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鈴木孝弥 Aug 20,2013 UP2011年3月4日、エイジアン・ダブ・ファウンデイションの、前作『ア・ヒストリー・オブ・ナウ』を引っ提げたツアー東京公演で軽くショックな場面を目にした。ギターのチャンドラソニックの発した「チュニジア、エジプト、リビアの市民にリスペクトを!」というMC(その通りのシンプルな英語だった)に対して、渋谷の会場を埋め尽くし、踊り狂っていた聴衆の大半が、きょとんとして反応しなかったのだ。よりによってこんなタイトルのツアーの公演に詰めかけた"ファン"(という言葉の定義を疑うが、それはともかく)が、あのとき地球上の最大の事件だった〈アラブの春〉に関心を示さない景色は、ステイジの上からどう映ったのだろう?(ピース・サインは、こういうときのためにあるはずなのだが)
活動歴20年を数えるエイジアン・ダブ・ファウンデイションのヴェテラン・サポーターに対しては釈迦に説法だろうが、ADFは言わばひとつの学校のようなものである。そもそも彼らはベンガル(バングラデシュ、インド)・オリジンの恵まれない若者たちに音楽を教える東ロンドンの民間ワークショップ《コミュニティー・ミュージック》を背景に結成された。Dr.ダス(b.)やチャンドラソニック(g.)はそこで演奏を教える側にいたのだが、社会的バリアーによって抑圧されているマイノリティーの若者が同所で演奏技術を学ぶということは、社会に対して自分の意見を表明することと同義だった。そこでの教育とは、〈きみが大衆の前で演奏できるなら、政治的な集会で発言だってできる〉というものだったからだ(つまりその主眼は、社会的弱者として泣き寝入りしないために、音楽を通して社会に意見することを学ぶことにあった)。
その後ADFは、《コミュニティー・ミュージック》をモデルとして、自分たち独自のネットワークの中に《ADFED(Asian Dub Foundation EDucation)》という、同目的の教育部門を作っている。若者たちに無料で音楽を教え、機材の使い方も手ほどきして自由に使わせ、卒業制作的に録音もでき、その曲は《ADF Sound System》でプレイされたり、実際にそこで作曲者がマイクを握ってオーディエンスに実地披露できたりもする。そういう組織体の前面に、アーティスト名義(バンド)としてのエイジアン・ダブ・ファウンデイションが存在してきたわけだ。
例えば2000年の『Community Music』を最後に天才肌のMCディーダー・ザマンがグループを去ったあとにやってきたフロント2名:MCスペックスとアクターヴェイター(要するにあの「Fortress Europe」の2人)だって、別のグループのメンバーでありながら《ADFED》カリキュラムに参加した、同制度の最初期の"生徒"だったし、2人はその後《ADF Sound System》を経てADFの"本体"に抜擢されたわけである(その後スペックスは07年にフォーメイションから離れた。アクターヴェイターは一度離れたが再加入:現行メンバー)。
つまりADFは、南アジア・オリジンの在英エスニック・マイノリティーの視点から、植民地政策、新自由主義経済システム、人種差別、宗教対立などに関する重大な問題にスポットを当て、リスナーを啓蒙し、考えさせるメディアであり、そして、自分たちと同じように音楽を媒体として世の中にプロテストする若者を育てる学校として機能している。そこでの"音楽"とは、社会的弱者のための厳然たる政治手段であり、カリキュラムとしてラヴ・ソングは扱われず、民族主義や権威主義は明確に忌避され、宗教的にもニュートラルであり続けている(今作からレゲエ・シンガーのゲットー・プリーストが戻ってきた現ADFでは、"違う神"を信じるムスリムとラスタファリアンが並んでマイクを握る)。
そうしたスタンス/ポリシーと、そこから発せられるメッセージの質が厳格であればあるほど、それを高次で中和、かつ補強するための音楽的快楽を必要とする。それが彼らの"エデュテインメント"であり、そのために、バングラ・ビートなどのオリエンタル・ルーツ・ファクター、ブレイク・ビーツ、レゲエ、ラガにジャングル、ハード・パンク、ダブ・ステップ etc. が渾然とする彼らのサウンドがある。そのCDを買ってきて鳴らすことは簡単だが、共鳴することはまた別の話だ。それは、大なり小なり自分で学び、考えることを抜きにしてはあり得ない。
......と言うと堅苦しく聞こえるかもしれないが、ちなみにぼくがそのためにやっていることは単純だ。ADFの新作は、毎回必ず日本盤を買い、解説原稿と歌詞対訳を熟読しながら聴き込むのだ(彼らの曲を真に楽しむには、まず彼らのアクションや楽曲の意味を知ることが不可欠。各曲の背景に最初から通じていて、英語の聞き取りに問題のない人なら解説も対訳も不要だろうけれど、ぼくは残念ながらそうではない)。
常に世界情勢に敏感に反応するADFだけに、今回は2011年のロンドン(とイギリス各地の)暴動や、〈アラブの春〉以降の世界を彼らがどう見ているのかに興味が湧くわけだが、今回も解説や歌詞対訳からいろいろな知識が得られた。大石始さんによる優れた解説原稿には、それらの出来事以外にも(2005年フランス暴動の問題の核心をその10年前に描いていた)マテュー・カソヴィッツ監督のフランス映画『憎しみ(La Haine)』と本作との関係性についても詳述されていて興味深い。ADF2003年の名盤『Enemy of the Enemy』にその名も「La Haine(ラ・エンヌ)」という同映画へのオマージュ曲が入っていたことを思い出して聴き返したり、あの映画が今も変わらずADFと深く通じていることを知って、久しぶりに観返したくなった。こうした発展的な刺激を与えてくれる解説原稿は楽しい。
訳詞を読んで即、疑問が氷解したのが、アルバム2曲目のタイトル・チューン"The Signal and the Noise"の意味するところだ。先行公開されたPVを観ても漠然としていてよくわからなかったのが、訳詞を調べてピンときた。"the signal and the noise"は通信工学用語で("S/N比"はオーディオ用語としても知られるが)、これはそのまま、アメリカの若き統計学者ネイト・シルヴァーによる2012年のベスト・セラー本のタイトルでもあったのだ。で、ここでの意味は──世界は意味のある信号(有益な、正しい情報)と、ただ思考を惑わすだけのノイズ(ニセ/操作情報)の混交体であり、現象の正確な把握のためにはそれらの見極めが必要だ──という、つまり世に溢れる情報に対する注意を喚起する曲だったのだ。そう思ってPVを観返してみると、(動きを監視されている)白人青年が一体何に翻弄されているのか? ネクタイを締めたADFのメンバーが誰を演じているのか? ビルの屋上に逃れた若者は何を目にするのか? そのすべてがスッキリ理解できる。歌詞も映像もわざと抽象的に作ってあり、こちらに一歩踏み込んで考えさせる、さすがにうまい作りだ(すぐわからなかったオレが愚鈍なだけかもしれないが......)。
アルバム・オープナー"Zig Zag Nation"は、問題が次々に生じて人びとが対立し、地域や国家の中に新たなジグザグした分断線が引かれていく状況を歌った曲だが、そのサビ部分の歌詞〈ジグザグな時代に生きる/厳しいかもしれないが、直線よりマシだ〉の、最後の部分にもしみじみ考えさせられた。日本でも、原発、憲法改正、米軍基地、歴史認識、多民族共生等々の問題が人々をジグザグに分断している。スッキリ直線的に二分されて両陣営が膠着してしまうより、むしろジグザグの突起部分が相手側に入り込み、刺激し合って対話を絶やさないところから距離を縮め、解決の糸口を探っていくしかない......というメッセージだと解釈したがどうだろう? そうだとすると、この"Zig Zag"という短い響きが含蓄するものは、この地球全体をもすっぽり飲み込んでしまう大きなものだ......。
"The Signal and the Noise"にも先んじて、今年5月に本アルバムから最初に発表された曲が、アルバム3曲目の"Radio Bubblegum"。このヴィデオはストーリーがわかりやすいが、これも訳詞を読むと相当辛辣な内容であることがさらによくわかる。国が推奨するバブルガム(おこちゃま向け)なラジオ局への批判だが、金と権力を握る者たちがコントロールするラジオ放送とは、連中の金儲けとプロパガンダのためのメディアであり、市民を自分の頭で考えることのできない"おこちゃま(未成熟)"にしておくための装置だ、という曲だ。映像では、どんなものをラジオから流せばリスナーがイカれてしまうか(効率よく国民を"バカ"にできるか)を研究している。
この曲に関してもう1点特筆すべきことがある。今作ではADF創始者のDr.ダスをはじめ、ドラムズのロッキー・シン、ヴォーカリストのゲットー・プリーストがバンドに正式に戻ってきたことも大きな注目点だが、その新生ADFの最初の曲のヴォーカリストが、わざわざバンド外部からフィーチャーされたLSKだったということだ。本アルバムの総合プロデュースは、『Enemy of the Enemy』以来となるエイドリアン・シャーウッドで、たしかにLSKはシャーウッドのお気に入りの歌手だ。しかしそれ以上に、この起用の仕方がADFという組織体の本質をはっきり示していて、その意味からも、活動20周年を記念する新アルバムのリード曲としてふさわしかったと思う。
これまでを振り返っても、ADFはインストゥルメンタリストどころか、ディーダー・ザマンにはじまるヴォーカリスト(フロントマン)さえ代替可能な集団だったし、今回のように新生ADFのお披露目の曲にメンバー以外のシンガーを大々的にフィーチャーすることもできる。つまり肝心なのは誰が"メンバー"かではなく、誰が参加しても組織と音楽の性格が不変であることなのであって、それが彼らの政治運動体としての"コミュニティー・ミュージック"の肝なのである。極端な話、誰が入って、抜けて、戻ってもよく、運動体内部にヒエラルキーはなく、無論マイクを握る者に特別な権威を与えることもない。同じ敵に向かうのであれば、誰が声を上げてもいい(The enemy of the enemy / He's a friend)のであって、肝心なのは歌う人格ではなくて、歌われるメッセージだからである。
と、ここまでいろいろ書いてきたけれど、これでもADFの新作から、ただ単に頭の3曲を紹介したに過ぎない。あとは各自、国内盤CDを買って1曲ごとじっくり取り組んで欲しい。最後まで強烈な、カッコいいアルバムだから。
しかしこの国内盤......その内容の良さに加え、充実した解説、対訳ばかりかボーナス・トラックまで付いて1,980円というのは普通に考えてちょっと安過ぎる。言っておくけど、ぼくはレコード会社から飼われてはいない。ADFのファンであることを真剣に楽しんでいるだけだ。その点は信用して欲しい。
鈴木孝弥