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柔能く剛を制す。森は生きているの処女作は穏やかで優しく、しなやかで軽快であり、そしてしなやかさにのみ宿る力強さというものを勝ち得ている。
アルバムは無音で幕を開ける。空白を静かに切り破るハイハットの打音。そして、まるで霞のように空気へ溶け入りそうな竹川のヴォーカル、アコースティック・ギター、エレクトリック・ギター、ペダル・スティール、軽やかなバンジョー、ハモンド・オルガン、ピアノ、ベース、ドラムス......それらが一気に零れだす。薄膜を破り切るかのように。
スローな"昼下がりの夢"からシームレスに"雨上がりの通り"へ。幾層にも音で塗り込められた"昼下がりの夢"と対照的に、"雨上がりの通り"は軽快でシンプルなロックであるが、他方、歌詞を拾ってみると、「白い水蒸気」「薄目」「水色の水彩絵の具」「イリュージョンじみた風」と、二項対立的な判断を一旦棚上げして保留するようなグレーゾーンに位置する言葉が並んでいる。
スワンプ風の"回想電車"、そして管楽器のアンサンブルと微かにまぶせられたエレクトロニクスとがバーバンク・サウンドと"ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ"(=LSD)を接続した世界へ誘う"光の蠱惑"へ。
白眉は、聴き手を白日夢から覚まさせるアグレッシヴなリズム・アンド・ブルースの"断片"と、深い夢へと引きずり戻す長尺の"ロンド"である。とくに、アフロ風のリズムをベースに、ガスター・デル・ソルを想起させるようなノイズとエレクトロニクスを差し挟みながらペダル・スティールがアンビエンスを醸成し、いつ終わるとも知れぬローズ・ピアノのソロが展開していく"ロンド"。この曲が描き出す見果てぬ夢にこそ、森は生きているのサウンドの核心が見え隠れする。岡田が中性的なヴォーカルを披露するサイケデリックなフォーク・ロック、"日傘の蔭"もアルバムに華を添えている。
アルバムを聴き進めると、「夢」という言葉が多用されていることに気づく。作詞を担当するドラマー、増村和彦が認めているとおり、『森は生きている』には「夢の断片」が継ぎ接ぎされている。始点も終点もはっきりとしない、刹那的に生まれては消えていく泡沫のような夢の、そのさらに小さな切れ端の寄せ集め――『森は生きている』が描出する風景はそんなふうに切れ切れで、茫漠としている。
だから、『森は生きている』の音像はバンド・アンサンブルを生々しくパッキングしながらも微かにサイケデリックなフィルターをくぐったような不思議な響きを湛えている。「薄曇り」("昼下がりの夢"を封切る言葉である)の空の下をゆっくりと進むような、アブストラクトだがきらびやかな音響が提示する森は生きているの音楽は、まだ見ぬ過去の音楽とも、はるか未来の音楽ともつかない抽象的な時間を掴んでいる。
場所性もはっきりしない。東京なのか、それともどこか地方都市なのか、電波の届かない山奥なのか、あるいは海岸沿いなのか、もしくは日本ではないどこかなのか......どうにも判断のつかない場所で鳴っているかのようだ。バンド然としたフィジカルな悦びに満ちているライヴとは対照的に、『森は生きている』の音楽は「いま、ここ」という実感をどんどん曖昧化していく。その感覚は、バンドを率いる岡田拓郎が撮影した写真を幾重にも加工したというジャケット写真とも似通っている。
「タイムレス」や「エヴァー・グリーン」なんて言葉では片付けられないだろう。若くして年をとり、老いながらも若返っていく奇妙な幽霊たちが曇天の下で活き活きと楽器で語り合うアンサンブルのような音楽と言えば良いのだろうか――そういえば、「森は生きている(mori wa ikiteiru)」というバンド名には「生」と「死」(mori)が同居しているのだった。生きながら死んでいる、死を生きる音楽。
森は生きているの音楽に耳を傾けてみれば、その豊穣な音楽的素地というのは容易く透けて見えてくる。でも、彼らのルーツとなった音楽ジャンルや伝説的な音楽家たちの名前を連ねる作業は他に譲ろう。そんなことより重要なのは、「森は生きている」というバンド名の由来になった『ドラえもん』のエピソードの最後のコマでドラえもんが語っている言葉だ。曰く、「ゆめをみていたと思えばいいんだよ。わずかな間だったけど、楽しいゆめを」(藤子・F・不二雄『ドラえもん』26巻所収「森は生きている」より)。いまはこのたゆたうような、いつ失われるとも知れぬ断片的な夢のパッチワークに身を委ねていたい。わたしたちを宙吊りにする複層的な素晴らしい夢に。
天野龍太郎