Home > Reviews > Album Reviews > Lana Del Rey- Ultraviolence
「サイレンの音が聞こえるの。サイレンが。彼は私を殴った。それはまるでキスのよう」とタイトル曲‟Ultraviolence”でラナ・デル・レイは歌う。
一方、英国のフローレンス・アンド・ザ・マシーンにも‟Kiss With A Fist”という曲があり、DVを連想させると批判されたものだが、「あなたが私を殴る。私は殴り返す。あなたが私を蹴る。私はビンタをかます。あなたが私の頭の上に投げた皿が割れる。私は家に火を点ける」という歌詞のフローレンスのほうは、なにげにユーモラスでザ・スリッツみたいなパンクっぽさがある。が、ラナ・デル・レイは殴り返さないし、ビンタもかまさない。打たれても殴られても、「あなたは私のカルト・リーダー。永遠に愛している」とか言ってディオールのショウ・アイコニック・エクストリーム・マスカラをバシバシに塗ったまつ毛で虚ろにまばたきするばかりだ。
『Born To Die』を出した後で、ラナ・デル・レイは「もう言いたいことはすべて言ったので、音楽活動はやめるかもしれない」と言った。実際、デヴィッド・ボウイのジギーだって期間限定のキャラだったのである。リズ・グラントだっていつまでもこのキャラを演じることはできないだろう。2枚目にしてラナ・デル・レイ・プロジェクトはすでにひたすら反復的だ。
彼女の最大の悲劇は‟Video Games”をキャリアのはじまりに作ってしまったことだ。だからザ・ブラック・キーズのダン・オーバックにプロデュースを依頼したのもわかる。「もうヒップホップはいいの。私の声を最大限に活かした‟Video Games” のような曲をつくりたい」と彼女が言ったかどうかは知らないが、2作目のほうがラナ・デル・レイ決定版にはなっている。米国の田舎のバサバサした光景を髣髴とさせるギター主体のサウンドは、どこか『ツイン・ピークス』みたいだ。ラナ・デル・レイはローラ・パーマーの美しい死体を演じたかったのだろう。
が、同じダン・オーバックがプロデュースした女性シンガーのアルバムといえば、昨年わたしの一押しだったヴァレリー・ジューンの『Pushin' Against A Stone』という名盤があり、「ザ・ブラック・キーズより良い」と言われた当該作に比べると、本作は聴き劣りがする。R&Bはアンドロイドより生身の女と親和性が高いからだろう。
「とても退屈な人びとについて歌った、とても良く出来た楽曲群」と『ガーディアン』紙は評していたが、ラナ・デル・レイ提唱の「サッドコア」なる音楽は、ソフィア・コッポラの映画みたいだ。または、スーサイダルなパリス・ヒルトンでもいい。
とはいえ、‟Fuck My Way Up To The Top(男とファックして成り上がった)”という収録曲について、彼女が「私はたくさんの業界の男たちと寝た。でも、現実の世界では誰も私の曲のリリースなんて助けてくれなかった」と言っているのを読んだ。いつも判で押したように重苦しい発言ばかりする彼女にしては、珍しくユーモアを感じる。
「彼女はフェミニストではないし、あんまり深く物を考える人でもない」と『ガーディアン』紙の女性ライターが書いていたのには笑ったが、ロール・モデルになろうとし過ぎてメンタルヘルス上の問題がある人みたいになってしまう歌姫だらけのポップ界にあり、ロール・モデルになることを拒否するスタンスは新鮮ではある。
そろそろ「サッドコア」なんてティーン狙いのマーケティングはやめて、リズ・グラントとして歌ってみたらどうだろう。リリー・アレンやレディー・ガガなどの臆病で人の良さそうなロール・モデル志願ガールズとは違い、この人はずっとしたたかでずる賢い女の声を出すのでそう思うのである(いやいやいや、褒め言葉だ)。
ブレイディみかこ