時なのかもしれない。そう、失われた空っぽとしての都市に、もういちど頭から飛び込んでしまおう。『CITY DIVE』、その空虚は艶やかで、エレガントでさえある。実質的な価値の追求、という抑圧からこんな風に離れて、私たちは意味のないことをもっともっと素直に楽しめるだろうか?
波間を漂う月の光は
闇に紛れて泡に変わるの
ダイヤモンドより輝いてみえるわ
"人魚になりたい"
竹内正太郎